1章 きっかけ

「――さん、高野さんっ!」

 何度か呼ばれてようやく、高野れんげは声の方を見た。

「はい?――えっ、と……」

国安くにやす翠穂みほ。クラスメイトなんだから、いい加減覚えてよね」

 冗談めかして言った少女は、机を挟んでれんげの真向かいに座った。れんげの机に携帯電話を置き、れんげを覗き込むように見る。

 高校の教室だ。

 放課後になっていた。

 十一月になり、かなり涼しくなってきている教室にはもう夕陽が差し込んできている。

 教室の人口密度はもう大分と下がっている中、ぼんやりと座っていたれんげの所に彼女はやってきた。

 れんげも、翠穂と名乗った彼女も、もちろん制服姿だ。良く云えば伝統的、悪く云えば古めかしさを感じる黒に近い色のセーラー服。セーラーカラーのラインが学年を表している。

 れんげは無造作な太めに結われた三つ編みを揺らして、頭を下げた。

「すみません」

 幼さがやや残る造作とは裏腹に、深く叡智をたたえたような意志の強そうな瞳。

 感情の起伏があまり表に出ない。

「いいって」

 翠穂は軽く笑って手を振った。他意のなさそうな明るくはっきりとした顔立ちにも好奇心の強そうなくりっとした目にも、れんげを責める空気はない。

 ただ、翠穂の場合、そんな表情よりもレイヤー気味のボブよりも、控えめに飾られた携帯電話よりも、豊かに制服を盛り上げている胸が目立つ。

「どうしたの? ぼけっとして」

 雑談のためにわざわざ声をかけたのだろうか、そんなに親しい仲だったろうか、そう思えるくらいの軽い口調で翠穂は話を切り出す。れんげの返事を待つ間にも他の、下校か部活に向かうクラスメイトに声をかけたりと忙しい。

「ちょっと、考え事のようなものを――」

 曖昧にれんげは言う。机の上に出たままだったノートやペンケースを鞄にしまいはじめながら、翠穂に尋ねた。

「何か? えっと……国安さん」

「翠穂、でいいよ」

 笑って翠穂はれんげの机に肘と胸を預け、身を乗り出してれんげに少し、近寄った。

「ね、高野さんちって、アンティークショップやってるよね?」

「え?――ええ。アンティーク、と言うより古道具屋、と言ったほうが正しいと思いますが」

 どうして知っているのだろう、とれんげは思い返してみると、以前――この高校に転入した当時に彼女に話したような記憶が細く蘇ってきた。

「ちょっと頼みがあるんだけど、いい?」

「どんなことでしょう?」

 承諾も否も、聞いてみないことには何とも言えない。

「――んっとさ、茶器、置いてないかな」

「茶器……ですか?」

「そ」

 翠穂は頷く。

「あたしさ、茶道部なんだけど、この間道具壊れちゃったのよ。で、新しく買わなきゃいけないのよね」

「それは……直せないのですか?」

「う~ん……もったいないとは思うんだけどね。

 で、どうせ買うならちょっといいのがいいなと思って、部費から用意したの。

 高野さんトコ、これから行ってもいいかな」

「今日――ですか?」

 翠穂がれんげをのぞき込むように見上げた。

 れんげは少々、考える。断る理由は特にない。

「――国安さん、ひとつ、いいですか?」

「ん?」

「その、壊れてしまった茶器――お引き取りさせてください」

「そんなこと? 全っ然いいよ」

 翠穂はからっと笑った。

「じゃ、部室行こう」

「え――ええ」

 強引だな、と思いながらもれんげは鞄を持って席を立った。

 あまり人付き合いに積極的な方ではない。むしろ、皆と距離を置いているれんげにとってこうやって誰かと行動することは滅多になかった。

 翠穂も椅子を蹴る。

 いつの間にか、教室に残っていたのはれんげと翠穂だけだった。



「――なつめ、ですか」

 れんげは、翠穂の出した小振りの容器を両手で包んだ。

 茶室――和室は教室と教室の間に作られた十畳ほどの小さな部屋で、上履きを脱ぐための玄関のほかは畳敷きになっていて、学校の中にいることを一瞬忘れそうになる。

 部活動は休みなのか、れんげと翠穂だけがこの茶室に入っていた。茶菓子を出して雑談モードに入りそうな翠穂をれんげは制して、用事を優先させる。

 翠穂が立って、水屋から出してきたのはいたってシンプルな棗――茶を入れておく器で、どこかにぶつけてしまったのか口が欠け、蓋から縦にまっすぐ、罅が入っていた。本物の漆塗りかどうかは怪しいが、それなりの艶で安っぽくは見えない。

「さすが古道具屋さん。

 ――あとね、これもなの」

 そう言って、翠穂は続けて共蓋ともぶた(蓋が本体と同じく焼き物のもの)の丸い水指みずさしを取った。水指は手前のときに使用する水を入れておくもので、これも同じく割れている。

 ぴしっ、と正座して棗を膝の前に置いていたれんげはそれも受け取って仔細に眺める。

「割れちゃって、ね。

 こんなの直せるの?」

 ようやく畳に膝をつけて、翠穂がれんげに寄る。

「ええ、まぁ……」

 れんげは返答を濁し、棗と水差を自分の傍に揃えた。

 それに優しく手を添える。

「お店にある?」

「そう、ですね……確かめてみないと断言できませんが。

 見てみます」

「ね、一緒に行っていい?」

 立とうとしたれんげに先んじて翠穂が跳ねるように立ち上がり、れんげに手を差し伸べた。れんげは頷き、その手を借りず両手で茶器ふたつを抱えて腰を上げる。

「ええ。ごちゃごちゃしていますけど」

「そんなの気にしないって。

 ――どこ?」

東雲町しののめちょうです」

「オッケー」

 翠穂は器用にウインクした。


□■□■□■


 バスは、れんげらの通う学校から商店街のそばを通り、住宅街に向かって行く。

「――れんげ、って呼んでいい?」

「……はぁ」

 ぼんやりと二人がけのシートに座って外を眺めていたれんげは、翠穂に生返事を返してしまった。

 窓側にれんげ、通路側に翠穂が座る。

「れんげって、人と話すの苦手? 誰かと喋ってるの、ほとんど見たことないけど」

「まぁ……そうですね。人と関わるのはちょっと――」

「なんかもったいない気がするなぁ、そういうの」

「そうですか?」

「そうよぉ。こうして同じ時代に生まれて、同じクラスで知り合えたんだよ。その中で一人でいるのって、何だか人生損してると思う」

「はぁ……」

 力説する翠穂に、れんげは戸惑う。

「押しつけるつもりはないけどね。私はそう思ってるよ」

 翠穂は小首を傾げた。

 嫌な気はしない。れんげはそう思った。

 バスが揺れて停まった。

 ふたりとも、アナウンスはあまり聞いていなかった。

「――ここ?」

「いえ――次ですね」

 窓から周囲をうかがって答えたれんげの視界に、それは飛び込んだ。

「あれ……」

「ん、どうしたの?」

 翠穂もれんげの視線を追い、れんげの意識に留まったものに気付く。

「放置バイク? ちょっと珍しいね」

 すぐそばに小さめのマンションがあるが、その入り口や自転車等の置き場とは見るからに違う歩道の片隅に、その原付は横たわっていた。

 バスが発進する。れんげは振り返ってその放置されたらしい原付を目で追う。

「―――気になるの? 見覚えある誰かのとか」

「いえ、そういうことではないのですけど……放置、ですか?」

「多分ね。あんなボロボロで乗ってる人はいないでしょ。それに横倒しだし」

 翠穂の言うとおり、その原付はもとの色が判りにくいくらいに汚れ、シートも破れ、タイヤもぺたっとして空気が入っていないことが容易に見てとれる。ボディも所々割れていたり凹んでいたりで更に歩道上に倒されていて、どう見ても捨てられていた。

「そんな……まだ使ってあげられそうなのに、可哀想です」

「パクって乗り捨てたのかも。

 ていうかれんげって変わってるね、ちょっと」

「そうですか?」

「また『そうですか?』って言った。

 ――放置バイクに同情するんだ、と思って」

「はぁ……」

 れんげは原付を名残惜しそうにしていたが、視界から消えてようやく諦めたように座り直して、前席の背もたれに付いているボタンを押した。

 アナウンスが『次、停まります』と告げる。

 翠穂がそれを待って口を開く。

「――その茶器もだけど、れんげって『モノ』に思い入れするね。

 古道具屋さんだから?」

「――そうかも知れません」

 れんげは薄く微笑を浮かべる。

 商売の関係だけではないのだが、それは大っぴらに言うべきことではない。

「使ってこその『道具』ですから、あのように打ち捨てられてしまうのは道具にとって不本意ですし、使っていた人にとっても不幸なことです」

「ふぅ……ん」

 翠穂はれんげを見て笑う。

「れんげって、やっぱりちょっと変わった感性してるね」

「そうですか?」

「また言った。

 ――あ、変な意味とか悪く言ったんじゃないからね。

 いいな、って思って」

 バスが止まった。

 れんげと翠穂、ふたりそろって席を立つ。

 れんげが鞄から定期券を取り出している間に、翠穂が財布を手に通路に出た。



 ――バスを降りて二五〇メートル少々歩いたところに、その店はあった。

 小さな本屋や喫茶店などが並ぶ中、ひときわ古風な佇まいを見せている。

 道路に向いた正面は店舗になっていて、磨りガラスの引き戸に『九十九つくも堂』と落ち着いた臙脂えんじ色で書かれている。

 古い日本家屋といった風情で、これも濃い赤茶の瓦が葺かれ、一階の屋根の向こうに小さな窓がうかがえ、二階があることがわかる。

 きょろきょろと周りを見回す翠穂を横目に、頬に微かな諦めの苦笑を浮かべていたれんげがそのガラス戸をからからと開けてクラスメイトを呼ぶ。

「――国安さん」

「あっ、はいはい、ごめん」

 れんげに呼ばれて、翠穂が振り返る。


<九十九堂>の店内はほんのりと柔らかく明るい照明で、碗など簡単なものから一見よくわからないものまで、程よく棚――入り口から見て左右の壁に高さ百五〇センチほどで幅広の、奥行きの短い棚と店内中央に高さ一メートル位、大きさも一メートル四方程の低い棚がある――に配されている。

 店の奥――入り口の対面にそれ自体も古めいたレジがある。その斜め後ろが一段高くなっていて入り口同様のガラス戸があり、そこから向こうは生活スペースになっているのだろうと思われる。

 れんげと翠穂が入ると、レジカウンターにいた人影がもそっ、と動いた。

「れんげちゃんか。お帰り。

 ――友達か? 珍しいやんか」

 声の主は老人――に見えた。

「ええ、ちょっと」

 れんげは老人の言を軽く流し、カウンターの足下に鞄と翠穂から預かった茶器を置いて棚の一角に向かった。

 翠穂がぺこっ、と頭を下げる。

「こんにちは、お邪魔しますっ」

 老爺はにっと笑って「そんなかとぉならんでもええ」とカウンターから、レジ越しよりも店内の見える場所に椅子を引っ張り出してきて腰を下ろした。

 それほど長くないが、髪も髭も白い。小柄で、濃茶の作務衣がこれ以上ないというくらいに似合っている。飄々とした、だが抜け目はなさそう、そんな雰囲気を持っている。

 いかにも、といえばいかにも骨董品とか詳しそうだな、と翠穂は思いながら棚のれんげに寄っていった。

「――ある?」

「ええ。

 ――そうですね、こちらはいかがでしょう」

 と、れんげが棚から取り出したのは少し古そうな平棗と、口の広い鉢のような形をした水指だった。

「一九五〇年頃のものです。簡素ながらしっかりとした、飽きのこない造作がどこで使っても違和感のない、そういうところがお薦めです。こちらの備前焼の水指もあわせて、十八万円ほどですね」

「にッ!?――も、もうちょっと安いのないかな」

「……国安さん、おいくら、ご用意されていますか?」

「へ? あ――そうね、部費から持って来れたのが――」

 と、翠穂は鞄から茶封筒を出した。中から札を二枚、れんげに見せる。

「一万五千円、ですか」

「うん。少なすぎ――かな」

「いえ、それなら――」

 れんげは手にしていたものを戻し、いくつか見ていた中から別のものを出した。

「まだまだ新しいもの――十年ほどです。こちらもとてもシンプルですが、しっかりしています。

 この棗とこちらの水指、ふたつで一万七千円ちょっとなのですが――」

「五千でええやろ」

「わっ!?」

 いつの間にか老爺が近くにいた。

茂林もりん……驚かさないでください」

 茂林と呼ばれた老爺はゆるゆると笑って、れんげの持っていた茶器を取った。れんげは一歩引き、翠穂との間に茂林を入れる。

「予算、一万五千なんやろ? 予算いっぱいまでマケたろ」

「わぁ――いいんですか?」

「えぇえぇ。ただし、やな」

 そこで茂林は一旦言葉を切って、翠穂をじっと見上げて強調して続けた。

「大事に使ぉてや」

「あ――はいっ。ありがとうございますっ」

 翠穂は深々とお辞儀する。

「だから、堅くならんでええ、って」

 茂林はからっと笑い、軽く茶器を持ってレジに向かった。翠穂が封筒を手にしたまま茂林を追い、れんげがそれに続く。

「れんげちゃん、包み紙どこやったかな」

「いい加減覚えてください」

 れんげは小さく吐息を吐いた。

 カウンターの引き出し、三段あるその最下段のを開けてそこから包装用だろう茶色の、正方形の紙を数枚ガサガサと出して、隣に入れてあった紙袋と一緒に茂林に渡す。

「ん」

 茂林はそれで茶器をひょいと包み、紙袋に入れて翠穂の目の前に置いた。手際よくレジを叩き、レシートを打ち出す。

「ほら、一万五千円な」

「はぁい♪」

 翠穂が札をカウンターの小さなトレイに置いて、立ち上がったれんげに言う。

「れんげって関西から?」

「?――違いますけど……どうしてですか?」

「あ、そう? お爺さんが関西弁っぽいからそうかな、って思ったんだけど……そっか」

 翠穂が紙袋を持ち上げた。

 と、古風な店内にはあまり似合わない可愛らしい電子音が突然響く。翠穂が紙袋をカウンターに戻して、制服のポケットから携帯電話を取り出した。ディスプレイを確認して「げ」と呟いてから、電話に出る。

「――はい、国安です。はぃ、えっ……と、それなりに空いてますけど。

 今日ですか? はぁ、まぁ――わかりました。本当ですね? それなら行きます」

 電話を切ってから、翠穂は小さくため息をこぼした。紙袋を取り、

「ごめん、急にバイト入ったから行くね。

 そだ、れんげのケータイ、教えてくれる?」

「――すみません、私……持っていません」

「え!? そうなんだ。持ちなよ、便利だよ」

 翠穂は意外そうにれんげを見る。

 れんげは苦笑してレジの横に積んである名刺大の紙を一枚、翠穂に渡した。それには<九十九堂>の案内が印刷されている。

「現状で不便を感じたことがないので」

「そっかぁ。

 あ、ここ、家と一緒なんだ。

 ――っと、行くね。コレありがとっ。また明日ね。

 おじいさんも、ありがとうございますっ」

 礼も慌しく、翠穂は<九十九堂>を出て行った。

「――せわしない、、、、、子やな、れんげちゃん」

 翠穂を見送っていた茂林がぼそっと言う。

「ええ。慣れないので少し――戸惑ってました」

 れんげは翠穂が閉め残していったガラス戸をきっちり閉めなおしてから、茶器がふたつ抜けた棚の隙間を整えた。茂林がトレイの金をレジに納め、足元のものに意識を向ける。

「可哀想になぁ。まぁ、捨てられんでよかったわ」

「そうですね」

 とれんげは床に置かれたままの割れた茶器を見て、それから何か思い出したような表情になる。

「茂林――私、帰り途中に気になるものを見たので、ちょっと行ってきます」

「ん? ワイも行こか?」

「あ――そう、ですね」

 いくぶん迷ってから、れんげは頷いた。


□■□■□■


 陽はすっかり落ちて、街灯と家や店の明かりが外を照らしていた。

 冷えた空気が漂い、冬の訪れをそろそろ感じる。

 服装にも寒暖にもあまり頓着しないれんげだが、それでも上着か手袋くらい持ってくればよかった、と少し後悔していた。

<九十九堂>を出て、バスで一停留所ぶん移動。

 バス停から道路を挟んだ向こうに、まだそれは転がっていた。

「――あった……」

 吐息のようにもらしたれんげの言葉が薄白く残る。

 そのれんげの足元に狸――いかにもそれはどこから見ても立派な体格と毛並みの、狸だった――が駆け寄ってきた。狸はバス停の看板で足を止め、れんげを見上げる。

 バスを降りたのはれんげだけだった。すぐ近くに他の人はいない。

「ん? どれや?

 ――気配、、はないな」

 狸が小声で、人語を発した。声は先ほどの<九十九堂>にいた老爺――茂林のものに酷似している。

「車道の向こうの――!?」

 れんげが狸に説明しかけて、はっ、と息を呑んだ。

 狸が喋っていることに驚いたのではない。れんげはそこに違和感を感じてはいない――れんげはこの狸が人語を解することも既知だった。

 ――放置原付のすぐそばに、男が一人近付いていた。

 まだ学生なのだろう、校章の入ったブレザー姿の背は高い。筋肉質な肩幅とバランスのとれた体格をしている。やや彫りのある通った鼻陵が遠目にもわかり、短めのアッシュカラーの髪とあいまって一目で記憶に引っ掛かりそうな外見を醸している。

 その男子学生に、すぐ近くに建っていたマンションから出てきた一人の男性が寄る。何言か話をしながらその原付をちらちら見やり、やがて男性は彼に対してお辞儀した後、その場を去っていった。

 男子学生は原付に向かってしゃがみこみ、周囲の大きなゴミを除け始めた。横を向いていたハンドルをまっすぐにしようとしているようで、それから先に何をしようとしているのかれんげには判らなかった。

「持ち主か?」

 狸がれんげの視線に気付き、同じものを見て言う。

「どう……でしょう。でも調べまわしているような。

 持ち主ではないようにも見えますけど――」

 何かがれんげに引っかかった。

「持ち主なら、放置していてそこの付近の方にお辞儀される、というのは考えにくいですよね……」

 ぽそっと呟く。

「なるほど、そやな。あのガキが『置きっ放しててすいません』ってんなら頭下げるんは逆やな」

 狸はその学生を子供扱いして言う。

「どうするんでしょう」

「さあなぁ。あのガキ、持って行きよるんとちゃうか」

 れんげと狸、普通に会話している。

「ええやん、れんげちゃん。

 あんなまだ新しそうな機械モンがどうにかなることはないやろ」

 狸は大口を空けて欠伸をする。

「帰って晩メシにしようや、な?」

「でも、気になってますので――訊いてみます」

 言って、れんげは横断歩道に向かって早足気味に歩き出した。

「あ、おい、れんげちゃん!?」

 青信号になって渡って行くれんげを見て小さく溜息を吐き、狸はれんげを追った。



「――あの」

 腰を落としていた男子学生が、立ち止まって声をかけたれんげを訝しげに見上げた。

 れんげに見覚えがあるようで、不審がっているというよりは思い出そうとしている目つきでれんげを見ている。

「え? と――高……野?」

「えっ!?」

 れんげが驚いて、その彼は表情を和らげる。

「誰かが言ってたけど、本当に高野ってクラスメイトの名前も顔も覚えてないんだな」

「クラスメイト……ですか? それは失礼しました」

 ――何時間か前にもこんな風に謝ったな、とれんげは思いながら頭を下げた。

 よく見ると彼の制服姿は、れんげの通う学校のもので、ネクタイのラインの色が、れんげのセーラーカラーと同じだった。

 そのせいで、気勢を削がれてしまう。

「えっと……」

「三原守弘もりひろ

 名乗って、彼は立ち上がった。

 れんげよりたっぷり頭ひとつ分以上の身長がある。

「すみません、三原さん」

「いや――そんな謝らなくてもいいけど、何?」

 その時、狸がれんげの足下に追いついた。三原守弘、と名乗った彼は町中では見慣れないその生き物に目を奪われた。

「た……狸?」

「あぁ、茂林のことは気にしないでください」

 れんげが軽く言う。

「高野が……飼ってる狸?」

「飼われているとは思っていないでしょうけど」

 茂林、とあの老爺と同じ名で紹介された狸は狸らしい鳴き声できーきーと抗議のようにれんげを呼ぶ。

「モリン、て変わった名前だな、お前」

 どこか面白そうに守弘は狸を眺める。

「分福茶釜の奉られている茂林寺の、お名前です」

「へぇ~」

 分福茶釜、と言われれば守弘も漠然とではあるが知っているのだろう。おとぎ話程度のことで、寺の名前までは……という程度の認識が茂林を見る瞳に浮かんでいた。

 守弘はかがんで、原付に残っていたゴミを払う作業に戻った。

 辛うじてもともとは赤系統と白系の二色なのだろうと判別できる汚れきったボディ。シートも破れ、正面のひとつのライトも割れ、無残な状態で横たわっている。まっすぐ動くのかどうかも疑わしく見えた。それ以上のことはれんげには判らない。

「その子……」

「ん? こいつも高野のか?」

 原付を指して守弘が言う。

「いえ。

 三原さんのものではないのですか?」

「いいや。俺はこいつが持ち主が判らないまま放置されてたから、引き取りに来た」

 積まれたゴミがだいたいなくなり、守弘は横倒しになっていた原付をひょいと起こして向きをかえ、タイヤを確かめてからぐっと押した。

 ころりと、原付は動いた。ナンバープレートはついていない。

「……ったく」

「え?」

「あ、いや、何でもない」

 守弘は苦笑をこぼした。

「引き取ってどうされるのですか?」

 れんげは、まだやや棘の残る口調で訊く。

「あ~……うちで直してやる。やっと譲ってもらったんだ。また走れるようにしてやろうと思って、な」

「やっと……ですか?」

「勝手に持って行ったら泥棒だよ。そこのマンションの管理人に言って、警察に言って、待って、やっとさ」

 そんなに待っていたのだろうか。ほぼ毎日通っていて気付いていなかったのが、れんげにとってはどこか悔やまれた。

「なにか稀少な種類なのですか? こちらは」

「そんなことないよ。どこにでもあるし、十万くらい出せば程度のいい中古でも手に入るんじゃないか。

 ただ……」

 守弘はその原付を押して歩きだした。れんげも何となく守弘に続き、渋々といった様子で狸もそれについて行く。

 れんげと守弘、原付を挟んでほぼ並ぶ。

「ただ?」

「こいつが可哀想、、、に思えたんだ」

 思わずれんげは守弘をまじまじと見つめてしまった。振り向いた守弘と目が合い、れんげは慌てて視線をそらす。

「面白い言い方ですね」

「そうか? まぁ、何となくそう思うんだよ。機械にも心、ってあるんじゃないかな、とかさ。

 自分のバイクで走ってて調子悪い時は『今日はこいつ、ヘソ曲げてやがる』とか思ったりする」

 れんげは教室での守弘を知らないが、彼はいつもより饒舌だった。

「機械、お好きなのですか?」

「好きというか……いや、好きだな。イジるのも乗るのも」

 ふたりと一匹は歩いて、商店街にさしかかる。

「高野は……家こっちなのか?」

「いえ、逆方向です」

 言ってから、れんげは守弘とボロボロの原付を見比べ、足下の狸に目をやる。

 狸は『帰ろう』という素振りを見せていた。

「――茂林」

 れんげは足を止めた。守弘も原付を押す手を止め、れんげを見る。

「三原さん、その子――修理できるのですか?」

「まぁな。こいつは見たところタイヤも無事だし、ブレーキの固着もない。動かなくなって放置しちまったんだろう、修理するのが面倒だったり金がかかったり――盗んで使い捨てとかで、な。

 だいたいバッテリーがあがっちまってるとか、スラッジ溜まってるとか、オイルの焼け付きとか、そんな単純な原因だよ。直しゃまだまだ走れる。こいつだってあんな状態で捨てられて、潰されたくはないだろう。

 きっと、直してやれる」

「はぁ……」

 れんげはメカトラブルのことは解らないし守弘の説明も半分以上理解できなかったが、守弘の機械への愛情は強く伝わった。また、彼が本気でこの原付を修理しようとしていることも。

 守弘は原付を押すのを再開する。商店街の外周を通り、住宅地の方へ向かう。

 疑っていたことを反省すると同時に、れんげの関心が疼いていた。

「――ちょっと、興味が湧いているのですが……どうやって修理されるのか、拝見させていただいてもいいですか?」

 れんげは小首をかしげ、守弘を見上げる。

 守弘は驚いた様子で、原付の向こうの、たっぷり頭ひとつ分は背の低いれんげを見つめなおした。

「別にいいけど……今日すぐには直らないと思うぞ」

「そうですか? でも、見てみたいです」

「まぁ……いいよ」

 守弘はぶっきらぼう気味に続ける。

「そんなに、遠くないし」

 そう言って守弘は原付をぐいっと押しこんだ。


□■□■□■


 守弘の家は、商店街から比較的新しい住宅街へ、二五分程歩いた所にあった。れんげの速度で、なおかつ(ほとんど無言だったが)話しながら、原付を押しながらだからで、守弘の――男子高校生の速度なら十五分少々、といったところだろう。

 いくぶん小振りな家と、ガレージの比率が一対一くらいに見える。とにかく普通の家に比べ、家屋の隣の窓の小さな建物が大きい。家はさして特殊なデザインでもなくそれなりに汚れた白い壁の家で、その家とほぼ同じ幅の四角い建物に守弘は向かう。

 そのガレージのシャッターをがらがらと上げ、守弘は原付とれんげと狸を招いた。かれ自身も家には入らず、鞄を散らかった机の上に投げ置いて、上着――ブレザーも無造作にその上に放る。

「適当に座……るトコねぇな」

 守弘は苦笑して転がっていた丸椅子を起こし、油か何かで斑模様になったタオルではたいてれんげに勧めた。

「ありがとうございます」

 れんげはその椅子にちょこんと座った。その膝にどこか諦めた風情の狸が飛び乗る。

「広い倉庫ですね」

 れんげが見回して言う。

 広いガレージだった。七メートル四方はありそうな空間に、天井も高い。

 車が入っていないからだだっ広く思えるのだろうが、バイクが大型と中型の二台、工具やパーツなどが積まれた作業台と棚と机、それに車とバイクを持ち上げるためのものだろう電動リフトが一基、床に埋まっている。

「ただの倉庫じゃないからな」

「寝泊まりすることもあるのですか?」

「ん? まぁ、たまにはな」

 ぐしゃぐしゃに丸められた毛布にふたりと一匹の視線が集まっていた。さらには水道と、ポットや急須やマグカップまで転がっていて、丸い石油ストーブもあり、シャッターを閉めれば生活空間として成り立つかもしれない。

 守弘は工具の積まれた低いワゴンを引っぱってきて原付の横に座り、所々のキャップを開けて細いライトで中を照らしたりオイルなどを入れ替えたあと、エンジンが始動しないことを確かめ、ステップ下にあったバッテリーを外して違うものを接続する。

 ――エンジンはかからない。

「仕方ないな」

 言うほどには疲れた風もなく、最初から覚悟していた口調で守弘はやはり油汚れの染み込んだ軍手をはめた。

 いつの間にかれんげは原付の、守弘のそばに近寄っていた。椅子は狸が占拠している。こちらはそれこそ興味なさげに、丸くなっていた。

「手慣れたものですね」

 手際よくシートの下のカバーを外し、機械むきだしにしていく様を見てれんげがぽつりと言う。

「まぁ、な」

 守弘は短くそう言いながらも、嬉しさを隠しきれない様子だった。

「修理すりゃいいのに、メンテのひとつもしないまま動かなくなるから捨てちまう。大事に使ってやれよ、って思う」

 よっ、と守弘は横のカバーを引っ張る。

 れんげは、守弘の言葉にどこか嬉しさのような小さな感動を覚えていた。

「おっしゃる通りです」

 狸がふと顔を上げた。れんげはそれを横目に、続ける。

「丁寧に使えば道具もまた、応えてくれます。ぞんざいに扱えば恨みも買いましょう。それは因果です」

「因果、か。……恨みまでいかなくても不機嫌になったりすることもアリ?」

「そうです。あるいは不調の訴えなど。

 ――修理、できそうですか?」

「ん、ああ。

 まずどこが悪くなってるのかを調べてるんだけど……」

「けど?」

「こういう時、言葉が通じたらいいのにな、って思うよ」

 れんげが小さく息を呑んだ。

「見たとここいつはエンジンも綺麗だし、錆とか腐食もそんなにヒドくない。交換すべき物を換えて、調整してやれば直るだろう。

 ただやっぱり、言葉で応えてくれたら、ってな。

 ――バカげてるかな?」

「いいえ。決してそんなことはありません。

 全て、この世のものには心があります。言葉で通じなくても、きっとその子は三原さんに感謝しています」

「そ……そうかな?」

 守弘の言葉に戸惑いが浮かんでいた。

 こんなにもはっきりと肯定されるとは思っていなかったのだろう、手を止めてまじまじと守弘はれんげを見る。揶揄している様子はない。

「――可愛らしそう」

 れんげがその原付の横カバーの丸みを、そっと撫でた。

 その白く細く柔らかそうな手に守弘の視線が奪われる。

 守弘の、れんげへの眼差しが先刻までとは変わっていた。

「気――気に入ったんなら、うん、直せたら――高野にやろうか」

 守弘は少し早口になって、続ける。

「直すことそのものが目的だったから――あとはネットで売るか、ぐらいに思ってたんだ。

 高野なら大事にしてくれそうだし、メンテも見てやれるからな。

 免許は? ある?」

「免許?

 ――いえ、持ってません」

「なら教えるよ。すぐ取れるから」

 他人が聞けば『必死だった』と微笑むような、素早い返事だった。

 逡巡するさまのれんげに、おそるおそる守弘は尋ねる。

「……どう、かな?」

「ええ……

 ――ちょっと、面白そうです」

「そうだろっ!」

 微笑ましさが冷やかしの爆笑になりそうな勢いだった。

 ただ、れんげはそんな守弘の勢いを受け流した。シャッターの開いたままの外と、椅子の上の狸をうかがい、

「すみません。すっかり、長居してしまって」

「え? あ、そ――そう、かな……。

 俺は全っ然構わないけど――そうだな、送るよ」

 守弘は立ち上がって軍手をはずし、作業台にひっかけてあった革のジャケットを取りに行った。れんげの所に戻る途中で棚からヘルメットをふたつ取って、片方をれんげに渡す。

「えっ……?」

 ヘルメットを持ってきょとんとしたれんげに、守弘は並んだバイクを示した。

「家まで送るよ。こっちと反対側だったんだろ?

 てことは――野潟町やかたちょうとか?」

 守弘はバイクを取りに行く。野潟町は<九十九堂>のある東雲町の隣になる。

「東雲町です。ですが、結構です。さきほどのバス停から少し歩く程度ですから」

「でももうこんな時間だし、暗いし寒いぞ。歩いたら――四~五十分はかかるんじゃないか」

 中型バイクを押してシャッターの近くに停めた。

「バイクならすぐだし。

 ――それに、ちょっと補充したいものができた。あのあたりにホームセンター、あったよな?」

 とってつけた言い訳のように守弘は言う。

 れんげは、狸は椅子から下りて欠伸をする狸と目を合わせた。

 しばらく考えてから、れんげは質問で答える。

「――茂林、乗れますか?」

「ん――大丈夫だろ。背負うか、抱えるか、どっちかしてれば」

 狸が守弘を見上げた。守弘はにやっと笑って、

「どうだ、お前さん」

 と近くに転がっていたリュックを取って見せた。茂林はきぃっと、返事のように鳴く。

「ははは、お前も言葉解るみたいだな」

「解ります」

 しれっとれんげは言う。

「三原さんがおっしゃられたことも。

 ――ほら」

 狸はしばらくリュックの匂いをかいだあと、もそっ、と中に入った。ゴソゴソ動いてリュックの口から頭を出し、きぃ、と一声上げる。

「頭いいな、お前」

 守弘は驚きと喜びの混じった調子で、狸の頭をぐりっ、となでた。バイクにまたがってエンジンをかけ、れんげを促しながらヘルメットをかぶる。

「モリンくん背負ってやって。で、後ろにできたらまたがってほしいんだけど……」

 そこで言いよどむ。

 れんげは荷物こそなかったが、制服のままだった。

「はい」

 しかしれんげは躊躇いなくバイクの後シートに、足を広げて座った。振り返って様子を確かめた守弘は、スカートが捲れたれんげの腿に慌てて視線をそらす。

 れんげはそんな守弘には気付かず、スカートの裾を足の下に挟もうとしていた。

「えっと、横に把っ手みたいなのあるの分かる? 下のほう。それ持っててもらうか、それか……」

「はい」

 ヘルメットをかぶったれんげは両横のハンドルを見つけて握る。既に茂林の入ったリュックを背負っている。

 守弘はゆっくりバイクを進め、ガレージを出た。ハンドルからつり下げていた小さなリモコンのボタンを押す。

 ――シャッターがゴトゴトと下りはじめた。

「じゃ、行くぞ」

「はい」

 頷いたれんげのヘルメットが守弘の背に触れた。


□■□■□■


 十五分程度で、バイクは<九十九堂>に到着した。

「――アンティークショップ?」

 守弘がヘルメットのバイザーを上げて言う。

「と言うより、古道具屋です」

 れんげはバイクを下りてヘルメットを守弘に返し、くすりと笑った。出入り口を解錠して少し開けると背負っていたリュックから茂林が飛び出し、体をほぐすように伸びをしてから、さっさと店に入っていった。

 れんげはリュックも返して言う。

「ありがとうございます。三原さん」

「大したことじゃないさ。ほとんど毎日何か転がしてるから、体は慣れてるし」

 会釈するれんげに、守弘は苦笑した。

 アイドリング中のエンジン音が低く響いている。

「じゃあ――俺、行くから」

「ええ。今日はありがとうございます」

 道路に振り返った守弘を、れんげが呼び止めた。

「三原さんの物に対する考え方は正しい――と、思います。

 あの子の修理、がんばってください」

「お――おぉ、ありがとう」

「それではまた学校で。

 お気を付けて」

「んぉ、おう――」

 れんげに背を向け、片手を挙げてから守弘はバイクを発進させた。

 見送りせずに、れんげは<九十九堂>に入って引き戸を閉めた。



 れんげが店内に入ると狸が愚痴っていた。

「れんげちゃん、マセガキたぶらかして何する気やねん」

「誑かすだなんてそんな、人聞きの悪い」

「あのガキ、れんげちゃんに惚れたで」

「そうですか?」

「……まぁええわ。

 れんげちゃんは頑なやからな。

 ワイはれんげちゃんはもっと人間と打ち解けてていってもええと思ってるし――バレん程度でな」

 狸は頭を振って、奥のガラス戸を立って開けて中に入り、れんげの視界から消え――「ほっ」と声が上がって、奥から老爺の茂林が顔をのぞかせた。

「れんげちゃん、ゴハンにしようや」

 ガラス戸の向こうは廊下があり、その先に開いた襖、さらに向こうには炬燵のある居間になっている。炬燵の上には籠に入ったみかん、それに角に置かれたテレビ台にやや年代物のテレビとビデオデッキ、対角には柱時計、と絵に描いたような冬の居間だった。

 炬燵にはもう少し早い季節かもしれないが、違和感はない。

「――そうですね」

 言って、れんげは店の扉を施錠して、廊下の下にローファーを揃えて置き、ごちゃごちゃとマシンガントークを続ける茂林の待つ居間に上がった。


 居間の、古くて大きな柱時計が柔らかく綺麗な音を八回、響かせた。

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