付喪神蓮華草子

あきらつかさ

始章

 ――はるか、昔。


 それはひとり、震えて『彼』が自らのもとへもやって来るのを怖れていた。

 それは、人の姿をしていた。

 いくらかの幼さと大人への片鱗を共に滲ませた娘に見えた。

 だが、ただの娘が着物を乱してただひとり、山の奥で座り込んでいるのは奇妙な図でもある。男どもに襲われ、誰も通らぬような山中に捨てられたか――そんな雰囲気ではない。衣服の乱れも逃げまどっている内にできたもので、そこを気に留めている余裕がない、そういう印象だ。

 疲労したか観念したかでこの場にへたっているのだろうか。

 伸びた髪を無造作に束ね、質素な衣で痩せた躰を包む姿に男を誘う気配はない。年頃の娘らしい愛嬌や艶っぽい色香などとは無縁な様相をしている。整った顔つきをしてはいるが、可愛らしさは薄い。

 それ――便宜上『彼女』と呼ぶ――がいるのは、山だった。

 霊験を感じる勇壮な山だ。

 その中腹、踏み固められた道からも離れた茂みに、彼女はその細い身を隠すようにしていた。

 彼女から離れた少し遠く、木々の間から悲鳴のような怒号のような、人外のものの声がわずかにでも伝わってくる度に、彼女の躰がぴくりと跳ねる。

 夜だった。

 草木も眠る、更けた時間だった。

 月影が照らす深い山林のなか、注意を凝らしてみるとあちこちで同様の音が響いている。彼女は膝を抱いて俯き、それを遠くに聞いていた。

 しかし、じょじょにそれも減ってゆく。

 彼女と一緒に逃げていた同類のものが『彼ら』に倒され、はぐれ、彼女ひとりここに残っていた。

 ――来る。

 彼女はそれを感じていた。

 がさっ、と茂みが揺れた。

 彼女が顔を上げる。

「こんな所におったか」

 現れたのは年端もゆかぬ、元服もまだの子供――に見えた。

 それが二人。

 対照的な二人だった。

 正面に立って、彼女を睥睨しているほうは鋭い目つきをしている。もう一人その少年の斜め後ろに立っているのは柔らかな微笑を浮かべている。

 童子のようだが、彼女は同類を圧倒的な強さで抑え込んでいったこの二人を目の当たりにしていた。

 この二人に、皆、無力化されていっていた。

 彼女は怯えた瞳で少年を見上げる。

 いよいよ、もう最後か、と彼女の唇がわずかに震えた。

 正面の少年が口を開く。

「うまく人に化けたものよ。

 町中におっても違和感ないような、な」

 少年は護法童子、という。

 人ではない。

 不動明王の眷属、『鬼』の一種だ。

「残るはお前だけだ。

 いかようにもできるが――さて」

 少年はにっ、と笑い、強く彼女の細い顎を掴み持ち上げた。

「お前――我の下で働かぬか?

 どうせこの先も造化の神に請うて化生となり、また人の世の災いとなる者は顕れよう。あるいは他の、あやかしの類もおろう。かといって我らもいつも降りて来られるわけではない」

ずいっ!?」

 それまで黙って後ろにいたもう一人が驚いたように声を上げた。

きゅう、妙案だと思わぬか?

 この娘、化けてから何もしておらぬ。それにこの外見なら、人の世に溶け込むことも問題ないだろう」

 瑞、と呼ばれた少年の言うとおりだった。

 彼女は他のものたちと、元の姿を捨て、人に害悪をなしていたものもいた。が、彼女は捨てられたことを悲しみはすれ復讐には走らなかった。

 瑞が彼女の顎を持ったまま振り返って、穹に向かってそう言うと、穹は苦笑して「わかった」と短く頷いた。

「娘――どうだ。

 仏道に帰依きえし、我に従うならこの世でただの人のように暮らさせてやる」

「人、のように……」

 彼女がはじめて口を開いた。

 彼女は、捨てられてもなお、人に憧れていた。

「どうだ?」

 瑞はもう一度言った。

「従う……とは、何をすれば?」

「簡単なこと。

 我らにかわって、今宵のような始末事をすればよい。

 屠らずともよい。それよりは仏の教えを修めさせよ」

「始末事――」

 彼女にとっては同類、あるいはその他狐狸妖怪の類、そういった者たちと戦え、という。

 彼女はしばし視線を落とす。少年の掌が彼女の視界を占め、その手は返答を促すようにぐっ、と更に少しだけ持ち上げられた。

「どうする」

「は――はい」

 彼女の瞳に光が宿った。

 この鬼どもに退治されるよりは自分がいさめる、そういった意志を宿したようにも見える。

「ふ――叛心はんしん起こせばどうなるか、わかっているな」

 彼女は頷いた。

 瑞が手を離す。

「決まりだ。

 ――お前の真名まなを預かる」

 瑞は笑っていた。

 こういう状況でなければ、悪戯の成功した子供が笑っているような、そんな表情で少年の姿形をした鬼は彼女の頭に手を置いた。



 そして、今――

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