ぼくらはみんなサイコパス

@ILGrandeSilenzio

ノスフェラトゥの章

 誘惑の作法というものがあって、高校生の僕らはそれを必死に学ぼうとしていた。

 あの日の学校のトイレで、黒川は男の魅力について語っていた。それは例えば、二の腕の筋肉の話であったり、鎖骨の話であったりした。 

 異性愛者の男子高校生という視点から外れた場所で、性的な魅力について考えたことのない僕にとって、それは驚くべき話だった。

 男の二の腕のどこに魅力を覚えるのか、僕にはさっぱり想像もつかない。

「それはもう法則のように響くんだ」と黒川は言った。「水の入ったコップを叩くと、水の量によって音階が変わるだろう? あれと同じで、物事は曖昧なようでいて、きっちり決まっているところは決まっているんだ。人の好みはそれぞれ、というのは、争いごとを避けるために作られた言葉さ」

 鏡の前で、黒川は髪の毛をいじっている。襟足が色っぽいんだと、言っていた。

 夕方の時間帯、入ってくる光の量が落ちたトイレのタイルは、青とも緑ともつかない不思議に艶やかな色彩を帯びていた。僕と黒川はトイレから出ると、廊下で待っていた友田と合流した。なんで俺と一緒にトイレに来れねえんだよ、と友田をふざけて蹴る黒川に、友田はただ「ひひひー」と笑うだけだった。

 それより、と友田は口火を切った。

「新任の先生、やっぱり女子から人気みたい」

「だろ? やっぱ襟足がいいんだって」

 黒川は大袈裟に髪をいじってみせた。

「でも、ヘンな先生。男なのに女みたいだし、花壇の世話なんかしてるし。ああ、そうそうなんか実家が花屋なんだって。だからあんな風に花壇用の土をたくさん持っているはずなんだ」

 友田はその小さな背丈をさらに小さく折りたたみながら、猫背で僕らに向かって話しつづけていた。話題は何でもよかった。僕らは馬鹿だから、馬鹿な話しかできない。だから、新任の男の美術教師が女性っぽい顔立ちをしていればそれをネタにするし、仲間内で流行っているゲームがあればその話をする(でも最近ゲームの話はオタクっぽいということで、あまり教室で大っぴらに話すのが恥ずかしくなってきたところだ)。女子の話をすることもあったけど、それを持ち出すのはいつも黒川で、僕と友田は曖昧に相槌を打つだけだった。友田はときどき邪悪な発言をするから、「きっとあいつはむっつりスケベだぜ。しかも多分、隠す気がない」と黒川は語っていた。矛盾した人物評だったけど、それを指摘しても黒川は、映画じゃないんだから人間の話すことなんて矛盾するに決まっているだろうと反論してくるのだ。

 そうそう、話が逸れた。とにかく、その日の話題はその新任の美術教師についてだった。

「女装させたらきっと似合うんじゃないかな」と僕は言った。

 黒川は反対みたいだった。

「いや、あれはダメだぜ。背が高いし骨ばってるから、良くて超ボーイッシュなお姉さまってとこかな。女性ってのはもっとこう柔らかな体型じゃないと」

「でも、モデル体型でかっこいいかも」

「なんだよ、ヘンに庇うな。お前あいつとデキてんのかよ?」

 違う、と僕は反論した。

 学校のように野蛮な場所は、本の中の世界よりも少しばかり厳しい。だから、自分が同性愛者だと疑われるような場面がくれば、それは全力で否定し返さなきゃならない。これが男子校だとまた冗談で言い合ったりすることもできるんだろうけど、共学だとそうもいかない。もちろんそれは女子がいるからだ。女子の目線がそこにあると、男同士で気楽なはずのコミュニティにも面倒くさい法則が働く。

 廊下を三人で歩きながら、放課後の教室をいくつも覗いて、僕らはいつまでもおしゃべりを続ける。新任の美術教師の話はすぐにどこかへ消えてしまった。まるで最初から話題に挙がっていなかったかのように。

 そして、また別の話が続けられるんだ。話題は何でもよかった。僕らは馬鹿だから、馬鹿な話しかできない。だから、新任の男の美術教師が女性っぽい顔立ちをしていればそれをネタにするし、クラスの可愛い女子の話となれば、もう、放課後の時間をいつだって占拠していた。


  ○


「誰が一番可愛いと思う」と黒川は言った。

 教室から、三人はいつもテニス部の練習を覗く。

 いや、いつも覗いているのは黒川だけだ。僕は本を読んでいることもあるし、友田はゲームをしていることもある。そういう一人遊びをやらないのは黒川だけで、彼の視線はいつもグラウンドの方に向いていた。うちの学校は校舎とグラウンドの間を川が通っている。他愛もないような川だったけれども、もちろん通り抜けようとすれば濡れるし、雨天で増水したら高校生といえども溺れるかもしれない。だから当然、そこには橋がかかっていた。それは昔は赤色だったらしいけど、今では黄色に塗り直されていて、周囲の木々の青々とした色彩とよく調和しているように見えた。でも、ところどころ剥がれて、赤色がにじみ出ていることも僕は知っていた。

「おい、誰が一番可愛いと思う」

 黒川にこうやって急かされると、僕も友田も仕方がなく窓の外を見る。いつものことだ。

 僕は、いつも本音とは違う女子を指さした。共学の男性社会の圧力は、女性の趣味というものにも作用しており、こういう時に指さなければならない女性の種類というのは決まっていた。一番を指してもいい。それが一番無難だ。でも僕が得意なのは、一見目立たないけど、でも十番目くらいには入ってて、趣味がいいと言われるような女子を的確に把握し、彼女たちを指さすことだ。それは一種のゲームだった。

 ゲーム。作法の決まった一人遊び。

 そう、黒川の言うとおり、誘惑の作法はきっちりと決まっていて、物理法則のように動かしにくい。

「理沙か。そうだよな、まあ、あん中じゃ二番目か三番目に可愛いよな」と黒川は言った。「友田は、何で山岸なんだよ。あいつのどこがいいんだよ」

「胸が大きい」

 友田はてらいなくそう言いのけ、黒川は怪訝な顔をしてこっちを見た。

「巨乳好きかよ。マジお前、顔もちゃんと選べよなー。マジ変態じゃねえか」と黒川は言った。「なあ越水」

「変態だな」と僕は答えた。

「胸で選ぶんだったせめて、佐藤だな佐藤」と黒川は言った。「佐藤千紗」

 控えめに言って、その名前を聴いた僕の心臓は少し飛び跳ねた。

 けれどもそれはおくびにも出さず、「帰ろう」と声をかけることにする。黒川も友田も、それに従って各々の鞄を肩にかけ始める。

 僕はそれを見届けると、廊下側に振り向いた。改めて眺めればきっと誰もが同意してくれるだろうけど、放課後の教室はなかなかに奇妙な風景だ。

 逆さまになった椅子が、それぞれの机上に乗っている。逆さまの椅子は反理性の象徴で、座るという用途から離れているから意味性が剥ぎ取られるのだと、僕に語ってくれた人のことをふと思い出した。机はとても規則正しく幾何学的に並んでいるから、その脚たちもみな規則正しく三次元空間に幾何学模様を描いている。

 絵に描いてみるにはあまりにも難しい構図になるんじゃないかと、眺めていて思った。 

 そこを通って、廊下に出ると僕は彼らと別れた。

 今日はちょっと早く家に着かなきゃならないから、いつもみたいに遠回りして一緒には帰れないと告げると、二人とも納得してくれた。

 僕はその日の帰り道、家に帰る方向へとは足を向けなかった。

 別の家に向かった。

 そこは薄いピンクの色をした一軒家で、鉄製の門をくぐると、段々になっている他愛もない中庭の木々の中に迷い込み、その後ドアが待っている。僕はそこのチャイムを押して、彼女が出てくるのを待った。

 はたして、彼女はドアを開けて顔を見せた。

「おかえり、祐樹」と彼女は言った。

「ただいま、千紗」と僕は言った。

 いつもの儀式だ。

 下の名前を呼びあうこと――それは口にしてはいけない感情を確かめ合う儀式。あるいは日頃の習慣。

 千紗はいつも通り千紗で、胸元の空いたロンTは肌の透けた鎖骨を隠そうともしない。その妙に骨々しい、爬虫類系の少女がなんだか悪戯めいた笑みを浮かべているのを目にして、僕はすっかりにやけてしまったのを悔しがりながら、そっと近づいていった。千紗がにやけている時はいつも、笑みの隙間から犬歯が見える。

「わたしのこと指さしてくれた?」と千紗は言った。あの遊びのことを知っているのだ。

「まさか」

「あたしの誕生日なのに、ひどーい」

 千紗は裏拳で殴ってくる。

「バラしたくないって言ってんのはそっちじゃん」と僕は言った。

「嘘ばっか。そっちじゃない」

 千紗はけらけら笑っていたけど、僕はそんなものには騙されない。積極的に隠しているのは彼女だ。これは誓ってもいい。彼女は、暗殺を恐れる独裁者のように秘密主義者なのだ。何なら彼女の友人に聞いてくれ。

「その代わり、ケーキ買ってきたから許して」と僕は言った。

「やった。ほんとそれはもう、ホント」

 さっき夕飯食べたばかりだけど、と言いながら、ドアの中に招き入れてくれる。

 玄関を通って居間に入るとそこには、変わった形のダイニングテーブルがあって、その周囲をパステルカラーな椅子たちが取り囲んでいる。そのテーブルは不可思議な曲線で構成されているけど、円形とは言いにくく、何に似ていると言われれば型紙ステンシルを思い出した。雲の形をした吹き出しとかを描く時に使う道具のことだ。

「夕飯って言ってもさ、今は両親いないんでしょ? またラーメンでも食べてたの」

「やだな、人をそんな腹ペコキャラみたいに」

 千紗はそう言って、すぐにすたすたと冷蔵庫まで歩き、ドアをばたんばたんと開けたり閉じたりする。

「早く入れて、ケーキ」と言われるも、千紗は冷蔵庫のドアをばたんばたんと開閉することをやめずにいたので、僕はタイミングを計ってそれをかいくぐった。

 一秒遅れて、千紗のお腹がぐーっとキッチンに鳴り響く。

 沈黙。

 僕はつい、嘲笑に似た笑みを浮かべてしまっている。

「糞むかつく」と千紗は殴ってきた。

 その拍子に、少しだけ、乳房が身体に押し付けられる。

 これも、誘惑の作法。

 僕は、それに抗いつつ、プレゼントはもう一つあるんだと言って、細長い包みを渡した。

 千紗がそれを解くと、中からは十字架のネックレスが出て来た。現代風にアレンジが加えられたキリストの磔刑のアイコンは、彼女の首にかけられてとても誇らしげに見えた。

「ありがとう」と、千紗は僕に微笑んでくれた。


  ○


 千紗と初めて会った時のことは、はっきり覚えているけど、多分それは最初ではなくて、単にその時にようやくお互いの存在がはっきりと輪郭を描き始めただけなのだろうと思う。

 ではそれまで、千紗のことをどう見ていたのだろうかと言われるとそれは難しい問題だ。

 まずもって、学校における彼女の存在感は、その衣類であるはずのセーラー服そのものの存在感に近似している。

 それが女子高生という記号の力強さであり、ならば眼鏡をかけていてちょっと背の高い佐藤千紗という少女の個性は何なのだと言われれば、そんなものはあまり重要じゃない。記号も一つの誘惑の形式であって、女子高生という記号が存在しているなら、それを邪魔しないことが大事なんだ。

 言い換えれば、彼女は見事にそのセーラー服という記号に、自分の身体を奉仕させていた。

 さらに言い換えれば、そのことが逆に佐藤千紗という少女の個性を薄めていた。

 学校での彼女は、眼鏡をかけていてちょっと背が高く、成績は良いけれども、一方で男性からの人気は――大っぴらには存在しないことになっていた。

 性格についてはよく分からない。


 さてここままでが、当たり前に生活を送っていながら、佐藤千紗について知ることのできる二、三の事柄だ。

 それらについて知ってしまった大多数の人間は、彼女のすぐそばを通り過ぎてしまう。そして、これといって時間をかけるに値しない出来事や夢に取りつかれては、残りの退屈で無駄な人生を平らげることに忙しい。彼女に出会いさえすれば、その人生の退屈な時間がいくらか輝かしいものに変わったのかもしれないのに、と憐れんでも仕方がない。

 こんなことを口走っている自分でさえちょっと馬鹿かもしれないと思うけど、僕にとってあそこからが人生だった。「人生の無駄な時間はすべて今終わる」と誰かが書いていたように、あの時が僕の最初の記憶なんだ。胎児である時の記憶よりも強い、原初的な何か。

 あの時、

 彼女は鳥のようだった。真っ黒の羽毛コートを着て歩いてくる女性が佐藤千紗だと気づくには、少しばかり時間がかかるだろう。そう誰だって。

 冬の寒さで頬は赤く、まるで僕に恋をしているみたいに見えた。

 もちろんそれは錯覚だと、その時は思い直した。けれども、多分、こっちの赤い頬は寒さだけのせいじゃなかった。

 彼女と僕がゴミ出しをしてさえいなかったら――ゴミ袋を両脇に抱えていなかったら、多分もっと素敵な場面になっただろうにと思うけど、僕と彼女がゴミ出し以外で顔を合わせる可能性は恐らく低い。なら、素直にゴミ出しを祝福しようじゃないか。

 ゴミ出しを祝福し、ゴミ袋を祝福し、そして眼鏡を外した彼女を祝福しよう。

「越水くん?」

 というのは彼女の第一声。

「うん?」

 というのが僕の第一声。

「誰?」とは聞けなかったのか、単に相手に見蕩れて満足に口をきけなくなっていたのかは分からない。でも、佐藤千紗は親切にも「あたし、佐藤千紗」と言ってくれた。

「わかるかな?」

 千紗は目元に人差し指をあてた。

「ああ――うん、わかる」と僕は言った。

「よかった」と千紗は言った。「ほら、あたし、いつも眼鏡かけてるから」

 千紗は自分の目元にあてた人差し指をこちらに向けると、くるくると回し始めたので、僕は蜻蛉になった気分だった。それから、数秒、二人の間を白い息が漂った。白い息は街燈を受けて輝くと、すぐに寒空の暗闇に呑みこまれていった。足元に落ちた街燈の光には、羽ばたく蛾の影が重なっていた。

「――せっかくだから、どこかで喋る?」

「え?」

「ほら、普段喋らないけど、越水くんってよく本を読んでるから。――あたしも読むんだ、少し」

 僕はそのあと何か少し喋ったけど、何を言ったのかはもうよく覚えていない。

 気になるあの娘は実はズブズブの本読み、というのは人文系男子が必ず通る愚かな妄想の一つであり、千紗は深入りすることなく本と付き合う距離感を心得た、そう珍しくはない女の子の一人だった。あの夜、僕が発した言葉は恐らく千紗をドン引かせたのではないだろうか。付き合っている今になってさえ気になることの一つだ。

 それからゴミ出しの度に会うようになって、何度目かの夜に唐突にこう切り出された。

「見せたいものがあるんだ」

 その日も、千紗はあのカラスみたいな羽毛コートを着ていた。

「見せたいもの?」

「そう。だから家に来てほしいの」

 それが決定的だった。

 でも勘違いして欲しくない。僕は「家に招待される」というありきたりな誘惑に翻弄されたわけじゃない。確かに、千紗の部屋にまで行けばその羽毛コートの内側を目にすることができるかもしれないと思ってしまったことは認めよう。けれどもそれに惹かれたのは、「秘密を共有する」ことの犯罪的な魅力と、そして何よりも、隠されたもののヴェールを脱ぐことと、衣服を脱ぐことの動詞的な一致があるからだった。

 千紗の秘密を目にするために開けられるドアは、三つで十分だった。

 玄関のドア。父親の部屋のドア。そして、その部屋の机の引き出し。

 タバコの臭いがする部屋で千紗が、差し込んでくる月光のライトアップに晒したのは一握りの拳銃だった。

 当惑する僕をよそに、千紗は父親の稼業について曖昧な説明をしながら、弾倉に一つずつ弾を込めていった。それは、とても滑らかな動作だった。常習犯だけが持つことのできる、気品を備えた仕事の美しさに僕は驚いた。そうしてその逡巡のない手つきに、引き出しを漁るのが初めてではないことをはっきりと悟ったんだ。

 最後の一発を装填したあと、千紗は掌で弾倉を押し込んだ。あれは、良い音がする。

 スミス&ウェッソン オートと呼ばれたその拳銃は、僕と千紗との間で共有された秘密だった。僕はそれを気に入った。血と鉄の臭いがする秘密には、これから千紗が僕と共有しようとする時間の希少さを確かに語っていたからなのかもしれない。

「そういえば、今日は何で眼鏡を掛けていなかったの?」

 僕は訊いた。

「眼鏡を取れば、よく物が見えなくなって、何だか自分の顔も周りからよく見えなくなる気がするんだ」と千紗は言った。「別にそんなことないのにね、そうすれば自分に自信が持てるから」

 それからのことは、あまり重要じゃない。

 そう、映画で男女が出会い頭に視線を合わせたら、ジャンプカットで次の瞬間にはもう恋人同士になっているように、とにかく重要じゃないんだ。


  ○


 千紗が砂粒を手のひらから少しずつ垂らしていく。

 靴下に砂を詰めていたときの光景。正直に言えば、動作が大きくなるので、隙でも突かないと使えやしないと言いながら千紗が作っていたのはブラックジャックと呼ばれる武器だった。高身長ながら文科系女子の雰囲気を持つ千紗が、意外にも空手を習っていたことはその時に初めて聞かされた。もちろん空手をやっているからといって、部屋でブラックジャックを作成する不自然さを説明できるわけでもないような気もするけど、師匠からいつも護身具についてレクチャーされるらしい。

 僕がプール傍で見た、花壇で砂を垂らす先生の手つきが、その千紗の手つきに驚くほど似ていたので、ついその時のことを思い出していたのだった。

 先生とはあの、女性的な顔立ちをした新任の美術教師のことだった。美術教師なのに学校の花壇の世話を引き受け、ヤギの世話までしているという先生は、青白い肌をしていて、確かに女装姿が妄想されるだけの容姿をしていた。半ズボンに半袖で、どうにも凍えそうな服装だったけど、僕がそれを指摘すると彼は、ここは冷たい風が吹かないからいいのだ、と言っていた。

「ヤギは悪魔のイメージを重ねられることが多いよね」

「そうですね」

「ギリシア神話のパンのように、キリスト教が公の宗教になる前にあった宗教のイメージから来て、のちには悪魔崇拝のアイコンにもなったって言われてる。……美術教師っていう仕事のせいか、ヤギにはそういう邪悪なイメージを連想しがちだけど、実際に育ててみるとやっぱり動物は動物でね」

「まあ、イメージと現実は違いますからね」と僕は言った。「あと、紙を食べるんでしたっけ?」

「食べさせちゃだめだよ。現代の紙は食えないからね」

 先生は、そう言いながら暗がりに移っていった。顔に影が掛かって、青白い手足だけが胴体と離れて作業している奇妙な光景を僕は目にする。白い陶器のような肌は、肉とは別の素材で出来ていそうで、ナイフを差し入れたらきっと柔らかに、ぷつんという音がするくらい瑞々しくバラバラになるだろうなと思った。

 どんな学校にも中庭くらい一つはあるだろうけど、ここの中庭はなぜか視界を遮るものが多く、すごく奥まった印象を覚える。もちろん「中庭」と呼ぶくらいなのだから、二面を建物と接しているのが普通なのだろうけど、それにしたって植物を育てる場所がこんなに奥まっていていいのだろうか。太陽の光はちゃんと届くのだろうか。今は冬だから殺風景だけど、太陽が燦々と輝く夏には、つる植物を成長させるためのアーチに葉っぱが生い茂るのだろう。そうすれば、多分、視界はかなり悪くなるはずだ。

「ここは、落ち着くでしょう」

 僕の心のモノローグを見透かしたように、先生が言った。

 視界が不鮮明になって、ぼやけてしまえば、誰だって顔が見えにくくなる。僕は、千紗が「眼鏡を取れば自分に自信が持てる」と言っていたことの意味が分かった。

 外からの視線が阻まれることで、誰かの視線を気にすることなく時間を過ごすことが出来るし、こうしてお喋りすることも出来る。

 自分の目から外の景色が見えにくくなることと、外から自分が見えにくくことは必ずしも同じことじゃないし、千紗の場合に至っては完全に錯覚だとも思うけど、視線が気にならなくなることは自体はとても、心地がよかった。

 僕はそこでようやく、視線と心地よさが関連する理由を理解する。

 視線が侵入してこない場所では、誰かを誘惑する必要がないからだ。誰かの目に好ましく映る必要がないからだ。自分の与り知らない場所で、自分の容姿に順番をつけられることがないからだ。視界の不鮮明な中庭にあって、先生の青白い手だけが、僕の近くまでやってきて、僕に何かを囁いてくれる。


  ○


 ヤギの血まみれの首が二階のトイレで発見されたのは、季節の変わり目の豪雨が降りやんだ金曜日のことだった。


  ○ 


 あたしが異常に気がついたのは、祐樹が学校に来なくなった火曜日のこと。

 控えめながらメールを送ったあたしは、夜に一人部屋で宿題をする深夜の十一時になっても、祐樹からの返信が届かないことに苛立っていた。

 あたしが、その異常――それが異常であることをはっきりと自覚したのは、水曜日のこと。

 季節の変わり目に風邪を引いたという祐樹のお見舞いをしようとしたのに、すげなく断られ、家に入らせてもらえなかった水曜日のことだ。

 最初はあたしのパパの仕事のせいかと思ったけど、そんなことを知っている人なんてそんなにいないし、祐樹のパパやママがそれを知っているはずがないってことにすぐ気がついた。あの人たちは警察関係でも弁護士でもないから。

 だからその日は仕方なく帰って、また翌日の木曜日にあたしは学校へと通った。いつもみたいに。

 季節の変わり目の風邪にかかった生徒は増えていって、天気は悪くなるばかりだったことを覚えている。

 点呼を待つ教室には空席が虫食いのように目立って、窓ガラスは降りつける雨に濡れていた。びしょびしょに濡れた生徒が歩いたあとのリノリウムの廊下は、深夜のプールみたいに光っていた。あたしはそこを、一人で歩いた。冷たい空気が学校のそこかしこに入り込んでいて、ソックスに包まれた脚だって鳥肌が立つくらい寒かった。ソックスを脱いだあとが、赤くなっていた。こんなにかわいそうに凍える、あたしの脚。

「今日も来てないんだ、祐樹くん」

 教室の隅でそういう言葉が聞こえてくる。それに、ひひひーと引き気味に笑う友田の声が被さってきて、あたしはまた今日も彼が来ていないことを知るわけだ。

 祐樹がいなくなってから、あたしが噂の新任教師に出会ったのは、木曜日のこと。

 宿題を課されていた生徒たちは、映画を題材にした絵画の作成に取り掛かっていた。題材にする映画はもう決めていて、あたしは『素直な悪女』に出てくるブリジット・バルドーを書くつもりだった。友達には、あたかもそれが教科書の中でたまたま気に入ったものを選んでみたものなんだという風に話した。よくは知らないけど、素敵だから選んでみましたという体で。なんといっても、それがあたしの政治的ふるまいだから。

 ムルナウの『ノスフェラトゥ』を選んだ人がいることにはびっくりした。その男子生徒は、自分が鼻持ちならない映画マニアであることを隠そうともしなかったけど、本当に映画マニアと言えるだけ映画に執着しているのかどうかはイマイチ分からないし、興味もなかった。

 先生はヒッチコックの『裏窓』を選んでいて、もうさっさと描き始めていたカンバスを後ろから覗いたら、外からの視線に無防備な窓々に、覗かれた人々の私生活がエロチックに並んでいる絵が見えた。

 ブラジャーをなくした、セクシーな女性。新婚の夫婦の濃厚なキス。ピアノを前にして、何やら苦悶の表情を見せている作曲家。

 マンションに囲われた内側の空間には、死んだ犬が埋められているんだっけと記憶を辿ったり、あそこを中庭と言うんだろうかとどうでもいいことを考えもした。

「どうかしました?」

 あたしの視線に気づいて、先生がこちらに振り向いた。

「……いえ、作業中にすみません。ただあたし、この『裏窓』って映画を観たことがあって、この中庭には死んだ犬が埋められていたんだっけとか、そういうことを思い出したんです」

 変なことを聞いてしまったことをすぐに後悔したけど、先生はいたって真面目に取り合ってくれた。

「なるほど。確かに、犬は作品の途中で埋められますね……実は私は、この絵が時系列的に映画のどこの場面に当たるのかはまだ決めていなくて、この中庭に犬が埋められているかどうかはちょっとまだ分かりませんね」先生は微笑んだ。「佐藤さん、あなたはどちらが良いと思います?」

 逆質問に、あたしはちょっと動揺した。

「もう血は流されたと思いますか?」

 先生は、赤色の絵の具をかき混ぜながら、あたしの反応を待っている。

「そうですね……映画のことはあまり思い出せなくて、例えばこの女性がブラジャーをなくした時には、もう犬は死んでいたか……とか、作曲家が新曲を完成させる前に犬は死んでいたかどうか……とか、そういうことはちょっと覚えていないんですけど……まだ血は流されていないんじゃないかな、と思います」

「へえ」

「特に理由はないですけど」

「私は、もう血は流されたと思いますけどねえ」

 そう言って、赤色の絵の具を、中庭のある場所に塗りたくり始めた。明らかに変な彩色だった。

「先生は、ヒッチコックがお好きなんですか」

 あたしは話題を変えることにした。

「ふむ」と先生は少し考え込むようだった。「特別好きと言えるかは微妙です……。一般にヒッチコック好きと言われる人たちに比べれば、私は到底ヒッチコック好きとは言えないでしょう。そもそも特定の作家を好きになるタイプの人間じゃないんですよね。どちらかと言えば、ドライヤーやキートンの映画を見ながら、ヒッチコックがいかにしてヒッチコックになったのか、とかそういう映画の歴史について考えるのが好きです。だから美術教師になったんでしょうしね」

 先生は笑った。美しい微笑みだった。その美しさはまだ十代の少年にもあるし、死を間近にしたお爺さんにもある美しさだと思った。

「佐藤さんの方こそ、ヒッチコックの『裏窓』を見たことがあるなんて最近の生徒さんにしては珍しい……。映画はお好きなんですか?」

 そう訊かれて、あたしは意味ありげに『分かりません』というジェスチャーをした。

「なるほど」と先生は、あたしの政治的態度をすべて見透かしたかのように言った。

 古い昔の映画を見たことがあることが、普通の女子高生の人間関係の間でどんな影響をもたらすのかどうかを、心得ていますといったあたしのやり方を。

 そうして先生は自分の絵に戻ると、振り返りもせずにこう言ったことを覚えている。

「佐藤さんは、眼鏡を外した方が可愛らしいと思いますよ」


  ○


 ヤギの内臓がプールにばら撒かれているのが発見されて、ピンク色の液体をてらてらと光らせていたのも、金曜日のことだった。


  ○


 軽薄そうな顔をした黒川があたしの身体に目を向けていることは、すぐに分かった。ちらちらと下がる視線を、あたしに見られているとは気づいていない馬鹿な窃視者は多分、自分が優位に立っているとでも勘違いしているんだろう。あたしに誘惑されていることも知らないで。

 あたしは先生の言葉に触発されて、眼鏡を外してコンタクトに付け替え、意図的に自分の外見を利用しているところだった。それもこれも、祐樹の身に降りかかった何かを知るためだった。

 祐樹が姿を見せなくなってから二日後の木曜日の放課後。美術の時間に先生と会話したあと、あたしはいつものようにテニス部の練習を覗き見ようとしたらしい黒川と友田に話しかけていた。ちなみに、テニス部の練習は大雨で中止になった。

「プリント渡せって先生に頼まれたんだけど、あそこのお母さんがあたしのことを入れてくれないんだよね」

 こんなことのために、あたしと祐樹の秘密の交際をバラすのは馬鹿らしかったので、そういう嘘を吐いた。

「じゃあ、おれが代わりに渡しに行っておいてやるよ」と黒川は言った。

 使えない男だ。

 あたしが頼みたいのはそういうことじゃない。

「じゃなくて、祐樹くんがどうなっているのか、一番仲の良かった黒川くんや友田くんは聞いてないかってことを知りたいの。同級生を入れないなんて、絶対ヘンでしょ?」

 あたしがそこまでまくし立てたことに黒川は驚いているようだったけど、長い染めた髪の先を弄りながら、あたしのことを見るのは忘れなかった。

「……いや、おれは何も聞いてないけど」と黒川は言った。

 お前も聞いてないよな、と友田に話しかけると、友田はどもりながらそれを肯定した。

 とんだ無駄足だったというわけだ。

 二人と別れたあと、あたしは下駄箱に向かった。

 永遠に続くかと思うような雨音がひたすらに憂鬱で、どの教室を覗いてもすっかり椅子が逆さまになって机の上に鎮座ましましていた。掃除も終わり、校内では屋内練習を繰り広げている陸上部だの野球部だのが階段を上り下りしていた。サッカー部さえも練習を休んでいる大雨でも、何故か彼らは屋内を使ってまで練習をする。

 時折、雨音の隙間から吹奏楽部の演奏が零れ落ちてきた。

「越水祐樹はもう、学校には来ないよ」

 突然、背後から声がした。

 ゾッとして振り向くと、そこにはさっきまで一緒にいた友田がいた。チビなのに輪をかけて、猫背でさらに小さくなっている姿が、廊下にぽつんと立っている。外の光を受けて影になった友田は、童話に出てくる小人のシルエットのようにも見えた。

「あんた一人……? 黒川は?」

 問いただすべきなのはそんなことじゃないはずなのに、あたしの口からはそういう言葉しか出てこない。

 ひひひー、と友田は笑った。

 それを聞きながらあたしは、友田はこんな笑い方をするような奴だったろうかと考えていた。こんな笑い方をするのは、いつからだったろうか。

 友田の口は不自然なくらい大きく広げられている。その口で、友田は喋り始める。

 ネズミのような前歯が見えた。

「越水はご主人様に魅入られた」と友田は言った。

 水道管の音がした。

「ご主人様にすっかり飲み干された」

 尽きそうにない雨水を飲んでいるのだ。

 あたしはまともな受け答えを返せず、その場を走り去った。下駄箱で一息に靴を履いて、そのまま雨の降る通学路を走り始めた。重々しい水が身体を濡らして、雨音に耳が包まれる。何かの悪態をつきながら、後ろを振り向くと、蛍光灯が点滅する廊下で友田があの大きな口を開けて笑っているのが見えた。

 そして最後の言葉が、確かに、耳元で話されているかのように聞こえた。

「もうすぐご主人様がお前のところにやって来る」


  ○


 ヤギの首輪だけが、中庭に残されているのが確認されたのも、金曜日のことだった。


  ○


「ええと、担任の太田先生はご病気でお休みになられているので、今日は代わりに副担任の私がホームルームを進行します」

 美術教師の声が響く金曜日の朝になって、雨はようやく降りやんだ。それでもまだ、空襲の跡のようなクレーター群に水溜りが点々と散らばっていて、豪雨の爪痕はしばらく消えそうには見えない。水溜りは風に水面を揺らすと、その中に何かが沈められているかのように、小さな悲鳴のような音を吐き出すのだった。

 そんな音と一緒に、声を潜めた会話のざわめきが教室に木霊していた。

 席の虫食いはさらに悪化して、先生の点呼への返事もまばらで、ざわめきの中で時折、生存報告のような声があがるだけだった。友田は姿を消していたが、噂話に耳をそばだてたところ、おかしな言動を繰り返していたために保健室に連れて行かれているそうだった。あたしは心の底からホッとした自分に気がついて、情けない気持ちになった。

 惨状とは真逆に、非日常に興奮する身体のそわそわした動きをやめられない生徒たちは、悪戯半分に白い切花の入った花瓶を両手で持って運び、休んだ生徒の机の上に備えていく儀式を執り行っていた。

 死者への弔い。

 死者ではない者を、死者だとみなしてしまう悪戯の間、黒い制服をまとった生徒たちは葬列に参加する喪服の群れのように見えた。そうすると花瓶を運ぶ手つきは、棺桶を運ぶ手つきに似ているのかもしれない。

「もうすぐ学級閉鎖になる」と木曜日に騒いでいた、ひときわうるさい女子のグループが、金曜日には揃って姿を見せなくなった光景を眺めながらあたしは、何かの映画を思い出していた。最後の晩餐を楽しもう、と長いテーブルを囲んでどんちゃん騒ぎをしていた集団が、次の瞬間には姿を消して、代わりにネズミの群れが食事を食い散らかしている場面の出てくる映画だ。なんて名前だったのかは忘れた。

 その日も美術の時間があって、あたしはまたブリジット・バルドーに向かい合って筆を動かしていていた。

 それに飽きると、また先生の描く『裏窓』を後ろから覗きに行った。下手な自分の筆先から結び出されるブリジット・バルドーを睨んでいるよりも、先生の筆先が生む人々の私生活の様子を眺める方が、よっぽど楽しい。

「また覗き見ですか、佐藤さん」

 先生は後ろを振り返りもせずに言う。

「ええ、先生のは上手いですから」

「佐藤さんのは上手くありませんか?」

「はい」

 そう言うと、先生は困ったように笑う。しばらく笑うと、昨日した会話は覚えているかと言ってきた。

 覚えていますよ、と返したあたしに向かって先生は、また同じ問いを繰り返してきた。ちょっと意味の分からなかったあたしはそれを質問したけど、大したことじゃないと先生は言った。

「考え直すかと思ったんですよね。なんというか、まだ遅すぎるということはないのだと、私は思うんです」先生は絵に彩色をしながら言葉を続けた。「まだ血は流されていないと思うか、もう血は流されたと考えるか」

「何を言っているんですか」と言ったあたしの言葉を遮るように、先生は身体の位置をずらした。

 すると、先生の背中が邪魔になって見えなかったその絵のある場所が見えた。

 それは、犬が埋まっているかどうかという話をしたあの中庭だった。そこにあるものを見て、あたしは巨大な鉄の腕に、身体全身を押さえつけられたようになった。

 強烈な吐き気と一緒に頭にのぼってきたその真っ白な激情は、あたしが普段「怒り」と名付けているものとしては、理不尽なくらい巨大だった。そして、巨大な鉄の腕に押さえつけられているような感覚に襲われているのは、理性が怒りを必死に抑えようとしているせいだと気がついた。

 そこには、血まみれになって倒れている、祐樹の姿が描かれていた。

 青白い裸姿の祐樹は、首筋にあいた二つの小さな穴から血を流していて、顔は蒼白で、眼は生気を失っているようにどこか中空を見つめている。その周囲に、人より大きなネズミたちがのしかかって、セックスの真似事をしていた。巨大な性器から、それが雄だと分かるネズミたちはみなぶくぶくと醜く太っていた。

 あたしは先生の筆を手で弾き飛ばした。

 かちん、と小気味いい音をたてて、それは窓ガラスにぶつかった。

「早退します」

 それだけ言い残すと、あたしはすぐにその場を去った。どうしたの、と心配そうに声をかける同級生を無視してあたしは職員室に向かった。

「祐樹くんにはちゃんとプリントを持って行ってね」

 そう言う先生の声が後ろから追いかけてきた。あたしは階段を駆け下りて、給食を運ぶエプロン姿の生徒に、危ないな、気をつけろ! と怒鳴られるのも無視して、職員室のドアを開けた。早退したいんですけど、先生から宿題のプリントを祐樹くんに渡さなきゃいけないんです、とだけ言うと、つかつかとあの新任の美術教師の机を漁り始める。あまり状況を把握していない、高齢の女性数学教師の言葉を適当に受け流しながら、あたしはプリントを探し、見つけた。その際に、その美術教師宛ての郵便物を一つ抜き取ると、誰にも気づかれずにその場から去った。

 そうして下駄箱まで廊下を走って帰ろうとしたところで、トイレの方から悲鳴があがった。

 つい目を向けた先で、あたしはまた身体を硬直させる。その金属がひしゃげるような悲鳴は、とんでもなく長く続いて、あたしはその間中ずっとそのトイレの中にあるものを凝視し続けることになった。

 ヤギの首。

 赤黒い血がタイルの隙間に流れていき、河の洪水のようにトイレの床という床を侵食し、領土を拡大している。切断されたヤギの首は、流れ落ちる血の海を悲しそうにでもなく、嬉しそうにでもなく見つめていた。瞳の奥には暗闇が光っていて、血に濡れたトイレのタイルも光っている。青とも緑ともつかない不思議に艶やかな色彩は、真夜中に見るプールの水面に似ていると、あたしは思った。

 入口で固まった女子生徒は、ハサミを手にしていて、ただひたすらにあたしじゃない、あたしじゃないと叫んでいたけれども、その返り血もついていなければ、紙を切るためにしか使えないような貧弱なハサミにヤギの首が切断できるはずがないことくらい、誰にだって分かっていた。


  ○


 友田が保健室から姿を消したのも、金曜日のことだった。


  ○


 三度目のチャイムを押すころにはもう、越水家の灰色の一軒家の玄関が開きっぱなしだということには、気がついていた。

 あたしは、いつものようにあの小太りの越水ママに追い返されることを想像していたけど、そうではなかった。ゆっくりと開いたドアの奥からは、何もかもが腐ってしまったような臭いと、明らかな血の臭いが漂ってきた。

 意を決して踏み込むと、真っ暗な室内に、ただ扇風機が空転している音だけが聞こえてくる。今は冬だ。

 夕方五時でも既に日差しはなく、室内はひたすら暗く、しばらくすると獣のうめき声のようなものも聞こえてくる。あたしはゆっくりと、護身用のペンライトを学校鞄から取り出すと、それを口に咥え、どうか音を立てないでと祈りながら階段を上る。青白い光は廊下の壁を幽霊のように浮かび上がらせ、あたしはそうやって浮かび上がった壁にさえ少し怯えながら進んだ。階段とは違ってぎちぎちと鳴る廊下を呪い、突き当りにある部屋を目指した。

 そこには祐樹がいるはずだった。

 だからあたしはドアを開けた。


  ○


 廃人になった祐樹を見たのも、金曜日のことだった。


  ○


 祐樹の両親は、獣のようになって冷蔵庫を漁りながら、呻き声のようなものをあげていた。それが呻き声ではなく、意味を解さない言語のようなものであることに気がついたのはしばらくしてからのことだった。獣のように四足で歩行しながらも、延々と彼らは会話を続けていたのだ。全く見知らぬ言語で。


  ○


 廃人になった祐樹もまた、その言語のようなものを発していた。

 こちらに向かって何か意味の分からない呻きのようなものを発していた。それが、廃人になってもあたしに話しかけようとしてる健気な仕草に見えて、あたしの頬に涙が伝った。と同時に、頭が真っ白になるほどの怒りがあたしを支配した。自分でも出所の知れない感情に戸惑いながらも、祐樹に近づいた。

 首筋に見えた二つの穴を見つめながら、気を失うほどの怒気を押さえつけて、あたしは祐樹に口づけをした。

 それが二人の、初めての口づけだった。


  ○


 その時に彼の舌を、血が出るくらいまで噛んでやった。


  ○


 誘惑の作法というものがあって、高校生のあたしはすっかりそれを身に着けたつもりだった。

 身に着けたつもりでも、それに命をかけたことがなかったのは、やっぱりあたしが若いからで、それだけ未熟だという証拠なのだろう。だからその日のあたしは人並みに不安だった。不安だったけれども、不安を怒りが上回っていたんだと思う。セブンティーンの怒りをあまり見くびらない方がいい。その日盗んできた、先生宛ての郵便物に書かれた住所までの行き方を調べたあたしは、殴り込みのための準備を着々と進めている。吸血鬼退治に必要な道具は大昔から決まっている。

 そして父親がずっと出張していることをいいことに、あたしは自分で持っていた銀細工のアクセサリーをバーナーで溶かして弾丸にヴェールを被せてあげた。吸血鬼は銀を苦手とするとネットに書いてあったので、それを参考にしてみた。仮に銀が効かないとしても、銃弾を撃たれて死なないことがあるだろうかと頭では考えていても、なぜだか手は作業を止めることがなかった。吸血鬼の存在に半信半疑でも、沸き上る不安の感情が偽物であるわけじゃなかった。何よりも、祐樹は実際にああなってしまった。

 ヴェールを被せられた弾丸は全部で七発。七発のうちに勝負を決めなければいけない。

 その日の夕方から、一度止んだはずの激しい雨が、また窓ガラスを叩き始めていた。

 いつものように、ママと二人でとった夕食は、最後の晩餐というにはあまりにも簡素だった。それから、ゴールデンタイムのテレビ番組が始まるよりも早く、あたしはママに「おやすみ」と言った。いつもよりずっと早い就寝にもママはあまり驚いたそぶりを見せなかったし、何も言わなかったけど、それはあたしの放つ、張りつめたような空気に何か感じることがあったからなのかもしれなかった。

 そうしてあたしが深夜三時に起きたとき、まだママはキッチンの横の食事テーブルに一人腰かけて、タバコを吸っていた。間接照明しかない暗がりで、ただ「眠れなかったの」とだけ言ってあたしに話しかけてきた。ママは少し怯えているようにも見えた。多分、あたしがこれからやろうとしていることなんて、想像も出来ていないんじゃないだろうかと思った。

 その夜、あたしはママと、これまでの一生で最も多くのことについて話した。祐樹のことと、父親の拳銃のことと、これからやろうとしていることについては何も触れず、ただそれ以外のすべてのことについて話した。すっかり話し終えて、ママは安心したのか、そのまま居間に移るとソファに寝転がって寝息を立て始めた。

 それを見届けたあたしは荷物を学校鞄に詰める。

 拳銃、催涙スプレー、ペンライト、キャンプ用の懐中電灯。

 玄関口で、鏡に向かって髪をかきあげて、首元に祐樹から貰った十字架のネックレスがあることを確認する。鈍い光を反射して、それはあたしの鎖骨の間で誇らしく輝いているように見えた。しばらくしてから、あたしは玄関を出た。


  ○


 レインコートを着ていても、髪は濡れ、ぐちゃぐちゃに乱れたし、雨音で自分の呼吸さえ聞こえなかった。

 それくらい、雨は激しく夜に降り注いでいた。

 自転車から降りると、美術教師の家を見上げた。

 大きな庭を持ったその豪邸の全貌は、塀に阻まれて見えない。それにしたって、一介の美術教師がこれほどの豪邸持つには、一体どれほど悪いことをすればいいのか。庭に林を持つくらいの豪邸につい、その持ち主の犯罪的な人生を想像しながら、塀の凸凹に手と足をかける。

 刑務所のような塀を上りながら、あたしは最近流行の防犯システムがそこにないことを期待した。ぬるぬるとしたレインコートの不快感と戦いながら、塀の一番上まで上り詰める。そこから見た豪邸の姿は、窓ガラスで出来た壁のようだった。一階はすべてが外から室内が見えるようになっていて、これでは確かに外の視線を遮る、背の高い林と塀が必要だと思った。日の光が燦々と降り注ぐ夏にはきっとすごく暑いのだろう。それでも、林と塀のおかげで、視線がそこに侵入してくることはない。

 吸血鬼が、こんな開放的な建築物に住んでいていいのだろうか。

 そう思いながら塀のてっぺんから落ちると、草葉と土の上に着地して、するすると木々の隙間を小走りに駆けて行った。

 すぐに、一面の窓ガラス越しに、動く三人の人影が見えた。

 二人は間違いなく、先生と友田だ。

 もう一人は分からない。

 顔の知らない人間だったというわけじゃない。身体の凹凸で、女だということは分かった。けれども、全身を黒いビニール製の拘束具で覆われていたから、顔すら見ることができなかった。口にはギャグボールが詰め込まれ、そこかしこにチャックが付いているその拘束具に、あたしは『イルマ・ヴェップ』という映画のパッケージを思い出した。

 俗悪なスナッフフィルムのような光景。

 大きな窓ガラス越しで、まるで水槽で飼われている熱帯魚のようにも見える。

 ヤギの首が脳裡にフラッシュバックするのを払いのけると、拳銃で狙いをつけようとした。スミス&ウェッソン オートを構え、凸型の照星フロントサイトが凹型の照門リアサイトの間に来るようにする。でも、拘束具の女を放置したまま動き回る先生と友田を狙うには、距離が遠すぎたし、あたしの腕も未熟過ぎた。十七歳の細腕は、拳銃の重さに耐えかねて、ふるふると震えていた。

 だから、あたしは近づく。一歩一歩、濡れた草葉と土くれを踏みながら。

 先生は、部屋の右側でうろうろとしながら、ウイスキーを飲んでいた。グラスを傾けて口に含ませるその横顔をまともに見た。

 思えば、この人の顔をじっくりと見たのは、それが初めてだったような気がする。女性らしいと言われるやや爬虫類気味の顔は、確かに女性らしい艶めかしさを備えていたけど、それでもやっぱり頬骨の出た顔は男の特徴を幾つも備えていると思った。

 口元から目元へと視線をゆっくりと上昇させて、その目をじっと見つめる。瞼が目の半分を覆う、眠そうな瞳をしていた。オールバックの髪の毛は少し乱れていて、その目にかかっている。ああ、でもやっぱり、あの宝石のような瞳を取り出して口に含んだら素敵だろうな、と思う。口の中で噛み砕いた眼球は芳香な香りと味を持っていてきっと美味しいはずだ。こちらをじっと見つめる動物的な目は、少し緑がかっていて、とても……。

 とても?

 とても痛い。

 投げられた椅子が、逆さまのまま巨大な窓ガラスを突き破っていた。その拍子にはじけ飛んだガラスの破片が、近づき過ぎていたあたしの身体にいくつも突き刺さっていた。

 大量の鳥が一斉に叫んだような絶叫が耳を覆い、黒い影があたしの視界を覆った。その暗闇の中から、二本の光る牙が現れてあたしに近づいて来る。とても美しい牙だった。蛇のように、ネズミのように、夜の短剣のように。

 絶叫はまだ耳の奥の方で鳴り響いていたから、あたしはあの美しい二本の牙を迎えるために、髪をかきあげて彼を誘った。

 誘った。

 突然、雨が地面を叩き付ける音が回復し、視界は曇りガラスが晴れるように吸血鬼の顔を捉えなおしていた。彼は絶叫していた。あの耳に張り付いた悲鳴はこの吸血鬼の悲鳴だったのだ。あたしが誘うように見せた首元には、あの祐樹から貰った十字架が銀色に光っていて、それを凝視した吸血鬼はその目を焼かれたのだ。

 拳銃を握る手が怒りに震え、引き金を絞ると目の前で銃口炎がほとばしる。

 同時に、強烈な痛みが手首を襲い、拳銃を取り落とした。獣のような声が幾つもするけど、どれが自分の悲鳴なのかが分からない。分からないまま、脱臼した右手首を押さえてふらふらと左手で拳銃を探す。

 目の前では、吸血鬼が肩を飴細工のように溶かしながらのた打ち回っている。広がっていく肩口の傷は突然発火し始め、土砂降りの中で一面の窓ガラスに揺れながら反射させていた。

 早く次を撃たなきゃと焦るけど、あたしの左手はどこにも拳銃を見つけられないでいた。

 燃え盛る炎を飛び越えて、何かが飛びかかってきた。

 あたしはそれに突き飛ばされると地面を転がり、自分の身体の重みで突き刺さったガラス片に悲鳴をあげ、下敷きになった右手首の痛みに絶叫した。悲鳴をあげながら、学校鞄から懐中電灯を左手で掴み出す。キャンプに使う巨大な懐中電灯は重い。振りかぶると、もう一度目の前に飛んで来る影をそれで殴りつける。

 動きの止まった影の正体は、友田だった。

 もう一度懐中電灯を振りかぶると、鼻っ柱にイーストウッドばりの懐中電灯パンチを浴びせる。

 棒のようにぶっ倒れた友田は、地面で痙攣していてかなりヤバそうだったけど、あたしは構わず進んで、拳銃を拾いに行った。

 そこには、しきりに燃え続ける吸血鬼の右腕と、騒音を奏で続ける豪雨の他には何もなく、ただ窓ガラスが鏡のように炎を反射しているばかりだった。

 吸血鬼の姿はない。

 あたしはレインコートを着たまま、拳銃以外のすべてを学校鞄に詰め、その拳銃を左手一本で構えると、割れたガラスから室内に踏み込んだ。踏み込むと、雨音に少しヴェールが被さったようになった気がした。黒い拘束具をした女も不思議と消えていた。

 雷鳴が瞬く間を除けば真っ暗なので、あたしはペンライトを口に含む。ペンライトを床に向けると、白いリノリウムの床にべっとりと血の跡がついていた。何かを引き摺ったようなその血の跡を追って、あたしはゆっくりと歩みを強める。ぴちゃぴちゃと言う足音で多分、こちらの場所は分かるだろうし、一発撃っただけで右手は脱臼したままだ。不思議と痛みは感じない。興奮と怒りが、痛みが意識下に上る前にシャットアウトしているのかもしれない。

 風呂場までいって、血のあとが途切れているのが分かった。水で血を洗い流したらしい。

 これで手掛かりを失ってしまった。

 そしてそのあと、あたしは無限とも言えるほどの時間、暗闇での探り合いを繰り広げては発狂しそうになりつつも耐えた。

 絶えずあの、獣の呻き声のような言葉が聞こえ、どこからか狙われている予感に怯えながらただひたすら歩き続けた。青白いペンライトの光が浮かび上がらせる真っ白な壁は、精神への働きかけを暗示するようにあたしの脳内をフラッシュバックさせ、何度も何度も、トイレの床を転がるヤギの血まみれの首のイメージが混入してきた。

 耐え切れずにあたしは言葉を口にする。

「あんた、何のつもりなわけ?」

 返事は帰って来ない。

「どうして祐樹をあんな風にしたの?」

 引き気味の笑い声が聞こえた。

 かつん、かつんと歩く足音が一緒に聞こえてくるけど、おかしなことにそれは天井から聞こえてきた。

「吸血鬼が人を襲うのに理由がいるかい」

 その声はちっとも笑っていなかった。

「食事のために? だとしたらあんた、猟場の保持に随分無頓着ね」

 喋りながら、自分でも不毛なことをしている自覚があった。この機会を、何か別のことに活かすべきだ。

「的を得た指摘かもしれない……でも僕たちの種族はもう、それほど数はいないんだ。だからここを荒らしたら、また別のどこかへ旅立つつもりさ。今度はそうだね、香港にでも行こうかな」

「孤独なのね……」

 口に咥えたペンライトを、脱臼した右手でかろうじて掴むことができた。足音が聞こえる天井にそれをむける。

「孤独さ……。孤独だからこうやって時々は、」

 光がそこを照らし出した。

 しかしそこには真っ白壁があるだけだった。声は、足音は、何もないところから聞こえてきていた。

 その何もない白さが、あたしの目を覆う。それはイメージを伝える。燃える腕、その揺らめきを反射する窓ガラス、窓ガラスが砕けて、暗闇が訪れる、その暗闇から光る二本の牙が、銃口炎と絶叫、廃人になった祐樹、それを犯し続けるネズミ、犬の埋まった中庭、ヒッチコック、瞳のクローズアップ、そこに映るあたし。

 ペンライトの映しだす豪邸の抽象的な室内装飾は、ロールシャッハテストのようにあたしの連想を刺激する。

 いもしないものを目に映しつづけながら、祐樹とのキスをした瞬間を懸命に脳裡に繋ぎ止めようとしていた。そして彼の舌を、血が出るくらいに噛んでやった感触を。頭が真っ白になるほどの怒りを。イメージの荒野を放浪するあたしにとって、それが目印になってくれるように。

 脱臼した右手を強引に添えて、拳銃を強く握りなおすと、その激痛が現実に留まる理由になってくれる。

 だから、あたしは撃てた。

 ペンライトの視界に飛び込んで来た黒い物体に遅れず、引き金を絞ると、また手首に強烈な痛みと銃口炎の熱が走る。あたしの目は発砲の瞬間に、見えなくなる。

 でも銀色の光の中で、穴から赤黒い液体を吹き出したそれは、あの拘束具を着た女だった。

 あたしはそれを撃ったせいで、また銃を取り落とす。あああ、と嗚咽を洩らすと、噛み砕きそうになるくらいペンライトを噛んだけど、あえなくそれはどこかに消し飛んだ。強烈な力に押されて、あたしは天井まで飛ばされた。頭部を強打したかと思ったら、もう床に落ちていて、落ちるまでの数瞬の無重力はカットされたみたいだった。

 何か温かい水が頭から流れていて、それが目に入って来る。

 ひゅーひゅーと風を切る呼吸音がして、それが吸血鬼のものだということがはっきりと分かる。すぐ上、自分のうずくまっているすぐそばにその口があることが分かるくらい、呼吸音は耳音で聞こえる。吸血鬼は、あたしをうつ伏せにしたまま、ネックレスを引きちぎると、そのままあたしの身体を手で掴んだ。

 あたしは、自分の身体の下に拳銃があることを感触で知ることができた。そして、激痛を怒りで抑え込んだまま、両手でそれを握り締めると、そのままどこかへと投げ飛ばされた。ソファにぶつかり、跳ねるとガラスにぶつかったあたしは、数回の意識のブラックアウトのあと、すぐに起き上がると、拳銃を構えた。

 雷鳴が轟くと、視界が揺れ、部屋を覆い尽くしていた暗闇がすべて取り払われる。

 あらゆるものが憤怒のあとにやってくる。そういう一秒だった。一秒の間、スミス&ウェッソン オートは弾を吐き出し続け、雨音と雷がその爆音を掻き消した。

 そしてあとには、ただひたすら燃え続ける吸血鬼の死体が、リノリウムの床を溶かしているだけ。それだけが残る。

 割れた窓ガラスから足を出せば、雨も雷も雲もどこかへ散り散りになって、あとはただ茫漠たる青空と朝日がガラスを突き抜けてこの吸血鬼の豪邸という豪邸を浄化し尽くすのみで、あたしはもう完全に、最高に、究極に、あの真っ白な怒りを忘れ、短い人生のどの瞬間よりも穏やかで静寂な心の海に浮かんでいた。

 土曜日が終わって、日曜日がやってきた。

 日曜日の朝だ。


  ○


 すべてが終わってみると、すべては怪奇映画のようでもあり、ヤクザ映画のようでもあった。

 結局、あの吸血鬼はあたしの誘惑の作法に踏み入れて、眼を焼かれてしまったことがいけなかったんだろう。ヒッチコックの『裏窓』のように、人は誘い、誘われ、見ていると思ったら見られていて、酷い時は光に眼を焼かれる。もっともそういうことを言ってもあの美術教師は「ヒッチコックの『裏窓』ってそういう話だっけ?」等と揚げ足取りを始めるだろうけど。

 季節の変わり目の風邪にやられていた生徒たちは、また学校に登校し始め、新しいヤギもやって来たと聞くけど、美術教師の行く末は伝えられなかった。

 あたしと言えば、脱臼を直すために病院に通っていた。すると何度目かの通院で、同じように祐樹が治療を受けているのを見つけた。あまりにも嬉しくて、一瞬自分の目を疑ったけど、やっぱりそれはどこから見てもあの祐樹だった。本当に、彼氏だとか彼女だとか呼び合わないけれども、君が好きだと言えたらいいなと思って、お見舞いに行った。

 初めてのキスをあんな風に通ってしまったカップルはどうなってしまうのか。そんなことを心配しつつも、あたしは祐樹のベッドの横に座っている。肌寒い冬の空気さえも心地よい空間の中で、両手に巻いた包帯を恨めしく眺めているところだ。

 ひとしきり睨みつけると、カーテン越しに吹いてきた冬の風に背筋をぞくっとさせられて、あたしはつい背伸びをしてしまう。

 背伸びをしたところで、祐樹の顔が目に入った。

 彼の顔は、廃人になっていた頃からすっかり回復して、健康そのものだった。首筋の二つの穴は一生残る傷らしいけど、あたしは気にしない。その代わり、何だか見ないうちに色っぽく成長したその顔を見つめて、つい口づけをしようという邪気が湧いてしまい、すっと顔を近づけた。

 これも、誘惑の作法。

 とても気持ちのいい、身体の接触。

 ああ、とても気持ちがいい。そう思って、あたしは首筋から延々と血を吸われることに満足して、その場でたっぷりと恍惚に浸ってから暗闇に呑みこまれた。


  ○


 誘惑の作法というものがあって、高校生の僕らはそれを必死に学ぼうとしていた。

 僕は千紗を初めて誘惑することができて、今、とても満足している。とても。

 そうして、ゆっくりと過ごす日曜日の朝だ。

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