嗚咽

 喉元の手が緩んだ。私は咳き込みながら床に座り込む。森ちゃんは呆然と私を見ていた。


 酸欠のように口をぱくぱくと開いて、森ちゃんはよろめくように体を揺らした。


「な……にを」


 私は胸の中から押し寄せるこの気持ちに、言葉を乗せる。


「初めは正義感のようなものだと思ってた。だけど違ったんだよ。森ちゃんが虐められるのを見るたびに、凄く嫌な気持ちがした。私にとってはね、きっと森ちゃんを虐めている人たちのほうが、よっぽど〝怪物〟に見えたんだよ」


 私はここでようやく、自分の気持ちに気付いた。言葉にして初めて、自分の抱く感情の意味を知った。


 男の子に対して抱くような『好き』とはまた少し違うけれど、でも私は森ちゃんをこっそり見ているうちに、どうしようもなく好きになっていた。


「私、ずっと森ちゃんと友達になりたいと思ってた。髪も黒くて綺麗で、肌が白くて、仕草も時々可愛らしくて。こんな人と友達になれたらどんなに素敵だろうって、私ずっと思ってた」


「え、でも」



「私と友達になってください」



 私は森ちゃんに対して頭を下げていた。


 たった一瞬前まで自分の首を絞めていた人物に。


「貴方は……おかしいです」


 森ちゃんは蒼ざめて髪をかきむしる。


「私は怪物なんです。だってだってだって――!」


「森ちゃんはさ。誰も殺してないんだよね」


「……ッ!」


 森ちゃんが私を凝視した。私はゆっくりと微笑む。


 彼女が苦しむ必要なんてない。他人の罪を被る必要なんてどこにもない。それに、森ちゃんの持つ冷たい孤独の輝きは、確かに綺麗だったけれど。それだけじゃないんだ。森ちゃんにも、心の奥底のどこかの引き出しに、宝箱のように眠っている感情があるはずだから。私はそれを見つけたい。その冷たい指先を温めてあげたい。だから私は、気付いた事実を森ちゃんに告げた。


「森ちゃんが教室に入って『綺麗』って呟いたとき、みんな勘違いしてたんだよ。みんなその『綺麗』を、森ちゃんが高橋くんの死体に向かって言った言葉だと思い込んだ。けど実際は違ったんだよ」


 私はもう沈みかける太陽の、それでも美しい金色を目を細めて見る。


「森ちゃんは純粋に、夕日を見て『綺麗』って呟いた。ただ、それだけだった。だってあの時、森ちゃんの位置からは高橋くんの死体が見えてなかったんだもん。みんなが高橋くんの死体を取り囲んで壁になってたから、森ちゃんは高橋くんが死んでる事にすら気付かなかった」


 この夕日こそが、森ちゃんの奥底に眠る宝石だった。温かな、れっきとした感情だった。


「ぅ、ぁ……」


 森ちゃんの瞳が真ん丸くいっぱいに開かれる。そこから止め処なく透明な大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。


「怖かったよね、森ちゃん。みんな一斉に襲い掛かってきた。みんなまるで一つの怪物になってしまったようだった。森ちゃんは訳もわからずに暴力を振るわれた。でも森ちゃんはきっと『よく分からないけど自分のせいだ』と勝手に思い込んだ」


 私は強い視線を森ちゃんに送る。森ちゃんは怯えたように肩を震わせた。


「だから森ちゃんは、〝怪物〟として振舞わなくちゃいけなかったんだよね。みんな森ちゃんを〝怪物〟と呼んで怯えた。だから森ちゃん自身も、どんどん自分を怪物のように思ってしまったんだよね。でも、違う、違うんだよ。森ちゃんは怪物なんかじゃない」


 私は森ちゃんの手を握る。森ちゃんの指先は凍るように冷たい。私は必死にそれを温める。私の中にある体温を、精一杯森ちゃんに移す。


「もう怪物を演じる必要なんてないんだよ。殺人事件をやったなんて嘘。高橋くんを殺したのも嘘。だって森ちゃんは――ただ普通の、一人の可愛い女の子なんだもん」


 森ちゃんは泣き崩れて、嗚咽を漏らした。私はそんな森ちゃんの背中にそっと手を回して抱きしめる。


 私も泣きそうになった。目が熱くなる。森ちゃんが陥った境遇を思うと、痛ましい気持ちになる。


 そして、森ちゃんは涙ながらに語った。自分が怪物に至るその過程を。

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