次の日、高橋くんが死んだ。


 その腹部は怪物に喰われたかのようにずたずたに引き裂かれていた。


 死体の第一発見者は私だった。家庭科の調理実習があったから、私はその日エプロンやら何やらの持ち物を持って登校していた。


 私は料理をするのが好きだったので、家庭科の時間が待ち遠しいと、頬を緩ませながら午前、昼と過ごした。家庭科のためにお昼ご飯は控えめにしたくらいだ。鼻歌交じりにうきうきする。調理実習は五、六時間目に組まれていたので、昼休みを終えた私達は――特に私は意気揚々と腕を交互に振って、自分達の教室を歩き出て、その隣の空き教室を横目に廊下を進んで、家庭科室のある別校舎へと足を運んだ。


 日も暮れ始めた頃に、最後の授業だった家庭科の調理実習が、かなり延長して終わる。この学校はあまり部活動が活発ではなく、生徒数自体が少ない。教室に向かう廊下にはもう、人っ子一人居なかった。隣のクラスの人たちはみんな、帰ってしまったのだろう。教員も職員室に引っ込んでいるのか、夕焼け色の学校は閑散とした静寂に満たされていた。


 最初に教室に戻ったのは私だった。その後に、ぞろぞろと調理実習を終えたクラスメイト達が続いていた。直前の調理実習の感想が主で、その出来に満足の声を上げる私などの女子生徒と、面倒くさかった、と口々に言う怠惰な男子生徒達。談笑が続いて、和やかな雰囲気だった。やがて、私たちはある事実に直面する。


 教室の扉を開けると、夕暮れが赤く教室を染め上げ、金色の埃がそこら中を舞っていた。扉は教室の前と後ろにあるのだが、後ろの扉は鍵が壊れて使えなくなっている。私は教室前方の扉を何の警戒もなく開けた。


 教室の木の床は、むせ返るような濃密な鉄の匂いを発していた。私は思わず顔をしかめてむせ返る。私はこの匂いを知っている。料理の好きな私はよく包丁を扱った。それで指を切ってしまった時、赤い水玉が傷口から溢れてくる。あわてて指を口に含んで、舌で押さえるのだけれど、気持ちの悪い鉄の味が口の赤に広がり不快感を催す。この匂いは、その時の感覚に似ていた。鼻をつく匂いに私の胃の中がかき乱される。


それは、血の匂いだった。


背中に氷塊が滑り落ちる。私は青ざめてその事実を認識する。暗闇から手が伸びてきて、私の体に取りすがっているような気持ち悪さ。何かおぞましいものに引きずり込まれていく予感。私は恐る恐る顔を上げて、教室を見渡した。後ろの黒板の壁にもたれ掛かるようにして、夕日に照らされた赤い人影が網膜に焼付いた。

 高橋くんの死体がそこにはあった。


「ひっ」


 私の後ろで誰かが小さく悲鳴を上げた。まだ教室に入れていない生徒達が、何事かと首を伸ばす。私は教室に足を踏み入れ、ふらふらと死体に歩み寄った。つられるようにして生徒達もみな教室に入る。誰もが言葉を失った。


 目の前でクラスメイトが死んでいた。今日の昼休みが終わるまで、ちゃんと息をして会話をしていた彼が死んでいた。


 どうしてこんな事になったのだろう。私には欠片も分からなかった。何も分からなかった。どうしてこんなことに……。怖い、怖い怖い怖い! 


 動かない、高橋君が動かない。もう、二度と動くことはない。死んでいる。何故。どうして。混乱する。意識が遠のく。涙も流せずに呆然とした。思考が麻痺している。嘔吐感すらない。思考回路が絡まる。私の頭は事態を処理しきれずに、音を立てて弾けそうになっていた。


 いつの間にか私の傍に立っていた女子生徒――佐藤さんが、土気色の肌で呆然と高橋くんを見下ろしていた。


「〝怪物〟よ……!」


 水が一滴落ちるように呟いた。その呟きは徐々に波紋を広げていく。


「こんなこと、人間がやる事じゃないわ……〝怪物〟にしかできない」


「くそっ、くそぉっ!」


 クラスメイト達は、私の背後で皆一様に血走った目をしていた。


 私はいまいち訳が分からずに彼らを振り返る。彼らは全身から濃密な復讐心を滾らせていた。同時にそれは恐怖心でもあった。それらは教室の中で一つに集まり、うねり、大きくなって纏まっていく。


「このままじゃ全員怪物に殺される……!」


「その前に怪物を殺さないと、俺達は――!」


 私は赤い教室の中で、生徒達の心が一箇所に向けて、濁流のように流れ込んでいくのを、呆然と眺めていた。また、理解できなかった。理解の範疇を超えた物事の流れに、私はついていけない。ただ一人取り残される。何だ、この教室は。おかしい。何かがおかしい。得体の知れない存在が所かしこに蔓延っているような恐怖を、私は孤独に感じる。


 私が止める暇もなく、彼らは口々に〝怪物〟の抹殺を謳いだした。


「待って、待ってよ……!」


 私は腹の底に硫酸でも流し込まれたような気持ちで、クラスメイト達を引きとめようとする。彼らが意図していることを、朧気ながら私は察してしまった。けれど、それは。


「森ちゃんがやったはずないよっ!」


 私は蒼ざめて必死に弁明する。けれど、クラスメイト達は知っていた。家庭科の時間で一人だけ、森ちゃんが授業に出ずに保健室に行っていたことを。


 森ちゃんはかなりの回数で、授業に出ずに保健室に行くことが多かった。今回もその例に漏れなかった。高橋くんは五、六時間目の家庭科の授業には顔を出さなかった。そして同時にその時間帯は、森ちゃんだけが保健室に行って、家庭科室には足を運んでいなかった。


「くすくす」


 そんな時、教室の隅で笑い声が漏れた。


 生徒達の視線が突き刺さる中、教室の扉に背を預けて、森ちゃんが唇の端を吊り上げていた。


「綺麗」


 森ちゃんは赤い教室を眺めながら言った。夕日に照らされて、高橋くんの死体は赤々と光を反射していた。


 教室が爆発した。生徒達の怨嗟の声だった。同時に現われた怪物に対するガラスを擦り合わせるような悲鳴でもあった。


 怒り、怯え――感情が合い混ぜになった嵐の中で、私は叫んだ。止めようとした。森ちゃんが彼を殺した具体的な証拠なんて何もないと思った。その一方で言い様もない背筋の震えを感じていた。


 私は手を伸ばす。止められない。


 暴徒と化した生徒達が、獣のように森ちゃんに殺到する光景が私の目に焼きついた。

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