義憤

 森ちゃんは苛められていた。クラスメイト達から執拗に遠ざけられ、攻撃を受けていた。それは暗黙の了解として、病毒のように黒々と広がり、生徒たちの精神を侵食していた。


 森ちゃんは、靴の中に画鋲を仕込まれたり、階段の踊り場から突き飛ばされそうになったり、体育の時間に石灰をかけられたりしていた。


 私は自分を正義主義者だとは思っていない。社会の不条理が人を傷つけることがあるのは重々に承知しているし、あえて煮え湯を飲まねばならなかった経験も多々ある。人間関係というのは、基本的にそうであるからだ。私はまだ高校生だが、もう高校生ともいえるのだ。小学生、中学生と学年が上がるにつれて、集団行動の重要性は向上していく。人の皮の面を窺ってこびへつらい、笑顔という仮面を被り日々を過ごす。それは、ある意味で日常だった。


 しかしそれでも、こうしたあからさまな虐めが平然と行われている事に、私は苦虫を噛み潰すような想いを抱いた。森ちゃんは別に何も悪いことはしていない。基本的に人と関わろうとせず、しゃべらない。教室の隅で本を読み、意図的に周りと壁を作っているようではあった。けれど、それだけだ。何の害もなく、何の関わりもなく、平々凡々と空気のように佇んでいるに過ぎない。


 確かに時々、森ちゃんの眼差しというのは背筋が凍るほどに冷たいものだった。何かを見ているようで、何も見ていない。何の価値も見出さない光を失った瞳。その瞳に見つめられると、不意に肺が圧迫され、汗が吹き出し、胃の中のものがぐるぐると滞留するような錯覚に陥る。


 だが、それは森ちゃんを苛めていい理由にはならない。絶対になりはしないのだ。人道的行いに著しく反している。


 私はクラスメイト達に、どうして彼女にそんな非道な仕打ちをするのか、と控えめに問い詰めた事がある。だが皆一様に泥のように濁っているくせに、妙にどこかぎらついた目で「だって気持ち悪いから」と口を揃えて答えた。


 私は彼らの事が理解できなかった。森ちゃんのどこが気持ち悪いというのか。彼女の何が悪いというのか。


 確かに森ちゃんは、人と一緒にいる事をひたすらに拒み、周りを見る目はどこまでも冷めていて、まるで人間を見るような目つきじゃなかった。彼女は普通ではない雰囲気というものを存分に有している。けれどそれにしたって、クラスメイト達が熱に浮かされたように森ちゃんに対して攻撃を加える事が、どうしても理解できなかった。


 みんな気付いてないようだけれど、私だけが森ちゃんを見ていた。


 お弁当にハンバーグが入っているときに、彼女が幸せそうな笑顔を浮かべて食べているのをちゃんと知っている。もったいなさそうにハンバーグを口元に運び、もぐもぐと口を動かして顔を綻ばせていた。見ているこちらが自然と笑顔になった。


 また、この前喫茶店でたまたま森ちゃんを見つけたときに、熱いコーヒーが飲めずにふぅふぅ口を尖らしていたことも知っている。それでもやっぱり唇をつけてみるけれど、電撃が走ったように顔を上げて、少し涙を浮かべるような、可愛らしい場面も目撃しているのだ。それだけじゃない、他にも、他にも、他にも……。


 私の中には、日増しに森ちゃんに対する愛着が湧いていった。時折垣間見せる子供のような表情。愁いを帯びた老熟した表情。控えめな笑み。少し焦って丸くなる瞳。人形のように艶のある黒髪と、陶磁器のように曇りのない白い肌。


 私は鏡で自分と森ちゃんを見比べたことがある。大した取り得のない私の顔。髪の毛はちっとも綺麗じゃなくて、そもそも長さが全然ない。精々肩にかかるかどうかだ。森ちゃんの胸元まで伸びる長い髪が、純粋に羨ましい。私は自分に黄色い花の髪飾りを付けてみたり、櫛で髪をとかしてみたり、必死の抵抗を行った。しかし結局、どうにも子供っぽさは拭えない。どうやったら森ちゃんのような大人びた雰囲気になれるのだろう。到底森ちゃんに敵う気がしなかった。森の中に迷い込んだような、暗澹たる気分を抱え込む。幾度もため息をついた。


 いつしか、私は森ちゃんに魅せられていた。心臓を握られてしまったかのような酩酊感を、私は感じた。同時に私は森ちゃんがされる仕打ちに、心が万力で締め付けられるようだった。何とかしてこの現状を阻止しなければならない、という使命感がくすぶり始めていた。こんなのあっちゃいけないんだ。森ちゃんはこんなにも可愛いのに。どうしてみんなはあんなことを平気で出来るんだろう。怒りが沸々と、波のように押し寄せる。


 私は意を決して、クラスメイト達に、森ちゃんに対する虐めを止めるように詰め寄った。


 男子と女子が一人ずつで、ちょうど、昨日起きた殺人事件について、軽い調子で騒ぎ合っているところだった。焼死体がどうとか、あはは怖いよねーとか、そんな身も蓋もない不謹慎なネタで盛り上がっている彼らに、私は心から失望した。やはり森ちゃんを虐めている彼らに問題があるとしか思えなかった。腹の内で煮えたぎる、行き場のない炎と共に、声高々に彼らの日々の行動を非難した。


 クラスメイト達は例のごとく、濁った目で私を見返してきた。能面のような瞳。どこか笑みすら含まれていないだろうか。ふとそんなことを考えて、身の竦む恐怖を覚える。


 たじろぎそうになるのを、唇を噛んで堪える。私は間違っていないはずだ。このクラスは、何かがおかしいのだ。


 クラスメイト達がいつしか集まっていた。私は産毛が全て逆立つのを感じながら、寿命の縮むような錯覚に陥る。彼らはまるで、私が間違っているんだ、とでも言いた気な視線の圧力を放ってきた。


 この場で、森ちゃんを弁護する人間は私だけだった。それはとんでもなく怖い事であるように思えた。クラスメイト達が怖い。その視線が。濁った目が。私は怯えながらも気丈に振舞う。


「恥ずかしいと思わないの」


 私は首を絞められたような声で、彼らに抗議する。


「一人の女の子を、こんな大勢で虐めて。どうしてこんなことするの? あの子は本当は凄く可愛い子なんだよ!」


 私は頬を紅潮させて、拳を握り締め、この視線の重圧の中で、腹の底から必死で言葉を搾り出した。


 けれど周りの反応は、のれんに腕を通すように薄かった。心なしか私を哀れむような表情を滲ませる者さえいた。


「違うんだ。あいつは、俺らとは違うんだ」


 黒い制服を几帳面に着ている高橋くんが、私を凝視しながら篭った声で言った。


「どう、いう」


「あいつは、俺達とは違う。中身が、違う。あれは人間じゃない」


 私はその言葉を聞いて、頭のてっぺんまでかぁっと血が上った。


 人間じゃないだなんて、そんなの酷すぎる。彼らは森ちゃんを人と認めてはいなかった。どころか、更に高橋くんはこう続けた。


「あいつは〝怪物〟だ」


 私はしばらく声を出せなかった。百万語が心の奥底で噴火している。その濁流はしかし、激しすぎた。喉元を圧迫して呼吸を困難にする。無論、言葉を紡ぐことなどできそうもない。そうするうちに、私の涙腺が緩み、水滴が広がるように、視界が滲んでいくのを感じた。


「ひどい、ひどいよ。そんなこと言うなんて。森ちゃんは普通の女の子なのに」


「お前は何も感じないのか? あいつの人を人とも思っていないあの目を! あれは人間じゃない! あれは――」 


 息苦しそうに声を荒げる高橋くんを、周りのクラスメイト達がなだめた。高橋くんは荒い息を漏らしたまま、私に殺意の籠った凄まじい形相を見せた。


「やめておけ。あの怪物を庇うのは」


 その時、教室に先生が入ってくる。朝に行われるホームルームを告げるベルが鳴った。皆、蜘蛛の子を散らすように自分の席へと去っていく。


 ただ、彼らの浮かべる表情というのは、一様に『怯え』だった。どこまでも弱者の表情だった。私はその様子を呆然と見ることしかできなかった。


 彼が口にした〝怪物〟という言葉が、酷く耳に残った。

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