終わる世界に天使は舞う

ごんべえ

第1話 運命

 ぼくは運命という言葉が酷く嫌いだった。

 あまりに優しすぎるその言葉は、世に蔓延るあらゆる残酷な物語の当事者に投げかけられる。

 あれは運命だったんだ。どうしようもなかった、と。

 だがそれは、彼らの心に決して癒えぬ傷のようなある種の呪いをもたらすことになる。

 人の行く末が予め決まっているのだとしたら、自分たちの行動はすべてが無駄だったのか? と彼らは思い悩むことになり、遂にはその精神を修復不能なまでに摩耗させてしまう。

 彼らに必要なのは、単純な優しい言葉などではなく、明確な裁きなのだ。

 その行動に対しての裁きだけが、唯一彼らの心を救済してくれる訳だ。

 だから、ぼくは運命という言葉が酷く嫌いだった。

 優しいだけの言葉は救いをもたらさないというのをこれまでの人生のなかで嫌というほど思い知ったのだから。

 そして、なにを隠そうぼくもそんな当事者たちのひとりだった。


★ ★ ★


 ぼくは、なんというか昔から感情の起伏が少なかった。全くない、という訳ではなかったのだけど、それでも両親を心配させるぐらいのことはあったらしい。何度か心療内科に連れて行かれたのを覚えている。

 その度に思春期特有の症状でしょう、と言われるのがオチだった訳だが………。

 それでも、ひとりの医師せんせい だけは―――ある程度は―――真剣にぼくの症状について診察してくれたのを覚えている。

 これは、その断片の会話であり、記憶である。


「君は、なんというか自分のことでさえも他人事のように考えているところがあるみたいに思えるね」

 くせ毛で頭をぼさぼさにした眼鏡をかけた白衣姿の神経質そうな男は、そう言ってコーヒーを啜った。

 それに対し、ぼくは「はぁ」と気のない返事をして、目の前のテーブルに置かれたコーヒーとドーナッツを眺めているだけだった。

 医師はそれを怪訝そうに見つめ、

「食いたいなら食いなよ。冷めると不味くなる」

 そう勧めてきたので、ぼくはまずドーナッツを齧ってからコーヒーを啜った。口いっぱいに広がったドーナッツの甘さをコーヒーの香ばしい苦みが洗い流していく。

 簡潔に表現するならば、美味かったというのが適切なのだろう。

「………それだけか?」

 医師がぼそっと言ったので、彼の方を見ると眼鏡を外し目をごしごしと擦っているところだった。ぼくの視線に気付くと目を擦るのをやめて、

「いや、なんでもない。話を戻そう。君の症状については、統合失調症や境界性人格障害、鬱病が当てはまるが、やはり病名をつけるほど深刻なものじゃあない。俺の診断でも思春期特有の症状としかいえない。なにしろ君はまだ若いんだ。いくらでも矯正できる」

 そうだろう? と同意を求めるようにぼくの目を覗き込んで言った。

 その当時、ぼくはまだ14歳でいろいろ不安定なところはあったが、まだなんとかまともに日々の生活を送ることができていた、と思う。

「君のお姉さんが丁度いまの君と似たような症状だったからね。そのときに彼女から聞いた話だが、どんなことが起きようと私はそれを真剣に自分のことだと認識できない。どこか私の知らないところで起きていることなんだとしか思えない。だから、私は楽しいとも悲しいとも感じない、とか言っていた時には度肝を抜かれたがね。まあ、そんな彼女もいまは快方に向かっているんだから、心配する必要はないよ」

 そう言って医師はドーナッツを齧りコーヒーを啜った。

 ぼくは、少し驚いた。なぜなら彼がいま言った姉さんの症状は、ぼくのものと全く同じだったのだから。天真爛漫に笑う姉さんがぼくと同じだなんて少し意外だった。

 それから医師はドーナッツとコーヒーをすべて片づけてしまうと、

「それじゃあ、ご両親をお通しして」

 と看護婦に言って、それから暫らくしてやってきた両親に当たり障りのない説明をした。

 両親は少し心配そうな表情を浮かべていたが、最後は一応納得したようだった。

 そんな訳でぼくは異常なしの診断をもらい心療内科を後にした。


 そして、その帰り車で姉さんを拾った後、景気よく大型トラックに正面衝突するはめになった。


★ ★ ★


 全身の焼け付くような痛みで目が覚めた。意識が朦朧とするなか、酷く痛む体に鞭を打ち状況を確認する。ぼくは、どうやら事故の衝撃で車の外に吹っ飛んだようだ。体に欠損箇所はないようだった。これが世間一般でいう奇跡というやつなのだろう、と例の如く他人事のように思った。

 家の近くの閑散とした通りで事故ってしまったらしい。夜ということもあり、人通りがまったくといっていいほどなかった。もう少しで家に帰りついていたというのにまったくツイてない。

 車の方を見てみると―――


「父さん、母さん………」


 大型トラックと一緒にマイカーである新車のエスティマが盛大に燃え盛っているところだった。

 運転席と助手席に人影がみえる。父さんは運転席に、母さんは助手席に乗っていたので、真っ黒に炭化したあの物体たちは両親であると確認する。

 後部座席の方を見てみるとスライドドアは開け放たれていれて、そこには人影がいなかったので、姉さんはまず、焼死体にはなっていないという事実を認識し、今度は姉さんを探すことにする。

 動こうとするとやはり体に激痛が走ったが、それでも、なんとか立ち上がることに成功する。右足に痛みが集中していることを鑑みるに折れてしまっているのだろうと推測した。右足になるべく負担をかけないように引きずるようにして歩く。

 両親が死んだというのに涙すら流れないなんて、なんだってこんなにもぼくは薄情な奴なのだろう、と酷く痛む体を誤魔化すためいろいろと考えながら姉さんを探す。ふとトラックの方を見てみるとやはり両親と同じように真っ黒に炭化した運転手がいた。そいつは、まるでなにかを期待するかのような視線をぼくに向けているような気がした。おまえのことなんか知るか。勝手に地獄だか天国だかに逝けばいい。ぼくは姉さんを探さなければならないのだ。

 そこでぼくは周りに人が集まりだしていることに気が付いた。遠くの方からサイレンの音がして、それが徐々に近づいてきているのが理解できる。だが、それもぼくには関係のない話だった。周りの奴は勝手にやっていればいいのだ。ぼくは姉さんを探す。

 そうしていると誰かに手をつかまれた。

「きみ! 体中ボロボロじゃあないか! 救急車が来るまで安静にしていなさい!」

 不躾にそんなことを抜かす奴を睨む。そこには、意志の強そうな眼をした、スーツ姿の女がいた。黒い艶のある長い髪を後ろにまとめている。まだ若いようでその顔には幼さが残っていた。

 ぼくは、しっかりと彼女の目を見つめ、できるだけ強い意志を込め言った。

「余計なお世話です。あなたには関係ないでしょう? そんなことよりぼくは姉さんを探さなければなければならないんだ。放してくれ」

 彼女は、目を見開き、

「そんなこと言ってる場合か!? お姉さんのことは救急隊員にまかせて、きみは休んでいなさい」

 ぼくを一喝した後、そんなことを言った。

 話にならない。

 無視して行こうとするぼくを慌てた様子で彼女は止めた。具体的には、ぼくの正面にまわりこんで、肩をしっかり掴むかたちで、だ。そして、ため息をつき言った。

「わかった。きみは、お姉さんさえみつかれば、安静にしていてくれるんだな? それなら、あっちをみてみるといい」

 ぼくは彼女の指差した方に目を向けた。


 そこには、変わり果てた姉さんの姿があった。


「―――姉さん!」

 ぼくは姉さんに駆け寄ろうとするが、痛みの限界を迎えた体はいうことを聞いてくれなかった。

 ああ、かわいそうに。細く綺麗だった腕は、千切れて明後日の方向に吹っ飛んでいるし、笑顔が素敵だった顔は、右目の眼球が飛び出していて、見る影もない。極めつけは、頭から大量の血と一緒に脳漿をぶちまけていた。あれではまず助からないだろう。

「―――ぁ、――――――ぁぁあ! ――――!」

 ぼくは叫んだ。そうでもしなければ、気が狂ってしまいそうだったから。

 そうしていると彼女はぼくの耳元で、

「気の毒だったね。きみはあの車に乗っていて、奇跡的にも助かった。そうだろう? わたしはきみに言ってあげられることはなにもないし、そんな資格もないけれど、ひとつだけ教えてあげられることがある。あれは運命だったんだ。きみにはどうしようもなかったし、どうすることもできなかった。だから仕方のないことなんだよ」

 そう囁いた。

 ………ふざけるな。怒りが沸々と湧き上がってくるのがわかる。ぼくは、名前も知らないスーツ女の胸倉を掴んで言った。

「………運命ってなんだよ! どうしようもなかったってなんだよ! 仕方がないってなんだよ!! そんな軽い言葉で姉さんの最期を片づけないでくれ!」

 彼女は、ぼくの瞳を覗き込むようにして言った。

「………悪かった。あまりにも無神経だったのは謝る。だが、きみはこれからも生きていかなくてはならないんだ。わたしは、そういう決着のつけ方もある、というのを教えてあげたかっただけさ」

 ふいに強烈な眩暈に襲われた。堪らずぼくは地べたに横になる。もうすぐ意識が消え去る予感のするなか、ぼくは姉さんをもう一度みることにした。

 姉さんは苦しまずに逝くことができたのだろうか? そうならいいな、と思いながらぼくの意識は闇に呑まれた。


★ ★ ★


「ねえ、あなたはどうしてそんなに不器用にしか生きれないのかしらね? わたしの弟君」

 姉さんは素敵な微笑を浮かべてそう言った。彼女は常に笑顔を絶やすことがなかった。少なくとも、ぼくの記憶のなかの姉さんはそうだった。

「姉さんみたいに世渡り上手じゃあないからね、ぼくは」

 ぼくはなるべくシニカルな笑みを作って言った。うまくいったかは分からないけど。

 ぼくは何時だってなにかしらのトラブルを抱えていて、それでもそんな面倒事すべてをシカトして生きてきたから雪だるま式に問題は大きくなっていった。ちなみにそのすべては人間関係に起因するものだった。

 姉さんは笑みを絶やさぬまま、ため息をつき言った。

「あなたの一番の問題はそういうことが起きてもまったくあなた自身は困らないところにあるんでしょうね。だから、学校だけで済んでいた問題を家まで持ち込むことになるのよ。玄関の落書きは業者を呼ばないと消えないでしょうね」

 その時、我が家の玄関ドアはいじめられっこの机の上のような酷い有様になっていた。つまり、ぼくの机の上と同じ状態に。

 ぼくは、やれやれ、といった具合に肩を竦めてみせてから、

「でも、そのおかげで玄関に監視カメラをつけることになったんだからよかったじゃあないか。防犯にもなるし、またその頭のイカレた手合いが来たらすぐに警察を呼んで引っ張ってもらえる」

 今度は普通の笑みを作って言った。

「少しはお父さんとお母さんの迷惑を考えなさいって言ってるのよ。わたしは」

 姉さんは相変わらず笑みは絶やしていないが、その眼は笑っていなかった。本当に笑みだけで様々な感情を表現できる人だった。正直、感心する。

「それは、申し訳ないね。だけど、さっきも言ったが、ぼくは姉さんほど世渡り上手じゃあないんだ。そして、残念なことだが、トラブルは何時だって向こうからやってくるんだ。そんなもんはシカトしとくのが一番なんだよ。それに、ぼくは被害者だ」

 だから、ぼくは悪くない、と某週刊少年ジャンプ漫画の生徒会執行部副会長みたいなことを言ってみた。

 姉さんはそれには取り合わずにゆっくりとした仕種で首を振り、言った。

「あなたならうまくできるわよ。なんたって、あなたは―――」


「なんたって、あなたは―――、なんだったんだろう?」

 ぼんやりとした覚醒を迎えたぼくは、ぼんやりと昔のことを思い出しながらそんなふうに独り呟いた。

「やあ、ようやく目が覚めたのかい?」

 ベットに座り、窓の外を眺めているとそんなふうに声を掛けられた。

 声のした方に視線を移すとそこには異形のなにかが腕を組み値踏みするような目でぼくを見ていた。

 異形。そう、まさに異形だった。

 頭には羊の角が二つ生えているし、背中からは蝙蝠の羽―――のようなもの? ―――がそれぞれ気持ち良さそうに生え揃っている。

 でも、それ以外は大変にスタイルのよい―――人間の―――女性そのものだった。

 夜のお仕事の女性が好んで着そうな漆黒の露出度の高いドレスを身に纏っていた。背中の羽が邪魔であのような服しか着れないのだろうと勝手に推測する。しかし、見事に実った二つの果実がいまにも零れ落ちそうになっているのは頂けない。いろんな意味で危険だ。目のやり場に困る。顔のつくりも整っていて、白髪のショートカットがチャーミングだ。なんというか背徳的な色気が凄まじかった。彼女に欲情しようものなら間違いなくぼくは十字架にはりつけにされ処刑されるだろう。もちろん、これはジョークだ。

「あたしのこと見ても驚かないんだね? 人間はみんな腰抜かすのに」

 もう、値踏みは十分だというように彼女はそう切り出した。

「いや、驚いているさ。けど、重要なのはそこじゃあない。ここはいったいどこだ?」

 ぼくは、なるべく会話を続けるように心がけることにする。彼女は害があるのか、ないのかを見極めるために。

「重要なのはそこじゃあない、か。そんなことを人間に言われたのは初めてだよ。ていうか、見てわからない? どうみても病院でしょ、ここ?」

 ふーん、病院なんだ。ここ。

 ぼくの部屋は個室らしく、そこらへんがはっきりしなかったのだ。

「じゃあ、あれをやらかしたのはきみかい?」

 ぼくは窓の外を指差し彼女に訊いてみた。窓の外には、なにかの暴動が起きたあとのような悲惨な光景が広がっていた。乗り捨てられた車や打ち壊された看板、そこらじゅうに染みついた血の跡らしきもの。―――不思議と人の遺体は転がっていなかった。ここから見えないだけだろうけれど。―――そして、人の生活臭が一切合切なくなった滅びの街。

「ああ、あれをやらかしたのはあたしたちじゃあないよ。あれをやらかしたのはもっとやばい奴」

「やばい奴?」

「そう、やばい奴。でも、あたしからは何も言えないから、うちのリーダーに訊いてよ」

 そう言うと彼女はベッドの横に置いてあった車椅子を持ち出した。

「あんた、あれだけ寝ててよく一人で起き上れたね。あたしはそれが信じられない」

 そう言われて気付いたが、ものすごい倦怠感がぼくの体を襲っていた。まるで体中に重りをつけられているみたいだ。

 かなりの長い期間ぼくは眠っていたようだ。筋力の衰えが半端じゃない。

 立てる? と彼女が訊いてきたので、立ち上がってみる。なんとか立つことには成功した。問題はこのあとだ。一歩足を踏み出そうとすると倒れそうになったが、彼女がすぐに受け止めてくれた。なにか支えがないと歩けないようだった。彼女が支えになってぼくを車椅子まで乗せてくれる。………胸が丁度いい具合に密着していたので、その感触を愉しむことができたのは不幸中の幸いなのだろうか?

 ありがとう、とお礼を言うと、どういたしまして、さわやかに笑って返してくれる。笑顔がまた素敵だった。

 ぼくは、他にも気になっていたことを2、3訊くことにした。

「ぼくは、どのくらい眠っていたんだろう?」

 彼女は腕を組み直して、知らない、と言った。

「あたしたちがあんたを見つけてから三か月くらい経ってるから間違いなくそれ以上は眠ってるはずだけどね」

 言ってから彼女はベッドの隣に置いてある棚から白い塊のようなものを持ち出して、はい、記念品、と渡してきた。

 ひょろ長い筒状になっていて、横は一直線状に切られていた。どうみても使用済みのギブスだった。

「あたしたちの仲間にこうゆうのが得意な奴がいてね、切ってもらったんだ。どう? うまいもんでしょ?」

 そいつはどうも、と言ってから次の質問に移ることにした。

「………ぼくの着替えとかは、もしかしてきみが?」

 ぼくの服装は事故のときから―――当たり前だが―――変わっていた。いまぼくが着ている服はほのかに洗剤のいい香りがしたので、定期的に誰かが着替えさせているのだろうと推測したのだった。ちなみにいまのぼくの着ている服は入院患者がよく着ている作務衣みたいなやつだった。

 質問した瞬間、彼女がとても悪そうな笑みを浮かべたのをぼくは見逃さなかった。

「若い男の子のお世話なんて滅多にすることないからねぇ。いい目の保養だったよ」

「………まさかとは思うが、下の世話も?」

 彼女は朗らかに笑いながらピースサインを作りこう言ったのだった。

「ぶい」

 ぶい、じゃねーよ。

 だから、下はおむつを履かされてたのか………。

 ああ、もうお婿にいけねーよ………。

 まあ、行く気もないし、行く事もないだろうけど。

 ため息をついてから気を取り直し最後の質問をすることにした。

「ぼく以外の人間はいったいどこにいってしまったのだろう?」

 彼女は人差し指を天井に向け、

「天国旅行」

 そう言ったのだった。



★ ★ ★


 それから、ぼくは悪魔的な姿をした彼女に車椅子を押されて、建物のロビーに向かった。―――ちなみにぼくが眠っていた部屋はもともと診察室として使っていた部屋だったらしく、二階の入院患者用の部屋からわざわざ一階に位置するその部屋へ移動させたのだそうだった。なんでも、何が起こるかわからないからすぐに対応できるようにしておくため、ということだったが、よくわからない話だった。―――リーダーに合わせるというので、その人物からしか事情が訊けないとなるとぼくも従わざる得なかった。

「あれ? いないなぁ」

 ロビーに着くと彼女はそう呟いて今度はスロープから病院の外に出る。

 そこで、ぼくは自らの目を疑ってしまうような光景を目の当たりにすることになった。

 竜がいた。そう、あの竜だ。

 体長は恐らく三メートル程だろうか? ぼくの身長が一メートル五十センチなので、それの二倍ぐらいだと計算するとそういうことになる。体は工事用のユンボぐらいのでかさだった。その巨体が気持ちよさそうに眠っている。なにかの拍子で起こしてしまうようなことがあれば、ぼくはすぐさま姉さんの跡を追うことになるだろう。

 ぼくの車椅子を押す彼女は、車椅子のブレーキを掛けた後にその竜にずかずかと向かっていき大声で叫んだのだった。

「オオサコさん! 起きて! いま何時だと思ってんの!?」

 え? この竜ってオオサコさんっていう名前なの? 

 軽いショックを覚える。しかも、日本人の名字だし。日本国籍を持った竜などぼくは寡聞にしてしらなかった。そうこうしていると恐ろしいうなり声を上げてオオサコさんがその巨体を起こした。

「はあ、せっかく気持ちよう寝とったのになんやねん。心配せんでも敵なら来いへんから安心せえや」

 いま、しゃべった!? いま、しゃべったよね? しかも、関西弁って………。ぼくのなかの常識が音を立てて崩壊していく………。

 ぼくがぽかーんとしているとオオサコさんはぼくの存在に気付いたようで、

「そっちの彼は目を覚ましたんかい」

 と彼女に言った。

「そうなんだよ。だから、リーダーに合わせようと思ったんだけど、あのひとは?」

「あいつなら他の奴らを引き連れてクレブスの駆除にいったわ。しばらくは帰って来いへんで」

 クレブスってなんだろう? 蟹のことだろうか?

 彼女はマジか~、と頭を抱える仕種をして言った。

「なんだってこんな時に間の悪い………」

「まあ、ええやないか。焦ってもええことないで。じゃあ、わいはまた寝るわ」

 起こさんといてな、と言ってオオサコさんはまた眠りこんでしまった。

 彼女はため息をついてから、

「まあ、あんたのおかれている状況の説明はまだできないけど、いいよね? これだけは信じてほしいんだけど、あたしたちは別にあんたを取って食おうとしてる訳じゃあないから」

 しゃがみ込んでぼくの視線に目を合わせると懇願するようにそう言った。

 ぼくは、そろそろ回答を出してもいいのかもしれない。彼女たちがぼくにとって有害なのか、無害なのかという問いに対する回答を。

「いいよ。ぼくは、きみたちを信じる。というか、信じるしかないんだけどね」

 ぼくは現在、自分一人では歩くことすらできない状態にある訳で、人の助けがないとまともに生活ができないのだ。彼女たちはぼくの生殺与奪を完全に握っているということに他ならない。

 別に死んだってかまやしないが、訳がわからないまま死ぬのは御免だし、なるべくなら生きていたいのも事実だった。

 ぼくの答えに彼女は安堵して様子で、

「よかった。信じてくれるんだね。そういえば、あたしたちまだ自己紹介してなかったよね。あたしは、 コウ 香月 シィァンユェ。コウは黄色の黄で、シィァンユェは香水の香に月夜の月」

 そう自己紹介を始めた。

 え? あなた中国人だったんですか? 西洋の悪魔っぽい風貌をしてるのに? 

 香月は、ぼくの表情から疑念的な自分でもよくわからない感情を抱いているのを読み取ったのか、まあ、いろいろ事情があるんだよ、と言って誤魔化した。

「そこで寝てる竜のおっさんは―――」

「誰がおっさんやねん」

 オオサコさんは大儀そうに体を起こすと香月の言葉を遮り突っ込んだ。背中の翼をばたばたと動かしている。寝起きの運動なのだろうか?

「あれ? オオサコさん寝てたんじゃあないの?」

「おまえみたいな性悪に任せたら何言われるか分かったもんじゃないで」

 そこで、オオサコさんはぼくの方に顔を向け言った。

「少年。わいはな、大迫オオサコ  瞬次郎 シュンジロウ言います。オオサコは大小の大にしんにょうに白の迫。シュンジロウは瞬間の瞬に一郎、次郎、三郎の次郎な。これからよろしゅうな」

 はあ、と返事をしてぼくは彼らを交互に見つめた。

 あきらかに異形の姿をした彼らが人間の名を名乗り人間のような振る舞いをする。まるでかつては人間だったと主張するかのように。そういった事情も彼らの言う「リーダー」なる人物からでなければ聞くことができないのだろう。まったく、難儀な話だ。

 一人で益体もないことを考えていると、

「そんで、あんたのなまえはなんて言うの?」

 鋭い視線をぼくに向けて香月が言った。自分たちが先に名乗ったのだからあんたも自己紹介ぐらいしなさいよ、ということなのだろう。

 ぼくは、やれやれ、という様にため息を吐き、自らの名を名乗った。

「ぼくは、 さかき蒼太そうた 。さかきは植物の榊で蒼太の(そう)は蒼穹の蒼で、(た)は太いの太。まあ、よろしく」


★ ★ ★


 それから二週間経っても彼らの「リーダー」は帰って来なかった。

 その間、ぼくはリハビリに励んだ。

 初日から三日目はまともに歩くことができなっかたが、四日目あたりからちょっとずつ歩けるようになり、一週間も経つと走りはできないものの、普通に歩くことができるようになった。その結果に香月は凄く驚いていた。

「まともに歩けるようになるまで二、三年はかかると思ってたのに………。やっぱり、〈世界〉の加護って半端ねー」

 世界の加護? また訳の分からないことを言い出した。

 香月は怪訝に歪むぼくの表情を読み取ったのか、

「ううん、なんでもない」

 とまた誤魔化した。

 それにしても、この中国人は日本語が非常に上手だな………。発音とか全く違和感がない。いったいどこで日本語を覚えたのだろうか? ちょうど本人もそばにいるのだし、ちょっと訊いてみることにした。

「なあ、香月は日本語が凄く上手だけど、どこで覚えたんだ?」

「ああ、別にあたしは日本語を覚えた訳じゃあないよ。この体になってから〈仲間〉との会話では言語の障害がなくなったんだ。具体的に言うと、あたしが使える言語は中国語だけだし、大迫さんが使えるのは日本語と英語だけなんだけど、普通だとこれじゃあお互いに使える言語が一致しないからコミュニケーションは成り立たないよね? けど、この体になってからはあたしが中国語で何か言うと大迫さんには日本語として伝わるように変換されるし、大迫さんが日本語で何か言ってもあたしには中国語に変換されるって訳。 すごいでしょ? まあ、厳密には相手に伝えたいことだけを相手の頭の中に直接ぶちこんでるからできる芸当なんだと思うんだけどね」

 実際、あたし自身よくわかってないんだよね~、と言って香月は舌をちろっと出して笑った。

 まあ、だいたいは納得できたような気がした。要するに彼らは普通に会話しているように見せていてもその実はテレパシーで会話をしているという訳だ。だから言語は不要になる訳だ。何故なら、なにか伝えたいことがある場合は声を発して言語を用いる必要はなく、頭のなかの概念だけを直接相手の頭のなかに伝えられるのだから。だけど、それでは今ぼくに起きているこの現象の説明が出来ない。今度はそれを訊いてみることにした。

「だけど、それじゃあぼくときみがコミュニケーションが成り立つ説明が出来てないよね? なにしろぼくの体はきみたちの特別製と違って普通の人間の体なんだから。きみたちはぼくに何かを伝えられたとしてもぼくにはきみたちに何かを伝えられる手段がない。ぼくはテレパシーなんて特殊能力は持ち合わせがない………はずだからね。あの事故でその能力が発現したっていうのなら別だけど」

 香月はめんどくさそうに頭を掻きながら、

「あんたの能力は〈それ〉じゃあない。もっとやばい。まあ、あんたに起きているこの現象は〈世界〉の加護としか言えない」

 そう言った。

 また、世界の加護か………。それに今さらっと、とんでもないことを言わなかったか? この女は。

「ぼくの能力? もっとやばい? それってどういうことだ?」

 香月はあっちゃ~、という感じで頭を抱え、

「やっべ、余計なことまでしゃべっちゃった。………いまの忘れてくんない?」

 と上目使いでぼくを見てそう言った。

「………そこまでしゃべってくれたんだったら、もう全部教えてくれてもいいんじゃないかな。そもそも君たちのリーダーからじゃなきゃ話を聞けないっていう理屈がよくわからない」

『それもそうなんやけどな。わいらが話してもええんやが、それじゃあ筋が通らへんのや。核心に触れん範囲で話すからそれで勘弁してくれへんかな? 少年』

 ………いま、大迫さんの声が聞こえたような気がしたんだが気のせいだろうか?

 いまぼくたちがいる場所は病院のリハビリ室の中な訳で当然その場に大迫さんはいないのだ。

 窓を見てみても大迫さんの姿を認めることは出来なかった。

 あれ? これが幻聴というやつなのか?

 香月をみるとぷるぷると震えている。どうやら必死に笑いを堪えている様子だった。人がテンパっているのがそんなに面白いのだろうか?

 遂には大声で笑い声を上げてゲラゲラと笑い出した。

「あーひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ、マジやばいって、これちょ~おもろいんだけど、あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ、やばい、これ、死んじゃう、あたし、死んじゃう!」

 あたし、どうしよう? これやばいんだけど! と笑いながら言い出す始末だった。

 ………そのまま死んでしまえばいいと思うよ?

『そこにいる阿呆のことは放っときや。先になんで遠い場所にいるわいの声が君に届くのかちゅう説明からやな。さっき香月がこの体になってから言語の障害がなくなったとか言うとったやろ? そんで、最後にこう言っとたな、厳密には相手に伝えたいことだけを直接相手の頭ん中にぶちこんどる、ってな。あれは要するにテレパシーや。ちゅうことは、相手の居場所さえ分かればこうやって遠くからの会話も可能ちゅうこっちゃ。ほんで、わいらはこの体になってから〈仲間〉の居場所が感覚的にわかるようになった訳や。詰まりわいらは無線がなくてもある程度、―――あんま離れたところやと感知できひんけどな。―――離れた場所からならこうゆうこともできる訳や。ちなみに少年もわいらみたいなことができるはずやで? ちょっとわいがどこにいるか探してみい』

 そんなこと言われても………。

 とりあえず、目を瞑って集中してみる。すると、でかいエネルギーの塊のようなものを二つ感知することができた。すぐそばにあるのは香月のものだろう。もう一つは、病院の上空に確認することができた。

病院の上をぐるぐると旋回するように移動しているようだ。もし屋上にいるのだとしたら振動でとんでもないことになっているはずだが、そういうこともなかった。病院の上を飛んでいるのだろうか?

 試しに上を向いて話かけてみる。

「大迫さん。聞こえますか?」

『おお、ばっちしやんけ。いくら〈世界〉の加護がある言うても感知ができるかまではちょっと不安やったんやが、杞憂やったな。………もしかして少年。きみはわいが病院の上を飛んどるもんやから上向いたままにしとるんやないか? いっぺん感知したらあとは普通にしとってええんやで?』

 それをはやく言って欲しい。首が痛くてしょうがないんだよ、この体勢。

 そう文句を言うと、

『ああ、すまん、すまん』

 と特に悪びれた様子のない謝罪の言葉を返されただけだった。

 それから、こほんと咳払いをして大迫さんは言った。

『まあ、そうやな。わいらが如何にしてこの体になってしまったかという話からしようか』


★ ★ ★


 まあ、わいらもあえてはっきり言うてこんかったが、君はもう気付いとるやろ? そう、わいらはもともとは人間や。

 当時わいは―――自分で言うのもなんやが―――そこそこ名の知れた外科医やったんや。一度はK大付属病院の教授にもなったことがあるけど、いろいろあってなあ。嫌気が指して辞めてしもうたんや。それからはフリーの医者としてあちこちを渡り歩いてはいろんな国の重役たちの執刀をしてきた訳や。

 そんな訳でその日に執刀する予定だった患者が中国共産党のお偉いさんでなあ。護衛に付けられたのがそこにいる阿呆やったんや。そんときはまた偉い上玉をつけてもろたな思うとったんやけどな、この体になっていざ話してみると中身がぱあやがな。失望っちゅうんはこういうことを言うんやって改めて勉強させてもろたわ。………話がそれてもうたな、失礼。

 そん時わいは香月の運転する車―――レクサスやったわ。しかも、LS。あいつらなんだかんだ言うても日本の物は好きみたいやな―――で国営の病院まで行くところやった。そりゃあ勿論お偉いさんを手術するためや。その途中でどえらい化物に襲われてもうてな、ちょうど今の香月みたいな姿をした化物や。

 流石のわいもあれには驚いたで、時速六十キロ出しとる車を片足で止めおった挙句に全くの無傷やったんやからな。シートベルトしとって助かったわ、ほんま。

 でもまあ、なんだかんだ言うても香月はプロや。ナイフで自分のシートベルトとわいのシートベルトを一瞬で断ち切ってわいに何か叫んだんや。逃げろ、言うてるんは直感的に理解できたから車のドアを蹴破って一目散に逃げたんや。こんなとこで死にとうない、こんな訳のわからん化物になんかに殺されとうない、なんて必死に考えとったわ。気が付くと街中化物だらけやった。化物のジェノサイドショーや。最低の見世物やで、ほんま。まあ、今考えると何処に逃げても一緒やったと思うんやが、命が係ってるとなるとそうもいかへん。

 必死こいて逃げて、逃げて、逃げ倒して、その挙句に躓いて転んでしもうて、ここで死んでしまうんやな、って覚悟を決めたそのときやった。そこらへんに綺麗な白くてふわふわした物が降ってきおったんや。最初は雪かなて思うておかしいなぁ、って考えとったんや。そん時は真夏やったから雪なんて降る訳がない。そうやろ? ほんで、よく見てみたら鳥の羽やったんや。今までに見たことのない鳥のごっつ綺麗な羽やった。それが、あちこちに舞い散っておったんや。それで、最期ぐらいは綺麗なもん見てから死にたい思うて上を見てみたら、それ以上に綺麗な天使がおった。

 そう、天使や。

 その天使がまるで天に祈るようにふわふわと浮いているんや。幻想的で何かの芸術品を見ているみたいやったわ。そこで、心のそこから生への執着心が消え失せた。未練もなくなった。いまここで死んでしまってもかまへん、って本当に思えたわいの生涯のなかで唯一の瞬間やったわ。

 ほんで、その瞬間に竜に食われた。

 上半身を丸ごとがぷっとイカれたわ。

 少年。知ってたか? 人間ちゅうもんは上半身と下半身がさよならしても、その瞬間にショック死しなければ、意識を保ったままでいることがあるんやで? これ、豆知識な。

 そのまま、ずいずいと食道から胃まで真っ逆さまに落ちて行って最後に強力な胃酸で頭から溶かされてわいはその一生を終えた訳や。

 あっけなかったですね。ほな、さいなら。


★ ★ ★


『で終わりのはずやったんやけどな。どういうわけかわいを食いやがった竜に気付いたらなっとった訳や』

 自分を食った化物の姿になるなんてぞっとしない話だった。まあ、朝起きたら巨大な毒虫になっていた、なんて状況に陥るよりかはまだマシだろうけれど。

『まあ、これでわいの話は終わりや。あとはそこで笑い転げてる阿呆にでも訊いてや』

 そう言って大迫さんとの通信は途切れた。

 ぼくも話の内容がショッキングすぎたせいでもうどうでもよくなっていた。

 いまだに笑い転げている香月を後目にぼくはリハビリ室を後にした。


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