13 知らない間にできてた

 峠の病院からお寺に戻って、鈴香は台所で冷たい麦茶を飲むと一息ついた。南斗おじさんは朝から出かけているし、民代おばさんは座敷にいて、婦人会の人たちと夏祭りの打ち合わせ中だ。ひんやり涼しい廊下を抜けて部屋に戻ると、鈴香はベッドに横になった。山の方から聞こえてくる蝉の声は遠くなったり近くなったり。それを追いかけているうちに、何だか頭がぼんやりとしてきた。

「鈴ちゃーん、いる?」

 かすかに聞こえる祐泉さんの声にはっと目を開くと、部屋はなんだか少し薄暗くなっていた。慌てて時計を確かめると、いつの間にかもう五時を回っている。鈴香は立ち上がると窓から身を乗り出した。

「あら、お昼寝してたの?」

 縁側にいた祐泉さんは鈴香に気づくと、こちらを向いた。

「ちょっとドライブしない?友達を街に送って行くついでがあるの」

 鈴香は大きく頷くと、「ちょっとだけ待ってて」とお願いして、冷たい水で顔を洗い、髪を直してから表に出た。祐泉さんは先に車に乗っていて、助手席にはお友達らしき人が座っているので、鈴香は後ろのドアをスライドさせて「お待たせしました」と乗り込んだ。

「じゃ、出発ね。こちら、友達の眞子」

 そう紹介されて後ろを振り向いた顔を見て、鈴香は飛び上がりそうになった。

「初めまして・・・じゃないよね」と言ってにこりと笑ったのは、さっき朱音さんの病室に現れた、大柄な看護師さんだった。

「あ、あの、どうも」

 どう返事していいか判らず、鈴香は何だか泣きたい気持ちになってきた。

「ほら、あんたが怖いからびっくりしてるじゃない。鈴ちゃん、眞子は見た目ほど危なくないから安心してね」と、祐泉さんは笑いながら車のエンジンをかけてバックさせた。

「でも、あの、私、この人と会ったことあるの」

「判ってるよ。鈴ちゃん、また峠の病院に行ったんでしょ?まあ秘密は守ってくれてるから大丈夫だと思うけど、一応気をつけてね」

「ごめんなさい・・・」

 その後に続く言葉が思いつかなくて、鈴香は黙ってしまった。

「別に謝らなくてもいいって。ただ私も面倒はできるだけ避けたいってだけ」

「何せレディース上がりだからね。この人、三回も警察に捕まったことあるのよ」

「まあ全部一晩で帰ってきたけど。十八でちゃんと更生してさ、今じゃこんなヤクザ尼僧よりよっぽど品格があるし」

「ちょっと、眞子と比べられること自体ありえないから。あんた次に捕まったら絶対刑務所行きよね」

 呆気にとられる鈴香を置き去りにして、二人の喧嘩みたいなやりとりは続いた。気がつくと車はもう街まで来ていて、いつも行くショッピングセンターの近くで停まった。

「下手な運転だけど助かったわ。でも、カーブはもっと攻めろよな」

 降り際に眞子さんがそう言うと、祐泉さんは「そこに警察あるから、顔隠して行きなさいよ」と答えた。なのに眞子さんは角を曲がる時に振り向くと手を振って、祐泉さんも軽くクラクションを鳴らすのだった。

「さて、大きな荷物は降ろしたし、ジャスミンでお茶して帰ろうか」


「よう、お元気?」と声をかけてくる常連さんにちょっと挨拶して、祐泉さんは少し離れたテーブルを選んだ。

「今日は普通にコーヒーにしようかな。鈴ちゃんは?ホットケーキ食べる?」

 鈴香は小さく首を振って、ライムソーダを選んだ。祐泉さんはオーダーを済ませると、「なんだかまだまだ暑いね」と椅子にもたれた。

「あの・・・さっきの、眞子さんの事・・・」ずっと黙っているのが辛くて、そう鈴香が切り出すと、祐泉さんは優しく笑ってくれた。

「眞子も私も、怒ってるわけじゃないのよ。ただ、彼女がさっき電話してきて、木津朱音さんの病室に、中学生ぐらいの女の子がいたけど、もしかして例の?って言ったのね。だからまあ、ついでだから会っちゃった方が早いかと思って」

「最初は本当に、誰にも見つからずに帰るつもりだったんだけど」

「わかってるわよ」

 運ばれてきたコーヒーにクリームを入れてかき混ぜながら、祐泉さんは話を続けた。

「鈴ちゃん、朱音さんの彼女の、渚さんとやらと友達になっちゃったんだよね」

「友達だなんてそんな、仲良しじゃないと思う」

「どうして?眞子が言ってたよ。渚さんは鈴ちゃんが来てくれたのが、すごく嬉しかったみたいって」

「でも渚さんって、ずっと年上だもん」

「友達作るのに年なんて関係ないわよ。私だって鈴ちゃんの倍ぐらいの年なのに、友達じゃない」

「え?祐泉さんって、私の友達なの?」

「違うのぉ?だったら私の片思い?それすごくショックだなあ」と、祐泉さんは随分大げさに落ち込んでみせた。

「でも私、中学生と大人って友達になれないと思ってた」

「だったら何だっていうのよ。まあいいや、私たち友達だからね。そして鈴ちゃんと渚さんも」

 鈴香はそろりそろりとライムソーダを飲んだ。その冷たい液体が喉を通って身体に浸みてゆくみたいに、友達という言葉が胸に染み込んでゆく。学校じゃどうやって作ったらいいか判らなかった友達が、知らない間にできていたなんて、どういう事なんだろう。

「眞子も鬼みたいな女だけど、まあ仲良くしてやってよ」

「あの人、本当にレディースだったの?」

「そうよ。今度写真見せてもらうといいわ、死ぬほど笑えるから」

「祐泉さんは、どうやって眞子さんと友達になったの?」

 もしかして、祐泉さんも暴走族仲間だったとかだろうか。

「ま、趣味の仲間ってとこかな。ねえ鈴ちゃん、それよりその、朱音さんって人の事、もう少し何か判った?」

 鈴香はそこで、朱音さんが俳優だった事、本当は二時間ドラマに出るはずだった事を話した。

「なるほどねえ。眞子の話だと、ずっと今の状態が続くようなら転院させられちゃうかもって」

「転院?他の病院に移るってこと?」

「そうね。はっきり言って、峠の病院でこれ以上できる治療はないらしいのよ。だからもっと別の、そういった患者さんに向いた病院か施設に移った方がお互いのためにいいのよね。でも渚さんは彼の家族じゃないから、何も決めることはできないし」

「けど、朱音さんの家族は全然来ないって」

「らしいわね」と呟いて、祐泉さんは頬杖をついた。

「でも保険金だけは沢山出てるらしいから、手続きだけして、ろくでもない病院に入院させて、はいさようなら、なんて事になっちゃうかもしれない。渚さんの事は無視してね」

「そんな…」

「もし彼が目を覚ましたとして、今の状態からだと何か月もリハビリが必要だろうし、すぐに俳優の仕事はできないでしょうね。それでも、眠り続けてるよりはずっといいけど」

 でも、朱音さんが目を覚ましたら、こんどは渚さんがさよならを言うのだ。そうすると彼は一人ぼっちになってしまう。だからといって、彼が眠っている限り、渚さんが付き添い続けるというのも何だかいい事ではない。

「鈴ちゃん、心配なのはわかるけど、あなたが朱音さんの事で色々と悩む必要はないんだからね。それは渚さんと朱音さんの問題なんだから」

 まるで鈴香の心の中を見通したように、祐泉さんはきっぱりとそう言った。そしてテーブルに置いていた車のキーを手にとると「さ、戻るとするかな。あんまり長いこと遊んでると、いないのがばれちゃう」と笑った。


「鈴ちゃんも仁類ちゃんも、せっかく板についてきたのに寂しいわねえ」

 カンパチさんはポテトサラダに使う茹でたじゃがいもをつぶしながらため息をついた。太陽館でのアルバイトも残すところあと一回、鈴香にしてみればそれは、夏休みが終わって学校が始まるという、面白くない現実だった。

「私、ずっとバイト続けたいけどなあ」

 ゆで卵の殻をむきながら、鈴香はそう持ちかけてみた。

「さすがにそれは無理だもんね。また冬休みにでもお願いするわ」

「でも私、その頃にはまた転校してると思うよ」

「そっか、お母さんと東京に行くんだったわね。でも、時々は遊びに来てね」

「わかった。本当は仁類が一人でバイトに来れたらいいんだけど」

 せっかく気に入ってもらってるのに、仁類は一人でバイトに来るのは嫌みたいで、「鈴ちゃんが行かないのは行かない」としか言わない。お金は全部自分が貰える、と聞いてもそれは変わらなかった。

「まあ一歳だからしょうがないな」

 鈴香はちょっと背伸びしてカウンターごしに、テーブルの下で昼寝をしている仁類を見た。

「でも、タクジさんももうすぐ戻って来れるんでしょ?」

「まあ、あと半月ほどの辛抱だけどね。そうだ、鈴ちゃん、白塚さんが帰りにちょっと事務所に寄ってほしいって」

「白塚さんが?どうして?」

「なんかさあ、九月の連休にやるイベントのお手伝いをしてほしいらしいわ。花束のプレゼンターとか、そんな事だと思うけど」

「え?私が?」

「大げさに考える事ないわよ。とりあえず話だけでもきいてみたら?今日の帰りはタクシーを呼ぶから、お迎えの人に連絡だけはしておいてってさ」

 確かに、話を聞くだけなら別に構わないかもしれない。嫌なら断ればいいだけだ。あんまり目立つような大げさな事はしたくない、でもかっこいい白塚さんの世界を覗いてみたい気もして、鈴香はなんとなく行く気になっていた。


 白塚さんの事務所は太陽館から五分ほど歩いたビルの六階にあった。入口で「株式会社ブランシュ」という会社の名前を確かめて、鈴香は少しドキドキしながらエレベータのボタンを押した。仁類は周囲を見回したり、落ち着きがないけれど、とりあえず黙ってついてくる。

 エレベーターを降りると、目の前にいきなりガラスのドアがあって、その向こうはテレビで見るような、いわゆる「会社」という雰囲気の場所だった。デスクが並んでいて、パソコンが何台かあって、女の人が俯いて書類を書いていて、スーツ姿の男の人が電話で真剣に話をしている。

 いきなりここに入っていくのは嫌だなあ、と思っていると、もう一台のエレベーターが止まって、降りてきたパンツスーツの女の人が「何かご用ですか?」と声をかけてくれた。

「私、小梶鈴香と言いますが、白塚さんはおられますか?」

 カンパチさんから教えてもらった台詞を一生懸命に思い出して、鈴香はできるだけはっきりとそう言った。女の人は目を丸くして、「少し待っていてね」と言うと、事務所に入って別の女の人に声をかけた。その人がまた電話をしたりして、鈴香と仁類はしばらく廊下で待たされた。

「やっぱり帰ろうか」

 鈴香は思わずそう仁類に話しかけたけれど、彼はエレベーターが何階にいるかを示す明かりが動くのをぼーっと見つめていた。

「お待たせしました」

 女の人は戻ってくると、さっきより何だか丁寧な感じで鈴香に話かけた。

「白塚はちょっと急用ができて、別の場所にいますので、そちらにご案内します」

 そして彼女はエレベーターを呼ぶと、鈴香と仁類を連れて一階に降りた。そして「今駐車場から車を回してきますので、待っていてくださいね」と出ていった。五分もしない内に、ビルの前に白い乗用車が停まり、さっきの女の人が降りてきて二人を後ろの座席に乗せた。

 一体どこに行くんだろう。不安に思いながら窓の外を見ていると、車はどんどん知らない方へ進んでいった。何度も角を曲がったけれど、案外近くかもしれないし、隣町あたりまで来てしまったかもしれない。

 やがて車はちょっとすすけたビルの立ち並ぶ場所で停まった。外はそろそろ夕暮れが近づいている。そのせいか、辺りにはけっこう人通りがあったけれど、行き交う人々は太陽館の近所を歩いている人より、心なしか厳しい顔つきをしているように思えた。

 道幅は狭くて、自転車が何台も停まっていたり、いわゆるスナックという感じの店がいくつもあったり、更に細い路地の奥の方にもぎらぎらと看板が光っていたり、今までに来たことのない雰囲気の場所だ。

 女の人は鈴香たちを連れて、何だか古い感じのビルに入った。正面に一台だけあるエレベーターには乗らず、薄暗い廊下をまっすぐ行くと階段があって、そこから上がるのかと思っていたら地下に降りるのだった。

「ごめんなさいね、こんな場所まで来てもらって」と、女の人は謝ってくれたけれど、鈴香はとても不安になってきた。

 地下に降りると、廊下ではネクタイを緩めた男の人が一人、段ボールの箱を覗いて何やらチェックしていた。その大きな箱はいくつも積んであって、鈴香たちの通り道も塞いでいる。彼は「あ、すいませんね」と言いながら、見た目よりもずっと軽いらしい箱をせっせとどけてくれた。

 そこを抜けると左側にドアがあって、そこがどうやら地下で唯一の部屋らしい。どうぞ、と通された場所には応接セットが置かれていて、その向こうは衝立で区切られ、明かりもついていなかったけれど、廊下にあったような箱がたくさん積まれているように見えた。

 女の人に「しばらくお待ちくださいね」と言われて、鈴香は仕方なく少し傾いたソファに腰を下ろした。仁類は黙って周囲をぐるりと見回してから、鈴香の隣に座ってあくびをした。蛍光灯の明かりは妙に白々しくて、しかも二本あるうちの一本が時々思い出したように暗くなり、やがてぱちん、と弾けるように元にもどるのが嫌な感じだった。

 もう黙って帰ってしまおうかな、と考え始めた頃にドアをノックする音がして、お母さんより少し年上ぐらいの女の人が入ってきた。花柄のブラウスと紺のベストにタイトスカート姿で、どうやらこのビルで働いている人らしい。

 彼女は「もうすぐ来ますからね」と言いながら、グラスに入ったオレンジジュースを出してくれた。

 なんだか緊張して喉がからからだったので、彼女が出ていくなり鈴香はグラスに手を伸ばした。ところが仁類がその手を押さえて「飲むとだめ」と言った。

「な、なんで?」

 反射的に手を引っ込めて、鈴香はいつになく強引な仁類の方を見た。気のせいか髪が逆立ってるように見えるけど。しかし彼が答える前に再びドアがノックされ、それからゆっくりと開いた。

 入ってきたのは白塚さんではなかった。何となくそれは判っていたように感じて、鈴香は身を固くしてそちらを見たけれど、思わず声を上げそうになった。


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