12 つまらない女の子

「今日は鈴ちゃん、なんだかおネムって感じね」

 カンパチさんはバイトに行った鈴香の顔を見るなりそう言った。

「別に大丈夫だよ」と答えて仕事にとりかかろうとすると、掃除機を引きずってきた仁類が「きのう早く寝ない」と余計な口をはさんだ。

「うるさい!誰のせいだと思ってるのよ!」

 鈴香はむしょうに腹が立って、手にしていたペーパーナプキンの束を勢いよくテーブルに放り出した。

「あら、鈴ちゃんてば、仁類ちゃんのせいで眠れずにいたわけ?恋の予感?」

「違います!いくらカンパチさんでも、そういう事言うと本気で怒るからね!」

「やだ、ごめんなさいね。年とると本当にデリカシーがなくなっちゃって、嫌よねえ。でも仁類ちゃん、鈴ちゃんは駄目でも私は大歓迎だからね」

 仁類はそれには何も言わず、しゃがんで掃除機のコードを引っ張り出している。鈴香はカンパチさんに申し訳ない気持ちになった。ただの冗談なのにイライラして、やっぱり寝不足だからかな。

「そうそう鈴ちゃん、もうすぐ夏休みも終わるし、バイトもあと少しでしょ?オーナーの白塚さんが、一度ケーキでもご馳走したいって言ってるんだけど」

「え、そうなの?」

「公園の脇にあるホワイトムーンってカフェもね、彼が経営してるのよ。今日ちょっと早目に切り上げて、仁類ちゃんも一緒にどうですかって」

「でも白塚さんって社長さんでしょ?なんか緊張しちゃうからやだな」

 だいたいそんな偉い人とケーキを食べて、何を話せばいいのか判らない。

「心配ないわよ。あっちが招待してるんだから、全てお任せしておけばいいの。暢子さんのお迎えの来る時間も、ちゃんと言ってあるから大丈夫よ」


 公園脇のそのカフェは、いつも暢子さんが車を止める場所からそんなに離れていなかった。建物の一階がちょっと高級な感じのブティックで、外階段を上がった二階がカフェになっている。広々としたテラス席は公園に面していて、あちこちに鉢植えの観葉植物が涼しげに揺れている。中は天井が高くて、映画に出てくる外国のホテルみたいな感じだった。

 入口で白塚さんと約束している事を告げると、可愛いメイド服のウェイトレスさんは、鈴香と仁類を窓際のソファ席に案内してくれた。白塚さんの隣に座るわけにはいかないので、鈴香と仁類は並んで座る。それからようやく周囲を見回してみると、けっこうお客さんが入っていた。

 近くの女子大の学生みたいな人。ショッピングバッグを沢山もった、お母さんぐらいの女の人。仕事中らしいスーツ姿の男の人たち。ウェイトレスさんが置いていったワインレッドのメニューを少しだけ覗いてみると、コーヒーの値段はいつも祐泉さんと行くジャスミンよりも高い。夜にはお酒も飲めるみたいだった。

 仁類はあちこち匂いをかいでみたい様子だったけれど、それをやると鈴香に怒られるので大人しくしていた。鈴香もあんまりきょろきょろせずに、そっと横目で隣の席のカップルがどんなケーキを食べているのかチェックした。

「やあ、遅れてすみませんね」

 ふいに聞こえた声にはっとして顔を上げると、スーツを着た男の人が立っていた。鈴香が慌てて立ち上がろうとすると、彼はそれを身振りで抑えて「今日は友達って感じでいきましょう」と、腰をおろした。

 男の人、特にスーツを着た人の年齢となると、鈴香には本当によくわからない。それでも多分、白塚さんはお父さんより年上で、南斗おじさんよりは若くて、だからきっと四十代だと思えた。彼は「ケーキセットでいいかな?」と尋ねたけれど、それで悪いわけがない。鈴香が「はい」と答えてしばらくすると、ウェイトレスさんがケーキを盛り合わせた銀のトレーを運んできた。

「好きなのを選んで。二つでも三つでも、欲しいだけどうぞ」

 夢みたいな白塚さんの言葉に、じゃあ二つ、と言えるわけもなく、鈴香はトッピングにルビーのようなラズベリーをのせたチョコレートケーキを選んだ。仁類、もちろん一つだけだよ、と心の中で注意したけれど、そんなの通じるわけもなく、彼は図々しくロールケーキとショートケーキとフルーツタルトを選んだ。白塚さんは「僕は残念ながら甘いものが駄目なんだよね」と笑って、コーヒーを注文した。鈴香はレモンティー、そして仁類は「水を飲む」と言った。

「鈴香ちゃんがマキオさんの娘さんだって、カンパチさんから聞いてね、びっくりしたよ」

 ミルクも砂糖も入れないコーヒーを一口飲んで、白塚さんは笑った。親しみやすい笑顔だけれど、カンパチさんや南斗おじさんほど、あけすけじゃない感じがする。

「鈴香ちゃんも音楽は好きなの?」

「まあ、普通です」

「でもカンパチさんが、君の歌はいいってほめてたよ。あの人、ああ見えて辛口だから、珍しい事もあるもんだと思ったんだ」

「そんなことないです」

 白塚さんの質問にあれこれ答えながら、鈴香は自分って本当につまらない女の子だなと思った。好きな学科も得意なスポーツも、ずっと続けてるお稽古事も何もない。友達もいなくて、毎日ぼんやり過ごすだけの子だ。

「で、こっちの仁類くんは、狸、なの?」

 言われた仁類はロールケーキを一番に平らげ、今はショートケーキを手づかみで食べていた。

「お行儀が悪くてすみません」と鈴香が代わりに謝ると、白塚さんは「いや、本当に狸だとしたら、こうして人間みたいにケーキを食べているのはすごい事だよね」と、妙な感心の仕方をした。

「彼は誰かに化けているの?」

 そう聞かれて、鈴香は「そうかもしれないです」としか言えなかった。当の仁類はたぶん白塚さんが怖いのだろう、彼の方はほとんど見ずにグラスの水を一口飲んで、「氷をいらない」と言った。

「もう、最初から言えばいいのに」

 仕方ないなあ、と思いながら、鈴香はウェイトレスさんに氷なしのお水をお願いした。

「狸だから氷水は冷たすぎて苦手なんです」と白塚さんに説明すると、「ちゃんと面倒みてあげてるんだね」とまた感心された。

「見た目は大人のふりしてるけど、まだ一歳だからしょうがないです」

「そうか、鈴香ちゃんはお姉さんだからだね」

 すると、取り替えてもらった水を飲んでいた仁類がいきなり「狸の一歳は大人」と訂正した。

「そういう余計な口出しするところが子供だと思う」とやり返すと、仁類は「子供が鈴ちゃん」とだけ言って、フルーツタルトを齧りはじめた。

「まあ二人とも、言い分はよく判ったから」と、白塚さんは笑った。そしてもう一度仁類の方を見ると、「この髪は鈴香ちゃんが染めてあげたの?」と尋ねた。

「いいえ、うちのお寺に来た時からこうだったらしいです」

「それからずっと染め直してないの?」

「そうですけど…」と答えながら、鈴香は急に胸がドキドキしてきた。白塚さんもやっぱり、祐泉さんと同じ事に気がついたみたいだ。お寺に現れて何か月もたつのに、仁類の髪が全然伸びなくて、ずっとオレンジのままだという事に。

 でも白塚さんはそれ以上仁類の髪の話はせず、ポケットから携帯電話を取り出すと、「申し訳ないけど、ちょっと急ぎの用が入ったみたいだ」と顔をしかめた。

「鈴香ちゃんたちは、お迎えの人が来るまでここでゆっくりしていって。追加でオーダーしてくれても全然かまわないよ」

 そして彼はすぐに立ち上がると「ごめんね。また機会があればご馳走するから」と、残念そうに言い、足早に去っていった。その姿を目で追うと、ウェイトレスさんたちがすごく緊張した様子でお辞儀をしているのが見えた。やっぱり社長さんだから、みんな一目おいてるんだ。

 はっきり言って白塚さんがいない方が、のんびりできてずっといいな。こうなると判っていたらケーキを食べずに残しておいたのに、などと勝手なことを考えながら、鈴香は仁類の隣から、白塚さんが座っていた側へと席と移ることにした。

「意味もなく、くっついて座るの嫌だからね」と説明しても、仁類はぼやっとあくびをするだけで、この座り心地のいいソファでひと眠りしたい様子だ。

「寝たら放って帰るよ」と釘を刺しながら腰を浮かせたその時、さっきまで白塚さんの影になって見えなかった席に座っている人と、ふいに目が合った。

 その人は部屋の中なのに黒い帽子を目深にかぶっていて、髪はどうやら後ろに束ねているらしい。黒い長袖シャツのボタンを襟元まで留めていて、小柄な男の人のようでもあれば、痩せた女の人のようにも見えた。腕組みをして、右手を軽く顎にそえて、何だかずっとこちらを見ていたような感じがする。その指にはとても大きな宝石を嵌め込んだ指輪が光っていた。

「やっぱりもう出ようか。暢子さんが来るまで公園で待ってよう」

 急に不安になって、鈴香はそのまま席を立った。仁類は何も言わずについてくる。レジのところで「ごちそうさまでした」と挨拶すると、最初に案内してくれたウェイトレスさんが「白塚からです」と、小さな紙のバッグを差し出した。

 公園のベンチに腰を下ろし、バッグの中を覗いてみると、どうやらクッキーの詰め合わせが入ってるみたいだった。

「すごーい。やっぱり社長さんって感じ」

 まだ中学生の自分と狸の仁類を相手に、まるで大人みたいに扱ってくれるなんて。いつも白塚さんの話をするたびに、カンパチさんがうっとりするのも判るような気がした。

「食べる?」と覗き込んでくる仁類の鼻先からクッキーを遠ざけて、「これは南斗おじさんたちのお土産」と鈴香は断固死守した。


 病室のドアを軽くノックして、それからゆっくりとスライドさせると、鈴香は「こんにちは」と声をかけて顔を出した。洗面台で洗い物をしていた渚さんは振り向くと、「あら、鈴香ちゃん、来てくれたんだ」と笑顔を花開かせた。

「今日もおじさんのお見舞いなの?」

「ううん、おじさんはもう退院したから、今日は渚さんに会おうと思って」と、鈴香は木津朱音さんの病室に入った。

「そうなの?嬉しいわ。ねえ、リンゴジュースと紅茶とどっちがいい?」

「クッキー持ってきたから、紅茶にしていいですか?それとこれ、お見舞いに」

 鈴香は手にしていた小さな花束を差し出した。

「わざわざ持ってきてくれたの?ありがとう!先に生けちゃうね」

「庭に咲いてたのを切っただけだけど」

 正確には、湛石さんが庭に植えている花、だった。また墨をすってほしいと頼まれたので、代わりに少しだけ花を切らせてほしいとお願いしたら、「どうぞどうぞ、なんぼでも」と言ってもらえたのだ。色とりどりのダリアと、百日草と、民代おばさんが植えているローズマリーも、香りがいいので少し混ぜておいた。

「ほーら、いい匂いだね」と言いながら、渚さんはローズマリーの枝を眠っている朱音さんの顔に近づけた。

「ネットで見たんだけどね、こうやって眠ってるようでも、実際には意識があって、ただ話せないだけって事もあるらしいの」

「そうなんですか?」

「うん。でも耳だけはちゃんと聞こえてて、周りの事も全部わかってるって。それ読んでから私、彼の悪口言うのちょっと我慢するようになったわ。そして、できるだけ話しかけるようにしてるの」

 彼女はそれから、ガラスの小さな花瓶に鈴香の持ってきた花を生けながら、「鈴香ちゃんもよければ声かけてあげて」と言った。

「え、えーっと」

 いきなりそう言われても、何と声をかけていいか判らない。「あの…こんにちは」と、恐る恐る呼びかける。仁類にそっくりなその人は、何の反応もみせずに微かな寝息をたてるだけだった。

「彼はこう見えてけっこうシャイだからね。遊び人のくせに」と笑って、渚さんは花瓶を枕元に置き、それからポットのお湯で紅茶を入れてくれた。鈴香は手提げから、白塚さんに貰ったクッキーを取り出すと、サイドテーブルにのせる。

「あら、これ、ホワイトムーンのじゃない」

 この前と同じように、ベッドで眠る朱音さんの足元に腰を下ろして、渚さんはクッキーを手にとった。

「知ってるんですか?」

「まあね。友達が働いてたりして」

「そうなんだ」

 それってもしかしたら、この前のウェイトレスさんかな?そこまで考えて、鈴香はひやりとした。もしあのウェイトレスさんも朱音さんを知っていたら、当然、仁類が彼にそっくりな事に気づいていたはずだ。海釣り公園のお土産屋さんみたいに声をかけてこなかったのは、社長である白塚さんのお客だからって事で、遠慮していただけかもしれない。

 やっぱりここに来ない方がよかった。

 鈴香は急に部屋全体がぐるぐると回っているような気がして、肩で大きく息をした。あれからやっぱり渚さんと朱音さんの事が気になって仕方なくて、また来てしまったけれど、そのうちきっと何かがばれてしまうに違いない。そしたら一体どうしたらいいんだろう。

「鈴鹿ちゃん、なんだか唇が白いよ?寒い?ここちょっとエアコン効きすぎなのよね」

「いいえ、だ、大丈夫です」

「そう?とりあえず紅茶飲むといいわ」

 渚さんは紙コップを二重にして、熱い紅茶を鈴香に手渡してくれた。それを少しずつ飲んでゆくと、回っていた部屋がだんだんとスピードを落とし、やがて静かに止まった。

「ねえ、今日は鈴香ちゃんのお話してよ。いま夏休みでしょ?毎日どんな風にしてるの?」

「うーん、別に」

 ああ、まただ、と鈴香は自分にうんざりした。この前の白塚さんとの時もそうだったけど、誰かに何か聞かれても、本当につまんない人間だから、話すことが全然ないのだ。

「あの、私やっぱり、渚さんのことが聞きたいです」

「私?それこそ別に、だよ」

「でも例えば、この人とどんな所に遊びにいったとか」

「うーん、遊びに行くって言っても、水族館ぐらいかなあ。あそこは本当に何度も行ったわ。鈴香ちゃん行ったことある?」

「うん」

「なんかね、彼はお父さんによく連れてもらったらしくて、お気に入りの場所らしいの」

「そうなんですか」鈴香は小さく頷きながら、だから仁類は魚の名前を知ってるのかなあ、と考えていた。

「彼のお父さんって、彼が四年生の時に出て行ったんだって。それでお母さんはすぐに再婚したの。でも彼は新しいお父さんに好かれなかったのよね。それでもう中学の頃から家出ばっかりしててね、高校には進まずに、先輩のところに転がりこんでバイト生活。でもさ、彼は密かに俳優になりたいと思ってたのね。どうもテレビに出れば実のお父さんに見つけて貰えると期待してたみたい。それにまあまあ悪くない顔してるじゃない。背も高いし」と言って、渚さんは身体を思い切り傾けると、腕を伸ばして朱音さんの短い髪を撫でた。

「それで、一度は上京して劇団の研究生みたいなのになったらしいわ。でもまあ、世の中そんなに甘くなくて、いくらオーディション受けてもそんなに大した役は回ってこなくて、結局またこっちに戻ってきたの。私と知り合ったのはその頃なんだけどね。再びバイト生活に戻ってたんだけど、やっぱり夢をあきらめきれない、なんて事言ってさあ、私から借金して東京とこっちを行ったり来たり」

 渚さんはちょっと口をとがらせ、少しだけ窓の向こうに視線を投げた。

「まあ、どうせそのうち諦めて帰ってくると思ってたら、ちょっと風向きが変わってきたの。なんとオーディションに通って、二時間枠のサスペンスドラマで犯人役をもらったって言うのよ」

「すごい!」

「それがさ、ロックシンガーで、ツアーに行く先々で両親の仇を殺すって役柄なのよね。で、そのためにわざわざ髪をド派手なオレンジ色に染めちゃったのよ。本当にね、目が覚めるような色。携帯で写真見てびっくりしちゃった」

「実際には見てないの?」

 オレンジの髪の朱音さん。それはつまり今の仁類の姿だ。

「残念ながら見てないわ。あのね、彼からその話を聞いたときに、私はチャンスだ、と思ったの。今なら彼と別れられる、ってね。

 だって向こうはこれをきっかけにもっと有名になろうって前向きだし、私に別れ話を切り出されたら却って喜ぶだろうと思ったの。だから、話があるから撮影前にいちど帰ってきてってお願いしたの。そしたら運転中に山道で脳出血起こして、車ぶつけて。私が慌ててこの病院に来た時は集中治療室に入ってて、一週間ほどしてようやく会えたと思ったら、オレンジの髪なんかきれいさっぱり剃られちゃってたわ」

 軽く肩をすくめてみせて、渚さんはクッキーを一つ齧った。

「だからね、彼をこんな目に遭わせたのって私なのよ」

「でも脳出血って、病気なんでしょ?」

「それはそうだけど、タイミングの問題もあるじゃない。かなりハードスケジュールで疲れてたのに、どうしても会いたいって言ったのは私だし、仮に東京で倒れてたとしたら、すぐに病院に運ばれたはずだから、こんなに悪い状態になってなかったと思うのよね。山道で車をぶつけたのは真夜中だったし、通りがかったトラックが救急車呼んでくれたのは随分後だったらしいわ。まだ三月で、すごく寒かったと思うのよ。ずっと一人で、潰れた車の中に取り残されて、少しは意識もあったんじゃないかしら」

 もしかして、仁類はそこに現れたんだろうか。車のぶつかる音を聞きつけて、どうしちゃったのかと覗きに来て、それから…

 そこまで考えて、鈴香は思わず身震いした。

「ほら、やっぱり寒いんじゃない?」

 渚さんは立ち上がると、病室の窓を少しだけ開けて外の空気を入れると、軽く伸びをしながら戻ってきた。

「嫌ね私って。また大人のややこしい話をしてる」

 彼女は束ねていた髪をほどくと、もう一度まとめて、今度はベッドに座らずに軽くもたれた。

「鈴香ちゃんってさ、聞き上手だよね。友達にもそう言われない?」

「え?言われない…けど」

 本当は友達がいないから、何も言われないだけ。

「そうなの?なんか私さあ、鈴香ちゃんといると何でも話したくなっちゃうんだもの」

 それは私に何にも面白い話がないから。鈴香はちょっとみじめな気分でクッキーを食べた。自分だって「ねえちょっと聞いてよ!」っていうほど、人を引きつける話をしてみたいけれど、本当になーんにもないのだ。

「あの…それで、ドラマはどうなったんですか?」

 鈴香はちょっと話題を変えようと思って、気になっていた事をきいてみた。

「もちろんキャスト変更。はっきり言って、彼の代わりになる俳優なんて山ほどいるのよ。ちょうどこないだのお昼に再放送してて、せっかくだからここで彼と一緒に見ちゃった。おひとり探偵彩也子の事件簿・復讐のロックシンガーっての。けっこう面白かったわ」

「そうなんだ」

「でもやっぱり切ないよね。すごい色に髪を染めて、ジムで身体絞って、ギターなんかほとんど弾けなかったのを、友達に習って。それがみんな無駄になっちゃったんだから。せめて撮影がすんでから倒れてたらって思うの」

 鈴香は何と言っていいかわからず、空になった紙コップを両手で弄んだ。その時、誰かが部屋のドアをノックした。続いて「木津さーん」という声とともにドアが少し開き、看護師さんが顔を出した。

「あら、その方は何人目の彼女?」看護師さんは背が高くて肩幅も広くて、金色に近い髪をポニーテールにしていなければ、一瞬男の人かと見間違えそうにな感じだった。

「彼女は私のお友達。こんなチンピラとつきあうような安い女の子じゃないから」と渚さんがふざけると、看護師さんは「見りゃわかるわ」と豪快に笑った。そして「ねえ、身体拭こうかと思ったんだけど、後の方がいいかな」ときいた。鈴香は慌てて立ち上がると「私、もう帰ります」と言った。

 看護師さんがお湯を準備している間に、鈴香は帰り支度をした。渚さんはキャンディを三つ、「帰り道に食べてね」と鈴香に手渡し、「とても楽しかった。気が向いたらまた遊びに来て」と微笑んだ。


 この前は全速力で駆け下りたバス停までの坂を、鈴香はゆっくりと歩いた。山の斜面のあちこちから蝉の声が降ってきて、渚さんがくれたミントのキャンディは口の中で甘く溶けてゆく。

 きっともう渚さんに会わない方がいいに決まってるのに、気持ちはまた会いたい方に傾いている。渚さんはもちろん、眠り続けている朱音さんも、二人の存在は鈴香の心の中で持て余すほどに大きくなってゆく。その事が怖いのに、まるでこの坂を下りるのと同じように、勢いがついて勝手に進んでゆく。

 鈴香は少し立ち止まって、深呼吸してみた。見上げた夏の午後の空は、叩けば音が響きそうに澄み切って、でも誰かがスポイトで一滴だけ秋をたらしたような色をしている。いま、仁類は何をしてるだろう。押し入れにいるのか、木陰にいるのか、それともあの病院で眠っているのか。



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