11 狸が彼の魂を
木津朱音
鈴香は手にしていたメモをもう一度じっとにらんで、それから小さくちぎるとトイレの中に落とし、勢いよく水を流した。外に出ると手を洗い、鏡を見つめて心の中で三回「キヅアカネ」と唱える。
あの日、海辺のお土産屋さんで仁類に向かって「アカネ」と声をかけてきた男の人の事を、鈴香は祐泉さんに話してみた。祐泉さんはその時は「それはちょっと不思議ね」と言っただけだったのに、次の日に届け物をするふりをしてお寺までやってくると、鈴香を庭の隅に連れて行った。
「鈴ちゃん、昨日の話なんだけどね、実は私の友達に、峠の病院で看護師をしてる人がいるのよ。彼女に頼んでこっそり調べてもらったら、本当にアカネって名前の男の人が入院してるって」
「今も?」
祐泉さんは頷くと、「それでね、彼が入院した日付が、仁類がここにやって来た日とちょうど同じなの」と続けた。
「ど、どういう意味?」
「私にも判らないわ。そのアカネって人は、ここからもう少しいったところの県道で交通事故を起こして、峠の病院に運び込まれたらしいの。正確には、運転中に脳出血を起こして、そのせいで車をぶつけちゃったのね。山側だったからよかったけど、反対なら車ごと崖から落ちて、多分助かってなかったって」
「じゃあ、今はもう随分よくなってるの?」
「それがね、手術はしたんだけど、ずっと昏睡状態で目を覚まさないらしいわ」
鈴香は何と言っていいか判らず、祐泉さんの言葉の続きを待った。彼女はいつも「下山」の時に使っている大きなキャンバス地のバッグから手帳を取り出すと、そこに挟んであった小さなメモを手にした。
「鈴ちゃん、ここにその人の名前が書いてある。もし鈴ちゃんが本当にそれが誰なのか確かめてみたいなら、病院に行って、お見舞いの部屋を間違ったふりをして彼に会ってみることはできるわ。でもね、もし誰かに見つかって、何か聞かれても、本当のことを言ってはいけない。でないと私の友達がとても困った事になってしまうから」
「絶対に言わない」
「秘密、守れる?」
「大丈夫」
鈴香は祐泉さんの大きな目をじっと見て、そう約束した。祐泉さんは軽く頷くと、二つ折りにしたメモを鈴香に渡してくれた。
四階の四一三号室。鈴香は部屋の入口に書かれた番号を一つずつ確かめながら、白い廊下を進んでいった。病院の面会時間は午後二時からで、鈴香の他にもお見舞いの人は病室を出入りしていたので少し安心した。それでも看護師さんの姿を見かける度に動悸がして、鈴香は目を伏せたまま足早に歩いた。
病室は廊下の手前が四人部屋で、奥に進むと二人部屋になり、最後に個室になって、その一番奥が四一三号室だった。部屋番号の下に名札を入れる場所があって、そこには確かに「木津朱音様」と書かれていた。
どうしよう。一瞬だけ迷って、でもやっぱり確かめなくてはと自分に言い聞かせて、鈴香は廊下にいる人が誰も自分を見ていないことを確認してから、スライド式のドアに手をかけた。
部屋の空気は廊下よりもひんやりとしていた。窓のカーテンは開けられていて、すっきりと白く明るい光がそこを満たしている。鈴香は後ろ手にドアが閉まったのを確認して、そろそろとベッドに近づいた。
白いカバーのかかった布団を胸元までかけられて、その人は眠っていた。横になっていても背が高いのがよく判る。思い切って視線を彼の顔に向けて、鈴香は無意識のうちに「うそ…」と声を漏らしていた。
そこに眠っているのは仁類だった。すっと通った鼻筋。何もしていなくても少しだけ笑ってるような感じに見える口元。左の頬に小さく二つ並んだほくろ。ただ仁類とは違って、眠っている彼の髪は真っ黒で、とても短くカットしてあった。よく見ると左側の生え際の辺りからずっと、頭の地肌が引きつれたようになっていて、それはお父さんの右腕にある、自転車で土手から落ちて十二針縫ったという傷痕に似ていた。
彼の呼吸はとても微かで、寝息はほとんど聞こえない。鈴香は少しだけ近づくと前かがみになって、小声で「仁類?」と呼んでみた。もちろん返事はない。そばで見る彼の肌は仁類よりも随分白くて、顔の輪郭は少しふっくらしているように思えた。
いま、仁類は本当にお寺にいるだろうか。もしかして、昼間はここで眠っていて、夕方になるとけもの道を通ってお寺にやってくるのではないだろうか。混乱した頭でそんな事を考えながら、鈴香は身体を起こした。その瞬間、ドアの開く音がした。
「あら、お客様?」
入ってきた女の人は、鈴香がいるのに一瞬驚いた様子だったけれど、微笑みかけてきた。
「あ、ご、ごめんなさい!部屋を間違えてしまって!」
鈴香は慌てて逃げ出そうとしたけれど、彼女は全然気にしていない様子で、「ね、よかったらお菓子食べていかない?私ちょっと退屈してたのよね」と言った。よく見ると彼女の手には病院の一階にあったコンビニの袋が提げられている。鈴香は一瞬迷って、それから小さく頷いていた。
「まるでどこも悪くない感じでしょ?」
ペットボトルに入っていた紅茶を紙コップに注ぎ、鈴香に手渡しながら彼女はそう言った。鈴香は丸いパイプ椅子に座り、彼女はベッドの端に腰を下ろした。先にもらっていたチョコチップクッキーを齧って、鈴香は「普通に眠ってるみたい」と答えた。
「でも、もう何か月も眠ったままなの。お医者さんはできるだけの治療はしたって言うけどね」
彼女はまるで自分の髪形の話でもするみたいに、気軽な感じでそう言った。年は「木津朱音」より少し上のように思える。太陽館に来る、OLの人みたいな大人の雰囲気で、セミロングの髪を後ろで一つに束ねている。
「この人と、家族なんですか?」
「ううん、赤の他人。ていうか、俗に言う彼女。でもね、私以外にも彼女ってのは何人もいたみたい」
鈴香はどう返事していいか判らなかった。
「なんかね、容体が少し落ち着いてから携帯チェックしてみたら、私以外の女の子といっぱいメールしたり電話したりしてたの。仕方ないから代わりに、入院してずっと眠ってますってメールしたら、みんなそれっきりよ。たまにここにお見舞いに来る人もいたけど、もう一度来た人はいないわね。今じゃ携帯も電源切りっぱなし」
そう言って悪戯っぽく笑いかけられると、鈴香は何故だか不安になって紅茶を一口飲んだ。
「この人の家族とかは?」
「いるけど、何もしないわ。元々絶縁状態だもん。保険の書類だけはもらいに来たらしいけど」
「じゃあ一人で看病してるんですか?」
「ほとんどは看護師さんがちゃんとやってくれてるわ。でも着替えとか、ティッシュとか、そんなものは私が買ってるかな。それでも家族じゃないから、治療方法とかに口出す権利は一切ないの。本当は彼はどうなってるのか、詳しいことも教えてもらえない。なのに毎日こうやって会いにこないと気が済まない。そのせいで会社を辞めて夜のお仕事に変えちゃって、安いアパートに移って、定期解約して」
彼女はふうっと大きなため息をつき、しょうがないね、という感じに笑ってみせた。
「ネットで色々調べたりしたけど、本当に何がどうなって眠り続けてるんだか。占い師に見てもらったりもしたんだけど、狸が取り憑いてるって言われて、何だか吹っ切れちゃった」
「た、狸?」
「そう。馬鹿げてるとは思うんだけど、その占い師さんが言うには、狸が彼の魂を持って行っちゃったんだって。夜中の山道で事故にあったって聞いたから、思いついたのかしらね。そんな日本昔話みたいな事言われたら、もう笑うしかない感じ」
「じゃ、じゃあ、狸が魂を返してくれたら、この人は目を覚ますんですか?」
「そういう事になるのかな。でも狸が相手じゃ無理よね。罠でも仕掛けに行こうかな」
彼女はそして、空になった紙コップをごみ箱に放り込むと、布団の上から彼の足をゆっくりと撫でた。鈴香は自分の手が震えているのを悟られないように、紙コップにそえた指に力をこめた。
「もしこの人が目を覚まして元気になったら、結婚するんですか?」そう質問すると、彼女は少しびっくりしたように目を丸くして、それから「その反対」と言った。
「実はね、彼が事故に遭ったのは、私に会いに来る途中だったの。話があるからって、わざわざ呼び出したのよ。あなたとは二年間おつきあいしたけど、浮気もされたし、借金もされたし、やっぱり無理ですって、そう言うつもりだったのよ。でもこんな事になっちゃって。
友達はみんな、別れたいんでしょ?逃げるなら今のうちよ、って言ったわ。でも私はそれは違うと思って。もし彼が目を覚ました時に誰もそばにいなかったら、それこそ本当に捨てられたって思うわ。でも私は目を覚ました彼と、ちゃんと話をしてからお別れしたいの。捨てるんじゃなくてね」
鈴香は彼女の気持ちが判るような気もしたし、全然判らないようにも思えた。それに気がついたのか、彼女は急ににっこり笑顔になった。
「ごめんね、大人のややこしい話しちゃって。今の話ぜんぶ、忘れてくれればいいわ。それで、よかったらまた遊びに来て。今度はもっと面白い話しようよ。私、
そう聞かれて、鈴香は一瞬嘘の名前を言おうかと思ったけれど、やっぱり「鈴香」と答えて立ち上がった。
「鈴香ちゃんか。今日は誰のお見舞いに来てたの?」
「おじさん」心の中で南斗おじさんに謝って、鈴香はそう嘘をついた。
「そう。早く良くなるといいわね」
廊下で手を振ってくれた渚さんに小さく頭を下げて、鈴香は周りの人に変に思われないよう、速足で病院の玄関まで急いだ。そして外に出てからは全速力で坂を駆け下りて、ちょうど走ってきた帰りのバスに飛び乗った。
お寺に帰ると、鈴香は真っ先に仁類を探した。座敷の押し入れにはいない、となると今の時間は湛石さんのところだ。庭に降りるためのサンダルを履き損ねて転びそうになりながら、鈴香は湛石さんの離れに向かった。縁側の障子は開いていて、湛石さんは籐の枕に頭を預けて昼寝をしていた。
「湛石さん?」と声をかけながらサンダルを脱いで上がると、湛石さんは「はいおはようさんです」と返事だけはして、まだうとうとと目を閉じている。
「仁類、ずっとここにいた?」と尋ねると、「いたといえばいたし、いいひんかったといえば、おりませんでしたなあ」なんて答えが返ってきた。ボケちゃった人に質問しても仕方なかったな、と思いながら、鈴香は少しだけ開いていた押し入れを全開にした。そこには仁類が丸くなって昼寝していた。
やっぱりここにいたんだ。鈴香はちょっと安心して膝をついた。仁類は片目だけ薄く開くと「太陽館?」と尋ねた。
「それは明日。仁類、ちょっとだけ頭さわっていい?」
「頭、さわ」
その返事をOKということにして、鈴香は手を伸ばすと、仁類の髪の生え際から耳の上がどうなっているか確かめてみた。少しぱさぱさして堅いオレンジの髪をかきわけても、白い地肌には傷ひとつない。髪にからんでいた枯草をつまみ出して、それをごみ箱に捨ててから戻ると、仁類はまた目を閉じている。
「仁類、彼女いっぱいいるの?」
返事はない。
「渚さんって女の人、知ってる?」
「知らない」
こんどは目を閉じたまま返事をして、仁類はくるりと背を向けた。鈴香は何だか腹が立って、パーン!と押し入れを閉めてしまってから、後ろに湛石さんが寝ていた事を思い出した。
「娘さんはちょっとやきもち焼きな方がよろしいな。ええこっちゃ、ええこっちゃ」
湛石さんは目を閉じたまま、笑い顔になってそう言った。
夕方になって、祐泉さんが下山のついで、と言いながら訪ねてきた。彼女が民代おばさんに頼まれていた買い物を渡し終わったのを見計らい、鈴香はもやしの根っことりを中断して、停めてあった車のところへ行った。
病院であった事を全部話すと、祐泉さんは「そうなの」と呟いて腕を組んだ。
「占い師の言った事って本当だと思う?狸が魂を持って行ったのって、仁類の事だと思う?」
「うーん、偶然というには当たりすぎてる感じがするよね」
祐泉さんは長い指で軽く眉間を抑えて「私、基本的に占いなんて信じないんだけど、こればっかりはね」と言った。その様子はいつもの自信たっぷりな彼女とはずいぶんかけ離れていて、鈴香は本当にどうしていかわからなくなってしまった。
夜、ベッドに横になって目を閉じると、「木津朱音」の白い寝顔が浮かんできた。それを振り払うように目を開き、暗い天井を眺めていると、外から波のように押し寄せてくる虫たちの声がいつの間にか渚さんの声になった。
狸が彼の魂を持って行っちゃったんだって。
私以外にも、彼女ってのは何人もいたみたい。
狸が取り憑いてるって。
いつも一体どうやって眠ってたんだろう。鈴香はそれすら判らなくなってきて、何度も何度も寝返りをうった。ラジオをつけてしばらく聞いてみたり、また止めたり、枕元のスタンドをつけて漫画を読んでみたり、そんな事をしても全然眠くならない。
もしかしたら、すごく難しい本を読んだら眠くなってくるかもしれない。
鈴香はベッドを降りると、いとこの天地くんの本棚の前に立った。大学院を出て、今は外国の大学にいる彼の読むような本は、どうせ自分には関係ないし。そう思ってこれまで少しも気にかけていなかった、たくさんの本。ケースに入った難しそうなのが多くて、題名からして、もう読み方が判らなかったりする。まあ、背表紙を眺めるだけで眠くなるかもしれないし。そう自分に言い聞かせて、鈴香は上から順番に題名を読んでいった。よく見ると随分古びた本もあって、昭和に出版されたらしい文庫や雑誌も混じっている。
鈴香は「思想前線」というタイトルの雑誌をためしに手に取ってみた。裏表紙の広告で、お酒のグラスを片手に笑っている女の人の眉があまりにも太いのがおかしくて、他にも何か変な写真はないかな、とページをめくってみた。でも残念ながら中味はほとんど文字ばっかりで、本当はそれをじっくり読んだ方が眠くなるに違いないのに、鈴香はどんどんページをめくっていった。一瞬、どこかで見たような漢字が目に入って、鈴香の指は止まった。
伊東湛石
「あれ、湛石さん?」
何故だか知らないけれど、開いたページに、湛石さんの書いた文章が載っていた。
「狸和尚四十年、だって」
その変な題名にくすっと笑いながら、鈴香はベッドに戻って腰を下ろすと、続きを読んでみた。
先の大戦がまことに悲惨な結末を迎えた時、私はまだ二十歳を迎えていなかった。生来病気がちな子供で、自身はおろか周囲の誰もが、かくも脆弱なる肉体の持ち主が神国の守り手として重責を負うことになろうとは、予想もしていなかった。であるから召集令状を受け取った時の私の気持ちは、ただ国家のために散華するという栄誉に浴する資格を与えられたことへの高揚感のみであった。もちろん女手ひとつで私と姉を育ててくれた母との別れは十分に悲しいものであったが、それと引き換えにもたらされるであろう、栄光への期待にうち震えるほど、当時の私は幼く愚かであった。
それから半年もしない内に、己が心待ちにし、精神的支柱としていたものが実際には完全なる幻想であったという耐えがたい屈辱とともに私は敗戦に直面した。ほどなくその屈辱は後悔へと変わり、更には底知れぬ罪悪感となって私の精神を苛んだ。寝食を共にした若き戦友の多くが先立ち、己は五体満足でのうのうと生き延びている、その事実だけでも万死に値するというのに、若い肉体は飢え、渇き、生存しようという要求を主張して已まないことがひたすらにうらめしかった。
その浅ましい肉体をひきずって故郷に戻った私を更に打ちのめしたのは、母も姉も大空襲の犠牲となっていたという事実であった。親類や近所の者は、お前は運がよかったと慰めてくれたが、私の耳朶を打つその言葉は、お前ひとりが何故生き延びたのか?という苛烈な糾弾でしかなかった。逃げるように故郷を離れた私は、死に場所を求めてうろつくしかなく、見かねた戦友の伝手で闇物資の商いに関わるようになった。
一歩間違えば命を失うかもしれない、そのような仕事にしか私は己の価値を見出すことができず、同類とも言えるやくざ者たちとの争いに明け暮れた。皮肉なもので、そういう人間は不思議なほど死に損なう。いつしか私は、自分には死ぬ事すら許されていないのだという確信を持つようになり、大胆不敵な行動を繰り返した。そしてある日、へまをやらかして深手を負うことになる。
そのまま朽ち果てればよいのである。精神はそう念じるのに、肉体はまたもそれを裏切ってみせた。追手のかかる都会を避け、私はひたすら山中を彷徨した。季節は冬の初めで、秋の恵みの名残があちこちで露命をつないでくれた。それでも傷を負った肉体は思うように恢復せず、歩みは徐々に緩慢になった。そして大雨に降込められたある夜、私は最期を予感しながら泥土の中に昏倒した。
何か暖かいものの感触に目を開くと、既に明るんだ蒼穹が見えた。それを遮るように黒い影が幾つも伸びて、再び私の頬に触れる。頻りに嗅ぎまわるそれらは、狸であった。さてはこいつら私の屍を食らいに来たか、そう思って一喝しようとしたが、その声すら出ないほど私は衰弱していた。にもかかわらず奇妙に明晰な思考を以て、私は己が今ひとたび生を永らえたことの意味を探り続けた。狸どもの鼻面はその間も私の身体のあちこちに触れてまわり、それからようやく何か得心したような気配を残して立ち去っていった。
生き永らえてもよいのではないか。
小さな暖かい生き物たちにそう諭されたような気がして、私は渾身の力を揮い、沢の水を啜り、這いずるようにそこを下った。山仕事に通りがかった者に援けられて近くの荒れ寺に養生の場を得た後、私は仏門に帰依する身となった。
師への深き恩は今更ここに繰り返すまでもないので割愛するが、御仏のお導きによってこのように狸と結縁したことが、私がげんざい狸和尚と呼ばれるそもそもの発端なのである。つまらない話ではあるが、一度くらいは語っておいてよいだろうとも思い、筆を執った次第である。
読めない漢字がたくさんあって、ところどころはっきりと意味がつかめない。それでも大体の内容は理解して、鈴香は溜息をつくと天井を見上げた。
あの湛石さんにこんな過去があったなんて、想像もできなかった。この雑誌が出てから、また三十年ほど経って、いまの湛石さんは狸和尚七十年ぐらいになっているけれど、少しぼけちゃったから、もうそんな悲しい事は忘れただろうか。まあ、少なくとも昔ほどじゃないだろう。でなければ、あんなに呑気にはしていられないはずた。
鈴香はベッドを降りて窓を開けてみた。虫たちの鳴き声がどっと押し寄せてきて、山の夜のひんやりとした空気が流れ込んでくる。思わず二、三回くしゃみをしてから、空を見上げた。深く暗い闇に無数の輝く星がちりばめられて、まるでその一つ一つが小さな瞳のようにこちらを見下ろしている。
戦争に行くってどんな気がするだろう。友達が死んでしまったり、帰ってきたら家族も死んでしまっていたら、どんなに悲しいだろう。
真剣に想像するのが怖くて、鈴香はただその疑問の入口あたりを行ったり来たりしながら夜空を眺めていた。ふいに、庭の砂利を踏む足音がして我に返ると、常夜灯の白い明かりに仁類の姿が浮かんでいた。
「な、何してんの?」一瞬びくっとしてから、鈴香はそう質問した。彼は何も答えずにまっすぐ歩いてくると、「寒いと中に隠れる」と言って窓を閉めようとした。
「判ってるってば」
鈴香は慌ててそれを遮ると、少しだけ身を乗り出した。外とは段差があるので、顔の高さは仁類とちょうど同じくらいだ。
「仁類は、湛石さんが狸和尚って呼ばれてるの知ってる?」
「湛石さんは狸に違う人間」
「それは判ってるけど、何かそんな話きいたことないの?昔はどんな事があったとか」
「湛石さんはずっと人間」
駄目だ、意味わかってないや。鈴香はもうその質問をあきらめることにした。
「ねえ、仁類はずっと人間に化けてるつもり?」
「ずっとの違う」
「じゃあいつまで?」
「そうしない時まで」
それはいつ?と尋ねようとして、鈴香はまたくしゃみをした。仁類は「寒いと隠れる」と言うなり鈴香の肩を押し戻して、窓を閉めてしまった。彼の足音が虫の鳴き声に溶け込んで消えてゆくのを聞きながら、鈴香はゆっくりとベッドに戻り、また深い溜息をついた。
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