10 鈴ちゃんはまだ子供

 車が緩やかなカーブを切ると、街並みの向こうにちらりと青いものが光った。

「あ、海!」

 鈴香は思わず声を上げて身を乗り出した。それはすぐにまた屋根の後ろに隠れてしまったけれど、もう一度カーブを曲がると今度はもう紛れもない水平線が目の前に広がっている。

 どこか遊びに行かない?仁類にそう提案したものの、鈴香には特別にいい場所が思いつかなかった。街で遊べそうな場所に行けばクラスの誰かに出くわしそうだし、それを避けて遠出するとなると、どこへ行けばいいのか判らない。太陽館からの帰り道に、暢子さんに何となく相談してみると、「だったらマリンパークなんかいいんじゃない?」と教えてくれた。

「お寺に行くバス道をずっと進んでいって、峠を越えたら隣町に出るでしょ?海水浴場まではまだかなりあるけど、わりと近くに水族館と海釣り公園があるのよ」

 鈴香はこれまでずっと、お寺に続く山道のそのまた先も山ばかりだと思い込んでいた。でも、言われて車のドアポケットに入っていた地図を確かめてみると、バス道は本当にそのまま峠を越えて、海に面した隣町へと続いていた。

「よかったら車で連れて行ってあげようか。私は時々あっちに行く用事があるから、そのついでにね。鈴ちゃんたちは水族館で遊んでくれば、帰りにまた拾ってあげるわ」

 暢子さんがそう提案してくれて、今日はこうして仁類も連れて出かけてきたのだ。あまり朝が早いと仁類が起きてこないので、昼前に出発して、午後いっぱい遊ぶ予定だった。


「途中に展望デッキがあるから、そこでお弁当を食べるといいわ。でも最初にイルカショーの時間を確認ね」

 お礼を言って車から降りる鈴香たちに、暢子さんはそう教えてくれた。

「大人一枚と中学生一枚下さい」

 水族館の窓口で生徒手帳を見せて、鈴香は二人分のチケットを買った。本当なら大人が買うところだけれど、仁類は鈴香の後ろでぼーっと見ているだけで、いっそ中味に合わせて子供料金にしてほしかった。

 でもまあ背だけは高いし、後ろの人の邪魔になるから大人料金で仕方ないかな、そう自分に言い聞かせて、鈴香は仁類にチケットを渡した。

「太陽館と同じだからね。入口でここをちぎってもらうんだよ」

 仁類は黙ってうなずくと、鈴香の後に続いてゲートを抜けた。中の空気はひんやりとしていて、日差しの強い外から入ると夜みたいに感じるほど暗かった。短い廊下を曲がると、正面にいきなり見上げるほど大きな水槽があって、鈴香はつい「すごーい」と声をあげてしまった。

 水槽の上はどうやら外に続いているらしくて、柱のようにまっすぐな太陽の光が、何本も差し込んでいる。その間を縫うようにして、大きさも色もさまざまな魚がゆったりと泳いでいた。水槽の前では大人も子供も、みんな楽しそうな顔になっていて、口々に「きれいね」だとか「大きいね」なんて言いながら魚たちを見つめていた。

 鈴香は自分も水中にいるような気分になってぼんやりと立っていたけれど、そういえば仁類はどうしているだろうと思い出した。

 振り向くと、仁類は少し後ろに立って、いつものちょっと不思議そうな顔でじっと魚たちを見ていた。水族館に行くよ、と言っても別に特別な反応はなかったけれど、やっぱり面白いのかもしれない。

「すごいでしょ」

 普通の狸にはこんなの絶対に見られないと思うと、鈴香はちょっと恩着せがましい気持ちになった。仁類は鈴香を見ると、また水槽に視線を移して「サメ。くっつくコバンザメ」と言った。

「え、知ってるの?」

 確かに、仁類が見ている先には、猫みたいな目をした灰色のサメが、お腹に二匹もコバンザメをつけて泳いでいる。一瞬驚いたけれど、よく見ると水槽の手前には魚の名前と写真がずらりと並んでいる。なんだ、これを見てたんだ。でもよく考えたら、仁類は字なんか読めないのだった。

「ちょっと、なんであれがサメだってわかるの?」

「知らない。でも知っている」と、仁類は平然としていた。そして水槽の底の奥まった場所にじっとしている、岩みたいにごろりと大きい魚を指さして、「あれの事は、クエ」と言った。

 慌てて写真を探してみると、その魚の名前は本当に「クエ」だった。これは一体どういう事?呆気にとられている鈴香には構わず、仁類は「イルカの向き」と言って、水槽の左手にある通路を指さした。たしかに壁には「イルカスタジアム」という表示が出ていて、鈴香はまず最初にイルカショーの時間を確かめるように、暢子さんからアドバイスされていたのを思い出した。

「仁類さあ、南斗おじさんとかと、ここに来たことあるの?」まさかとは思いながら、そう尋ねてみたけれど、仁類は「ない」としか言わなかった。


 その後も、仁類は次々と鈴香の知らない魚の名前をあげていった。魚だけではない、イルカや、アザラシや、ラッコまでちゃんと知っているのだ。イルカショーを見終わって、展望デッキに並んだパラソルつきのテーブルで少し遅い昼ごはんのお弁当を広げながら、鈴香は、一体これはどういう事だろうと考えていた。

 そういえば仁類は、今まで果物だってそんなに食べたことがないはずなのに、湛石さんからもらった金平糖が何味なのかを知っていた。その知識は一体どこから出てくるんだろう。本当に、祐泉さんが言っていたみたいに、誰かの記憶を読み込んでいるんだろうか。

「鈴ちゃんなぜ食べない」

 ふと気がつくと、仁類は並んだおにぎりに手をつけずにじっと鈴香を待っていた。

「食べるよ。仁類もどんどん食べて」

 鈴香は民代おばさんが作ってくれた三角おにぎりを手に取ると、一口齧った。仁類はそれを見てからようやく食べ始める。きっと梅干しおにぎりがどれか心配で、探りを入れてたんだろう。仁類は酸っぱいものが苦手だから、今日のおにぎりも、海苔の巻き方でどれが梅干し入りか判るようにしてあった。でもよく考えたら、アボカドの熟れ具合が一瞬で判るんだから、仁類にそんな目印は必要ないかもしれない。

「こっちも食べなよ」

 鈴香は別のタッパーに入れてある卵焼きとソーセージも仁類に勧めた。彼はプラスチックのフォークを手にすると、「鈴ちゃんは作った」と言った。

「上手じゃないけどね」

 二人分のお弁当を全部民代おばさんに任せるのも悪いので、鈴香も自分でおかずを作ってみたのだ。でもきっと仁類は、卵焼きがきっちり巻けていなくて、端っこが焦げているのが気になるんだろう。別に味は見た目ほど変じゃないから、という事をアピールするために、鈴香は先にどちらも一切れずつ食べてみせた。すると仁類は納得したみたいで、自分も食べ始めた。

 おにぎりを一つ食べ終わると、鈴香はペットボトルのお茶を飲んで一息ついた。、何だか気持ちがざわざわと落ち着かない。仁類がどうして魚の事を知っているのか、気がつくといつの間にかそれを考えているのだった。

 当の仁類はいつもと変わらない様子で、いびつな卵焼きとソーセージを食べ、空のペットボトルに入れてきた、お寺の井戸水をおいしそうに飲んでいる。

 酸っぱいものと辛いものが苦手で、お茶もコーヒーも苦手で、百パーセントの野菜ジュースと牛乳は飲んで、水道の水より井戸水が好きで、雨水だって飲む。それは狸だから。でも普通の狸は水族館に来ないし、魚の図鑑も読まない。

「鈴ちゃんまた食べない」

 いつの間にかまたぼんやりしていたらしい。鈴香は慌てて二つ目のおにぎりを一口食べた。

「私もういい、あと全部仁類にあげる」

「少しの食べて、急いでお腹がすく」

「いいよ、そしたらアイスか何か買って食べるから」

 そう言って、鈴香は二つ残っていたおにぎりと、卵焼きのタッパーを仁類の前に移動させた。仁類は一瞬困ったような気配を見せたけれど、やっぱりまだ満腹ではなかったらしくて、ぱくぱくとおにぎりを食べ始めた。

そして鈴香がまたお茶を飲んでいると、幼稚園ぐらいの男の子がテーブルに近づいてきた。どうやら仁類のオレンジ色の髪が気になるらしくて、じっと見ている。仁類も同じように男の子を見ているので、鈴香は思わず「ちょっと笑ってあげなよ」と言った。

「笑ってあげ?」

「だってそんな真顔でにらめっこしてたら怖いじゃん。ねえ?」鈴香が話しかけると、男の子は少しだけ笑顔になった。そして「これ自分の髪の毛?」と仁類に尋ねた。

 仁類は「自分の髪の毛?」と、同じ調子で繰り返すと、フォークに刺さった卵焼きを男の子に差し出して「食べる」ときいた。

「だめだめだめ!」鈴香は慌てて、仁類をとめた。

「よその子に勝手に食べるものあげちゃだめだよ」

「どうしてだめ」

「だってほら、アレルギーとかあったら大変じゃない」

 まだ小学校だった頃、同じクラスの子が運動会で友達にもらったお弁当のおかずを食べて、息ができなくなって救急車で運ばれたのを鈴香は思い出していた。ほんの少しだけ入っていたエビのアレルギーという話だったけれど、あの時の先生の慌てた様子やなんかは忘れることができない。

「もう、なんで魚の名前は判るのに、アレルギーのことは知らないの?」

 卵焼きを持ったままぽかんとしている仁類に、鈴香は何だか腹が立った。

「アレレギ」

 仁類はそう真似して、卵焼きを一口で飲み込むと肩に鼻を近づけた。鈴香に文句を言われて、本当はカシカシ噛みたいんだろうけれど、それをやるとまた怒られるからこらえているのだ。仁類の頭が少し低くなったので、まだそばにいた男の子は、思い切ってそのオレンジの髪に指をつっこんだ。

「自分の毛だ」

 男の子は目を丸くして「なんでこんな色してるの?」と言いながら、まるでぬいぐるみにするみたいに、髪をつかんで何度も引っ張った。でも仁類は何も言わず、少し困った顔になってじっと耐えている。見ていた鈴香の方が何だか辛くなってきて、自分も前に同じような事をしたのは棚に上げて、「そんなにしたら痛いよ」と止めに入った。

 ちょっと驚いたように手を引っ込めて、男の子はこんどは犬か猫にするみたいに、仁類の髪を小さな掌で何度もなでた。

「そうそう。それなら大丈夫」鈴香はほっとして、食べかけのおにぎりを平らげた。仁類はテーブルぎりぎりまで頭を低くして、じっとされるがままになりながら、「子供は子狸の同じ」と呟いた。

「あのさ、人間を狸と一緒にしちゃだめだよ」

「なぜだめ」

「だって人間の方が狸より上だもん」

「なぜより上」と、仁類はけっこうしつこく質問してくる。

「例えばさ、動物にはこんなすごい水族館なんか作れないじゃない」

「人間は、ウツボも、イルカや作らない」

「そりゃそうなんだけど」

 ちょっとやりこめられた気分で、鈴香は同意するしかなかった。確かに、いくら大きな水族館を作っても、魚がいなくては意味がないし、それは人間が作れるものじゃない。

 その間も仁類はずっと男の子に頭を撫でられていて、今や背中を丸めてテーブルに顎をのせている。その向こうに、お母さんらしい女の人が慌てて走ってくるのが見えた。

「やだ、ひろくんここにいたの?ごめんなさいね、お邪魔しちゃって」

 お母さんが急いで抱き寄せると、男の子は仁類に「バイバイ」と手を振った。彼が何も言わないので代わりに手を振って、鈴香はペットボトルのお茶を飲んだ。仁類はそのままテーブルに突っ伏すと「眠るになる」とあくびをした。

「いつも昼ごはんの後は昼寝だもんね。ここで寝てれば?私一人で他の場所まわって、後から迎えに来るから」

 お弁当を片付けながらそう言うと、仁類は「ついて行くに決める」と顔を上げた。


 まだ見ていなかった深海魚と淡水魚のコーナーを回り、ラッコの食事を見てからもう一度イルカショーを楽しんで、鈴香と仁類はようやく水族館を後にした。暢子さんとの待ち合わせにはまだしばらく時間があったので、鈴香は道路の向こうの海釣り公園に隣接した、「海の楽園」という大きな店でお土産を買うことにした。

 太陽はずいぶん西に傾いていたけれど、日差しはまだじりじりと容赦ない。海釣り公園の桟橋にいる人たちは、パラソルの影に縮こまり、海面をにらんでじっと座っている。鈴香と仁類はそれを横目で見ながら、エアコンのきいたお店の中へ入った。

 そこは高速道路のサービスエリアに似た感じで、このあたりの名産らしい食べ物とか、おみやげ向きの小物やお菓子なんかがずらっと並んでいて、奥には軽食コーナーもあり、けっこう大勢の人が買い物をしていた。

 鈴香はさっそくプラスチックのかごをとると、おみやげを選び始めた。南斗おじさんには、タツノオトシゴの模様が入ったグラス。民代おばさんには冷蔵庫にメモを貼るための、イルカのマグネット。祐泉さんには小さな海亀のついたボールペン。カンパチさんには熱帯魚のイラストのタオル。暢子さんにはタコの携帯ストラップ。湛石さんには文鎮に使えそうな、ガラスの巻貝を選んだ。

 そして一番迷ったのはお母さんの分だ。鈴香はあれこれ見ながら、もう一度店を一周してみた。仁類はその後ろから黙ってついてくる。

「ねえ、仁類も何か買い物すれば?千円ぐらいで好きなもの選ぶといいよ」

「千円」と首をかしげる仁類を見て、鈴香は彼が数字を読めない事を思い出した。大体、数だって三つぐらいから上は「たくさん」としか言わないんだから。

「好きなのを決めたら持ってきて。そしたら買えるかどうか教えてあげるから。でも食べ物はだめだよ。ここに来た記念で、後に残るものを買わなきゃ」

 仁類は黙って頷くと離れていった。狸が選ぶ記念のお買い物って一体何だろう。鈴香はちょっと楽しみな気分でそれを見送ると、またお母さんへのお土産を探した。次に会う時はもうエステティシャンになってる予定だから、それにふさわしいものがいい。けれど真珠なんかを使ったアクセサリはそれなりの値段でちょっと手が出ないし、安いのは何だか子供っぽい。散々迷って、結局小さな珊瑚をあしらった銀色のブレスレットにした。それから自分の分として、ラッコの赤ちゃんのぬいぐるみを選んで、これで任務完了。そう安心した後で、鈴香はお父さんのことを思い出した。

 どうせ次はいつ会うんだか判らないから、おみやげはパスしてもいいんじゃないかな。そう思う一方で、他のみんながもらっているのに、自分だけおみやげなしと判った時の落ち込み方がハンパじゃないのも想像できた。

「なんで~?マジで何にもないの?なんでそんな冷たいわけ?」なんて感じで、子供みたいに拗ねるに違いない。それも何だか可哀相な気がして、結局、南斗おじさんと柄違いのグラスを買うことにした。

 ようやくすっきりした気分で、さて仁類はどうしてるかな?と店を見回す。ひときわ目立つオレンジの髪は、鈴香がさっきブレスレットを選んだあたりをうろうろしていた。

「何にするか決めた?」と声をかけると、振り向いた仁類の手には貝殻のついた髪留めが握られていた。

「え?これ買うんだ?」

 鈴香は笑いたいのをこらえてそう訊ねた。仁類ってば、鈴香が太陽館で働く時に前髪を留めているのをいつも見ていたから、自分もやってみたくなったのだ。彼のオレンジの前髪をその髪留めで上げて額を出したら、かなりおかしな感じに違いない。これは祐泉さんに報告しなきゃ、と何だか嬉しくなって、ちょっとぐらい予算オーバーでも買ってあげることにした。

「まあギリギリOKかな」

 値段を確かめるためによく見ると、その髪留めはけっこう可愛いのだった。海みたいに深く透き通ったブルーで、真ん中に白く小さな貝殻が幾つか、花束みたいにあしらわれている。狸が使うには勿体ないような感じで、お母さんにもこういうの選んであげればよかったと鈴香は一瞬後悔した。でもやっぱり、真似をするのは癪に障る。

 仁類の買い物も一緒にかごに入れ、鈴香はレジでお金を払った。お弁当は自分がリュックに入れて持ってきたのだから、この荷物は仁類に持ってもらって、鈴香はそろそろ暢子さんとの待ち合わせ場所、水族館のバス乗り場に戻ることにした。でも仁類は明らかに軽食コーナーでソフトクリームやイカ焼きを食べている人達が気になるらしく、そっちばっかり見ている。残ったお金で食べさせてあげようかと鈴香が考えたその時、誰かが声をかけてきた。

「アカネ、アカネじゃん!」

 振り向くとそこには、「海の楽園」とネームの入った青いシャツを着た、大学生ぐらいの男の人が立っていた。彼は仁類の方に一歩踏み出すと「お前、車で事故って峠の病院に入ったって聞いたけど、もう大丈夫なの?」と、まるで幽霊でも見ているような感じで訊ねた。けれど仁類は何も言わず、不思議そうな顔で突っ立ったままだ。

「けっこう重傷らしいって話で、心配してたんだよ。でもなんでそんな色にアタマ染めてんの?もう仕事してんの?」

 男の人は傍にいる鈴香なんか目に入らない様子で、とにかく仁類を「アカネ」だと思い込んで話し続けた。

「携帯も全然つながらないしさ、新しいのに変えたの?いま持ってる?」

アカネって一体誰なんだろう。鈴香は段々と不安になって、こぶしをかたく握り締めた。そこへ、おばさんの二人連れが「お兄さん、このちくわの賞味期限ってどこに書いてあるの?」と割り込んできた。

 彼がその応対をしている隙に、鈴香は一言だけ「人違いだと思います!」と断って、仁類のシャツの裾をつかむと、大急ぎで店の外へ引っ張り出した。

 一息ついて、「誰あれ、知ってる人?」と問いただしても、仁類は首を振るだけだ。とにかく急いでこの場所を離れよう。そう思って鈴香は足早に水族館のバス乗り場を目指した。そして道路を渡ろうとしたその瞬間、いきなり後ろからリュックを強く引っ張られて、思い切り尻餅をついてしまった。

「いったーい!」わけが判らずに振り向くと、犯人は仁類だった。

「何すんのよ!」周りに人がいる場所で尻餅をついた恥ずかしさで、鈴香はすごい勢いで仁類を怒った。

「車が来て、踏まれる」

「そんなの判ってたよ!」

 本当は道路を走っている車の事なんか忘れていたけれど、そうでも言わないと気が済まない。怒られた仁類はこらえきれずに肩をがぷっと噛んで、しばらく黙っていた。ジーンズのお尻をおおげさにはたいて立ち上がると、鈴香はまた足早に、こんどは車に気をつけて道路を渡った。

 水族館の駐車場の奥にあるバス乗り場への歩道を、西日に炙られながら歩いてゆくと、すぐ後ろで仁類の声がした。

「鈴ちゃんはまだ子供の知らないけれど、車は本当で怖い」

「そんなの知ってるよ!」

「猪はぶつかっても跳ね飛ばされてだけ。車は、踏まれるとぺたんこ」

 仁類はいつになく、長くしゃべった。

「仁類と一緒で生まれた狸は、車が踏んだ。後で見る時、道でぺたんこにしていた。すごく本当。それは嫌なこと」

 その言葉を聞いて、鈴香の頭の片隅に、お母さんとお寺に来る時にタクシーから見た光景がよみがえった。

「それは仁類の大きく大きな、嫌なこと」

 仁類はそう繰り返すと、黙ってしまった。でも地面の影を見れば、彼がすぐ後ろを歩いていることは判る。鈴香はその細長い影に視線を落としたまま、唇をかんだ。あの時、タクシーの運転手さんは「狸せんべい」なんて言っていたけれど、もしかしたらあの狸が仁類のきょうだいだったかもしれないのだ。

 そんな事があったから、鈴香のことも心配してくれたのに、どうしてあんな風に怒ることしかできなかったんだろう。我慢できずに肩に噛みつくほど、仁類は傷ついたのだ。鈴香に何度も噛みつかれて、穴があきそうなのは仁類の心だった。

 ちゃんと謝らなきゃ。

 気持ちはそう思うのに、どうしていいか判らない。もしかしたらお母さんも、鈴香やお父さんに色々と怒った後で、こんな気持ちになっていたのかもしれない。それでも鈴香とお母さんは親子だから、自然と仲直りもできた。でも仁類とは親子どころか、人間と狸だ。一体どうすればいいんだろう。

 あれこれ悩んだままバス停に着くと、鈴香は日よけの下のベンチに腰を下ろした。仁類はおみやげの入ったビニールバッグを提げたまま、黙って傍に立っている。どうやらバスは出たところらしくて、周囲には誰もいなかった。鈴香は背中のリュックをおろして、中から金平糖の入ったのど飴のケースを取り出した。

 そのカラカラという音が聞こえただけで、仁類は隣に腰を下ろし、こちらをのぞきこんでいる。よかった、そんなに怒ってるわけじゃないみたい。少しだけ安心して、鈴香は掌に金平糖を五つほど転がすと、仁類に差し出した。彼はそれを両手で受け取り、一瞬で口に放り込んで、ジャリジャリと噛み砕く。

「さっきはごめんね」

 鈴香の口からようやく言葉が出てきた。仁類は少しだけ首をかしげて、唇を舐める。

 もうさっきの事、忘れちゃったのかな。拍子抜けしたような気分で、鈴香はリュックに入れていたペットボトルのお茶の残りを飲んだ。仁類は腰を下ろしたままビニールバッグの中を覗き込むと、鈴香が買ったラッコのぬいぐるみを取り出した。

「これ狸」

「海で狸のぬいぐるみなんて売るわけないじゃん。ラッコだよ。貝持ってるでしょ?」

 なんで魚や動物を見れば名前が判るのに、ぬいぐるみの違いは判らないんだろう。本当に変な狸だ。

「鼻くっつけて匂いかいじゃ駄目だよ」

 今まさにやろうとしていた事を指摘されて、仁類は固まってしまった。それから残念そうにラッコをバッグの中に戻すと、今度は自分が買った髪留めを取り出した。やっぱり初めての買い物だから嬉しいに違いない。その様子をちゃんと祐泉さんに報告しようと思って、鈴香は横目でじっと見ていた。

 彼は髪留めをしばらく色んな方向から眺めていたけれど、いきなり鈴香に向かって「あげる」と差し出した。

「え?あげるって、私に?」

「あげる」

「でもそれ、仁類が買ったんじゃない」

「仁類が欲しいのは、食べ物しか」

 鈴香があっけにとられていると、仁類は腕を伸ばし、「こうすると使う」と言って、鈴香の前髪を一束すくうと髪留めでまとめた。

髪のひっぱられる感じからすると、どうやら髪留めはちょっと変な具合についているみたいだ。それを直すのも悪いようでじっとしていると、仁類は「鈴ちゃんはまだ子供の知らないけれど、これはプレゼントという」と付け加えた。

「そんなの知ってるよ!」

 ようやく魔法が解けて身体の自由が戻ったような気がして、鈴香は大声を出した。仁類はちょっとだけ鼻先を肩に近づけて、それから軽く頭を振った。その仕草に胸の奥がちくりと痛んで、鈴香は小さく「ありがとう」と言った。

「でもさ、仁類はどうしてプレゼントの事を知ってるの?ていうか、さっきの人は誰?アカネって仁類のこと?」

 仁類は「知らない」と言って、大きなあくびをした。


 暢子さんは約束の時間より少しだけ遅れて、二人を迎えに来てくれた。鈴香を見るなり彼女は「あら、髪留め買ったの?よく似合ってる」と言ってくれた。けれど鈴香はどうしても仁類にもらったと言い出せなくて、「うん」と言ったきり、サイドミラーを覗いて髪留めをつけ直すだけだった。仁類はというと、そんなの全く聞いていない感じで、車に乗るなり後ろの席で丸くなって眠ってしまった。

 沈みかけた夕日に照らされながら、車は元来た山道へと入ってゆく。鈴香はふと思いついて、「峠の病院ってどこにあるんですか?」ときいてみた。

「峠の病院?ああ、聖テレジア病院の事ね。誰か入院してるの?」

「そうじゃないけど…」

「ほら、もうすぐ見えてくるわ。右側の山の方よ」そう言って暢子さんがハンドルを切ると、緩やかな山の斜面の上に、白い建物が見えた。

「昔は結核の患者さんのサナトリウムだったところを、病院に建て替えたの。この辺じゃ大きい方よね。峠にあるから峠の病院って、聖テレジアより憶えやすいから皆そう呼んでるわ」

「そうなんだ」

 鈴香は身体の向きを変えて、既に後ろの方へ流れ去ってしまった病院をもう一度よく見た。夕日に照らされてほんのりオレンジに染まった白い建物。ほとんどの病室の窓には明かりが灯っていて、どうやらそこには何人もの人が入院しているみたいだった。やがて車は次のカーブを曲がり、病院は視界から消えた。そして鈴香が下ろした視線の先には、仁類が丸くなって眠っていた。


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