9 真珠はどうやってできる

 夏風邪もすっかり治って、鈴香は仁類とまた太陽館へバイトに行けるようになった。

 そのいちばん最初の日、店に続く外階段を下りる途中から、仁類は何だかそわそわしていて、ドアを開けるとすぐにその理由が判った。カンパチさんの茶飲み友達、近所のコンビニのおばさんが遊びにきていたのだ。それだけなら珍しくないけれど、テーブル席でくつろぐおばさんの膝には茶色いトイプードルが抱かれていた。

「あら、お二人さんご苦労さま」

 おばさんはいつものようにコンビニの若草色の制服を着ていて、それと同じような色の裏メニュー、青汁牛乳を飲んでいた。そして膝のプードルは、鈴香たちが入っていくなり立ち上がって激しく吠えた。

「駄目よチロちゃん、静かにしなくちゃ」と、おばさんはプードルをなだめたけれど、一方の仁類は見たことないほど緊張した顔つきで、入口のすぐ脇の壁にぴったりと背中をつけていた。オレンジの髪はまるで寝癖がついたみたいに逆立っている。

「あーら、やっぱり狸だって判るのかしら。ワンコってすごいわね。でもまだ小さいから怖くないわよ、仁類ちゃん」と、カンパチさんはカウンターの中から声をかけた。

 固まっている仁類がそれ以上近づかないと判ったのか、プードルはしばらくすると吠えるのをやめて、またおばさんの膝にうずくまった。そうしていると、まるでぬいぐるみの熊みたいだ。鈴香は思わず「ちょっと触ってもいいですか?」と聞いてみた。

「どうぞどうぞ。チロちゃんは若いお姉さんが好きなのよ、私みたいなね」と、おばさんはプードルを鈴香に抱かせてくれた。

 別に少しなでるだけでよかったんだけど。でもそう言えるわけでもなく、鈴香は恐る恐るチロを抱いてみた。実はプードルなんて抱くのは初めてで、ぬいぐるみとは違って小さいながらもちゃんとした重さがあるのが何だか不思議だった。そして掌からはその温もりと、じっとしていられない元気のよさが伝わってくる。

「まだ子犬なんですか?」

「そうよ、先週からようやく外を散歩できるようになったの」

「だからって、ずっと抱っこしてたら散歩になんないじゃない」と、カンパチさんが突っ込むと、おばさんは「だって地べたに降ろして病気になったりしたらかわいそうじゃない」と反論した。

「過保護なんだからねえ」とカンパチさんは笑ったけれど、それも仕方ないような気がする。そのうち、だんだん腕が重くなってきて、鈴香はチロを胸元に抱き寄せた。するとチロは濡れた鼻面を伸ばしてきて、頬をぺろぺろと舐めた。

「うわあ、くすぐったい!」

 首をすくめて鈴香は声をあげた。子犬ってすごく可愛いなあ、そう思いながらはっと気がつくと、壁に貼りついたままの仁類が何だか複雑な顔つきで、じっとこちらを見ている。髪はもう逆立っていなかったけれど、かといってふだんののんびりした感じではない。何だろう、と考えたところでチロが頬をまたぺろりと舐めて、それで鈴香はようやくわかった気がした。

 たぶん仁類は、どうしてチロは鈴香の頬を舐めてもぶっとばされないのか、それを考えているのだ。

 そんなもん、狸と子犬じゃ全然違う。

 チロはきれいな家の中で大切に育てられていて、外を散歩したこともないのだ。仁類みたいに、トカゲやなんかの変なものを食べている狸とはわけが違う。だから鈴香は自分に言い聞かせるような大声で、「この子、本当に可愛いね」と念を押した。

 すると仁類は顔だけこちらを見ながら壁伝いにじりじりと移動していって、最後に一番奥のテーブルまでたどりつくと、その下にもぐりこんでしまった。

「お兄ちゃん、今日はご機嫌斜めらしいわね」

 おばさんは眉を上げてそう言うと、残っていた青汁牛乳を一気に飲み干した。

「さてと、それじゃ私も店番に戻るとするか。バイトさんが夏休みで帰省しちゃって忙しいのよ。鈴ちゃんが高校生だったらお願いするんだけどね」

「あら駄目よ。鈴ちゃんはうちの専属なんだから」

「うちの方がいい時給出すわよ。高校入るまでに考えといてね」と言って、おばさんは鈴香からチロを引き取り、「しっかし本当に暑いわねえ」とぼやきながら店を出て行った。けれど鈴香は、せっかくバイトに誘ってもらったくせに、高校生になるまでこの街にいるなんてありえないし、と思っていた。

「仁類ちゃん、拗ねてないで出てらっしゃいよ」

 気がつくと、カンパチさんがテーブルの下を覗き込んでいる。鈴香は慌ててそこへ近づくと「いきなり休憩しちゃ駄目じゃない」と注意した。しかし仁類はちらっとこちらを見ただけで、やっぱりうずくまってじっとしている。

「ま、わかるけどね。ガラスのハートなのよね」と呟き、カンパチさんは立ち上がると鈴香の方を向いた。

「鈴ちゃん、今日はまず、ピアノ拭いてもらっていいかしら。本当は仁類ちゃんに頼もうと思ってたんだけど」

「ピアノ?」

「明日、調律の人が来るんだけど、埃をかぶってたらみっともないからね」そう言って、カンパチさんはステージの照明を入れ、奥の方にあるグランドピアノの蓋をあけた。近くでよく見ると、けっこう古そうだ。

「これね、スタンウェイだったりして、かなり上等なのよ。元々は白塚さんのお家にあったの」

「そうなんだ」と鈴香は頷いた。家にグランドピアノがあるなんて、やっぱりオーナーの白塚さんってお金持ちなんだな、と感心してしまう。カンパチさんは椅子を引き出すと「よいしょ」と腰を下ろし、ピアノの蓋を上げると慣れた様子で短いフレーズを弾いた。

「ね、仁類ちゃんって何か歌えたりしないのかしら。前座にでも出てくれたら、またお客さん増えると思うんだけど」

「さあ…歌ってるのは聞いたことないなあ」と鈴香は首をかしげた。

「もしかしたらさ、鈴ちゃんも一緒に歌ってあげたら、何か知ってるのがあるかもよ」

 そしてカンパチさんは「こんなのどうかしら」と、ピアノを弾き始めた。鈴香もよく知っている「翼をください」という曲だ。

「カンパチさん、すごく上手」

 出だしを聞いただけで、鈴香にはそれがよく判った。音楽の先生が授業で弾いてくれる伴奏よりも、ずっと素敵な何かがそこには流れている。カンパチさんは照れたように笑って指を止めると、「これでも私、昔はピアニスト目指してたのよ」と言った。

「ピアニスト?すごい!」

「子供の頃から、友達と遊ぶよりも練習練習って生活してて、ストレートで東京の音大に入ったんだけど、そこでいきなり夜遊びデビュー。ピアノそっちのけで、自分らしく生きることに没頭しちゃったのよ。まあ、そんな調子じゃピアニストになれるわけもなく、流れ流れて太陽館なの。だからいまだに実家の両親とは絶縁状態。まああっちが怒るのも当然よね」

 鈴香はなんと答えていいか判らなかった。カンパチさんはすっかり大人だと思っていたのに、お父さんと喧嘩してしまった自分と、そんなに変わらないんだろうか。

「ま、そんな私の下らない話はどうでもいいの。鈴ちゃんが歌ってみせれば、仁類ちゃんも一緒に歌えるかもよ」と、カンパチさんはもう一度「翼をください」を弾き始めた。鈴香は何だかその勢いに逆らうことができなくて、あきらめ半分で歌うことにした。

 こうして歌うのってずいぶん久しぶりみたいな気がする。カラオケもずっと行ってないし、学校の音楽の授業も出てないし、何より、目立たないためにずーっと授業では小さな声で歌っていたのだ。でもやっぱり、誰かがピアノを弾いてくれて一緒に歌うのってちょっと楽しいかもしれない。ううん、本当にすごくすごく楽しい。

 鈴香は自分が地下のライブハウスにいるのを忘れて、どこか空の高い場所へ駆け上って行くような気持ちになった。


「すいませーん、受取りお願いします」

 気がつくと鈴香はまた地面に立っていて、ドアのところでは荷物を抱えた宅配のお兄さんが覗きこんでいた。

「いいところで邪魔が入っちゃったわね」と、カンパチさんは残念そうに笑いながら立ち上がると、荷物を受け取りに行った。

「ね、鈴ちゃんってやっぱりお父さん譲りで歌が上手ね。たんに音程がどうこうっていうんじゃなくて、声にちゃんと気持ちがこもってる」

戻ってきたカンパチさんは、またピアノの前に座るとそう言った。

「別にそんなんじゃないし」

 鈴香は急に、楽しくて本気で歌ってしまったことが恥ずかしくなった。

「照れることないわ。音楽って、なりきるのが大事なんだから。これを弾けばこの私だって英雄になれちゃう、そこがいいんじゃない」

 そう言うと、カンパチさんはいきなり、何かが乗り移ったようなすごい勢いでピアノを弾き始めた。これってたしか有名な曲じゃなかったっけ。そう思ったのも一瞬で、あとはもうカンパチさんの指先が生み出す音の流れに圧倒されてしまった。でも、こんなにすごいピアノを弾くことよりも大切な、自分らしく生きる事って、カンパチさんにとって何だったんだろう。ぼんやりと考えながら立ち尽くしていると、肩に何かが触れた。

 なんだか暖かいけれど、ちょっと思い出せない感覚で、鈴香は不思議に思いながら首を廻らせ、そして大きな悲鳴をあげた。

何か、と思ったのは、仁類の顎だった。いつの間にか彼は鈴香の後ろに来ていて、何だか知らないけれど、その顎を鈴香の肩にのせたのだ。

「何すんのよもう!」

 すぐに飛び退くと、鈴香は仁類を睨みつけた。仁類はといえば、どうしてそんな事をしたのか判らない、といった感じでうろたえている。

「噛まないの!」

 慌ててまた自分の肩を噛もうとしたのを叱ると、彼はかろうじて我慢したけれど、何度かそこに鼻をこすりつけて頭を振った。

「仁類ちゃんたら、こっちに来れば歓迎してあげたのに」と、カンパチさんは気の毒そうな顔をしている。

「実を言えば、さっき鈴ちゃんが歌ってる途中からこっそり覗いてたのよね。どう?仁類ちゃんも歌ってみない?」

 しかし仁類は、今度はピアノの下にもぐりこんでしまった。鈴香はそれを見ていると何だかまた腹が立ってきて、「ほら、ちゃんとピアノきれいに拭きなさいよ」と命令すると、自分は掃除機を取りに行った。


「だから、鈴香もちゃんとしててね」

 いつもの一言で電話は終わり、鈴香は手にしていた子機を戻そうと縁側から茶の間に戻った。民代おばさんは「お母さん、来れなくなって残念ねえ」と声をかけてくれたけれど、鈴香はそれが本当に残念な事かどうか自分でも判らなかった。

 東京でエステティシャンの研修を受けているお母さんは、ニューヨークでの研修を受ける前に一度会いに来ると言っていた。なのにいきなり電話してきて、チケットの都合であさって出発することになったから、もう時間がないというのだ。

「日にちによってチケットの値段がずいぶん変わるらしくて、仕方がないのよ」とお母さんは説明した。南斗おじさんは、こっちから空港まで見送りに行こうかと提案したけれど、夜中に出発する便だからそれも無理という事だった。鈴香はなんとなく、どんな方法を提案したところで、お母さんは全部断ってしまうんじゃないかと感じていたから、それならもういい、と言ったのだ。

「鈴ちゃん、お母さんのこと、そっけないと思うだろ?」

 南斗おじさんは晩酌のビールをごくりと飲んで、そう尋ねた。

「よく判んない」

 そう答えてから鈴香は子機を充電器に戻し、お膳の前に座ると、一口だけ残っていたごはんを食べて「ごちそうさま」と言った。仁類はとっくの昔に食べ終わっていて、鈴香が食べ終わったのを見届けると、いつものように口の周りをぺろりと舐めた。そして黙って立ち上がると、夜の散歩に出かけて行った。

「こっちに会いに来るのが無理でもさ、鈴ちゃん一人で東京に行くぐらいできるよなあ」

 南斗おじさんは二本めの缶ビールを開けて、空になったグラスに注ぎ足した。民代おばさんは「まあ仕方ないわよ。色々とこっちには判らない事情があるんでしょうし」と、お母さんをかばったけれど、南斗おじさんは話を続けた。

「鈴ちゃん、お母さんがああやってそっけないのにはちゃんと理由がある。それはな、お母さんのお母さんもそうだったからだよ」

「え?お婆ちゃんのこと?」

 正直言って、鈴香にとって母方のお婆ちゃんは遠い存在だった。住んでいる街が遠いという理由もあったけれど、何より、数えるほどしか会ったことがない。前の学校にいた頃の友達には、お婆ちゃんとすごく仲の良い子が何人もいて、どうしてうちはそうじゃないのかと不思議に思ったことはある。しかしまあ、よそはよそだし。うちはお父さんからして普通じゃないんだから、他にも変わったことがあっても仕方ないと自分を納得させていた。

「鈴ちゃんは、由美子おばさんの事は知ってるよな」

「うん。名前だけだけど」

 それは南斗おじさんよりも二つ年下の、お母さんには姉さんにあたる人だったけれど、小学校に上がった年に交通事故で亡くなったという話だった。

「お婆ちゃんはさ、由美子おばさんが死んでからもずっと、子供たちの中で由美子おばさんが一番可愛いって思い続けてるんだ」

「うちのお母さんが生まれてからも?」

「そう。お母さんには可哀相だけれど、この子のことはちっとも可愛くないって、お婆ちゃんそう言ってたんだ」

「ちょっと、お父さん」と、民代おばさんは南斗おじさんを止めようとした。けれどおじさんは話を続けたい感じだったし、鈴香も聞いておきたかった。

「でも鈴ちゃんのお母さんは、お婆ちゃんに褒められようと一生懸命だった。出来が悪かった俺と違って、本当に優等生になれる子だったんだ。それがお母さんにとっては不運だったんだなあ」

「どうして?」

「いくらテストで百点をとっても、絵のコンクールで入賞しても、そんなの当り前としか思ってもらえないんだ。お婆ちゃんの口癖は、由美子だったらもっとちゃんとできる、だったからな」

 鈴香はそれを聞いて何だか胸が苦しくなった。お母さんの「ちゃんとしててね」はそこから来ているのかもしれない。

「たぶん今の時代なら、お婆ちゃんは心の病気だって事で、病院で診てもらった方がいいと言われるかもしれない。でもあの頃は誰もそんな事は思いつかなかった。ただ、不幸な事があったから、そうなるのも仕方ないって考えていたんだよ。そして鈴ちゃんのお母さんだけが、お婆ちゃんに認めてもらうために一生懸命だった」

 鈴香はただ、「ふうん」とだけ言って、民代おばさんがグラスに注いでくれた冷たい麦茶を飲んだ。

「お母さんは高校も進学校に合格して、大学も国立に入って、大手企業の関連会社に就職した。世間から見たら本当に素晴らしい事だ。でもお婆ちゃんにしてみればそんなの当然で、由美子ならもっとすごい大学に受かったわよ、なんて言うくらいだった。しかしだ、そこでとうとうお母さんにも目覚める時がくる。といってもささやかな反抗かもしれない。OLになってお金に余裕ができて、俺や友達に誘われてライブハウスに通うちに、気に入ったバンドができた。名前はセンチメンタル・ゼロ。そこのボーカルはチャラチャラした男だけれど何だか憎めない奴で、いつの間にかつきあうようになった」

 それはお父さんの事だった。そこから後は鈴香も知っている話だ。バンドにメジャーデビューの話が来て、実現する寸前にメンバーが一人脱退して、それと同じ頃にお母さんのお腹に鈴香がやって来たのだ。

「ただでさえバンドの追っかけをお婆ちゃんは嫌がっていたけれど、そのメンバーと結婚したい、しかも相手は高校しか出ていない二十歳そこそこの若造で、おまけにもうお腹に赤ちゃんまでいる。どれをとっても受け入れられない事だった。当然大反対だ。お母さんだっていつもならお婆ちゃんの言うことを聞くはずだ。でも、その時は違ってた。生まれて初めてお婆ちゃんに反抗して、自分のやりたいようにやると宣言して家を出たんだよ」

 南斗おじさんはそこで一息ついて、ビールを半分ほど飲んだ。

「鈴ちゃん、お母さんは別に鈴ちゃんに会いたくないわけじゃない。それどころか、きっとすごく会いたいはずだ。でも、その気持ちをうまく伝えられないだけなんだ。代わりに、わざわざ見送りに来てもらうのは悪い、なんてことを考えてしまう。どうしてそんな風だか判るかい?」

 そう尋ねられて、鈴香は黙って首を横に振った。

「お婆ちゃんからそんな風に育てられなかったから、自分の子供にどうやって気持ちを伝えればいいのか、本当に判らないんだよ」

「でも、お母さんの気持ちって、しょっちゅう怒ったり文句言ったり、鈴香にちゃんと伝えてると思うけど」

「そんなのはお母さんが鈴ちゃんに対して持っている気持ちのほんの一部だ。本当はもっと一緒に笑ったり遊んだりしたいんだよ」

「そうかな」

 だってここ一年ほどの間、鈴香は何だか不機嫌なお母さんしか見ていないような気がする。

「まあ、お母さんはそんなだから、槙夫の事を好きになったんだろうなあ。あいつはとにかく自由で、自分の気持ちに素直すぎるところがあるから」

 それはそうだな、と鈴香も思った。お父さんと遊園地に行けば子供の鈴香より楽しそうだし、映画を見に行けば自分が先に泣いちゃってる。ゲームには本気で勝ちたがるし、テレビでおいしそうなラーメン屋さんが紹介されただけで、夜中でも「ラーメン行こっか」と誘いに来たりする。

「でも俺はね、槙夫が鈴ちゃんのお父さんでよかったと思ってるよ。両極端な二人を半々でブレンドしてあるんだから、鈴ちゃんはちょうどいい子供ってわけだ」

「それはどうかな」と、鈴香は少しぬるくなった麦茶を飲んだ。

「でもさ、南斗おじさんはお婆ちゃんとは仲良しなんでしょ?」

「それは難しいところだな。実を言えば、由美子おばさんが事故にあった時、俺は公園で友達と遊んでた。家を出る時に由美子おばさんが一緒に行きたいって言ったのに、邪魔だからって置いてけぼりにしたんだ。それで由美子おばさんは、一人で友達の家に行く途中で事故にあったんだよ。お婆ちゃんは、年上の俺がしっかりみてないからだって怒ったよ。周りの大人たちは、子供にそんな責任はないし、あれは不幸な事故だったと言ってくれたけれど、お婆ちゃんのその言葉は抜けない棘みたいに俺の心に刺さったままだった」

 そこまで聞いて、鈴香は何かすごくいけない事を質問してしまったのに気がついた。でも、おじさんはそのまま話を続けた。

「俺はいつもその事で自分を責めていたし、大人になってからもそこから楽になりたい一心で、バンドやなんかでふざけてばかりいた。その一方で色んなセミナーや宗教に首を突っ込んだりしたし、いわゆるインチキ宗教の信者になって、わざとではないにせよ、人を騙すような事もした。それでいちど警察のお世話になりかけて、ずいぶんと考えなおして、坊主になる修行を一からやってみることにしたんだ。それからまあ色々と回り道はしたけれど、湛石さんに出会ったおかげでこの寺に落ち着くことができたわけだな」

「それって、お坊さんになったことで、気持ちは楽になったって事?」

「ならないね。ただ、そこから逃げないっていう覚悟はできたかもしれないな」

そして南斗おじさんはグラスに残ったビールを飲み干すと、真っ赤になった顔をごつい掌でつるりと撫でた。

「鈴ちゃんは、真珠ってどうやってできるか知ってるか?」

「真珠?貝からとれるんだっけ?」

「そうそう。貝ってのは不思議なもんで、身体の中にとれない石ころみたいなものが入り込むと、それで自分が傷つかないように少しずつ少しずつ、薄い膜でその石ころを包んでいく。それが丸く大きくなったのが真珠だ。長い時間をかけるほど、大きくて綺麗な真珠ができる」

 おじさんはそれだけ言うと、気持ちよさそうに目を閉じて横になってしまった。こうなるともう、あと一時間ほどは起きてこない。民代おばさんは「沈没しちゃった」と呆れながら、冷蔵庫に冷やしてあった西瓜のお皿を持ってくると、何切れか小皿に取り分けた。

「仁類に持って行ってあげて」

 鈴香はうなずくと、そのお皿を片手に立ち上がり、台所に置いてある小さな蠅帳をもう片方の手に提げて縁側に行った。仁類は散歩に行ったところだから、しばらく戻ってこないだろう。

 廊下の端に置いた、豚の形の蚊遣から、線香の煙が漂ってくる。いつの間にか庭からは虫たちの鳴き声が絶え間なく聞こえるようになっていて、季節は少しずつ秋に向かって近づいているようだった。

 西瓜のお皿を縁側に置き、虫よけの蠅帳を開いてその上にかぶせると、庭の砂利を踏む足音が聞こえた。顔を上げると、そこには仁類がいた。

「散歩に行ったんじゃなかったの」

 仁類はきっと、民代おばさんが冷蔵庫に西瓜を入れるところを見ていたのだ。だからタイミングを見計らって戻ってきたに違いない。鈴香はそのがめつさに呆れながら、蠅帳をたたんで「これ仁類のだよ」と言った。彼は縁側に腰掛けると西瓜を一切れ手に取ったけれど、残りをお皿ごと鈴香の方に滑らせると「あげる」と言った。

 とっさに「いらない」と言いそうになって、でもこれは別に仁類のポケットから出てきたわけじゃないからいいか、と思い直し、鈴香は黙って一切れ手に取った。仁類はそれを見てからようやく、自分の西瓜をしゃりしゃりと食べ始めた。

「あのさあ、種はちゃんと出さなきゃだめだよ。明日掃除すればいいから、地面に捨てとくんだよ」

 仁類は西瓜でも葡萄でも、小さな種を吐き出すのが苦手だった。今もやっぱり、ちらっと鈴香の顔を見ただけで、口の中のものを全部飲み込んでしまった。

「あーあ、おへそから西瓜が生えても知らないよ」と脅してみても、平気な顔をしている。自分はちゃんと種を吐き出して、鈴香は手にしていた西瓜を食べ終えた。仁類は二切れ目を半分ほどかじってから、また「あげる」と言った。どうやら残りの西瓜の事らしい。

「もういい。あっちにまだあるから」と答えると、彼はちょっと安心したような顔になって、あっという間に二切れ目を平らげた。

 続けて三切れ目を齧り始めた仁類の横顔を見ながら、鈴香はこの前の太陽館での出来事を思い出していた。プードルのチロの事をわざと大げさに「可愛い」なんて言ってしまって、やっぱり仁類だっていい気はしなかったに違いない。お婆ちゃんに「可愛い」と言ってもらえなかったお母さんの事を考えると余計にそう思えた。

 お父さんはといえば、まさに正反対かもしれない。三人きょうだいの末っ子という点だけは同じだけれど、桃子おばさんと桜子おばさんからはペット扱いされて育ったらしいし、たまにお爺ちゃんの家に集まると、未だに皆から「マキちゃん」と呼ばれていたりする。お婆ちゃんは「今日はマキちゃんの好きなビーフシチュー作ったの」なんて感じに嬉しそうで、全てがお父さん中心に回っていくのだ。もしかしたらそういうのが悔しくて、お母さんはあっちの集まりに全然参加しないのかもしれない。

 そんな事を考えていると、鈴香はお母さんが可哀相になってしまった。子供の頃はお婆ちゃんのために一生懸命頑張って、結婚してからはお父さんが頼りない分、余計にしっかりしようとしているから、いつも不機嫌になってしまうんじゃないだろうか。お父さんよりもお母さんに味方したい気分で、鈴香は膝を抱えた。

 お母さん、ニューヨークで楽しい事がいっぱいあればいいな。

 今までずっと自分だけが我慢しているような気持ちでいたけれど、それはちょっと考えが狭すぎたかもしれない。

「ねえ仁類」

 鈴香は思い切って、この前の事を謝ろうとした。なのにいざ声を出してみると、とたんに喉がつかえたようになって続きが出てこない。仁類は最後の西瓜を一口かじったところでこちらを向いた。

「食べる?」

「いや、そうじゃなくて」と、鈴香は少し慌てた。

「あのさ、あの、子狸って可愛いのかな」

 言いたかった事はそんな風に変換されて、鈴香の口から出てきた。なんていうか、チロは子犬だから可愛くて、だから頬を舐められてもOKだったわけで、狸でも子狸ならたぶん大丈夫だったと言い訳したかったのだ。

仁類はしばらく考えて、「可愛い」と答え、さらに「子犬より大きな可愛い」と付け加えた。

 なんだ、やっぱりチロのこと根に持ってるんだ。鈴香は急にむっとして、「それは実際に見てみないと判んないな」と反論した。

「今は見えない」

「なんで?」

「春の生まれた子狸が今、あんまり子供ではない。鈴ちゃんより大人」

「私のことを狸と一緒にするの、やめてくれる?それに私、仁類より十三も年上なんだからね」

 鈴香にきつくそう言われても、仁類は全く平気そうで、それどころか「鈴ちゃんは今、少し大人にする」と言った。

「え?」と、鈴香が思わず首をかしげると、仁類は「自分で食べ物のとる練習をする」と言った。

「食べ物をとる、練習?」

「そう。カンパチさんのところ」

「あーあ、太陽館のバイトの事?」

「人間は食べ物とお金の同じ。だからお金の練習は、狸が食べ物のとる練習」

「まあそれは、そう言えるのかも」

 狸のくせにけっこうよく解ってるじゃない。鈴香はちょっと感心して頷いた。

「じゃあさ、仁類はどういうつもりでバイトに来てるの?」

 やっぱり人間に化けてるからお金がほしいのかな。だとしたら鈴香がお金を全部受け取って、仁類にはおさかなソーセージを何度か買ってあげただけ、というのはかなり不満なのかもしれない。しかし仁類は「鈴ちゃんの行くから」とだけ言うと、最後の西瓜を全部食べきって、大きなあくびをした。

「だから、私が行くからついてくるだけじゃなくて、ちゃんと働かなきゃ駄目なんだよ」

「お金、大きくもらった?」

 仁類は手にした西瓜の皮を名残惜しそうに見ながら、そう質問してきた。

「え?まあね」と受け流したけれど、鈴香は内心かなり焦っていた。まずい、仁類はやっぱり自分もお金を貰いたいのだ。

「あのさ仁類、お金少し貯まったから、どこか遊びに行かない?」

「どこか遊びに行かない?」

 その言葉の意味を確かめるように、仁類は鈴香と全く同じ口調で繰り返した。本当の事を言えば、鈴香はお給料を貯めて東京のお母さんのところに遊びに行きたかった。けれど今となってはもう無理だし、だったらもう仁類と二人で平等に使ってしまおうと思いついたのだ。

「鈴ちゃんの行くだったら行く」

 仁類はそれだけ言うと立ち上がり、持っていた西瓜の皮をお皿に落とすと、振り向きもせずに闇の中へと姿を消してしまった。




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