8 人間やるのって難しい

 試用期間もどうにかパスして、鈴香と仁類はライブハウス太陽館のアルバイトになった。バイトのある日は、まず仁類を探し出す事から始まる。たいがい湛石さんのところで寝ているけれど、たまに本堂の隅にいたりするから判らない。

「バイトに行くよ」と声をかけると、仁類は眠そうな顔で起き上がり、黙って鈴香の後についてくる。でもすぐに出発できるわけではなく、先に腹ごしらえだ。南斗おじさんや民代おばさんと一緒にお昼ごはんを食べ、少し休憩して、それからようやく出かける用意をする。

 ところが鈴香が身支度を済ませた頃には、仁類は気持ちよさそうにまた昼寝をしている。

「もう、怠け者なんだから。起きろ!」

 鈴香が手にしたリュックを軽くぶつけると、仁類はようやく目を覚ます。民代おばさんの「いってらっしゃい、気をつけてね」という声に送られて二人は参道を下り、山門のそばにある停留所からバスに乗るのだった。

 三十分以上バスに揺られ、終点の駅前から二つ手前で降りてビルの谷間を少し歩くと太陽館。いつも着くのは三時過ぎぐらいだった。カンパチさんは一足先に来ていて、それから鈴香と仁類も加わって開店の準備をするのだ。

 ライブのある日だとカンパチさんの来る時間はもっと早くて、鈴香たちが着く頃にはリハーサルもたいがい終わっている。出演する人たちは開演時間まで控室でネットを見ていたり、外に食事に行ったり、中には駅前のサウナで一風呂浴びてくる人もいた。でも大体みんなちょっと落ち着かない感じで、そんな様子を見ていると、鈴香は今更のように本番前のお父さんと喧嘩してしまった事を後悔するのだった。


 カンパチさんは仁類に初めてに会った時、いきなり「あら可愛い!」と大喜びで、彼が狸だという事はまるで問題外らしかった。それでも仁類がいつもぼんやりしていたり、手先が死ぬほど不器用だったり、最低限の常識でさえち合わせていない事にはすぐに気付いたようで、「できる範囲で働いてくれればいいからね」と言ってくれた。

 もちろん鈴香はそんな展開は最初から予想していたので、とにかく何でも自分が引き受けることにしていた。仁類がやるのは掃除機をかけたり、拭き掃除をしたり、鈴香と行くおつかいの荷物持ちだったり、そんな感じだ。

 それでも彼はテーブルの上の塩やなんかをひっくり返したり、掃除機のコードをぐちゃぐちゃに絡ませたり、次々と失敗をやらかす。おまけにそういう困った事態になると、何も言わずに放り出して、どこかへ隠れてしまうのだ。たいがいテーブルの下のような、押し入れ代わりになる場所にいるのだけれど、一度なんかゴキブリキャッチャーが手に貼り付いた状態で、ステージにあるグランドピアノの下にうずくまっていた。

「仁類ちゃん、絶対に怒ったりしないから、こういう時は早目に自首してちょうだいね」

 カンパチさんはそう言いながら、洗剤とかサラダ油とか、色んなものを駆使して、仁類の手にべったりとくっついたゴキブリキャッチャーのネバネバをとってくれた。幸い、ゴキブリはまだかかっていなかったけれど、それでも自分にはちょっとできないな、と鈴香は感心した。カンパチさんは仁類だけでなく、鈴香にも優しかったし、仕事も丁寧に教えてくれた。

 一方、仁類もカンパチさんの事は嫌いじゃないみたいだった。知らない大人は苦手なはずなのに、初めて会った時から平気でそばに寄って行った。カンパチさんがオネエ言葉を使うからかもしれないし、色々食べさせてくれるからかもしれない。

 いつも開店の準備はまず、前髪をピンクの髪留めで上げる事から始める。ゴムで束ねてみたりもしたけれど、それではちょっと子供っぽいのでやめておいた。こうすると何だか目の前がすっきりして、働くぞ、という気持ちになってくる。仁類はいつもその一連の動作を、不思議そうに見ていた。

 それからまず掃除を始めて、ひと段落つくと鈴香はカンパチさんからメモを預かり、仁類を連れて駅前の高級スーパーまで買い出しに行く。太陽館で沢山使う食材は専門の業者さんが届けていたけれど、細々とした物はこうして補充するのだ。なんでもオーナーの白塚さんはこのスーパーも経営しているらしくて、その関係で安くなるみたいだった。世の中って色んな風につながっていて、鈴香の知らないことは本当に山ほどあるのだった。

 その高級スーパーは、祐泉さんといつも行くショッピングセンターよりも少し照明が暗くて、品物の種類は多いけれど出ている数が少なめで、しかも何だかおいしそうに見えるように並べてあった。流れている音楽は静かだし、そんなに混んでいなくて、走り回る子供もいない。何より、小さい子が喜ぶようなお菓子はあんまり置いてなくて、その代わりに全国各地のお醤油や、色んな太さや形のパスタがずらっと並んでいたり、テレビでしか見たことのない果物が売られていたりした。

 鈴香が頼まれるのはたいがい、無農薬の有機栽培レモンだとかパセリだとか、家では使わないバジルやルッコラといったハーブだとか、アボカドやなんかの果物だった。

 オリーブ油なんかは、決まった名前のものを買えばいいけれど、野菜や果物は質のいいものを選ばなければいけない。特にアボカドはちょうどよく熟したのを選ぶのが難しくて、鈴香は中が少し黒くなったのや、まだ固いのを買ってしまった事がある。しかし仁類は何故だかそれがとても得意だった。幾つか手にとって少し匂いを嗅いだだけで、「これ」と選び出す。五つ買えば五つとも完璧に食べ頃で、カンパチさんに「すごいわ、天才ね」とほめられた。

 おつかいに出るとき、カンパチさんはいつも「ついでにおやつもお願いね」と言ったので、鈴香はその日の気分でプリンやアイス、ロールケーキなんかを買って帰った。それからしばらくは休憩時間。買ってきたお菓子を食べながら、カンパチさんとおしゃべりするのだ。

「痛風予備軍だからあんまり食べ過ぎちゃ駄目なんだけどさ、やっぱこういうのは別腹じゃない?」

 カンパチさんはいつもそう言い訳したけれど、それでも我慢して半分だけを取り分け、あとの半分は鈴香と仁類にくれた。仁類は自分がもらった分も一瞬で平らげて、あとは鈴香が食べるのをじっと見ているのだった。

「鈴ちゃんさあ、仁類ちゃんみたいないい男に見つめられて、何だか困らない?」

「全然。こんなの気にしてたらやってられないよ。それに、いい男でもないし」

「それはアレね、お父さんがかっこいいから、鈴ちゃんは免疫があるのね。私は駄目だわ、ドキドキしちゃう」

「お父さんも別に、どってことないよ」

 それは鈴香の正直な気持ちだった。大体、仁類が何故そんなにじっと見るかと言えば、単に食べ物が気になるからであって、それを食べている鈴香は存在しないも同然なのだ。そして鈴香がお菓子を食べ終わると、なぜか自分の口の周りをぺろりと舐めて、仁類は一番奥にあるテーブルの下にもぐって昼寝をした。

「あーあ、まだ仕事中なのに」と鈴香が呆れると、カンパチさんは「狸寝入りって奴かしらね。でも寝顔も可愛いわね」と気にしていない。それから二人でサラダの下ごしらえをしたり、ゆで卵を作って殻をむいたりするうちに、他のアルバイトの人たちが出てきて、開店時間になるのだった。

 仁類はといえば、テーブルの下で少し眠るとまた目を覚まし、カウンターまでやってきて鈴香たちが何をしているのかと覗き込む。火は怖いし、不器用すぎて包丁も使えないし、一度チーズをつまみ食いして鈴香に怒られてからは、中に入ってこようともしない。本当に役立たずなのだ。

 その間の仕事として、カンパチさんは仁類にチラシ配りをさせることにした。太陽館でのライブはもちろん、人から預かったチラシでも何でも、配れるものは適当に持たせて駅前に送り出す。最初だけカンパチさんが付いて行って教えたけれど、何をどうやっているのか、いつもちゃんと全部配り終わってから帰ってきた。

 本当はどこかにチラシを捨ててるんじゃないかな?鈴香は内心そう疑っていた。仁類に一人でちゃんと働けるほど、責任感なんてものがあるとは思えなかったのだ。ところが何日かすると、チラシについたクーポン券を持ったお客さんが少しずつ来るようになって、鈴香はようやく仁類が真面目に働いていると信じるようになった。

 中には店に来るなり仁類を見つけて「あ、いたいた」と喜んでいる女の人もいて、カンパチさんは「作戦成功ね」と笑った。

「作戦ってどういうこと?」と鈴香が尋ねると、「だってほら、仁類ちゃん可愛いから。絶対に彼目当てのお客さんが来ると思ったの」

 鈴香にしてみれば仁類のどこが「可愛い」のか判らないけれど、大人はけっこうそう思うみたいだった。見た目は一人前なのに中身が一歳の役立たずな狸という、ちぐはぐなところがそう思わせるのかもしれない。

 とにかく、ライブの日なんかに二人でチケットのモギリをすれば、女のお客さんは鈴香よりも仁類の方に大勢並んだ。なのに仁類ときたらチケットを縦に破ったり、ドリンクと引き換えるためのコインを渡し忘れたかと思えば一度に二つあげたり、お手洗いの場所を聞かれてカウンターを指さしたり、とにかく適当だった。

 ところがそんな事をされてもお客さんは少しも怒らず、逆にニコニコと笑って「この人面白い!」とはしゃいでいたりする。中には「ライブ出たりしないんですか?」と質問する人もいて、これにはカンパチさんが「この人ね、狸が化けてるから、それはちょっと無理なのよ」と代わりに答えていたけれど、それがまた「マジ?受ける!」と喜ばれた。

 ともあれ、そんな感じで一通りの仕事をこなし、鈴香と仁類は七時半ごろには太陽館を後にするのだった。もう最終のバスもないけれど、そこは抜かりのない祐泉さんの事、ちゃんと車の手配をしてくれていた。太陽館から五分ほどの場所にある公園の裏通りに行くと空色の軽自動車が止まっていて、鈴香たちが近づくと一度だけ小さくライトを光らせた。

 車の運転席にいるのは暢子のぶこさんという女の人だった。年は民代おばさんと同じぐらいだろうか。レンズに薄く色のついた眼鏡をかけていて、いつも綿の洗いざらしのブラウスにジーンズといったすっきりとした服装に、白髪まじりのショートカットがよく似合っていた。彼女はいつもその時間から、祐泉さんのいる叡李院へと出かけるのだった。

「まあ、ちょっとした宿直みたいなものね」と説明してくれたけれど、叡李院は鈴香のいる晋照寺と違って人も多いし、きっと外から来る人の仕事もあるんだろう。

 鈴香と仁類は暢子さんに会うとまず「こんばんは」と挨拶し、それから仁類が車の後ろの席に潜り込み、鈴香が助手席に座った。

さすがに暢子さんは仁類を「可愛い」とは言わなかった。初対面の時には「まあ、きれいな色に染めてらっしゃるのね」と、オレンジの髪に感心していたけれど、それだけだ。思わず鈴香が「この人、狸だけど人間に化けてるんです」と説明したら、「あら本当?少しも判らなかったわ」と、また感心した。

 そして車が走り出すと、暢子さんはいつも優しく「お疲れさま、お仕事どうだった?」と聞いてくれるので、鈴香はその日の出来事を報告した。仁類のやらかした失敗も情け容赦なく話すのだけれど、彼自身はまるで他人事みたいな顔でじっと外の景色を眺めているのだった。

 暢子さんの車は、バスよりもずっと短い時間で晋照寺に着いた。目的地は更に先の叡李院だから、バス停のある山門ではなく本堂まで回ってもらえるので、鈴香と仁類はわざわざ暗い参道を歩かなくてすむ。これはすごく助かった。

 暢子さんを見送ってからお寺に帰ると、民代おばさんが夕食を準備してくれていて、南斗おじさんもビールを飲みながら鈴香たちにその日の出来事を聞くのだった。といっても報告するのは鈴香の役目で、仁類は何も言わずにせっせとごはんを食べた。

 そして食事が終わると鈴香は民代おばさんを手伝って後片付けをし、仁類はというと、真っ暗な山へ散歩に出かけるのだった。

「毎晩毎晩、雨にも負けず風にも負けず、あいつにはあれが仕事なんだよなあ」

ほろ酔い加減の南斗おじさんは、いつも感心したようにそう言った。

 確かに、どうやら仁類には太陽館でしているのが仕事だという認識はないようだった。だからいつも、バイトに行く時間になっても昼寝をしていて、鈴香が探しに行かなくてはならないのだ。


 ある日いつものように鈴香が探しに行くと、仁類は座敷の押し入れに丸くなったまま、片目だけ少し開いて「今日は行かないのいい」と言った。もう、サボるためにそんな事言うんだ、と思うと腹が立って、「これは仕事なの。お金貰ってるんだよ。こないだおさかなソーセージ買ってあげたじゃない。絶対行かなきゃダメ!」と怒ったら、彼は渋々、といった感じで押し入れから出てきた。

 ところがその日は太陽館に着いた頃から、何だか変な感じがしてきた。スーパーでの買い物から戻ると、外は真夏で暑いはずなのに寒気がする。それでも我慢して働いていたら、段々とめまいがしてきて、ついに鈴香は立っていられなくなった。

「あら大変よ、熱があるみたい」

 鈴香の額に手をあててみて、カンパチさんは本気で心配した。その日はちょうど暢子さんの予定が空いていたので、早目に迎えに来て病院に連れて行ってもらうことができたけれど、鈴香はどうやら夏風邪をひいたらしかった。

「鈴ちゃんは、仁類の言葉をよくの聞かない」

 暢子さんが薬局で薬を貰って来るのを待つ間、待合室の長椅子で横になっている鈴香に向かって、仁類はそう言った。

「どういう意味?」何をするのも億劫で、目を閉じたままで尋ねると、仁類は「今日は行かないのいい、と言葉を聞かない」と答えた。

「出かける前に言った事?」

「あそこの時、鈴ちゃんの声はもうすぐ苦しいの音だった」

「もうすぐ苦しい?」

「そう。すぐに寝ないと、こういう苦しいになる」

 それってつまり、病気になりかけの声だったって事だろうか。

「なんで、ちゃんと言ってくれなかったの?」

「絶対に行かなきゃダメは、必ずそうする言葉なので」

 そりゃ確かに、あの時は仁類がサボりたがってると思い込んでたけど。

鈴香はため息をついてうっすら目を開いた。仁類は床にしゃがんでいたので、彼の顔がちょうど目の前に見えた。待合室の青白い明かりの下で、オレンジの髪は金属のように不思議な光を放っている。相変わらずぼーっとした顔つきだけれど、その黒い瞳はいつも怒られた時に見せる、困ったような気配を浮かべていた。でも、困っているのともちょっと違うな、と鈴香は靄のかかった頭で考え直した。

 そんな瞳は前にも見た事がある。風邪をひいたりして寝ていると、夜遅く帰ってきたお父さんが枕元にやって来て、「すーずー、どうしちゃったの」と髪を撫でてくれる。あの時の感じに似ているのだ。それって、心配って事かな?でも狸の仁類が人間みたいに心配なんてするだろうか。そんな事を思ってはみたものの、どうにも面倒くさくなって、鈴香はまた目を閉じてしまった。


 鈴香の夏風邪は二日ほどで治ったけれど、噂を聞いた祐泉さんがお見舞いに来てくれた。

「ちょっと張り切りすぎちゃったのかしらね。これ、お裾分けよ」

 そう言って差し出された段ボールの箱を覗いてみると、鮮やかに色づいた水蜜桃が並んでいた。何でも妙雪さんのお姉さんが山梨の果樹園に嫁いでいて、毎年水蜜桃を送ってくれるらしい。

「食べきれないほどだから、いつもここに持ってくるの。本当は丸ごとかぶりつくのがおいしいんだけどね」と言いながら、祐泉さんは台所でナイフを借りて皮をむいた。南斗おじさんと民代おばさんは出かけていたので、ふたりの分は丸のままとっておく。

 桃はよく熟していて、ナイフの刃を立てなくても、軽くひっかけて引っ張るだけで面白いように皮がむけた。その甘い香りに惹かれたのか、昼寝していたはずの仁類が、いつの間にか台所に現れた。彼は祐泉さんの傍まで来てその手元を覗き込み、貰えるのを今か今かと待っている。

「まずは湛石さんに食べてもらわなくっちゃね。あと少しだけ我慢よ」と、祐泉さんは仁類の方を振り向いたけれど、その瞬間、彼の口の端からよだれがつーっと垂れた。

「うわ!きったなーい!」

 鈴香は反射的に大声で叫んでしまった。仁類は慌てて肩に噛みつき、シャツでよだれを拭いている。

「駄目じゃない!いつもそこ噛むからペラペラになってきたって、民代おばさんに言われたとこなのに」

 鈴香は立て続けに怒ったけれど、祐泉さんは笑い過ぎて滲んだ涙を指先で拭いながら仁類をかばった。

「まあしょうがないじゃない。人間やるのって難しいよね。仁類は先に湛石さんのところで待ってなさい」

 言われなくても彼は逃げる体勢に入っていて、こそこそと出て行ってしまった。

「あれでけっこう、一生懸命なんだと思うよ」

 もう一度涙を拭って、祐泉さんはナイフを握り直した。

「でもいつも同じような事してるんだもん。進歩なさすぎ。別に無理して人間に化けてなくても、嫌なら狸に戻ればいいだけの話じゃない」

「確かにねえ。でもずっと人間でいるのは、何か理由があるのかもね」

「それはやっぱり食べ物だよ。ここにいれば毎日おいしいものが食べられるもの」

 鈴香には他の理由なんて考えられなかった。


 透き通るように瑞々しい桃を淡い緑色のガラス鉢に盛って、祐泉さんと鈴香は湛石さんの離れを訪ねた。

「お邪魔します。湛石さんご機嫌いかが?」

 祐泉さんが声をかけて入っていくと、湛石さんは「ようお越しやしたな」と喜んで、押し入れに隠れていた仁類を呼んだ。

「ほら、別嬪さんが連れだって来てくれはりましたで」

 がさごそと襖をひっかく音がして、仁類が押し入れから顔を出す。鈴香はそれを横目でにらみ、調子いいの、と思いながら、湛石さんがいつも食事をする時に使っている小さなお膳を出した。

「今年も妙雪さんのお姉さんから桃を送っていただいたんで、お裾分けに伺いました」

祐泉さんもさすがに湛石さんには丁寧だ。桃を盛ったガラス鉢をお膳に載せると、お揃いの小さな取り皿に二切れほどとり、フォークを添えて勧める。

「いつもすまんことですな。こんな立派なもんを」

「桃は不老長寿の薬ですからね。湛石さんには沢山召し上がっていただかないと」

「もう十分に長生きさしてもろてますわ。けど、やっぱり旬のもんはええ味がしますなあ」

 湛石さんはとてもおいしそうに、ゆっくりと桃を食べた。鈴香も自分の分をとり、祐泉さんは仁類に一皿とってあげると「はい、おまちどおさま」と手渡した。彼はそれを受け取るなり、フォークも使わず、流し込むようにして一瞬で食べてしまった。

「ほんまにこの人は勢いよう食べはりますなあ」と、湛石さんは感心している。

「行儀悪すぎ」と、鈴香は釘を刺したけれど、仁類は平然としてこちらが食べるのをじっと見ている。そんなの気にしないで桃を一口頬張ると、柔らかな果肉からその淡い色とは対照的な深い甘みが滲みだした。喉に広がる香りは、目の前がピンクに染まったかと錯覚するほどに強い。仁類ほどじゃないけれど、一皿なんてあっという間だった。

「私はもう十分やし、後は皆さんで分けてくれはったらよろし」と湛石さんはお皿とフォークをおいた。

「あら、まだ沢山あるのに」

「この年になりますとやな、おいしいもんをちょびっとだけいただくのんが、一番の贅沢なんですわ。傍に別嬪さんが二人もいはる時は余計にそうです」

 そう言って湛石さんは顔中を皺くちゃにして笑った。祐泉さんは鈴香に向かって「湛石さんってこの調子だから、うちの尼さんたちも全員ファンなのよね」と言いながら、鈴香のお皿におかわりを入れてくれた。それから仁類のお皿にも取り分ける。

「そう言うあんたさんは、尼さんにさせとくのが何やら勿体ないお人やな。国会議員でも立派に勤まりそうやで」

「頼まれればやってもいいですけどね」

 そうする間に、仁類はもうおかわりを平らげ、大あくびをしている。それを見ていた湛石さんは「なんや、あんたら二人は近ごろお勤めに行ってはるらしいですな」と訊ねた。

「お勤めっていうか、アルバイトだけど」と、鈴香は訂正する。

「まあ、働いてるって事に変わりはないわよね」祐泉さんはようやく自分も食べ始めた。

「仁類さんは、よう働かはりますか?」

「あんまり。まあ狸だし、元から期待してないけど、すごくどんくさい」

「いやいや、狸の身でお勤めしようとは立派な心がけや。それに鈴ちゃんも若いうちから偉いなあ。せやけどここのお寺から街までは遠いさかいに、道中お腹が空きまっしゃろ。これ食べながら行かはったらええわ」

 そう言って、湛石さんはよっこらしょと身体の向きを変え、床の間の脇にある茶箪笥のの引き戸を開けた。「ちょっと仁類さん、手伝ってんか」と呼ばれると、彼はすぐにそばへ行き、湛石さんが引っ張り出したものを受け取った。それはお菓子の空き箱に並べられた小さなジャムの空き瓶で、中には色とりどりの金平糖が少しずつ入っている。

「これ全部まとめて持っとかはったらええわ」

「でもそしたら湛石さんの分が無くなっちゃうよ」

「またそのうちみやこ堂さんが来はりますわ」

 湛石さんは新しい半紙を取り出して、瓶を一つ一つ開けてはその中味をあけてゆく。仁類はふだんとうってかわって真剣な顔つきでその様子を見つめていた。

「これが揮毫料の代わりなんだから、恐れ入るわよねえ」と、祐泉さんは溜息をついた。

「キゴウリョウって何?」

「平たく言っちゃえば一筆お幾らって事。湛石さんなら、すごい金額出す人もいるのにね」

「色紙とか書いてるのが?」

 正直言って鈴香には、あのいたずら書きみたいなものに値段がつくとは信じられなかった。本気でほしがる人がいるだけでも不思議なのに。

「いやいや、世の中には値打ちのないもんに値段つけて取引する、けったいな輩がおりますさかいにな。ほんまのところ、私らにはこれでも十分過ぎる程ですわ」と言いながら、湛石さんは半紙の上に色とりどりの金平糖で小さな山を作った。

「ほな、鈴ちゃんが代表してちゃんと持っててや」

 そう言われると何だか責任重大で、鈴香は恭しくその半紙を受け取った。仁類の視線はそこに釘付け、今にも噛み付きそうなほどに首を伸ばしてくる。

「もう、仕方ないなあ」と、三粒ほどつまんで差し出すと、彼は掌で受けとめてすぐに口へ放り込んだ。ジャリジャリと噛み砕く音を聞きながら鈴香は、この金平糖は春に風邪をひいた時に舐めていた、喉飴のケースに入れておこうと考えていた。







 

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