6 きれいって言葉
太陽館でお父さんと喧嘩した翌日の土曜、鈴香は朝からずっとお寺を留守にした。まあ元々、祐泉さんから用事を頼まれていたこともあるけれど、もしお父さんが来たとしても顔を合わせたくなかったのだ。だから朝ごはんを食べたら、洗濯と部屋の掃除だけ済ませてすぐに出かけた。
祐泉さんのいる尼寺、叡李院は鈴香の住む晋照寺よりも更に山奥にあった。バスの停留所でいえば四つも先だけれど、それは車の走る県道が曲がりくねっているからで、山の中の近道を歩いて行けば十分ほどで着く。
民代おばさんから預かった、おすそ分けの佃煮が入った紙バッグを手にして、鈴香はなだらかな山道を一人で歩いた。昔、バス道路がなかった頃はみんなここを通って行き来していたらしくて、お寺から少し行ったところに、道しるべの石が埋まっている。南斗おじさんによると、そのままどんどん歩けば隣町に抜けるらしい。
夏の日差しは木立に遮られてほとんど射し込まないけれど、薄い緑のカーテンに包まれた部屋みたいに、辺りはほんのりと明るい。時たま下の方からバス道路を走る車の音が聞こえるのを除けば、梢のざわめきと鳥たちのさえずりと、鈴香の微かな足音しか耳に届かなかった。
木立の下には日陰を好きな草が生い茂り、あちこちで小さな花を咲かせていた。途中、一か所だけ山百合が競い合うように生えている土手があって、そこだけむせ返るような香りに包まれていた。それに誘われたのか、白っぽい蝶が何匹か、木漏れ日の中を雪のように舞っていた。
山道はやがて低い土塀につきあたって右に曲がり、更に続いてゆく。土塀の向こうはもう叡李院の敷地で、塀に沿って植えられた楓の陰を歩いてゆくと、門が見えてくる。そこをくぐり、前庭を抜けて薄暗い玄関に入ると、鈴香は「おはようございます」と声をかけた。
祐泉さんはいつも「どんどん中に入って来ていいわよ」と言うけれど、どうもそれを許さない雰囲気がここにはあって、鈴香は何だか誰かに見張られているような気分でじっと待った。
古いけれど、毎日ていねいに磨かれて黒光りしている廊下。波打ったガラス戸の向こうに見える中庭。ひんやりした空気に漂う、晋照寺とはまた違うお香の匂い。静けさに耐えられなくなって、もう一度声をかけようと思ったところへ、いつもの作務衣姿の祐泉さんが現れた。
「鈴ちゃんご苦労さま。一人で歩いてきたの?」
「うん」と頷いて、鈴香はスニーカーを脱ぐと玄関に上がった。
「お客さんもう来てる?」
「あと三十分ぐらいかな。まずは場所だけ確認してね」
そして祐泉さんは先に立って、長い廊下をすたすたと歩き始めた。今日、叡李院では「一日尼僧体験」というイベントがあるのだ。去年から市の青年部と協力して、いわゆる町おこしという企画で始めたらしいけれど、これが予想外に好評だったという事で、今年は募集人数を去年の倍の三十人に増やしたらしい。
「まあさ、尼僧体験なんて言っても、実際はちょっと法話聞いて、座禅組んで、お昼に精進料理食べて、あとは写経するぐらいだけどね」
祐泉さんはそう説明してくれたけれど、鈴香にしてみれば、わざわざ退屈な座禅なんか体験して、何が面白いのかよく判らないというのが本音だ。二人はちょっとした迷路のような廊下を歩き、本堂の脇を抜けて奥の座敷に向かった。
「さすがに三十人まとめて食事できる場所はないから、お昼は三部屋に分かれてもらうのよ。他にもお手伝いの人は来てるけど、鈴ちゃんはお膳を運んだり、お茶のお世話とかをお願いね」
軽い調子で話しながら、祐泉さんは続いて、講堂と呼ばれる、一番広い部屋に鈴香を案内した。そこには細長い机が並べてあって、すぐに写経が始められるように硯や筆といった道具が準備してある。三十人分となると、学校の教室とそう変わらない感じだ。
「こんなに沢山、硯とかあったんだ」鈴香が感心すると、祐泉さんは「それがなかったのよね」と笑った。
「なんせ人数が去年の倍でしょ?まあこれからの事もあるから、この際そろえましょうって話になって、まとめ買いよ。ほら、あそこに有能なセールスマンがいる」
そう言って祐泉さんが目配せした先、部屋の隅には、いつも湛石さんのところに来ているみやこ堂の営業さんが、太った身体を小さく丸めて正座していた。彼は鈴香に気づくと「あっ、どうも」と会釈したので、鈴香も思わず頭を下げる。
「硯や何かを安くしてあげるから、今日ここで写経セットとか売らせて下さいってさ。商魂たくましいっていうか、出世しないはずないよね」
祐泉さんに言われて、みやこ堂さんは「いやいやそんな」、と恐縮した。そして鈴香に「また、今日この後で湛石さんのところにお邪魔しますさかいに」と言った。多分こないだの色紙を受け取りに来るのだ。という事は、また新しい金平糖が増えるのかな。鈴香は図々しくもそんな事を考えていた。
それから鈴香と祐泉さんは台所に向かった。そこには尼さん達の他にも、割烹着やエプロン姿の女の人が何人かいて、お昼に出す精進料理の準備をしていた。もうお料理はほとんどできているらしく、あたりには煮物の椎茸や昆布の優しい匂いが漂っている。お料理はちょっと料亭っぽいお弁当箱に盛りつけられるらしくて、皆はその作業に忙しそうだった。
「お茶はやかんに入れてここに置いておくからね。鈴ちゃんはそれを運んでいって、注いであげて。一通りすんだら、あとはお代わりの欲しい人がいないか、ゆっくり見回ってくれればいいわ。今からお昼ごはんまでは、ここで妙雪さんのお手伝いしていてね」
妙雪さん、というのは祐泉さんの先輩にあたる尼さんで、祐泉さんとは対照的に物静かで小柄だ。お弁当箱を布巾で拭いていた彼女は、鈴香に向かってゆったりと会釈してくれた。
そこへ祐泉さんが作務衣の懐に入れていた携帯が短く鳴った。
「そろそろみたいね。じゃ、よろしく!」
祐泉さんは携帯を取り出し、ディスプレイをちらっと見ると、それだけ言って足早に玄関へ向かった。
「一日尼僧体験」のお客さんは、ほとんどが二十代から三十代の独身OLという感じの人たちで、たまにもう少し上で鈴香のお母さんぐらいの人もいた。座禅の後で足がしびれて転び、襖を外してしまう人がいたり、食事の時にお茶をこぼした人がいたり、ちょっと慌てるような事はあったけれど、まあ全体としては予定通りに進んだみたいだ。
お昼ごはんがお終わってちょうど写経が始まった頃、いきなり外が暗くなって雷が鳴り、ひとしきり激しく雨が降ったけれど、そのおかげで随分と涼しくなった。写経を済ませたお客さんは雨上がりの庭を散歩したり、座敷でお茶を飲みながらお喋りしたりして、残りの時間を過ごしていた。
そして四時になると、お客さんたちは来た時と同じ、二台のマイクロバスに乗って帰っていった。中には「本気でここで修行したいかも」とか言いだす人もいて、イベントはちゃんと成功したみたいだった。
鈴香が祐泉さんを手伝って写経の道具を片付けていると、隅の方でみやこ堂さんが荷物をまとめていた。
「かなり儲かっちゃったんじゃないの?」と祐泉さんが声をかけると、「いやまたとんでもない」と恐縮している。そして彼は鈴香に向かって、「よろしかったらお寺まで送りましょか?」と訊ねた。祐泉さんも「そうね、車に乗せてもらったら?」と言ったけれど、鈴香は首を振った。
「まだ掃除が終わってないし、歩いて帰るから大丈夫です」
本当の事を言えば、今の時間だとお父さんが現れる可能性があるから帰りたくない。とにかくできる限り叡李院でゆっくりして行きたいのだ。
「ほな、お先に失礼します」と去っていくみやこ堂さんを見送ってから、鈴香と祐泉さんは本堂や座敷の座布団を集めたり、机を片付けたり、掃除機をかけたりした。
全ての片付けが終わると、二人は熱いほうじ茶の入ったお湯呑みと、和菓子をのせたお盆を真ん中に、涼しい風の吹く縁側に腰を下ろした。小ぢんまりとした庭の踏み石にあるくぼみには、さっきの夕立で水溜りができていて、黒い蜻蛉が羽を休めていた。
「鈴ちゃんのおかげで今日は本当に助かったわ。これね、みやこ堂さんが持ってきてくれたの」
そう言って祐泉さんが手に取ったお菓子は、鮎の形をしていて、目やヒレなんかもちゃんと描いてあった。鈴香も一匹もらうと、尻尾の方から齧ってみる。中は甘いお餅みたいな感じで、それをどら焼きの皮みたいなものが包んでいる。しっとりとおいしくて、あっという間に食べ終わってしまった。
「そういえば、昨日はちゃんとお父さんに会えた?」
ほうじ茶をゆっくりと飲んでいた祐泉さんは、いきなりそんな質問をしてきた。
「え、まあ…」鈴香は答えに困ってしまった。でも自分が黙っていたところで、何があったかは全部カンパチさんが知っているわけだし、隠しても仕方がない。
「あらま、そんな事になっちゃったんだ」
鈴香が一通り話をすると、祐泉さんは目を丸くした。
「民代おばさんはさ、お母さんも大人の付き合いってもんがあるから、好きでお酒飲みに行ってたわけじゃないと思うよって言ったけど、何だかもう、二人とも勝手にすりゃいいじゃん、って感じでムカついたの」
「なるほどね。まあ鈴ちゃんの気持ちはわかるよ。私も中学の時に親が転勤して学校変わったけど、なかなか大変だよね」
祐泉さんはそう言って、ほうじ茶をおいしそうに飲んだ。
「そうなの?何年の時?」
「中一の秋、千葉からいきなりアメリカよ」
「えーっ!マジで?」
鈴香は思わずお湯呑みを落としそうになった。
「ちゃんと英語とか喋れたの?」
「喋れるわけないわよ。夏休み前にいきなりそんな話になって、英会話学校なんか行かされたけどねえ、それで九月から現地の中学にそのまま入れってんだから、無理もいいとこ」
「と、友達できた?」
「友達どころか、毎日いじめられちゃうし。しかも何言ってからかわれてんだか、理解できないから更に悔しいわよねえ」
「それでどうしたの?」
「まあね、学校は行きたくなかったけど、行かないと親が心配するじゃない?うちの場合、母親の方が初めての海外生活で参っちゃってたから、私が何とかしなきゃと思って、必死で勉強したのよね。まあ、子供ってのは残酷なもんだけど、先生やなんかはけっこう親切だしさ。あとね、クラスに変な日本オタクの男子がいて、その子に頼まれてTシャツの背中に漢字で「地獄」って書いてやったら、皆にすんごい感心されてさあ。その辺からかしらね、少しずつ雰囲気が変わったのは。私は地獄に救われちゃったね」
祐泉さんはそう言ってあははと笑った。
「結局、高校出るまでずっとアメリカで、大学でようやく日本に戻ってきたの。いま思えばいい経験だったと思うけど、もう一度あれをやれって言われると考えちゃうよね」
「そうなんだ」
鈴香は手にしていたお湯呑みの底に沈んだ、ほうじ茶の細かい葉っぱを見つめていた。祐泉さんに比べたら、今の自分なんか別に大変でも何でもないに違いない。なのに保健室に逃げてばっかりで、このままもうすぐ夏休みに入ってしまう。
「でもさ、お父さんも本当は鈴ちゃんのこと追いかけたかったと思うよ。ただ、ライブを放り出すわけにもいかなかっただけで」
「そうかな。あんなの遊びじゃない」
「遊びじゃなくて真剣勝負よ。ちゃんとライブハウスと出演するって約束して、お客さんにチケット買ってもらってるんだから。それをすっぽかすわけにはいかないし、半端な歌を聞かせるわけにもいかない。お父さんがずっと鈴ちゃんに会うのを我慢してたっていうの、まんざら嘘でもないと思うな」
「じゃあ、私、ライブをぶち壊しにしちゃったのかな」
「それはまあ、何とかなったんじゃないの。お父さんも鈴ちゃんを追いかけなかっただけの覚悟はあったんだろうし」
「とりあえず私、カンパチさんに謝りに行っていい?せっかくお父さんに会わせてくれたのに、黙って帰ってきちゃったから」
「じゃあまたこんど下山する時に、一緒に遊びに行こうか」
昨日の夜は一方的にお父さんが悪いと思っていたのに。こうして祐泉さんに話してみると、鈴香も随分と勝手な事をしたような気がする。小さく溜息をついて、ほうじ茶の最後の一口を飲むと、庭の向こうの林から蜩の鳴く声が響いてきた。
「そろそろ帰ろうかな」
いつの間にか随分と時間が経っていて、太陽はじき山の端に隠れようとしている。鈴香がお盆にお湯呑みをおくと、祐泉さんは「車で送ってあげるよ」と言った。
「ううん、歩いて帰るからいい」
「でも、今の時間に山道を一人で帰るのはちょっとねえ」
とは言うものの、祐泉さんも色々とまだ用事があるに違いない。
「そうだ、いい手があるから大丈夫」
鈴香は立ち上がると、庭の踏み石をぴょんぴょんと三つほど進んだ。それから大体あっちの方だなとあたりをつけ、胸いっぱいに息を吸い込むと「じんるーい!」と叫んだ。今の時間ならもう昼寝も終わって、その辺をうろついてるに違いない。
「しばらく待ってたら、きっと来るよ」
また踏み石を跳んで縁側まで戻り、腰を下ろす。祐泉さんは「へーえ」と感心したように唸った。
「鈴ちゃんて、すごくよく通る声してるのね。夏祭りのカラオケ大会出てみない?」
「カラオケ大会?」
「けっこう商品が豪華なのよ。優勝するとペアで温泉旅行ご招待なんだけどさ、鈴ちゃんなら狙えるんじゃないかな」
「無理だってば。第一、恥ずかしいし」
「大丈夫だって。それで二人で温泉行こうよ。ね?準優勝はホテルのディナー券だし、そっちでもいいわよ」
祐泉さんはすっかりその気だったけれど、鈴香は調子にのって仁類を呼んでしまったことを後悔していた。声のことを言われるのはすごく嫌なのだ。忘れもしない、中学で初めての音楽の授業で校歌を合唱したら、鈴香の声だけすごく目立つと先生に指摘されて、それがとても居心地が悪かった。だからそれ以来ずっと、音楽の授業ではなるべく小さい声で歌うように注意しているのに。
とにかくこの話はごまかしちゃえ、と思い、鈴香は「仁類の奴、途中まで来てるかもしれないからもう行くね」と立ち上がった。そこへちょうど、庭の隅にオレンジの髪が現れた。
「あらすごい、本当に来た。偉い偉い。こっちおいで」
仁類はしかし、そう言って手招きする祐泉さんが怖くて、かなり間合いをとって立っている。
「ほら、ごほうびにおいしい鮎があるよ」
いつの間にキープしていたのか、祐泉さんは作務衣の懐からみやこ堂さんのお菓子の鮎を一匹取り出して振って見せた。こうなると仁類はもう逆らえない。少しずつ近づいてくると、祐泉さんが差し出している鮎を、恐る恐る両手でつかんだ。全く、彼女より頭ひとつは大きいのに、まるで子供みたいだ。彼は鮎を受け取るとすぐに後ずさりして十分な距離をとり、それから一口で食べてしまった。
「おいしい?」と祐泉さんに訊かれて、仁類は黙ってうなずいたけれど、しばらくしてジーンズのポケットに手を突っ込むと、何かを取り出し、鈴香に向かって「あげる」と言った。
「それ何?」と祐泉さんの方が興味津々だったけれど、彼の掌には黄緑色の金平糖がいくつか載っていた。
「いらない」鈴香は迷わず即答していた。
「あらなんで?せっかく仁類がくれるってのに」と祐泉さんは不思議そうだけれど、鈴香にはそれなりの理由がある。
「だってポケットにそのまま入ってたんだよ。糸くずとか埃とかついてるし、きれいじゃないよ」
それを聞くと祐泉さんはくすっと笑い、「だってさ。仁類、それじゃ私にちょうだい」と言った。ところが仁類は「ちょうだわない」と言って、金平糖をまとめて口に放り込むと、ジャリジャリと食べてしまった。
「やだあ、鈴ちゃん、仁類ったら傷ついちゃってるよ。何かフォローしてあげなよ」
祐泉さんにそう言われたけれど、鈴香は「だって嫌なものは嫌なんだもん」と答えるしかなかった。
「それにさ、あんな事平気でしちゃうし」
いつの間にか仁類は庭の隅に行ってしゃがみ、そこに置いてあるバケツに頭をつっこんで雨水を飲んでいた。
「ああいう所が嫌なんだよね」
その言葉が聞こえたらしく、仁類は顔を上げるとこちらをちらっと見て、肩のあたりをカシカシと噛んだ。祐泉さんは腕を組んでしみじみと「狸だもんねえ」と呟き、それから「仁類、こういう時はお水ちょうだいって言えばいいのよ」と呼びかけた。
仁類は前髪についた雫をシャツの袖で拭い、少しだけ首をかしげた。
「鈴ちゃんのために大急ぎで走ってきたから、喉が渇いたのかもね。可愛いねえ」
確かにここまで呼び出したのは自分だと思うと、鈴香はちょっとひどい事を言い過ぎたかなと反省した。とは言っても、仁類は「可愛い」ってほどのもんじゃない。絶対。
そんな事はあったものの、鈴香はやっぱり仁類と一緒に山道を歩いてお寺に帰った。
朝来るときに聞こえていた鳥の声は止んで、蜩の声だけがあちこちから流れ星みたいに降ってくる。夜道と違ってシャツの裾を持つ必要もないので、鈴香は仁類と並んで歩く。
「あの金平糖さあ、みやこ堂さんが今日持ってきたんでしょ?」
「持ってきた」
「それを湛石さんがくれたんだ」
「くれた」
「何味だった?」
「メロン」
「あんなに急いで食べるのに判るんだ」
「判る」
鈴香もちょっと食べてみたかったな、とは思ったけれど、やっぱり仁類のポケットから出てきたものはいらない。そこにカナブンとか、得体の知れないものを入れていた可能性は十分あるからだ。
狸だもんねえ。
祐泉さんの言葉を頭の中で繰り返しながら、鈴香は歩き続けたけれど、甘い香りにふと顔を上げると、行きがけに見た山百合が夕立の残していった雨粒を全身にまとって、土手から山道の方へと一斉に身を乗り出していた。まるでその花で通る人を釣り上げようと待ち構えているようだ。
「わあ、きれいね」
山百合を飾っている無数の水滴はレンズになって、木立の隙間から差し込む西日を反射させている。鈴香はわざと道の端に寄って、上を向いたままで山百合のアーチの下をくぐってみた。鋭く反った花びらや、しなやかな葉の先から今にも滴り落ちそうな雫は、夕方の涼しい風に誘われてかすかに震え、まるでシャンデリアのように輝いていた。
仁類も真似してみようと思ったのか、同じように鈴香の後に続く。ところが彼は鈴香よりずっと背が高いから、頭から山百合に突っ込んでしまった。
きらきらと輝く雨粒はいっせいに仁類に降り注ぐ。振り返ってそれを見ていた鈴香は思わず声を上げた。
「夕日のオレンジ、仁類の髪と同じ色!」
でもそれを言い終わった頃にはもう、仁類は反射的に全身を震わせて水をはじき飛ばしていた。彼はそして鈴香の方を見ると「これはきれい?」と訊ねた。
何がきれいって聞いてるんだろう?でもたしかにさっき、仁類の髪と、雨の雫と、夕日と、全てがオレンジでとてもきれいだった。
鈴香は「きれい」と答えて頷いた。すると仁類は顔を上げ、百合の葉にまだ残っていた雨粒を舐めた。
うわあ、またやってる。まだ喉渇いてるのかな。鈴香は一瞬そう思ったけれど、ふとさっきのやりとりがよみがえってきた。
仁類のポケットから出てきた金平糖のことを、鈴香はきれいじゃないと言った。もしかしたら今、「きれい」と言ったから、仁類は雨粒を舐めてるのかもしれない。
「仁類さあ、きれいって言葉の意味、判ってる?」
鈴香にそう言われて、彼は雨粒を舐めるのを止めてこちらを見た。そして軽く頷くと「きれいの言葉は鈴ちゃん」と答えた。
「え?何言ってんの?」
思いがけない答えに、鈴香は何故だか身体のどこかを強く押されたような気がして、足を踏みしめた。
仁類は何も答えず、こんどは頭を低くして上手に山百合の下をくぐり抜けると、そのまま鈴香の前を素通りしていった。しばらくしてくるりと振り返り、シャツの裾を引っ張って「ここを持つ」と言う。
何だか馬鹿にされたような気がして、「持たないよ!」と言い返すと、鈴香は小走りに追いついた。それから更に仁類を置き去りにして、ずんずん前を歩いていった。
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