5 何か努力してる時

 太陽は沈むのを忘れたように、西の空に低くひっかかったままだ。足元からはアスファルトにこもった熱気が立ち上がり、頬には車のエンジンが吐き出す濁った風が吹きつける。鈴香はできるだけ日陰を選んで、仕事帰りの人が溢れ出す前の街を足早に急いだ。

 ライブハウス太陽館のネオンサインはまだ光っていなくて、ちょっと白骨じみた姿を晒している。タイル貼りの外階段を下りてゆくと、踊り場にポスターが貼られていて、鈴香はその前で少しだけ立ち止まった。

 

 コカヂマキオライブ 二〇時開演。

 

 この前、太陽館でチラシを手にしてから、鈴香はずっとお父さんのライブの事を考えていた。南斗おじさんのお寺がこの街にあるのはお父さんもよく知っているのに、なぜ連絡もしていないんだろう。電話なんかしたら、お母さんや鈴香にも知られてしまうから、秘密にしておきたいんだろうか。

 それをどうしても確かめたいのと、やっぱりずっと会っていないお父さんの顔が見たいのを抑えきれず、鈴香は祐泉さんにタクシー代を返しに行った時に相談してみた。

「あら、そうなんだ。鈴ちゃんのお父さんってミュージシャンなの」

 祐泉さんは何だかすごく感心したように「なるほどねえ」と頷いた。でもバンドはメジャーデビューしなかったし、ミュージシャンなんてのは自称で、お母さんに言わせれば「ずっと治らない病気」みたいなものだと説明はしたものの、それでも祐泉さんは「誰にだってできる事じゃないわよ」と言うのだった。

「南斗おじさんたちにはちょっと秘密にしときたいの。でも、こないだみたいにタクシーで帰るわけにもいかないから、ライブの時間までいられないし」

「だったらカンパチに頼んで、開演前に会いに行けばいいわよ。そしたら最終のバスに間に合うだろうし」

「そっか」

「でもさ、お父さんはきっと、鈴ちゃんにライブ聴いていってほしいと思うんじゃない?だから帰りのタクシーとかは心配しなくていいかもよ」

 それはどうだか判らない。でもとにかく、鈴香はお父さんに会いに行く決心をした。カンパチさんには祐泉さんから連絡してもらったけれど、実際のところ、鈴香が来ると判ったら逃げる可能性も無くはない。だから「ファンの女の子がサインを貰いに来る」という話にしておいてもらった。そして今日はいったん学校からお寺に帰り、制服を着替えてからまたバスに乗って太陽館まで来たのだ。


 踊り場に貼られたポスターの前で小さく深呼吸して、鈴香は残りの階段を一気に駆け下りた。「CLOSED」の札はかかっていたけれど、思い切ってドアを押す。エアコンの効いた空気と、薄暗い空間。そこはもう外とは別世界だ。正面奥のステージは小さく照明がついていて、ドラムセットやアンプなんかの機材が浮かび上がっている。カウンターの中を覗くと、ちょうどカンパチさんが奥から出てきたところだった。

「こんにちは」

 ここはもう夜中って感じなのに、この挨拶でいいのかな?と思いながらも鈴香は頭を下げた。カンパチさんは「あーら、鈴ちゃん、よく来てくれたわね。マキオさんのファンだなんて、若いのに目が高いわ。お母さんがファンだったんですって?」と話しかけてきた。

「ええ、まあ」とりあえず嘘ではないので、鈴香はちょっとひきつりながらも頷いておいた。

「マキオさんに話したら、とっても嬉しそうだったわよ。もうリハーサル終わって休憩中だから、ちょうどよかったわ。バックバンドの人も一緒にいるけど、気にしなくていいからね」

 カンパチさんはそして、鈴香を狭い廊下の先にある楽屋に連れて行ってくれた。傷だらけ、落書きだらけのドアをノックすると「失礼します、マキオさーん、お客様よ」と声をかけた。そしてドアを開けると一歩下がって、鈴香に入るよう目配せした。

 今ならまだ逃げられる。一瞬そう思ったけれど、やぱり鈴香は前に踏み出していた。お父さんが時々吸っていたメンソールの煙草の匂いがして、顔を上げるとそこには彼がいた。ソファに深くもたれて、足を組んで、左手の指先に吸いかけの煙草をはさんで。

「お父さん」

 鈴香がそう言ったのが先なのか、お父さんが「鈴・・・」と声を上げたのが先なのか、わからないけれど、とにかくそれで十分だった。ソファの脇にあるパイプ椅子に腰掛けてベースを弾いていた金髪の人は「ちょっと失礼」と出ていって、壁にもたれてスマホを見ていた背の高い人も「ここ、電波来ねえな」と呟いて立ち去り、気がつくと楽屋には鈴香とお父さんだけが取り残されていた。

 あらためてその姿をよく見ると、お父さんは今までと少し違う感じの人になっていた。

 髪は肩にかかるほどに伸びて、染めずに黒いまま。そのせいなのか、痩せただけなのか、全体の輪郭が妙にはっきりしていて、これに比べたら以前のお父さんは何だかぼやけていた。黒いシャツに皮のパンツなんか合わせて、足元はブーツで、指にはシルバーのリングが三つも光っているのに、お母さんとの結婚指輪は見当たらなかった。

「背、伸びたね」

 お父さんはつとめて能天気な感じでそう言った。半年以上も行方不明になっておいて、最初の一言にふさわしい言葉とは思えない。鈴香はただ「計ってないから知らない」とぶっきらぼうに答えた。

「そっか。元気してる?」

「してなかったらどうする?」

 なんでずっと連絡一つせずにおいて、こういう質問するんだろう。さすがにお父さんも何だかヤバイと思ったのか、煙草を少しふかすと「まあさ、色々と噂は聞いてはいるんだけど、南ちゃんちのお寺にいるっていうから安心してたんだ」

 安心?何それ。でも鈴香は何も言わずにじっとお父さんの言葉を聞いていた。

「こっちもあれこれ大変でさ、何ていうの?リハビリみたいな感じで、ようやくライブなんか回れるようになってきて。たぶんあと半年ぐらいで完璧に取り戻せると思うからさ、そしたらもう大丈夫」

 まるで宿題サボって遊んでるのを見つかったみたいに、お父さんはぺらぺらと調子よく言い訳した。

「大丈夫って何が?」

「うん、だからたぶん昔の伝手で、事務所入って、ツアー回って、アルバム出して」

「それ本気で思ってる?」

「まーたあ、お母さんみたいな事言わないで」

 お父さんは自分で自分の言葉に励まされたみたいで、何だか調子に乗ってきた。短くなった煙草を灰皿で消すと、その手でソファの空いた場所を軽くたたく。

「まあちょっと座ってよ。どうせ今日のライブ聴いてくれるんでしょ?お父さんだってここを選んだのは鈴香の事考えて、ってのもあるんだよ。今晩うまくいったら、明日はお寺にサプライズ訪問するつもりだったんだから」

「別にそんな事しなくても、その前に電話とかメールとか、いつでもできたと思うけど」

 鈴香はドアのところにじっと立ったまま、低い声でそう答えた。

「ほら、何か努力してる時って、大好きなものを我慢したりするだろ?お父さんにとって、それは鈴香なんだよね。だからさ」

 お父さんはそして、少し照れたように髪をかき上げると、足を組みなおした。それでも鈴香はまだじっと立っていた。

「でもそのせいで私は転校しなきゃならなかったんだよ。はっきり言ってこっちの学校なんか全然面白くないんだから」

「うーん」と唸って、お父さんはまた髪をいじった。

「確かにそれは俺にも予想外だったんだよね。ずっと家で待っててくれると思ってたから」

「お母さんのせいにするつもり?」

「そういうわけじゃないけど、連絡くれた時には、もうマンションは引き払うし、鈴香は南ちゃんちに預かってもらうし、って決めちゃってたから」

「連絡って、お母さんと話したの?」

「まあ、全部段取り決まってからだけどね」

 それじゃ話が違う。鈴香の頭の中は一気に真っ白になった。お父さんがずっと音信不通で、だからお母さんはエステティシャンになる決心をしたはずなのに、連絡とっていたってどういう事だろう。

「なんで、なんで転校するの止めるように言ってくれなかったの?」

「だってさ、お母さんって何か決めたら、絶対に撤回しないもの。議論するだけ無駄な抵抗だよ。そりゃ鈴香には気の毒だと思ったけど」

「気の毒?それだけ?」

「いやまあ可哀相っていうか。でも、お父さんも小中合わせて五回も転校したしさ、親の都合でそういう事があるのって、人生ある程度は避けられないもんだよ」

 親の都合って、転勤とかそういうのならまだ判るけれど、ある日突然仕事を放り出して行方不明になるってのも、お父さんにとっては「都合」なんだろうか。

「もういいよ」

 自分でもびっくりするぐらい、冷たい声が出た。

「え?」

「もういいって言ってるの!」

 今度は思い切りそう叫ぶと、鈴香は楽屋を飛び出していた。そのまま誰にも挨拶せずに外に出て階段を駆け上がり、駅までひたすら走った。

 息切れしそうになりながらバスターミナルにたどり着いたけれど、最終のバスが来るまで、まだ四十分ほどあった。それだけの時間を、自分はお父さんと一緒に過ごすつもりでとっておいたんだと思うと、すごく馬鹿らしくて情けなかった。そして何より虚しかったのは、結局お父さんはライブの方が大事で、鈴香の後なんか追いかけて来なかったという現実だった。


 バスに乗った時にはまだ辺りはじゅうぶん明るかったのに、降りる頃にはすっかり日が暮れていた。「晋照寺門前」とかすれて消えそうな字で書かれたバス停を後にして、鈴香は山門まで歩いて行くと、脇のくぐり戸をそっと開き、その向こうに続く深い闇を覗き込んで大きな溜息をついた。こんな事なら民代おばさんにお願いしておいて、仁類に迎えに来てもらうんだった。

 いや待てよ。もしかしたら仁類の奴、もう散歩に出て、その辺を歩いているかもしれない。どうせ周りに誰もいないし、腹が立っていたこともあって、鈴香は思い切り息を吸い込むと、ありったけの大声で「じんるーい!」と叫んでみた。

 残念ながら何の返事もなく、鈴香の声は木立の中に吸い込まれてそれっきりだった。山門の青白い明かりには、沢山の羽虫がぶつかるように集まってきて、それを狙っているのか、黒い目を光らせたヤモリが扉にじっと貼り付いている。

 仁類はこういうのも食べるんだろうか。

 自分の想像に自分でオエッとなって、鈴香はヤモリから目をそらした。仕方ないから一人で歩いて行こう。そう決心してくぐり戸を後ろ手に閉めたところへ、脇の繁みから仁類が現れた。

「呼んだ」

 オレンジの髪に枯葉をくっつけたままで、仁類はそう言った。

「聞こえてたんだ」

「鈴ちゃんの声はとても聞こえる」

 そして仁類はシャツの裾を引っ張ると、「持つ」と言った。鈴香は頷いて手を伸ばし、軽くつかんだ。そこにも枯れ草みたいなものがついている。歩き出した仁類の背中に向かって、鈴香は「どこ通ってきたの?」と訊ねた。

「いちばん近い通る」

「葉っぱだらけじゃない」

「狸は通る。人間はぶつかる」

 それってけもの道って奴だろうか。しかし鈴香は何だか、もうそれ以上話す気にもなれず、頭の中でお父さんとの会話を何度も再生していた。


 お寺に着いて鈴香が玄関から中に入ると、仁類も一緒に上がってきた。どうやら今日はまだ晩ご飯を食べていないらしい。民代おばさんは仁類を一目見るなり縁側に連れて行って、あちこちについた枯葉やなんかをはたき落とした。

「仁類ったら、もうちょっと広いところで遊びなさいよ。あと、埃だらけになるから、縁の下に入るのも止めてね」と笑った。鈴香はちょっと後ろめたい気持ちでそれを見ていたけれど、思い切って「おばさん、電話借りていい?お母さんにちょっと用事あるんだけど」ときいてみた。

「どうぞどうぞ。でも先にごはん食べたら?」

「すぐ済むから先に電話する」

 本当はとにかく急いでお母さんにお父さんの事を話したかっただけで、すぐ済むどころか、一時間ぐらいしゃべりまくってしまうかもしれない。鈴香は居間にある電話の子機を手に取ると、おばさんたちに聞こえないように座敷の奥に移動して、お母さんの携帯の番号を押した。

 呼び出し音は八回鳴って、留守電になるかと思った頃にようやくつながった。

「もしもし?民代さん?」

「鈴香だよ」

「え?鈴香なの?」

 聞こえてくるお母さんの声は切れ切れだ。向こうにもこっちの声はよく聞こえないみたいで、ちょっと迷惑そうに「ごめん、お母さんいま、話できないのよ。明日じゃ駄目かな」と言われた。電話にはお母さんの声に覆いかぶさるように音楽だとか、人のざわめきとかがとめどなく流れ込んできて、どうやらそこはお酒を飲む店みたいだった。

「じゃあもういい」

 それだけ言うと、鈴香は電話を切った。お母さんは研修で忙しいとか言ってるくせに、お酒飲みに行って、鈴香の話なんか面倒くさくて聞きたくないのだ。お父さんは家にいたくなくて、自分のやりたい事をしたくて出て行ったけれど、お母さんもそれと大して変わらない。二人とも、鈴香といない方がずっと気楽だという事にようやく気づいたに違いない。

 鈴香は子機を握り締めたまま、暗い座敷の真ん中に座り込んだ。何もかもがつまらなくて悲しくて、腹が立って、涙が次々と溢れてきた。

 そもそもお父さんとお母さんが結婚したのは、鈴香が生まれることになったからだ。そうじゃなければお父さんはずっと音楽を続けていて、違うバンドかソロかは知らないけれど、メジャーデビューしていただろうし、お母さんはきっと、頼りないお父さんに見切りをつけて、銀行員か公務員と結婚していただろう。

 二人とも、どうせこんな結果になるのは判っていたんだから、鈴香の事なんか生まなければよかったのだ。そうすればさっさと離婚して、またやり直せたのに。それが無理なら、鈴香が生まれてすぐに南斗おじさん達に預けてくれればよかった。そうしたら少なくとも、あの中学で仲のいい友達もいたはずなのに。

 過去を変えることができないのは判っていても、鈴香はそんな事を考えずにいられなかった。お父さんとお母さんがやってしまった、最悪の選択。そのせいで自分は今、最悪の状態にいるのだ。

 でもとにかく、民代おばさんに泣き顔を見られちゃ駄目だ。鈴香はそう思うと、何とか泣き止もうとして洟をすすった。そして何気なく横を見ると、いつの間に来たのか仁類がそばにしゃがんでいる。彼は不思議そうな顔でじっと鈴香を見ていた。

「何よう」

 私は見世物じゃない!ちょっと腹が立ってすごんだつもりだったのに、うまく声が出ない。すると仁類はいきなり顔を近づけてきて、鈴香の頬に流れる涙をぺろりと舐めた。

「きゃーっ!」

 大きな悲鳴を上げると、鈴香は力いっぱい仁類を突き飛ばした。思ったよりずっと軽い手応えがあって、気がつくと彼は消えていた。と思ったら、縁側の下からひょいと顔を出し、上目遣いにこっちを見ている。一瞬であんな遠くまで逃げていったのだ。

「カエルやトカゲなんか食べた舌で舐めないでよ!気持ち悪い!」

 鈴香が大声で怒ると仁類は首をかしげ、右肩の辺りをカシカシと噛み、それから何度も舐めた。いつも祐泉さんにいじめられた後で、落ち着こうとする時にやる癖だ。でも冗談じゃない、今すごく迷惑してるのは鈴香の方だ。

 そこへ叫び声に驚いた民代おばさんが「どうしたの?鈴ちゃん」と、様子を見にきた。さすがに泣いているのを仁類のせいだと言うわけにもいかず、鈴香はさっきまでの出来事を正直に話すしかなかった。


 ひとしきり泣いて、洟をかんで、色んな話をして、晩ご飯を食べたのはそれからだった。南斗おじさんは檀家さんのところへ行って留守だったし、仁類はどこかへ逃げてしまったので、鈴香と民代おばさん二人きりの食事だった。

 仁類の分は取り分けて縁側に置いておいたら、鈴香がお風呂から上がった頃には器はもう空になっていた。

「ちゃんと食べてんじゃん。ばーか!」

 食器を台所に下げながら、鈴香は何だかまた仁類に腹が立った。


 



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