4 一歳が大人
駅前の大通りをまっすぐ行って、三本目の角を右に曲がり、コンビニを左に曲がった路地の、太陽のネオンサインが出ているビルの地下。鈴香はその言葉を繰り返しながら夜の繁華街を歩いた。スーツ姿のサラリーマンや、きれいな服を着たOLや、学生たちが行き来する中で、制服姿の自分が場違いなのはよく判っていた。だから時々道を確かめる以外はずっと俯いて、できる限り早足で歩いた。
最終バスを乗り逃がして、タクシーに乗るしかお寺に帰る方法はなくて、でも南斗おじさん達にどう説明していいか判らなくて、鈴香は結局、公衆電話から祐泉さんに助けを求めた。詳しい事は抜きにして、「いま、駅前にいるんだけど、バスに乗り遅れちゃって」とだけ言うと、祐泉さんは「あら、それは困ったわね」と驚き、少しだけ考えて「今から言う場所にある、太陽館ってライブハウスに行けばいいわよ」と言ってくれた。
「そこにカンパチって人がいるから、借金返して貰いに来たって言えばいいわ」
「借金?」
「私がお金を貸してるの。せっかくだから一万円ぐらい預かってきてね。それでタクシーに乗るといいわ。私にはまた後で返してくれたらいいから」
何だか要領を得ないままに、鈴香は「わかった」と返事して電話を切っていた。とにかく今はそれしかお寺に帰る方法がないんだから、言われた通りにするしかない。
コンビニの角を曲がると、夕暮の路地に太陽の形をしたネオンが赤く輝いていた。ライブハウスという場所は、お父さんと一緒に何度か訪れたことがあったし、そこで働く人たちはけっこう気さくで優しいという印象があったので、鈴香はビルの外側にある、地下への階段をためらわずに駆け下りてドアを開けた。
「こんばんは」
声を出してみたものの、流れている音楽で鈴香の挨拶はかき消されてしまいそうだった。まだ時間が早いのか、テーブル席に二組のお客さんがいるだけ。そこで何歩か進み、こんどは「すみません」と声をかける。すると、左手にあるカウンターの中で、こちらに背を向けていた男の人が振り返った。
「あら、鈴香ちゃんね。どうぞどうぞ、私がカンパチです」
彼はがっちりと小太りで、よく日に焼けていた。赤いチェックのシャツにジーンズという格好だったけれど、オネエ系の人らしく、ちょっと芝居がかった動作で腕を伸ばすと、鈴香にカウンターに座るよう勧めた。
「はい、こちら祐泉お姉様への、私の借金」いったんカウンターの奥に姿を消した彼は、戻ってくると水色の封筒を差し出した。鈴香は「どうも」と頭を下げると、それを受け取った。これでタクシーに乗って帰れる。そう思って立ち上がろうとすると、カンパチさんは慌てて「あらちょっと待って」と引き留めた。
「こんな可愛い子が一人でうろちょろしてたら、悪いおじさんに連れてかれちゃうわよ。タクシー呼んであげるから、ね?」と笑いかけ、それから「何か飲む?マンゴージュースなんかお勧めよ」と勧めた。
「いえ、いいです」と答えると、カンパチさんは「遠慮しなくてもいいのよ」と言いながら、電話をかけに行った。鈴香は何だか少しほっとして、周囲を見回した。
店にはけっこう奥行があって、ステージは入り口から向かって正面だ。今夜はライブはないらしく、アンプやスピーカーが影のようにのっそりと蹲っていた。ステージの右手、カウンターの向かい側にある白い壁には、これまでに出演した人たちのサインがびっしりと書き込まれている。
鈴香が小学校を卒業する頃までは、お父さんもまだライブハウスに出たりしていた。それがある日、お母さんに内緒ですごく高いライブ用のギターを買ったせいで大喧嘩になって、結局、もうライブは止める、という約束になったのだ。問題のギターはまた売ったし、他に何本か持っていた奴も売ったはずだ。最後には大切にしていた三本だけになったけれど、倉庫に預けたお父さんの荷物の中になかったから、もしかしたらあれだけ持って家を出たのかもしれない。
だったらやっぱり、もう帰らないつもりなんだろうか。
鈴香はその考えを振り切るように一度ぎゅっと目をつぶって、それからカウンターに向き直ると、一番端に積まれているチラシに視線を向けた。この店でやるライブの案内だったり、どこかのホールの公演だったり、絵の個展や演劇の案内だったり。その中の一枚、あんまりお金のかかってなさそうな水色のチラシを見たとき、鈴香は心臓が止まったように感じた。
「コカヂマキオ ソロライブ決行!」
お父さん?
鈴香は飛びつくようにしてそのチラシを手に取った。単なる同姓同名って事も十分にありうる。そう自分に言い聞かせてみたものの、そこに書かれた言葉が全てを物語っていた。
「あの「センチメンタル・ゼロ」のコカヂマキオが、沈黙を破って帰ってきた」
「センチメンタル・ゼロ」というのは、お父さんが昔ボーカルをしていたバンドだ。メジャーデビュー寸前で解散した、幻のバンド。
ちょうどその時店のドアが開き、「すいませーん、東和タクシーです」と大きな声が響いた。鈴香はそのチラシを鞄に突っ込むと、慌てて立ち上がった。
タクシーが夜の繁華街を抜け、お寺に向かう県道に出てしばらくすると、鈴香はようやく鞄の中からくしゃくしゃになったチラシを取り出した。
「伝説のカリスマ。ゼロ解散からの長い眠りを抜けて、新たな時代への覚醒」
コカヂマキオと小梶槙夫。聞こえる音は同じなのに、片仮名だけで綴られたその名前はとてもよそよそしい。この世に存在しなかったものが、いきなり命を吹き込まれて勝手に歩き回っているような感じがする。
ライブは来週の金曜日、さっきの太陽館で八時開演。
とにかく行って、本当にお父さんなのかどうか確かめたい。けれど開演まで待っていては、また今日みたいに帰れなくなってしまう。一体どうしたらいいだろう。
あれこれ考えているうちに、タクシーは止まった。
「お姉ちゃん、晋照寺ってここでいいのかな?」
「あ、はい。すみません」鈴香は慌てて顔を上げ、カンパチさんから預かった一万円札を差し出した。お釣りをまた封筒に入れて車を降りると、ひんやりとした空気と森の匂いが気持ちよかった。
「じゃあ、暗いけど気をつけてね」
運転手さんの声と、タクシーのドアが閉まる音にはっと我に返ると、鈴香が立っているのは山門の前だった。しまった!ここじゃなくて、県道を大回りして本堂の方に行ってもらわないと駄目なのに。慌ててタクシーを呼び止めようと駆け出したけれど、赤いテールランプはすごい速さで今来た道を遠ざかって行った。
「やだ、どうしよう」
山門には常夜灯が灯っているけれど、明るいのはそこだけだった。夜の間は閉められている大きな扉。その脇にある勝手口みたいな、小さなくぐり戸をほんの少し開き、そこをすり抜けるようにして通る。その向こうに続く参道に目を向けた途端、自分が一回り小さくなってしまったような気がした。
まっすぐ歩けば本堂にたどりつくのは判っていたけれど、黒々と横たわる夜の闇に足を踏み出す勇気がない。思わず鞄を抱きしめたところへ、すぐ近くの繁みで物音がした。
「きゃっ!」声を上げてそちらを見ると、何かいるらしく、木の葉が揺れている。鈴香は山門の太い柱に貼り付くように後ずさりした。
「鈴ちゃん」
そう言って姿を現したのは、仁類だった。
「わ、は、仁類か、びっくりした。何してるの」まだ心臓のドキドキが収まらなくて、鈴香は震える声で訊ねた。
「民代さんが電話の聞く。仁類はここを来て鈴ちゃんに待つ」
「え?電話?」
どうやら祐泉さんが民代おばさんにうまく話をしてくれて、おばさんは仁類に出迎えを頼んでくれたらしい。鈴香はいつの間にか額にうかんだ汗を手の甲で拭った。仁類は軽く首をかしげると、そのまま参道をすたすたと歩き出す。
「ちょっと待って、歩くの速すぎるよ。真っ暗で何も見えないのに」
仁類は立ち止まると、空を見上げて「明るい」と答えた。そこには満月と呼ぶには物足りない感じの月が浮かんでいる。
「そりゃ狸には明るいかもしれないけど、人間には真っ暗だよ」
「真っ暗」仁類はそう繰り返すと、こんどは参道のずっと奥に視線を向けた。鈴香は彼に追いつこうと足を踏み出したが、いきなり石畳の継ぎ目に躓いてしまった。思わず伸ばした手がつかんだのは、仁類が羽織っていたシャツの裾だった。
「転ぶ」
「大丈夫。でもここ持っとくから、ゆっくり歩いて」
「ゆっくり歩く」
本当は手をつないだ方が歩きやすいだろうけど、それは何だか嫌なので、鈴香はシャツの裾を握ったままでいた。辺りはとても静かで、二人の足音しか聞こえなかったけれど、時おり吹く夜風が木々の枝を怪しげにざわめかせた。その間を縫うようにして、県道を走る車の音がうっすらと近づいてはまた遠ざかってゆく。
「ねえ、仁類はどうしていつも昼間は押し入れに隠れてるの?」
暗闇をずっと黙って歩くのは不安なので、鈴香は気を紛らわせるために質問してみた。仁類はしばらく考えてから「寝る」と答えた。
「でも狭いじゃない。畳の上で、布団敷いて寝ればいいのに」
「押し入れは人の来ない。仁類は安心」
なるほどね、と鈴香は思った。お寺にはしょっちゅう誰か尋ねてくるし、何より祐泉さんは相変わらず尻尾問題に興味津々だ。しかも仁類は馬鹿だから、いつも祐泉さんの持ってくる食べ物の誘惑に負けてはつかまり、また逃げるという事を繰り返していた。
「じゃあ湛石さんは怖くないの?あっちの離れじゃよく、押入れの外で寝てるよね」
「湛石さんは、頭が考えないので安心」
「そっか」と、鈴香は頷いた。やっぱり狸にも湛石さんがボケちゃってることは判るのだ。仁類は更に「鈴ちゃんは子供で安心」と続けた。
「子供?私もう中学だよ!そんな小さくないし」
鈴香にとって子供という言葉が指すのは小学生までだ。バスや電車は大人料金だし、映画は学生料金。子供とはちょっと違う。
「でも子狸と同じの匂い」
「え?!ウソ!」慌てて鈴香は自分の肩の辺りに鼻を近づけてみた。子狸と同じって、それ何だか動物園みたいな匂いじゃないだろうか。最悪だ。
「私毎日ちゃんとお風呂で洗ってるし、そんな匂いするはずないよ」少なくとも自分では大丈夫な気がして、鈴香は反論した。
「人間は聞こえない。親と同じものが食べて、まだ自分の食べ物とらない子狸の匂い」
「へえ・・・」思いがけず仁類が長々と説明したので、鈴香は少しびっくりしてしまった。聞こえる、というのはどうやら匂いが判るという意味みたいだ。
「鈴ちゃんの親は、食べ物がとりに行く」
「ん、まあ、そうかもね」正確には、エステティシャンになって生活費を稼ごうとしているのだけれど、それはつまり、鈴香のために食べ物をとりに行くことに他ならない。でも、お父さんはそうじゃない。何だかその話は嫌で、鈴香はちょっと話題を変えてみた。
「仁類はさあ、人間に化ける前はいつも何食べてたの?湛石さんにもらうもの以外に」
しばらく沈黙があって、それから「小さの生き物」という返事があった。
「生き物?小さい?」
「虫など、カエルなど、トカゲなど、ヤモ…」
「もういい!言わなくていいから!」鈴香は思わず大声をあげた。「そういうの超気持ち悪いから。もう聞きたくない」
本気で気持ち悪くて、鈴香はもっとましな事を考えようとした。
「じゃあさ、お寺で食べるもので、何が好き?」
「玉子焼きとおさかなソーセージ」と、仁類は速攻で答えた。そして少し考えて、「一番好きの金平糖」と付け加えた。
「そんなに好きならもっとゆっくり食べなよ。いつも噛み砕いちゃってるじゃない」
「それで一番おいしい」
あーあ。心の中で呆れた声を出し、鈴香は自分が少し笑顔になっているのに気がついた。
「ねえ、仁類って何歳なの?」
「今の前で春に生まれた一歳」
「一歳?って、赤ちゃんじゃん。子供以下ってことだよ?」
「狸は一歳が大人」
「でも今は人間に化けてるじゃない」
何だかよく判らなくなって、鈴香は頭の中を整理しようとした。犬や猫は生まれて一年すれば大人だ。だから多分、狸もそうなんだろうけれど、でも人間の一歳は赤ちゃんなんだから、人間に化けている場合は赤ちゃんじゃないだろうか。
「ていうか、仁類は一体誰に化けてるの?」
「誰に化ける」
「そう。いま、誰かのふりをしてるんでしょ?それとも自分で思いついたの?そのオレンジの髪とか」
仁類は急に立ち止まり、勢い余った鈴香は彼の背中に顔をぶつけた。
「んもう、止まるんなら言ってよ」と文句をつけると、仁類はまた歩き始めた。そして低い声で「男の人は寝る」と呟いた。
「え?それって誰なの?」
仁類は何か考えているみたいで、そうすると見る間に歩く速度が落ちていって、また立ち止まった。こんどは鈴香もぶつからない。
「真っ暗」という仁類の言葉に、鈴香は周囲を見回した。今は目が慣れてきて、月明かりでもぼんやりと辺りの様子がわかる。「そんなに暗くないよ」と言うと、仁類はこちらを振り返り、「頭の中の真っ暗」と言った。
たぶんそれは思い出せないとか、そういう意味じゃないだろうか。最初は言葉を話さなかった仁類が、いまはこれだけ喋るんだから、もしかしたらそんな事も思い出せるようになるかもしれない。
「慣れたら見えてくるんじゃない?」
「慣れたら見えて」と繰り返して、仁類はまた歩き始めた。
いつの間にかもうお寺の入口まで来ていて、二人は小さな門を抜けて中に入った。玄関から庭に回り、勝手口に向かう。台所の窓からさす明かりがうっすらと辺りを照らし、中からはテレビの音が聞こえてくる。
「戻ってきた」と言って仁類は振り返った。鈴香は自分がまだ彼のシャツの裾を握っていることに気づき、慌てて手を放した。そして勝手口を静かに開けて中に入る。脱いだ靴を揃えようと振り向くと、仁類はまだ外に立っていた。
「入らないの?」と聞くと、仁類は黙って頷き「散歩」と言った。
「散歩?今から?」
「毎日散歩」
「そうなんだ」鈴香はもう一度靴を履くと外に出た。仁類はまだじっと立っている。
「それって狸のときからずっと?」
「ずっと」
「一人で散歩するの、怖かったり寂しかったりしないの?」
しばらく考えてから「仁類は大人」と答え、彼はくるりと背を向けて、湛石さんのいる離れの方へと姿を消した。
それから鈴香はちょっと後ろめたい気持ちで中に入った。茶の間では民代おばさんが一人、お茶を飲みながらテレビを見ていた。ふだんちょっと薄暗いと思っていた明かりが、今夜は眩しく感じる。「ただいま」と言った後、何と続ければいいのか迷っているうちに、おばさんが声をかけてきた。
「お帰り。ちゃんと仁類は迎えにきてくれた?」
「あ、うん。でもまた散歩に行っちゃった」
「そりゃよかった。今度から遅くなる時は先に連絡してね。今日はハンバーグだったんだけど、祐泉さんが電話くれた時にはもう焼いてたから冷めちゃったの。今から温めるから着替えてらっしゃい」
おばさんの明るい声に何だかほっとして、鈴香は自分の部屋に向かった。そして制服を脱いでTシャツとジーンズに着替えたところで、ふと気がついた。
私なんで仁類とだと普通に喋れたんだろう。
水沢さんとはほんの短い会話でも続かなかったのに、どうして狸だと大丈夫なの?それは何となく、駄目な事のように思えた。
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