3 人が来るのを待ってる
朝方の雨が残していった水滴が、午後の陽射しを受けて苔の上できらきらと輝いている。これを宝石みたいに、手に取って集められればいいのに。鈴香はそんな事を思いながら畳に座り、手だけは休まずに新聞紙を敷いた硯で墨を磨り続けた。
湛石さんの離れの、縁側から見える小さな庭はよく手入れされていて、今日のような梅雨の晴れ間には特に緑が鮮やかだった。生垣の向こうはもう山林で、風が吹くと木々の葉先が触れ合ってさざなみのような音をたてた。
湛石さんは時間のあるときは、毎日のようにお習字をしている。いつもは墨汁を使っているけれど、鈴香に頼んで墨を磨らせることもある。お寺に住むようになってから、もう何度も手伝ってきたので、鈴香もどれ位の水加減で、どれ位の力で磨ればいいのか心得たものだった。お駄賃は金平糖と五百円で、これは祐泉さんとの下山の時に使える、ちょっとしたお小遣いになった。
「墨というのは、鈴ちゃんぐらいの年頃の女の子が磨ってくれると、ちょうどええ加減なんですわ」
ずっと長い間このお寺に住んでいるというのに、湛石さんはいつも、のんびりした関西弁で喋った。
庭からは心地よい風が緩やかに吹いてきて、墨の香りをかきたてる。少しずつとろりとした質感を持ち始めた手応えを指先で感じながら、鈴香は顔を上げた。湛石さんは文机に向かって背を丸め、ぼろぼろになった辞書を大きなルーペでのぞきながら、ちびた鉛筆で何かを書き写している。そしてその後ろでは、仁類が丸くなって昼寝をしていた。
彼はもうジャージを卒業していて、鈴香が祐泉さんと「下山」した時に買ってきたジーンズとTシャツを着ていた。髪は相変わらずきれいなオレンジのままで、昼間はたいがい寝ていて、夕方になるとうろうろし始めるのも同じだったけれど、一つだけ前とは違うことがあった。
あの日、鈴香に髪を引っ張られて「いたっ!」と叫んで以来、何かつかえていたものが取れたように、仁類は少しずつ言葉を話すようになった。それは一から憶えているのでもなさそうだったし、かといって外国の人みたいに、自分の国の言葉のアクセントがあるわけでもなく、少しずつ思い出している感じだった。祐泉さんに言わせれば、「読み込んでいる」という事だろうか。
「ちょっと、仁類さんよ」
湛石さんはルーペを手にしたまま、ゆっくりと振り向いた。呼ばれた仁類はぴくりと動くと、顔だけ上げて言葉の続きを待つ。
「ちょっとあっち行って、民代さんから色紙をもろうて来てくださらんか?」
「シキシ」
「そうです。みやこ堂さんから預かってる奴、言うたら判ります」
「ミヤコド」と繰り返し、仁類は身体を起こして一度頭を振ると、立ち上がって縁側を降り、サンダルをぺたぺたいわせながら母屋へ歩いていった。
なるほど、今日はあれか、と鈴香は思った。みやこ堂、というのは京都にある、お習字や絵の道具を扱っているお店で、月に一度ぐらい湛石さんに会いに来る。まあ要するに訪問販売みたいなものだけれど、その時、たまに色紙を預けてゆくのだ。
「お時間のある時でよろしいですさかいに」
まるで女の人みたいな話し方の、ずんぐりむっくりと大きなみやこ堂の営業さんは、その身体をできる限り小さく丸めて、薄紫の紙で包んだ色紙の束をそっと差し出すのだった。
南斗おじさんによると、湛石が書いたものなら大金を払ってでも欲しい、という人は沢山いるらしい。でもまあ、それは湛石さんが若くて元気だった頃の話だろう。いま、彼が色紙に書く字は子供が書いたかと思う程へなへなと下手くそで、更に手抜きな時は、字の代わりに大きな丸が一つだけ書かれていた。
やっぱり「裸の王様」なのかな、と鈴香はまた納得する。誰も湛石さんに「年をとって下手になった」と言えなくて、でも昔の評判があるから名前とハンコが入っていれば、「まあこれでいいか」と受け入れているに違いない。だから色紙を書いたお礼に、金平糖しかもらえないのだ。
みやこ堂の営業さんが持ってくる金平糖は、まるでアイスクリームのパーティーパックのように、色々な味のものが少しずつ詰め合わせになっている。湛石さんはそれを民代おばさんに小さなジャムの空き瓶に移し替えてもらって、鈴香にお駄賃として分けてくれるのだった。
「湛石さん、もういいみたいよ」鈴香は使い古した小筆を手にとり、湛石さんがとっておいた書き損じの半紙の余白で、墨の濃さを確かめた。
「はいおおきに、ご苦労さんでございました」と、湛石さんは座ったままゆっくりと鈴香の方に身体の向きを変えた。鈴香は用心して硯を捧げ持ち、湛石さんの文机に運ぶ。
「またよろしゅう頼んます」湛石さんは懐紙に包んだ五百円玉と、これまた懐紙に包んだ金平糖を差し出した。鈴香は「どうもありがとう」とお礼を言い、「また硯を洗う時に呼んでね」と立ち上がった。そこへちょうど、仁類が色紙の包みを持って戻ってきた。彼はそれを湛石さんに渡すと、元の場所に座ったけれど、その視線は鈴香の手元に釘付けだ。
「しょうがないなあ」鈴香はしぶしぶ、手にした包みを開き、白とピンクの金平糖を幾つかつまむと、仁類の鼻先に突き出した。彼はそれを両手で受け取ると、すぐに口に放り込んでジャリジャリと噛み砕いた。
「あーあ、ゆっくり舐めて味わわないと駄目だよ」
その言葉が終わらないうちに、仁類はもう何もかも飲み込んでしまっている。
「仁類さんは狸ですさかい、ちょっと犬みたいに早食いなところがおありですな」 湛石さんはそう言って、楽しそうに笑った。
今は自分の部屋として使わせてもらっている、従兄の天地くんの六畳間に戻ると、鈴香はベッドに腰かけて、金平糖の包みをもう一度開いた。まず白いのを一粒食べてみる。舌の上に爽やかな林檎の風味が広がり、それを楽しみながらあちこちに転がしていると、やがてうっすらと消えてゆく。次にピンクのを口に含むと、こちらは苺だった。
そういえばお父さんが家を出る前、最後に買ってきたお土産は、季節外れの苺だったのを思い出す。「秋なのに珍しいだろ?」なんてはしゃいでいるお父さんを横目に、お母さんは「また無駄遣い」と明らかに不機嫌で、しかし鈴香は自分に買ってきてくれたのなら、やっぱり喜ぶべきなのかな、と複雑な気持ちだった。そして苺は美しい見た目の割にそう甘くもなく、何だか硬くて奇妙に喉につかえた。
鈴香は金平糖を包みなおすと、腕を伸ばして勉強机の上に置いた。そしてベッドに仰向けになると、天井の木目を見上げた。それは何だか天気図に似ていたけれど、自分の気分もこんな感じかもしれない。低気圧と高気圧があって、今は少しずつ低気圧が近づいている。
この前祐泉さんと下山した時、クラスの水沢さんと井上さんに遭遇してしまって、鈴香はかなり慌てた。「あの子学校は休んでるくせに、買い物には来てるんだよ」なんて言われるのは目に見えているからだ。そして思いついた苦肉の策は、また学校へ行くことだった。つまり、もう学校に行けるぐらい元気になったから、ショッピングセンターへ買い物に行っていたという解釈で、だから翌日から普通に登校すれば何も言われないだろう、という理屈だった。
しかし、久しぶりに訪れた教室の空気は相変わらずよそよそしく、おまけに授業の内容も判らない。鈴香は三限目が終わったところで挫折して、気分が悪いと嘘をついて保健室に逃げた。いや、嘘ではなく、本当に心臓がドキドキして、船に乗っているように身体全部が揺れて、今にも倒れてしまいそうな気がしたのだ。
それまでも何度か避難した事があったので、保健室の遠藤先生は鈴香の事もよく憶えていてくれた。
「まだ調子出ないのかもしれないね。もし教室で勉強するのが辛かったら、ずっとここにいてもいいよ」と言われて、鈴香はただ頷くしかなかった。そしてそれからはずっと、とりあえず保健室に登校はしているものの、一度も教室に入っていない。
担任の先生が時々様子を見に来て、プリントを置いていったりするけれど、鈴香はそれを少しだけやってみたりするのを除けば、とりたてて何もせず、ただ保健室の奥の空いたデスクに座り、三階の窓から見えるグランドと、その向こうに広がる馴染みのない街を眺めて毎日を過ごした。
明日はまた月曜がやってくる。
鈴香の心の低気圧らしきものは、月曜と同じ速さで近づいてくるのだった。本当はちゃんと教室で授業をうけて、誰かと仲良くなったりしたいのだけれど、今となってはもう不可能だ。でもとりあえず学校に行くこと。お母さんの事を考えると、それは鈴香にとって最大の使命だった。
「鈴香だって大学行きたいでしょ?」
だからこそお母さんは、エステティシャンになる決意をして研修を受けているのに、肝心の鈴香がこんな状態では意味がない。けれど、勉強もどんどん判らなくなってきたし、これでは高校に進学できないかもしれない。
「あーもうどうしよう!」
思わず大声を出して、鈴香は起き上がった。そして何気なく窓に視線を向けると、オレンジの髪が目に入った。仁類だ。彼は窓の外に立ってじっとこちらを見ている。
「な、何してんのよ!」
驚きのあまりベッドの上に正座してしまったけれど、仁類はきょとんとした顔のまま、「ソウジ」と、手にしていた竹箒を差し上げて見せた。
「掃除って、さぼってここ覗いてたじゃん、気持ち悪っ!」鈴香は勢いよく立ち上がると仁類の鼻先で音をたてて窓を閉め、更にレースのカーテンを引いた。しばらくして、竹箒の音が少しずつ遠ざかるのを聞きながら、鈴香はまだ苛立ちを抑えきれずに「気持ち悪っ!」と繰り返した。
全く、どうして自分はこんな山奥のお寺に居候して、狸に部屋を覗かれなきゃならないんだろう。友達もいないし、お母さんは東京だし、お父さんは行方不明だし、おまけに来週は中間テスト。最低以外の何物でもない。
結局、テストも保健室で受けて、結果は最悪だった。幸い、南斗おじさんも民代おばさんもテストの結果には関心がないらしく、聞かれもしなかったし、お母さんはといえば二、三日おきに電話はしてくるものの、たいていは民代おばさんと何やら長話していて、最後に鈴香が代わると「ちゃんとしててね」でまとめて終わりなのだった。
もともとお母さんはかなり教育熱心で、テストの結果どころか、夏休みの宿題の進み具合までチェックするほどなのに、今は自分の勉強で手一杯で、鈴香の方まで気が回らないらしい。
また次の学校で挽回すればいいか。
とんでもない点数のテストをまとめて小さく折りたたみ、キャリーバッグの底にしまいながら、鈴香は自分にそう言い聞かせた。でも次の学校、って一体どこだろう。いつからそこに行けるだろう。十月ぐらい?だとしたら、もう今の学校で頑張る意味もない。それでいいじゃない。毎日ぼんやりと過ごしながら、鈴香の気持ちはその辺りをなぞり続けた。
そろそろ本気で暑くなってやろうと、助走しているような初夏の風が保健室の窓から飛び込んでくる。脇に寄せていたはずの白いカーテンは、船の帆のように大きくふくらみ、鈴香の頬を撫でようと押し寄せてきた。
窓の外の世界は真っ白に明るくて、広くて乾いている。山の中にあるお寺が緑に包まれて、いつもどこか薄暗いのとは正反対で、その眩しさが鈴香をたじろがせた。
学校の周りに広がる住宅街と、国道の向こう側に並ぶビル。そのまた向こうには駅前の、この街で一番賑やかな場所がある。更にその向こうには何があるんだろう
そんな事を考えるうちに、六限目の終わりを告げるチャイムが鳴る。鈴香はそれでもしばらくは席を立たず、校舎から溢れ出した生徒の波が引いてゆくのを待った。 そして何も手をつけなかったプリントとペンケースを鞄にしまうと、立ち上がって遠藤先生のところへ行き、挨拶する。パソコンに向かっていた先生は顔を上げるとにこりと笑い、「はい、また明日ね。気をつけて」と言ってくれた。
やれやれ、とりあえずまた一日が終わった。
鞄を提げ、俯いたままで保健室を後にすると、すれ違う人の顔を見ないように、階段を一気に駆け下りる。午後の日差しを反射してグランドは白く発光し、クラブの練習でボールを蹴ったり、柔軟体操をしている生徒たちがとても遠く見える。彼らの掛け声と、音楽室から流れてくる吹奏楽部の、色とりどりのリボンをよじり合わせたようなロングトーンを聞きながら、鈴香はグランドを縁取るように続く歩道を歩いた。
お寺の方に向かうバスには、急がなくても間に合う。校門を出て、コンクリートで固められた細い川を渡って、診療所の前を通り、角を曲がればもうバス通りだ。帰りのバス停は横断歩道の向こう側で、信号待ちの時間が長いのがいつも嫌だった。
気がつくと鈴香はいつもと逆方向のバスに乗って、終点の駅前で降りていた。そして当たり前みたいな顔をして駅のビルに入り、これまでお母さんとお寺から帰る時にそうしていたように、切符売り場へ向かった。そして券売機の上の料金表を見上げた途端に、頭がくらくらしてきた。
私どこに行くんだっけ?前の家に戻るの?東京のお母さんのところ?それより、持っているお金でどこまで行けるの?
とりあえず待合室のベンチに移り、鞄から財布を取り出して確かめる。そこには千円札が一枚と、百円と十円が数枚ずつ入っているだけだった。南斗おじさんがお母さんから預かっている毎月のお小遣いは、あと三日しないともらえないし、お年玉は前に住んでいた街の信用金庫に入れたままだ。
溜息をついて鈴香はベンチに深くもたれた。そもそもどうして駅に来たのか、自分でもはっきりしない。でもまあ、まだ夕方まで時間はあるし、とりあえず電車に乗ってみる?
手持ちのお金でどこまで行けるのか、もう一度確かめようと立ち上がったその時、鈴香は自分に向けられた視線に気づいた。
「あ・・・」どちらからというのでもなく、そんな声が漏れた。クラスの水沢さんが、券売機の前でこちらを見ている。気づかないふりをするにはあまりにも近い距離で、鈴香はただ固まるしかなかった。こっちはまだ制服のままなのに、水沢さんはTシャツにデニムのスカートという私服で、ピンクのショルダーバッグをたすきがけにしていた。
「どっか、行くの?」と、先に口を開いたのは水沢さんだった。よそよそしいけれど、とりあえず笑顔っぽい表情。鈴香は何故だかとっさに「人が来るのを待ってるの」と答えた。
「そっか。私はこれからおばさんちに行くの。いとこのバースデーだから」
どう答えていいかわからず、鈴香はただ頷いた。水沢さんはちょっと黙っていたが、「小梶さんってお寺に住んでるの?」と訊ねた。
「うん」また頷いてから、鈴香は水沢さんの言葉の続きを待った。しかし彼女は彼女で鈴香が何か言うのを待っていたようで、それから一言「じゃあね」と少し困ったような顔つきで手を振ると、改札の方へ駆けていった。
彼女の髪を束ねた、レモン色のシュシュが遠ざかるのを見送りながら、鈴香はどうやら自分は大事なチャンスを逃したらしいと感じていた。「お寺に住んでるの?」と訊かれて、もっと色々答えればよかったのだ。バスが少なすぎる、山の中だから超不便、お風呂にカタツムリが出る、狸も住んでる。そうしたら水沢さんだってまた何か返してくれて、ずっと話が続いて、ちょっと仲良くなれたかもしれないのに。
でもきっと違う。
鈴香はまたベンチに腰をおろし、少し伸びてきた爪を見た。水沢さんはこれからおばさんの家に行くのだ。自分と話してる時間なんてない。きっと何か言ったところで、「ふーん」なんて気のない返事で、「じゃあね」と手を振ったに決まってる。
だからやっぱり、これでいいんだ。鈴香はそう自分を納得させると、あらためて周りを見回した。さっき思わず「人が来るのを待ってる」と言ってしまったけれど、本当にそうならいいのに。少し背筋を伸ばすと、待合室の入り口を通して改札が見える。今もし「お待たせー」と、言葉の割に申し訳なさのかけらもない、いつもの笑顔でお父さんが現れて、「なーんか忙しくて、連絡できなくて」なんて言われたらどんな気分だろう。そのまま二人で何事もなかったように、東京までお母さんを迎えに行けたらどんなにいいだろう。
どの位そうして待合室に座っていたのか。仕事帰りみたいな人が随分沢山通るなあ、と思って腕時計を見ると、もう七時近い。しまった、駅前からお寺に向かうバスは六時四十五分が最終なのに。鈴香は慌ててバス乗り場に向かって走った。他の乗り場には大勢の人が並んでいるのに、お寺行きのバスが出る乗り場には誰もいなかった。
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