夫の非公開ブログ -16-
いつもの時間に、いつもの場所。
いつもの嫁。
そしていつもの、俺。
それがようやく戻ってきた……って、実は今まで俺がいた時間と微妙に違うけど。
人格が女子高生だった嫁はもういない。恐らく俺は彼女ともう二度と、顔を合わせることはないだろう。
けど、会おうと思えばいつだって会えるんだ。
彼女は嫁の中にいるんだから。
あの子は今という時間に嫁を存在させるための、確かな人格の一部なんだから。
あの出会いは、まさしく俺の運命を変えるものだった。こうして、全てが戻ってから改めてそう、実感する。
俺はあの二週間のことを、生涯忘れない。
俺の知らなかった、昔の嫁と過ごした日々のことを。
嫁が俺にとって一番大切な人であることを、心の底から感じたことを。
この気持ちは、いつまでも鮮明なまま残しておきたい。
覚えている限りを、ここに書いていこうと思う。
俺がプロポーズした遊園地から帰ってきた時は、俺も嫁も涙でぐしゃぐしゃなのもいいところだった。
でもこれまでの外出と違うのは、嫁と俺はしっかり手を繋いでいたところだろう。正直、手を繋いだままでいるには遅い季節だったけど、それでも俺たちはお互いの手を離そうとはしなかった。
あんなことがあって疲れたせいか、会話は少なかったと思う。
なのに、全然気まずくならなかった。
沈黙も別に苦痛じゃない。
側にいるだけで、何となく空気がわかるようになってたからだって気がする。
「これで、意地でも過去に帰らなきゃならなくなっちゃったね」
嫁がぽつりとこぼしたのは、家に帰って買い置きのレトルトシチューを食べてからだ。
二人で食器を片付けて、食後のハーブティーを出した時だったと思う。
「そうだな……」
「あ、でもさ、生活習慣なら明日からでも変えられるでしょ?それに、早い治療もね」
しみじみと頷いた俺に、嫁が言い直してきた。私が過去に戻れなくても大丈夫、今の段階でできることは山ほどあるんだから!って、顔に書いてあることも即、伝わってきた。
そう、俺と嫁は離婚しない。
そんな選択肢はない。
支え合っていこうって、つい昨日約束したばっかりなんだから。嫁が示してくれた想いに、俺も精一杯応えていかなきゃな!
……と、自分の胸の裡で表明したはいいんだけど、ハーブティーを飲み干してからの俺たちは、早々に睡魔に敗北宣言することになった。精神的に疲れたところに、リラックス系のハーブティーなんぞ飲んだせいだろうか。
あーもう、風呂もこれから具体的な生活改善はどうするのかって話し合いも、明日の朝でいいや。
パジャマ代わりのスエットに着替えて歯を磨き、いつものように和室のソファーで寝ようと、襖を開ける俺。
「ねぇ」
するとやっぱりパジャマに着替えた嫁が、もう寝ぼけ眼になりかけている俺のスエットの上着をつまんで引っ張ってきた。
「ん?」
足を止めた俺の顔を、嫁がもどかしげに見上げてくる。
ほんの数秒だけもじもじとしてから、嫁はぼそっと言った。
「今日は、一緒に寝よ?」
「え……」
思いがけないお誘いに一瞬、俺は言葉が出なかった。そこで何か勘違いしたらしい嫁が、慌てて補足する。
「あ、でも不純、いや不埒な真似はしないでよね!」
「はいはい」
思わず俺は笑ってしまった。
もとより、今日はそんなことするつもりはなかった。
心が今までになく満たされて……本当なら気分が盛り上がってるから夜の方も、とは思ったけど。どうにも手足が重くて、とにかく早く横になりたい気分だったんだ。
久しぶりに自分のベッドに疲れた身体を横たえると、すぐに意識がなくなりそうになるくらいだった。いつ電気を消したのかもあやふやなくらい、眠気が待ったなしって感じで。
多分嫁もそうだったんだろうと感じたのは、隣から話しかけてきた嫁の声も、すごく気だるそうだったからだ。
「……あの、さ……」
「ん?」
「手……つないでてもいい?」
そこで、ちょっとだけだけど睡魔が進軍を足踏みした。
何故って……嫁の台詞がこうなる前、つまりタイムリープ前夜に聞いたのと全く同じだったから。
もしかしたら今が?って驚きはあった。
だけど、身体は言うことをきいてくれなくて。本当、爪先から指の先まで鉛の散弾を詰め込んだみたいに、うまく動かせなかった。瞼ですら重くて、目も開けてられないくらい。
だるさと眠さに耐えてやっと寝返りを打ち、嫁の方を向く。伸ばされてきた細い手を探り当てて握り返すと、夕方と同じ温かで柔らかい肌の手触りが--
……なかった。
何だか密度が薄くてスカスカしてて、妙に軽い感じがするって言うか。夕方に見た、消えていく幽霊にもし触れていたら、きっとこんな感じだと直感できただろう。
あの時の俺の幽霊は、この世界での役目を終えてあの世に還る安心感に満たされて……
ん?
ってことは、女子高生嫁も?
思わず目をうっすらと開けて、俺は必死に嫁の方を向いた。
「これって……」
「うん……あたし、今なら、戻れるかも……」
真っ暗な寝室で、くぐもった嫁の声が返ってくる。
必死に目を凝らしてるのに、見えるのは墨を流したような闇ばかり。すぐ隣にいて体温も感じられる嫁の姿が見えないなんて、心の底からもどかしい。
今、嫁はどんな顔してるんだろう?
俺の幽霊みたいに、満たされてる?
元の時間に戻れるのが嬉しくて、笑ってる?
それとも……この世界から去らなきゃならなくて、寂しそうにしてる?
不安だった。
嫁がどんな思いでいるのかわからなくて、何も言えなくなりそうだった。
「あ、あの……」
言いかけた俺は、そこで止まる。
女子高生嫁が過去に帰るこの時を、ずっと待ち望んでいた筈だった。
なのに、……なのに、いざとなると言葉が出てこない。
俺の心の中には、ほんの二週間の間にできた思い出が一気に溢れてきていた。
初めて目にした嫁の幼い表情、泣き顔、ストレートに感情をぶつけてくる素直さ、純粋な少女時代を映した横顔。
擦れ違ってばかりで、たくさん怒って、たくさん涙を流して……
でも、お互いに本当のことを知って。
最後には、穏やかな気持ちになれた。たとえ元に戻れなくたって構わない、俺はこの人を愛し抜くと、新たなスタートを切る覚悟すらできたんだ。
誰かを愛し、寄り添うことの大変さと……大切さに気づかせてくれた過去の嫁。
俺は……!
「……君と、会えて……良かったよ。俺……頼りない旦那で、ごめんね……」
「んなこと、ないよ……俺さんが、あたしの旦那さんで……ホント、嬉しいもん」
一度ははっきりしかけた意識が、また睡魔の誘惑に負けてぼやけていく。それは嫁も同じらしく、途切れそうな言葉を懸命にかき集め、繋げていた。
そして力を振り絞り、力が抜けつつある指先で俺の手を握り返してくれる。
「あたし、戻ったら……絶対に会いに行くから。病気にさせないために、何だってするんだから。覚悟、しといてよね」
「うん……うん。昔の俺に、きっちり……言い聞かせてやって。俺、君と少しでも長く、一緒にいたいし」
嫁は記憶を持ち続けるという目標で、余りにも先行きが不透明な時間に対して宣戦布告して見せた。
そしてその矢面に立つのは、紛れもない俺。
嫁の放ってくる攻撃は全て受け止めるつもりで、俺も必死で言葉のかけらを拾い集める。その想いを少しでも嫁に伝えたくて、俺は繋いだ手を強く握り返した……つもりだった。
「あたしも……ね」
思ったよりも力が入っていなかったことが、おかしかったのかも知れない。嫁がくすっと笑ったのが、気配でわかった。
ああ……考えてみたら、俺はそんな嫁の笑顔にいつも、癒されてたんだ……俺、もう、ダメ。
嫁の癒しパワーがなけなしの意識をかっさらおうとした、その時。
側に来ようとして勢い余った嫁の身体が、どん!とぶつかってきた。
鈍いけど柔らかい感触の後、顔の側に体温が感じられる。
そして嫁がいつも使ってるシャンプーの香りが、俺を包み……唇が、触れ合った。
俺の記憶はそこで、再生していた動画が強制停止されたかのように--ぶっつりと切れた。
何だか、ガサガサと変な物音がする……んだけど、別に嫌な音じゃない。
そう感じられたのは、その雑音が俺の神経を逆撫でしてくる類いじゃなかったから。むしろ、何だか安心するような……これって、俺がいつも聞いてる音だからってことか?
身体は暑くも寒くもなく、耳に心地好い刺激。俺は無意識に寝返りを打つと、もう暫しまどろみに身を委ねようとした。
「う……」
が、もう既にカーテンが開けられたらしい寝室の薄明かりに瞼をつっつかれ、目を覚ます羽目になっていた。
まだぼんやりとした頭は、目に映る寝室の様子をただの光景としてしか認識してくれない。
自分のベッドで寝たのは、二週間ぶりの筈なのに。
確か、次の週明けで嫁の有給も終わりの筈。これからのことは、二人で相談して決めないとな……まずは、まだ寝てるだろう嫁を起こさないようにしないとかわいそうだ。
って、もう一度寝返りを打ってみたら……隣のベッドはもぬけの空だし。
あれ、意外に早起きなんだな。女子高生なんて睡眠力が桁外れだから、もっと寝てるもんだと思ったのに……まあ、いいや。今何時だ?
相も変わらずほへーとしたまま、俺は枕元の電波時計を確認した。
--その日付を見て、どびっくり!という一単語だけで済ませられないほどに、俺は驚愕した。
何せ結婚記念日の朝の時刻、嫁がタイムリープした当日だったんだからな!
「え……あれっ!」
さすがの俺も、眠気なんぞAT-4で撃たれたレベルの粉微塵になって吹っ飛んださ!
昔のコントに出てくる爺ちゃんよろしく飛び起きた俺は、慌ててベッドから降りた。
瞬間、妙なことに気づいた。
何だ……何なんだ、この全身の軽さは!
この何日かは頭も肩もずっしり重くて、腹も何だか苦しい感じがしてたのに。それが今すぐ軽いランニングにでも行けそうなくらい、すっきりしてる。ホント、調子が悪かったのが夢みたいだ。
あ……夢?
自分で導き出しておきながら、あの女子高生嫁と過ごした日々がまさかの夢オチでした!なんて結論は到底、信じることができなかった。あんなの、あまりにもリアルすぎ……ってか、俺が持ってた感情なんかが、あんまりにも生々しすぎて。
でも確かに今は結婚記念日の朝だし、俺が長い長い夢を見ていたんだという解釈が一番しっくりくる。
そうでなければ……「二週間先までの記憶を持った俺」がいるってことは、俺もまた嫁と同じようにタイムリープしたってことにならないか?つーことは、ここは俺がいた時間じゃなくて、全く別の時間の可能性もあるってこと?
そう思うと、眠気が飛んだどころの話じゃない。顔から血の気がスーッと引いていくのがわかったぐらいだ。
嫁が同一人物じゃなく、全く別の人と結婚した可能性だってあるわけなんだから。
しかし、とそこで思い直してみた。
……寝室の寝具やインテリアはシーツも枕カバーも、チェストや時計までが全部見慣れたものだ。俺と嫁の二人で選んできたものが他人とも完全一致するなんてこと、あるんだろうか?少なくとも、嫁さんが別人の世界ってことはないんじゃ?
一僂の望みを視界に見つけ出した俺の耳に、今度は皿がカチャカチャ触れ合う音が届けられる。朝食の支度をしていると思われるその音は、間違いなくキッチンからしてくるようだった。
恐る恐る寝室から出た俺は、頭だけをドアの外に出して様子を窺った。
家の間取りは、俺の記憶と全く同じだ。壁に何枚か掛けてある絵の額縁まで、完全に一致……するが、油断するのはまだ早い。とにかくキッチンにいる嫁が誰か、ちゃんと確認せねば!
腹を括った俺は堂々と廊下をパジャマ姿で歩み、「ここを改めさせてもらう!」と宣言してキッチンに--入れるわけもなく、こわごわと覗いてみるのがせいぜいだ。チキンな俺、万歳。
「あれ、おはよ。まだ寝てても良かったのに」
途端、作り付けの食器棚からマグカップを出そうとしてた嫁と目が合って、普通に挨拶された。
「ああ……お、おはよう」
あんなに緊張してたのがアホらしくなるぐらい拍子抜けした俺は、朝一番の笑顔をくれた嫁へ素直に返した。
嫁はもう俺を別段気にすることもなく、朝食の準備に戻っている。冷蔵庫から取り出した低脂肪のヨーグルトをガラスの鉢に盛って、手際よくキウィの皮を剥いてスライスし、パンを切り分ける傍らでコーヒーを淹れる準備をし--
キッチンでくるくる動いている嫁は、どこからどう見ても正真正銘、俺の記憶にある嫁と同じだ。赤いセルフレームの眼鏡も、パジャマ代わりのシャツにレギンスも、長い髪も、そこからほのかに漂ってくるシャンプーの香りも、ほっそりとした全身も、心地好い低さの落ち着いた声も……
「どしたの?そんなにキョドって」
「そ、そうかな?」
まじまじと見つめてくる俺をさすがに不審に思ったのか、嫁が怪訝そうにした。
いつもと変わらな過ぎだから驚いてるんだよと言いそうになるのを、俺は慌てて誤魔化した。言いながらも、もう一度俺は嫁の顔を確かめておく。
眼鏡の奥の目は黒目がちで、アラフォーの嫁を若く見せるのに一役買っている。白い顔は張りのある、暗めの茶色い髪に包まれていて、これも活動的な雰囲気をプラスしていた。それに何より、溌剌とした活気を振りまいてるというか……こう、まわりを元気にしてくれる空気が……懐かしい。
……何から何まで、タイムリープ前の嫁じゃないか!
もしかして俺、本当に長いリアルな夢を見てたのか?
「何。私、どっか変?」
まだキッチンで棒立ちになっていた俺の目の前に立ち止まり、嫁は一層疑わしげに眉根を寄せていた。その如何にも「おかしいのは俺君だよね?」と言いたげな表情に、俺はまた慌てる羽目になった。
「い……いいいいや、別に……」
「ふーん」
いくらそんなジト目で見られても、俺には特に弁解しなきゃならない理由なんてないわけだから、余計に困ってしまう。非現実的だけど実はリアルな夢見てましたー、んで、ここは現実なんだヨカッター!と思ってるなんて、言えるわけないんだから。
けど嫁も、俺が嘘をつくのが下手なのはもう知ってるわけで。
嫁はからかうように笑ってから、俺の背をぐいぐい押してダイニングへと追いやってくれた。
「キッチンだって狭いんだから、俺君は座ってなよ。もう準備できるんだし」
確かに俺も嫁も背が高いから、一般的な間取りになってるマンションのキッチンはちょっと手狭だ。有無を言わさない嫁に素直に従って、俺はダイニングの自分の椅子を引いて座った。
ここも、何も変わってなかった。
午前中は太陽の光が満ちる、ダイニングとリビング。
天井から下がるちょっとくたびれた照明に、ダイニングの側に置いた夫婦それぞれが使う専用のパソコンとデスク。反対側のリビングにある北欧家具のソファーに、二人でこだわって選んだカーテンも。
ここまで、俺の記憶と違う点なし。
こうなるともう、いっそ夢だったんだと認めて、墓場まで持って行く秘密にした方がいいんじゃないかって気がしてきた……けどそうなると、ここまで体調がいいことの説明もつかない気がするし。
「お待たせ。食べようか」
俺がまだ一人で悶々としてるところへ、嫁がカウンターを中継させて運んできた朝食のプレートを置いてくれた。
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