夫の非公開ブログ -15-

 聞いた瞬間は、嫁が何を言ってるのか全く理解できなかった。

 もう想定外過ぎて……俺の頭の中に全く言葉として入ってこなかったんだ。

 ただ、嫁が変な勘違いをしてる。

 そう流して、もうとにかく俺のところに戻って欲しい一心で叫び続けてた。

「訳がわからないこと言ってないで……こっちに来てくれよ!」

 だけど、だけど俺の足はそこから動いてなかった。多分、本能では異常事態を感じてて、身体がこの状況を拒否していたんだと思う。

「……いつから気がついてたんだ?」

「ついさっき。顔はオッサンと同じでも、今のあたしのこと、あまりにも知らなさすぎなんだもん」

 --狼狽してる俺とは対照的に普通に会話する嫁と、俺そっくりの中年男。

 嫁に怖がってる様子はなくて、堂々としたもんだった。もともと嫁は逆境に強くて、いざと言うときに頼りになるタイプだったってことを思い知らされる。こんな状況なのに。

 一方の男は、怪訝そうな顔で嫁の話を聞いてるみたいだ。俺が俺の目の前で何言ってんだコイツ、って言いたそうにしてるのは、じわじわと精神にくるものがあった。

「それに、鏡とか夢に出る姿も声もどんどん若くなってくるからさ……で、影がないのが決定的だなって。怪談では当たり前みたいに言われるけど、ホントなんだね」

 殆ど俺を無視して、二人の会話は続いていく。

 その時淡々とした語り口の嫁と反対に、俺たちのすぐ後ろにある噴水が激しく水を噴き上げた。刹那、水に仕込まれた灯りが金色の光を放ち、俺たちを照らす。

 石畳に黒く落ちた影は……嫁と俺の、二つだけ。

 嫁の隣に立つ俺のそっくりさんは、一人だけ地面を捕まえていなかった。

 きらきら光る水の幕を背に、男が俺の方に向き直る。

「幽霊だってのは、合ってるよ。ただ……俺さ、親父じゃなくてお前なんだわ。五年後の話だけど、俺は不摂生が祟って死ぬから」

 多分わざとなんだろう。

 男はまるで世間話をするかのような、あっさりとした運びで俺に事実を告げた。

 ……何が起きてるのかわかろうとせず、まだ現実を拒もうとする俺。

 だけどコイツ、俺が仰々しく言われるよりも、さらりと言われる方が堪えるってことを知っている。

 つまり、コイツは誰よりも俺のことを知っている。

 眼前に立つこの男は、五年後の俺。

 そして、俺は俺に未来を予告したんだ。

 あと五年で死ぬ、と……

 自分の幽霊が目の前いる、ってことだけでいっぱいいっぱいなのに。

 その上、事実上の余命宣告?

 まさか。

 まさか、まさか!

 納得できるかよ、そんなこと。

 そんなん、いきなり言われたって信じられるかよ!

「五、年?ちょっと待て、んなこと信じ……」

 破綻しそうな思考の中、辛うじてこぼした俺に幽霊は冷たい、予定されているだろう現実を叩きつけてくる。

「死因は肝臓病。今は発病する手前ってとこかな」

「あ……」

 またしてもさらっと言われてすぐ、思い当たった。

 健康診断の肝臓の数値が思わしくないこと。

 最近、深酒が酷くなったこと。

 体調も悪化の一途を辿っていたこと。

 みんなみんな、慢性的な病じゃよくある事例だ。それが全て、今目の前に立つ幽霊の俺の存在を裏付けてるってことか。

 だとしても……あと五年しか生きられないなんて、あまりに早すぎる。

 信じられない、と言うよりも認めたくなかった。

「そんな、俺、まさか……嫁を残して……?」

「嫁はもっと早く死ぬよ」

 ……

 ちょっと待て。

 え?

 何だって?

 俺は、あと五年しか生きてられないんだよな?

 その短い時間よりも……嫁が早く、死ぬって?

「必死で俺を治そうとして、無理し過ぎて。仕事先で倒れて、そのまま……俺は入院して別の病院にいたから、間に合わなくてさ。最後、会えなくて……」

 きっと顔面蒼白になっていただろう、俺。

 最悪の一言では片付けられない、未来。何の心の準備もないまま、絶望的予言を聞かされて動くことができないでいる俺に、俺は淡々と続けていた。

 ついさっきまで、あと五年しか生きられない、俺の人生があまりに短いことにショックを受けていた。

 なのに。

 なのに、俺よりも若い嫁が……先に死ぬ?

 酷すぎる話だった。

 それにもしコイツが言うことが本当なら、俺が嫁を殺したようなもんじゃないか。俺の病気を治すために無理して、倒れたなんて!

「そ、んな……」

 ガクガク震える両足から力が抜けて、俺は石畳にがっくりと両膝をついてしまった。

 思い切り膝関節を打ったようだったが、痛みなんて感じない。

 今の嫁だったら多分、俺を心配して走り寄ってくれただろう。だけど、流石にそんな余裕はないらしく、呆然と立ち尽くしているだけだ。

 迫り来る夕闇の中、きらびやかなイルミネーションに照らされる俺たち。

 影を切り取ったように黒く浮かび上がるシルエットが、まるでこの未来を暗示しているかのように見えた。

「嫁を最後まで苦しめたのは、他でもない俺自身なんだよ。嫁の忠告も聞かないで深酒ばっかして、甘い物も内緒でたらふく食って、挙げ句に身体が壊れても気がつかなかった。自分のことしか考えてない、ダメ人間だよ」

 更に追い討ちをかけてくる、死んだ俺の言葉。

 俺は……今も、嫌なことがあれば酒を飲み、仕事中に甘いものをひっきりなしにつまんでいる。

 今の瞬間さえいい気分になれば、という欲に負け、自分の身体が上げる悲鳴からただただ逃げている。

 一時の快楽に溺れた報いとして、待ち受けているのが自分の死と……愛する女の死。

 自分だけじゃなく、一番大切な人まで巻き込むんだ。

 重すぎる事実を受け止め切れない俺は、うなだれて地面を見つめたまま、視線を上げる気力もなくしていた。

「だから、今のうちに別れな?その方が、お互いのためなんだから……嫁はさ、毎日見舞いにも来てくれたよ。俺を心配して、看護師並みの世話もしてくれて、最高の治療を受けられるからって必死で働いて、病院も移してくれた。なのに、俺……」

 また俺が嫁に言ったらしいのは、顔を上げられなくても気配でわかった。

 最後は俺、言葉に詰まってる。多分、嫁が死んだ時のことを思い出したんだろうな……

 幽霊は鼻をすすり、それでも涙声になるのを必死に抑えている声で続けた。

「俺は嫁を……誰よりも幸せになって欲しかった嫁を、不幸にしたくないんだ。だから、離婚して欲しい。そうすれば未来は変わるから」

「はは、そっか……そう、だよな……」

 俺は……もう、俯いたまま笑うしかなかった。

 そうなんだよな。

 嫁の早すぎる死を避けるためには、俺から離れるしかないんだから。

 俺じゃない、他の誰かと幸せになってもらうしかないんだから。

 本当に嫁のためを思うなら、選択肢は「別れ」の一択なんだ。

 俺は、嫁に生きて欲しい。

 それは……今の俺も、きっと幽霊になった俺も変わらない、たった一つの同じ願い。

「俺のために、犠牲にならないでくれよ。頼むから、離婚してくれ……」

 震えを抑えた声で今一度、俺が懇願する。

 ああ……多分俺も、同じように考えるだろうな。

 自分の責任で病気になって、愛する人が死んだのも大半は自分の責任。こいつはきっと死の直前、これまでの自分をこの上なく憎み、後悔したんだろう。だから魂だけが時間を超えて、発病する直前の時間に現れたりしたんだ。

 どうしても、嫁だけは守りたくて。

 たとえ自分と別れることになっても、幸せになって欲しくて。

 ……今やっと、幽霊と俺とが重なるように思えてくる。

 あとは嫁が、納得さえしてくれれば……

「離婚、しないよ」

 と、嫁の決定的な、しかし静かな一言が……って?

 ……

 ……え?

 ええええ?

 今、何て言ったんだ?

 離婚しない?

 別れない?

 確かにそう、聞こえたような気がするんだけど。

 それに何か、やけにあっさり言ってなかったか?

 俺の耳、おかしくなったのか?

 不意に不安を感じた俺は、無意識のうちに顔を上げていた。

「え……!」

 すると見えたのは、ついさっきまで神妙な顔をしていただろう俺が、フリーズしてる姿。

 と、憮然とした嫁の顔だった。

 ……もうかなり暗くなってきてるのに顔が見えて良かったと、イルミネーションをありがたく思う俺が、おかしい。

 固まったままでいる中年男二人……いや正確には一人を前にして、ジーンズ姿の嫁は明らかな不満を湛えていた。

「だいたいさぁ。あたしがオッサンと一緒にいて不幸だったと思ってるわけ」

「え……そりゃ、俺が苦労かけちゃったから、そのせいで君は早死にしたわけで」

「まさしく死人に口なしって奴?当事者の意見も聞かないで、勝手な想像で突っ走んないでよね!」

 勢い込んで言い散らかす嫁は、細い眉を吊り上げて怒ってさえいるように見える。そこに悲しそうな素振りは微塵もなく、若い娘特有の溌剌とした、透明な元気が溢れてい出ているのがわかった。

 アラフォーの嫁に似つかわしくない空気に圧され、幽霊の俺がどもり出す。

「な……ちょ、ちょっとなぁ、勝手って!俺……俺は、嫁を助けたいと思ってここに来」

「あたしが不幸だったわけないじゃん!ま、もしこれが三八歳のあたしなら、普通に真に受けてるとこだろうけどさ」

 刻々と変わるイルミネーションの光を受け、嫁の表情が軽くなった。へへっ、と音に出せそうなその笑顔は……嫁に何か考えがあるときのサインだ。

 こんな状況なのに笑っていられる嫁がまともでいると思えないんだろう、幽霊の俺がもともと悪い顔色を余計に悪くして、嫁に詰め寄ろうとする。

「いやだから、普通」

「普通じゃないってば!」

 ひょいと軽やかなステップを踏み、嫁は半歩前に進み出てきた幽霊との距離を保った。

「あ、ひょっとして知らないのか……ま、幽霊って行動に色々制限があるみたいだし。無理ないかな」

 そして振り返って……またいたずらっ子みたいに、笑う。

 今度は得意気で、しかも満面の笑みだ。

「教えたげるよ。あたしの頭ん中はさ、過去の時間から来た一七歳の女子高生なの。ぴっちぴちなの!タイムリープ?だっけ。高校生のあたしが、まだオッサンと出会う前のあたしが未来を知っちゃったんだよ。これ、普通だって言える?」

「それ……は、確かに普通じゃない、けど。いきなりそんな話……」

「何、信じられないの?自分だって、未来から来た幽霊のくせに」

「う……」

 幽霊が返す言葉を失ったタイミングで、俺たちの後ろにある噴水が一段と派手に水を噴き上げた。きらきらと輝く水滴がヴェールとなり、淡い金色の闇が下りてくる。

 光の中の嫁は、完全に負の存在であるところの俺--つまり、暗い未来を象徴する幽霊の俺を圧倒する存在感を放っていた。

 ああ……そうだ。

 俺も、よくこうやって言い負かされて、尻に敷かれてたっけ。

 やっぱりこの人は、今も昔も嫁なんだ。

 俺の大好きな奥さんなんだ……

 俺は、俺が俺の目の前にもう一人いるという事実をまだ受け止め切れないのか、どうも変な考えに走るみたいだった。ぼんやりと二人のことを見つめる俺をよそに、嫁はまさしくドヤ顔で続けていく。

「オッサンさ、あたしがこうなる前から散々悪夢見せてくれたって話じゃん?そんなことやって、当然相応のお返しを受ける覚悟はできてるんだよね?」

「いや……いや、その、俺はただ」

「あたしのためを思ってやったってこと?それで済んだら、警察は要らないんだっつの!」

 ガンガン理屈で攻め立てて、嫁は俺から反論の余地を奪っていく。

 女子高生メンタル強し……これが、若さか!

 あ、あかん。

 俺はこんな大事な場面に、なんちゅうヲタ連想を。

「罰として、あたしはオッサンの言うこと聞かないことにしたから」

 噴水の方へとそっぽを向いてしまった嫁にあわあわ、とうろたえるしかない幽霊の俺。そこへ嫁が放ったとどめは--

「だから離婚なんてしてあげない。自分の手で幸せ壊すような真似、したくないもん」

「え」

 ……さっきも聞いたはずの結論と、ちょっと拗ねたように聞こえる、しかし確かな気持ちが込められた声。

 一瞬前までコメディ色だったこの空間がシリアス色にどんでん返しされるくらい、揺るがない感情が入った言葉。

 嫁は、光も勢いも静かになった噴水を見つめたまま、やっぱりどこかもどかしげに言った。

「さっきから、言ってるでしょ。あたしが不幸だったって……本気で考えてるのか、って」

 俺たちに背を向けて続けている嫁の顔は見えないが、その小さな後ろ姿にとげとげしさがないことが伝わってくるのが不思議だ。

 薄手のジャケットを羽織った嫁の肩が、また明るくなり始めた噴水の光に浮かび上がる。同時にくるりとこっちを振り向いた顔は、微笑みを浮かべていた。

「オッサンはさ。あたしのことを思ってくれて、幽霊になってまで……過去の世界に来てまで、あたしの運命を変えようとしてくれてるじゃない。そこまで大切にされて、きっとあたしは自分が不幸だなんて考えてなかったよ。自分のことなんだし、それくらいわかるもん。そうじゃなければ、倒れるまで必死に看病なんてしなかったと思うしね」

 俺と、俺の幽霊とを、嫁は交互に眺めている。

 変わらず穏やかな笑顔を向けてくる嫁の言葉が、何だか胸の奥にずんと響いてくるようだった。

 俺に、想われて……幸せ?

 自分がそう長く生きられないと分かっても?

 必死の努力が報われずに死ぬと、決まっていても?

 頭に浮かんでくる、いくつもの疑問符。

 けれどそれを声に出す勇気はなくて、俺はただただ嫁を見つめ返すことしかできなかった。

 そんなこともお構いなしに、嫁はまたにっこりと笑って見せる。

「あたし、まだちゃんとした恋愛もしたことないけど……好きな人の側にいるのが、自分にとっての幸せだって思ってるから。むしろ、あたしがオッサンを残して死んだんじゃ……それが心残りだったんじゃないかって思うけどな」

「好きな人……」

 幸せに溢れる笑顔。

 長い人生でそう実感することは、そうそうないだろう。が、今の嫁はまさしくそれだ。

 何だか胸が締めつけられる思いがして、俺は無意識に反芻していた。

 好きな人。

 俺は今まで散々、嫁に好き好き言ってきたなぁ……

 なのに、この重さの違いは何だろう?

 嫁がほんの少しだけ、俺の何分の一かだけ「好き」って言ってくれただけなのに。そのたった二つの音が、心の奥底にまで響いてくる。

 嫁の笑顔は輝かんばかり、ってわけじゃない。どっちかと言えば、心をあたためてくれる穏やかさのある印象だ。だからこそ、俺もそこに包まれた想いの深さを感じることができるのかも知れない。

「だから……別れないのか?」

 やっぱりまだ信じられない、と言いたげに立ちつくす幽霊がこぼすが、嫁が返す声は明るいままだった。

「うん。それに今の状態、悪くないしね」

「どういうことだよ?こんな暗い将来が……」

 ぼんやりした頭の俺だったけど、いくら嫁が自分の幸せを主張したからって、状況はまるで変わらないってことくらいは理解できる。

 しかし嫁は、ようやくふらりと立ち上がった俺を見て言い放った。

「つまりさ。過去のあたしが、未来に起こることを予め知った状態でしょ?この記憶を残したまま、あたしが過去に戻ることができれば……どお?」

「あ……!」

 ドヤ顔に戻った嫁に指摘されて、我に返る。

 それは俺の幽霊も同じで、目を真ん丸にひん剥いて口もぽかっと開けて……憎たらしいことに、リアクションは俺と全く同じだった。

「未来は……運命は、変わるってことなのか?」

「変わるんじゃないよ。未来を……運命をさ、変えるんだよ。二人で力を合わせて……って、うっわ!恥ずかし!」

 厨二病的な台詞を言ってから自覚が出たんだろう。後半の嫁はわざとらしい、いかにもヤッチマッター!な口調になっている。

 俺の死因は肝臓病で、今はギリギリで発病していない。

 そしてその発端は、長きに渡る過度の飲酒と乱れた食生活によるものだ。突き詰めて言えば、そこを直しておけば病気にはならないし、死なずに済むってこと。

 ずっと前から悪習慣を止めることができれば、の話ではある。

 普通ならもうそんなことは無理なはずなんだが……

 だけど嫁には、もしかしたらそれができるかも知れない。

 時間を飛び越えてきた、過去の世界にいる嫁なら。

「そうか……俺が死ぬ原因は病気で、しかも原因は不摂生だ。そこをずっと気をつけていれば」

「そういうこと。運命を変える!なんて、ちょっと照れ臭いけど……あたし、必ず変えて見せるから。起こしてみようよ、奇跡ってやつをさ」

 この場にいる三人、いや二人がとっくに理解していることを呆然として口に出した俺に、明るく嫁が笑いかけてくる。

「でも……」

「でも、過去に戻れても……もし君が俺のことを忘れたりしたら」

 幽霊と俺がシンクロして同じことを心配しても、嫁はその先を封じてしまった。

「大丈夫!必ず覚えてるもん。おまじないが教えてくれた、あたしの旦那様なんだから」

 ……覚えてるって、その根拠のない自信はどっから湧いてくるんだか。

 一定のパターンを繰り返してまたぱーっと明るくなった噴水を背にした嫁には、まるで後光が差しているように見える。それを見ると、何だか俺も幽霊も笑うしかない、って気になったようだった。

 先のことなんて、誰にもわからない。

 なら、この嫁の自信を……「自分を信じる」力を、あてにさせてもらってもいいんじゃないか。

 過去に戻ろうとしてるのにこれから先の話、なんて矛盾もいいところだけど。

「だからさ……未来のオッサンが、もう心配することはないよ。絶対にオッサンの顔も、ここであったことも忘れないから。あたし、絶対に不幸になんてならない。約束する!」

 そんなオッサンの屁理屈を知ってか知らずか、ちょっと離れたところに立っていた嫁が歩み寄ってきた。

 曇りのない、見る者に晴れやかな気持ちを与えてくれる、笑顔。

 少女の純粋さを宿した嫁の黒い瞳が、俺の幽霊を間近で映す。

 軽く握った手を差し出した嫁は上目遣いになって、それでも強気なままで言った。

「ほら、指切り。早く!」

 おずおずと手を伸ばしてきた幽霊の小指を強引に絡め、一瞬だけその感触を確かめるように間を空けると、嫁は力強く頷いた。

「約束したからね。未来……変えるよ!」

「……」

 俺は……俺の幽霊は何も言えずにただ小さく頷き返し、俯いただけだった。

 その不健康に落ち窪んだ目が、潤んでいたようにも見える。が……口許は笑っているのが、数歩分離れたところに立つ俺にもわかった。

 今までは険しいか、悲しそうにしてるだけだった未来の俺。

 嫁を先に逝かせたことが心残りの俺は、きっともう笑うことすら忘れていたんだろう。

 なのに。

 癒されたであろうことが、こいつのことを一番恨んでいた俺すらわかるくらいだ。

 幽霊がその心から安らいだ顔を上げると、輪郭の内側に噴水が透けて見えていた。

 いや、顔だけじゃない。がりがりに痩せた手も、ちょっと若作りしたように見えるジャケットやパンツも……全ての色が徐々に失われていき、どんどん密度が薄くなっていく。

 今まさに、俺の幽霊はこの世界から消えようとしていた。

 でもあの穏やかに微笑んでいるように見える顔は、この世に存在が許されない罰で消されようとしているからじゃない。

 自分が願っていたことが叶ったから。

 もう、自分がここにいなければならないと思わなくて済むからなんだ、ということが自然に伝わってくる。

 嫁は指切りをしたままで、そんな未来の俺の魂をただ優しく見つめている。

 かと思うと嫁は、小指を絡めていた幽霊の右手を自分の方に寄せ、もう片方の手で包み込んだ。

 そしてまた、にっこりと笑って見せる。

 明るくて、優しくて、穏やかで……俺にとっての、最高の笑顔。

 それを見た幽霊の頬に、涙が伝った。

 透き通った雫が、宙に落ちようとした瞬間--幽霊は、噴き上がった噴水の光に溶けていくように、消えた。

 一瞬前まで、俺という人物が二人いた空間。

 ありえなかった現実。

 それが本当の夢だったかのように、ただただ全てが元のように存在していた。

 そしてその中心には、まだ優しく微笑んでいる嫁がいた。

「あ……」

 そのラフな格好でいる立ち姿からも、現実味が消えてしまいそうで。

 急に怖くなった俺は、間抜けな声を洩らしていた。

 俺の変な一言に気づいた嫁が、はっと眼鏡の下の目をしばたかせて辺りを見回す。

 その途中で俺を改めて認めると、嫁は小走りに近寄ってきてくれた。

「ね、そろそろ帰ろ?」

 サラリーマン然としたスーツ姿の俺の前に立つ嫁は、まだ笑顔だった……が、晴れやかでいる一方で寂しさや悲しみを混ぜた、翳りのある微笑みになっていた。

 そして何だか、瞳が潤んでるように見える。

 そりゃあ、正体が俺だったとは言え、散々な目に遭わせられた幽霊と一緒にいたんだ。

 怖かったよな?

 不安だったよな?

 ごめんな。

 いや、それより何より、もっと先に言わなきゃいけないことがあるだろ!

 言いたいことが頭の中で渦巻いてプチ修羅場、何とか相応しい一言を探し続ける俺に、嫁が先んじて言った。

「心配かけたみたいで、ごめんね」

 ……いや、ごめんね、ってそんな!

 謝らなきゃならないのは俺の方だ。

 苦労かけて、先に死ぬ運命を背負わせて、挙げ句は俺の魂のなれの果てに振り回されて。

 その解決方法まで、全部が全部嫁へおんぶに抱っこじゃないか!

 ダメ夫でごめん。

 情けない野郎で、本当に済まん。

 だけど……謝りたい気持ち以上に、実は俺は嬉しかったんだ。

 嫁が「好きな人」って言ってくれたから。

 俺のこと、「あたしの旦那様」って言ってくれたから!

 こんな俺の気持ちに応えてくれて……俺はただひたすらに、嫁に感謝してた。今の嫁と出逢えたこと--過去の世界から来た嫁と会って、俺の知らなかった一面を教えてくれたこと。

 その全てに、ぶつけたい一言をやっと見つけた。

「ど、どしたの?」

 今まで黙りこくってた俺の顔を不思議そうに見上げていた嫁が、おろおろし出す。

 いつの間にか、俺は大粒の涙を目に溜めていた。瞬きをすると、とっくに限界を迎えていた雫が外し損ねた眼鏡の縁に触れる。

 とうとう涙腺を決壊させた俺は、溢れ出る感情のままに嫁を抱きしめた。

「ちょ……!」

 いきなり抱きつかれた嫁が驚いて声を上げるが、避ける素振りは全くない。

 嫁の細い半身は硬直しかかったが、それも一瞬だった。

 嫁は俺が抱き寄せるままになって、スーツの腕に華奢な手を添えてくる。かと思うと、その指は震えている俺の背中を優しくさすってくれた。

 嫁が自然にそうしてくるほど、俺は乱れた息の下で泣いていた。

「あり、が……と……」

 言いたいのに。

 嫁への気持ちはもっとちゃんと表したいのに、涙で溺れそうな俺は途切れ途切れに囁くのがやっとだった。

 腕の中の嫁が、泣くことしかできない俺にだけ聞こえる小さな声で呟き返してくる。

「いいよ、お礼なんか……でも、心配してくれて……あたしも、ありがとう」

 やっぱりまだ笑顔の嫁も、声が震えている。

 ……いとおしい。

 いつまでも、この人を離したくない!

 心の底から湧き上がってくる想いを込めて、俺はもっと嫁を強く抱きしめていた。

 俺たちの影はイルミネーションの輝きに黒く、くっきりと、浮かび上がっていた--

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