夫の非公開ブログ -14-

 今、後ろにあるリビングのソファーでは、女子高生嫁が俺のタブレットで日記をつけてる。

 かく言う俺もブログつけの真っ最中だ。

 以前の俺たちは、同じ空間にいて別々のことをやっていると、途端に見えない壁に仕切られたような疎外感があった。

 でも今は違う。

 嫁がそこにいてくれるだけで、心地よい安心感に満たされる……嫁にとっての俺もそうだと思いたい。いや、きっとそうだと、ちょっとだけ胸を張って言える。

 あ、いかん。

 思い出したら目から汗が出てきた。

 正直、今もまだ興奮してるとこはあると思う。けど、できる限り書いておきたい。

 一体、何が起きたのか。

 俺たちの運命を、本当に変えられるのか。

 もし迷ったり、挫けそうになることがあったなら、いつでも今日という日を思い出せるように……



 会社で上司からもう帰れと言われた筈なのに、俺はもう浮かれて仕方がなかった。

 顔色があんまりにも酷い?

 気がつくと身体がぐらついてて今にも倒れそうだから、病院行け?

 んなの、知ったこっちゃない。

 ようやく、女子高生嫁との将来に明るい兆しが見えたんだ。

 嫁の有給はもう明日で終わるけど、それが何だ。俺たちは、二人で力を合わせてやっていこう、って決めたんだ。これを祝わずにいられるか!

 思いがけず夕方の早い時間に帰れることになった俺は、電車から最寄り駅降りる足取りも軽い。改札階に上がる階段をいそいそと上がり、もどかしげに鞄の中を探って定期を取り出す間にも、今夜開催される宴のことが頭を離れなかった。

 ……勿論、自腹での話だけどな!

 今日は俺たちの新しい門出なんだ。

 よし、駅を出てすぐのところに高級スーパーがあるから、まずそこでシャンパンだ!甘くて口当たりがいいのを選べば、多分嫁もチャレンジしてくれるだろうし。

 肴は……そうだな。刺身をカルパッチョにするのと、カマンベールチーズとかどうだろう。

 じゃ、メインディッシュはどうしよう?

 やっぱ肉料理かな。いい肉があったら、ステーキにするのもいい。

 俺は、普段滅多に買うことのない分厚い和牛ロースのステーキから溢れる肉汁のジューシーさを想像して、早くも涎が垂れそうな顔をしてたと思う。昨日までは夕食もあんまり食べたくないと思ってたのに、それが嘘みたいな食欲だ。

 しかし、と俺はそこではたと思い止まった。

 自分一人だけで、メニューを勝手に決めていいわけがない。第一、嫁は俺がこんな時間に帰ってくることすらまだ知らないんだった。

 なら、早速電話だ!嫁には昨日スマホの使い方もざっと教えたし、大丈夫だろう。あ、何なら嫁に駅まで出てきてもらって、一緒に買い物してもいいよな。

 勢いで鼻歌すら出そうになってる俺は、スーツのポケットからスマホを引っ張り出して速攻で嫁の番号にかけた。

 改札を出て、まだ夕方の混雑も始まっていない穏やかな雑踏の駅を抜けながら、電話を耳に押し当てる……が、嫁のスマホは呼び出し音が続くばっかりでだんまりだ。もしかして、また本体を寝室に置き忘れてるのか?

 ならばと、今度は自宅の固定電話にかけてみる。しかし誰も出ててくれる様子はなく、やはり単調なコール音が延々と虚しく続くだけだった。

 嫁、出掛けてるのか?

 でも確か今日行くって行ってたお寺は近所だし、五時までには戻るように言ってたんだから、そろそろ家にいてもおかしくないよな。家にいれば、固定電話に出ないってこともないだろうし。

「おかしいな、家電話にも出ないなんて……」

 思わず呟いた俺はもう駅を出て、ロータリー沿いにある高級スーパーの手前まで来てしまっていた。

「あれ、今帰ってきたのか?」

「お、おうS……」

 そこで突然野郎に声をかけられた俺は、驚いてスマホから顔を上げた。

 目の前にいたのは、清楚系OLっぽい女の子を連れたSだった……っておい、こいつまたこの前見たのと違うカノジョかよ!本当にもう、これだからイケメン様って奴は。

 ってのは口に出さず胸にしまっておく。べ、別に羨ましくも何ともないんだからな!第一、俺には嫁さんがいるんだから!

 と、優雅にカノジョとディナーのお買い物!と洒落込む平日休みのSに心の隅っこで突っ込んだ俺だが、Sは何だか驚いているようだった。

「何だよ、何かあったのか?」

「いや……お前、奥さんと待ち合わせとかしてたんじゃないのか、って思ったからさ。さっき駅で、奥さんを見かけたんだけど」

「え?」

 俺は言いづらそうにしているSに、今度は俺が驚かされた。

 恋愛に関しての百戦錬磨であるコイツがごにょごにょとしてるのはまあ、百パーセントの確率で嫁の浮気だの不倫だの、を心配してのことだろう。何せ、コイツ自身心当たりがありまくるんだからな。

 しかし残念だな、Sよ。

 今の嫁に限って、百二十パーセント以上の確率でそれはありえん。嫁さん、「物理的に」俺以外の男を知らないわけだし。

 だから俺は、余裕ぶっこいて首を傾げて見せた。

「嫁に電車使うような用事はないはずなんだけど……見間違いじゃないのか?」

「いやいやいや、あれは確かにお前の奥さんだったって!何だか妙に急いでたみたいだったぞ」

「……それ、確かに嫁さんに間違いないか?」

「ああ、俺の視力は二・〇だぞ?それに、俺がお前の奥さんの顔を見間違えるわけないだろ」

 カノジョが隣にいるのに、ドヤ顔で豪語するS。あ、コイツはいい女の顔は一度見たら忘れないのが特技だったって言ってたの、今思い出した。

 ……いや。

 でも、Sがそうまで言うからには、駅にいたってのはやっぱり嫁だったってことか?

 そうなれば家電話に出ないのは当たり前だし、もしスマホを持ってたとしても、バッグに入れてるなら着信に気づかない可能性は高い。何せ、嫁はケータイ文化に無縁の人種なんだから。

 しかしだとしたら、俺に相談もなく電車で出掛ける用事って何なんだ?この、不馴れな土地だってのに。よほど信用できる人物からの呼び出しだったら、わからなくもないんだが。

 今の嫁が信用してる、ったら……俺以外にいないはずだ。

 あ、もしかして俺を騙った詐欺?

 まあそれはないか、親父にかかってくるならともかくとして。第一親父は故人なわけだし……そう言えば、俺と親父って声が似てたんだよな。電話だとそっくりだから間違えそうだって、お袋も言ってたっけ。

「……ん?」

 電話?

 俺は、自分の心が今いる夕暮れの雑踏のように、ざわめくのを感じた。

 怪談なんかじゃ、幽霊から電話がかかってくるなんてのはありふれたネタだ。以前嫁が話してくれたけど、霊は水や電気と相性がいいらしいし。

 ……まさか、親父の幽霊が電話で嫁を呼び出したんじゃ?

 親父の幽霊が離婚しろと迫ってくるって、確かに嫁は言ってたよな。

 今の嫁には、俺と親父の声は多分聞き分けられないだろう。電話の主が俺だと思ったら、疑わずに出ていく可能性は極めて高いじゃないか!

「どうしたんだよ。顔が土気色だぞ」

 言葉を失って立ち尽くす俺を、Sが怪訝そうに見つめる。

 茫然自失状態からはっと現実に引き戻され、俺は勢い込んで言った。

「嫁、どっちに行った?」

「下り線のホームに……」

 詰め寄られたSはやや引き気味に、しかしはっきりと告げた。

 嫁は郊外の方へ行ったのか!せめて電話が通じれば……ともどかしげな気持ちになった拍子に、俺はGPSのことも思い出していた。

 そうか!嫁と通話はできなくても、かなり正確な居場所が把握できる。

 けどそれは、下り電車に乗ってからでいい。とにかく、一刻も早く嫁と会うことだ!

 決断を下した俺は、今出てきたばかりの駅に速攻で走り出した。

「済まん、礼はまた今度するわ!」

「おい、そんな走ったらお前……!」

 言い残した俺をSが呼び止めようとする。さっき死人みたいな顔色をしてたから、純粋に俺の体調を心配してくれてのことだろう。

 悪友の気遣いはありがたかったが、今は愛する嫁の安全を確かめることが先なんだ。何しろ、相手は幽霊だ。何をしてくるか、予測が全くできない相手なんだからな。

 改札へのエスカレーターを駆け上がり、改札のセンサーに定期を叩きつけたら人混みをかき分けてホームに転がるように下りて、発車間際の下り電車に滑り込む。

 距離にしてたった二百メートルもない全力疾走で俺の心臓はもうバクバク、全身も汗まみれだ。だが俺はスーツの上着を脱ぎながらスマホを取り出し、震える手で嫁のスマホの位置情報を確認した。夕暮れが迫り来る電車の車内で、スマホのディスプレイが妙に眩しい。

 画面に呼び出した地図がポイントする場所は……俺と嫁が独身時代からよく行ってた、近所の遊園地?

 確か今の時期は、毎年初夏のライトアップが期間限定でやってる筈で、今乗ってる電車にも吊り広告が下がってる。連続で画面更新をかけると、嫁は遊園地の入口ゲートから奥の方へと移動してるみたいだった。

 マナー違反と叩かれる覚悟で嫁スマホに電話してみるが……やっぱり、嫁は出ない。多分、昨日俺がサイレントモードに設定を変えたせいで気づかないんだ。良かれと思ってやったことが、こんなところで仇になるとは!

 くそっ!こうなったらもう、直接殴り込むしかない。

 早く、早く着いてくれ……!

 俺は黒い革靴の踵をしきりに床に打ちつけながら車窓を流れる景色を睨み、この電車が予定時間よりも早く目的地に着くことだけを願った。

 しかしそこは日本の鉄道、皮肉にも到着は予定時間通りだ。

 俺は正確無比な運行を恨みつつ、電車がホームに着くなり猛然とダッシュした。少ない乗降客のリア充カップルたちが唖然とこっちを見るくらいの勢いで改札に突っ込み、遊園地のチケット売り場へ突っ走る。駆け込んだゲートにいたモギリのお姉さんも、多分俺の血走ってるであろう目を見てドン引きするレベルだ。

 しかし日頃から運動不足でデブ気味、オマケに体調も悪い俺は、やっぱりちょっと行っただけで口から心臓を吐き出しそうになるくらいだった。ぜいぜいと濁った荒い息をついて、それでも俺はスマホを睨みつつ嫁の姿を求め続ける。

 初夏の爽やかな夕闇を彩るイルミネーションは、独身時代とちっとも変わらない。が、生憎今の俺はそれを美しいと思う余裕なんてなかった。自分のやかましい呼吸音すら鬱陶しく感じながら、GPSの情報と辺りの光景を見比べることを繰り返す。

 嫁のスマホを示すポインティングは、俺の現在位置ともうあと十メートル足らずの距離にあることを示していた。

「えぇぇええと……あっちか!」

 俺が周囲をぐるっと見回して、方向を確認した時だった。

 二十メートルはあろうかという広い通りが通じる噴水広場。白い石の池から勢いよく噴き出す水が、淡いブルーに彩られ輝いている。その光の幕の前に、二つの黒い人影があるのがわかった。

 一つは、長い髪をポニーテールにまとめた細い女の立ち姿。もう一つは……

「親父!」

 片方が嫁だということを確信するなり、俺は怒鳴っていた。驚いたように、二つのシルエットがこっちを振り返る。

 やっと追いついたぞ。いくら親父とは言え、死んだ人間の好きなようにさせてたまるか!

 息切れでろくに喋れないが、言いたい台詞を五万と胸にした俺は二人の方へと走っていく。

 噴水の明かりに照らされた嫁と親父の顔が、近寄るにつれてはっきりと見えてきた。すると意外にも、嫁の瞳が困惑の色を浮かべ固まっていることがはっきりとわかった。

「……って……え……?」

 そして二人から十歩くらいの位置まで来てから、俺も表情をフリーズさせることになった。人間ってこんなに目を見開けて、瞬きしなくても大丈夫なのかと、冷静に考えたらおかしな感心をするぐらい。

 嫁と手が触れ合うくらいの距離にいる幽霊。

 幽霊の顔は……目元も鼻も口も、造形が何から何まで、まさしく俺そのもの!

 いや、今の俺をもっとやつれさせて、更に顔色を悪くした感じか。

 とにかく、俺と同じ顔をした奴がもう一人いる。

 そうとしか思えないほど、俺と親父の幽霊は似すぎてたんだ。

 そればかりじゃなく、親父の幽霊は何故か、嫁が何年か前の誕生日に買ってくれた俺の服を着てる。だから、余計嫌な感じがした……ってか何で、親父は俺の服着てるんだよ!

 しかし……しかしだ。親父が死んだのはもう七十代になってからだった。こんなに若いわけない!

 こりゃ一体誰なんだ。俺と瓜二つのこの男は?

「ああ、来たのか」

 俺がすっかりパニックに陥ってると、そいつがぼそりとこぼした。その声すら、俺とそっくり……

 何てこった。

 いくら親子でも、ここまで同じだとは!

 最早驚きを通り越して気分が悪くなってきた俺だが、声までがそっくりという点で、あることに思い当たった。

 声までもが被って聞こえるってことは……これってもしかして、若い頃の親父?俺、親父の古い写真は見たことなかったけど……この世に俺が二人存在するわけないんだから、そう考えるしかなかったんだ。

「お、俺……俺だよな。なのに、親父……」

 混乱して俺は、わけのわからんことを口走った。

 ……いやいや、落ち着け!

 あいつは親父の幽霊であって、俺じゃない。違う人間なんだから!

 とにかく、早く嫁をあいつの手が届かないところに……!

「おおぉ、おい……嫁、嫁からはな、離れろ!」

 命令するつもりでまた俺は必死に怒鳴ったが、完全に声が上ずってるのを自覚した。

 しかし……だからなのか、嫁は全く動こうとしない。まさか、俺が本気で言ってないとでも思ってる?それとも、後から来た俺の方が親父の幽霊じゃないか、とか誤解されてる?だとしたらどうすりゃいいんだ、俺が俺だってわかっってもらうには……

 頭の中がぐちゃぐちゃになる一方だけど、まとまらない考えの中でも、俺は嫁を守ることだけを突出させていられた。だから、もう一度叫んだんだ。

「嫁も、早く逃げろ!そいつ、そいつは幽霊で……」

 けど、嫁は動かない。と言うより、動こうとしない。

 嫁は恐怖で立ち竦んでいるわけでもなく、驚きで動けなくなってるわけでもない。ただ黙って、俺と親父の幽霊の顔を見比べてるだけだった。

 ……何でだよ。

 そいつ、今まで散々俺たちを苦しめてきた元凶なんだぞ。嫁にとっても憎らしい相手のはずだ。どうして、逃げようとしないんだよ!

 嫁の態度に怒りすら覚えた俺は、感情に任せた大声をまた上げた。

「早く、逃げろってば!」

「逃げないよ」

 破綻しそうな思考に鞭打ち、それでもひたすら嫁の安全を確保しようとする俺に対して、嫁は落ち着きすぎているくらいだった。

 どうしてそんなに冷静なのか……俺にはそれが理解できないし、腹立たしい。

「だから、そいつは親父なんだ!俺、自分の親のことくらい……」

「ううん」

 必死な俺をまた、嫁が否定する。

 しかし嫁が次に放ったのは俺のそれまでの認識、いや常識を覆す一言だった。

「だって……この人だって、オッサンなんだよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る