夫の非公開ブログ -13-

 今日は体調がイマイチだけど、ここ最近の中で精神的な調子は最高だ。

 問題が片付きつつあることもあるけれど、嫁の心からの笑顔を見られたから、ってのがあると思う。いやほんと!今日は仕事なんか休み取って、一日家でもっと嫁と話していたかった。

 何日か前には玄関のドアを開けることさえ気が重かったのに、それが太陽に負けた霧みたいに消えちゃったんだからなぁ……ストレスが良くないって、自分の身体で実証された気さえする。

 決めた。今日はちゃっちゃと仕事終わらせて、早く帰る!

 っと、その前に……昨日のことはちゃんと書いておこう。

 うちの会社のボックスタイプ個人席に感謝。




 晩によく寝られなかったせいで、俺たち夫婦の朝は遅かった。特に俺は日頃の深酒と心労が続いているせいで、だるさと胃腸の不調は相も変わらずピークという感じ。

 だから二人別々のタイミングで起き出してリビングに来ても、お互いに言葉も交わさずぼんやりしてるだけだった。俺も嫁もパジャマ代わりのスエットを着替えず、顔も洗わず、ひたすら呆けている状態。しかも俺はダイニングテーブル、嫁はパソコン机と、同じ空間なのにいる場所が違うし。

 ふとこっちに背中を向けているよめの後ろ姿をチラ見すると、それだけでどんよりしたオーラが伝わってくる。背中で泣いてる、ってのがぴったりくる表現だろう……そりゃ昨日あんな状態だったんだから、当たり前と言えばそうなんだけど。

 まずい……空気が、まずい。

 折角嫁と話をしようと決めたのに、こんな雰囲気は非常に頂けない。せめて嫁の心を和ませてからでないと。

 あ、確かカモミールのハーブティーがまだあったよな。リラックス系の効果があって、二人で一緒によく湯上がりに飲んでたアレ。

 俺はやおら立ち上がってキッチンに入り、ポットに常備してるお湯で二人分のカモミールティーを淹れる。その時の香りに気づいたらしい嫁が、視線だけをこっちに向けてくるのがわかった。

 チャンスだ。

 俺はカウンター越しに、けだるさ全開の嫁に声をかけた。

「あの……あのさ」

「……何?」

 無機質な嫁の返事。だが、聞き返してきてくれるだけまだいい。

 俺はたっぷりのカモミールティーを湛えたマグカップを持って、なるべくさりげなく言った。

「これ、ハーブティーなんだ。こっちで一緒に飲まないか?」

 あくまで重大な話をするつもりでなく装う俺。すると嫁は、意外と素直にパソコンデスクからダイニングへと移動してきた。とは言え、俺が置いた湯気の立ち上るマグカップを挟んで、無言の空間が狭まっただけだけれど。

 暫し俺たちは、お互いがカモミールティーをすする音だけを耳にすることになった。

 それにしても……沈黙が長い。

 どうやって切り出すべきか。

 と、俺の沈黙があくまで前向きなものでことに気がついたのかもしれない。先に口を開いたのは、嫁の方だった。

「……で、何?話って。これからの身の振り方について、先輩社会人としてアドバイスでもしてくれるの?」

「うん、いや……まあ……」

 いきなりの投げやりな先制球に俺はちょっと面喰らったが、それならこっちも直球で決めようと腹を括ることができる。

 俺は自分を納得させるために一度頷いて、嫁の顔を正面から見つめた。

「俺、決めたから」

「何を?」

 嫁の赤いセルフレームの眼鏡越しに、不安に染まった瞳の色が窺える。

 追い詰められた子猫みたいに縮こまる嫁から目を逸らさずに、俺は返した。

「決めたんだよ。離婚……」

 そこで言葉を一旦切り、もう一度口を開く。

「しないことに決めたから」

「--え?」

 嫁は俺の宣言を瞬間的に理解できなかったようで、反応もちょっと間を置いていた。表情も、驚きや嬉しさといったわかりやすい印象ではなく、何だか混乱してる、って感じだ。

 てっきり死刑宣告が出ると思っていたのに、それが覆されたわけなんだ。当然、戸惑いが他の感情に勝るだろう。

 困惑して見つめ返してくる嫁へ、俺は昨日から考えていたことを順番に差し出していく。

「離婚ってのは結婚と同じでさ、双方の同意がないとできないんだよ。だから君が別れたいなら、俺を納得させるだけの材料を出してくれ」

「そっ……」

 そこまで具体的な内容で言われてやっと、嫁がはっと我に返った。

「そんなの卑怯じゃん!あたしは、オッサンと一緒にいても無駄だから別れたいんだってば!」

「俺にとっては無駄じゃないよ。それに君は例え俺と別れたとして、とても独り立ちはできないだろ?今の生活なら、少なくとも衣食住は保証できるよ」

「あ、あたしが独り暮らしできないって言いたいの?そんなの、やってみなきゃわかんないじゃん!」

「世の中は甘くないんだよ。俺と別れて、月いくらのアパートに住むつもりでいるんだ?食費とか光熱費なんかの生活費がどれくらいとか、新しく仕事をするとしても、社会保険の手続きとかも全部理解してる?」

 一転して怒ったようになった女子高生嫁だったけど、現実的な問題点を指摘されて論破されそうになったところで、うっと詰まった。

「そ……んなの、今から覚えればいいってだけじゃない」

「第一仕事を探すって言っても、君の年齢じゃ転職は難しいよ。まして今の仕事を辞めて、正社員とくればね。今まで働いたことがないんだから、同じだけの収入を得ることはすごく難しいんだ」

 更に離婚後に一番の問題になるだろう、お金のことを出されると、嫁はますます反撃の手段をなくして咄嗟に言い返すこともできなくなったようだった。

 女子高生嫁の根っこは、俺と結婚してた嫁と一緒。ならまず理屈で外堀を埋めてから攻めるが吉、と見た俺の作戦は当たったようだった。

 ……よし、このタイミングなら言える!

「それにさ、言ったろ?君といることは俺にとって、無駄じゃないって」

 一気に理屈で畳み掛けたところへ、俺は感情に訴える一言をぽろっと混ぜた。

 怯んだ様子を見せていた嫁が、きょとんと呆気に取られて目をしばたかせる。

「……無駄じゃないの?あたしのこと、好きじゃないくせに」

「好きだよ」

 俺がさらっと口にした、「好き」って言葉。

 俺たち夫婦はこうなる前、結構当たり前に言い合ってたんだ。別に珍しいことでもないし、照れるようなことでもない……んだけど、女子高生嫁は違った。

 唐突に好きだなんて言われて、女子高育ちで年頃の乙女が動揺しないわけない。

 まあ……俺みたいなおっさんからは言われなくなかったかも知れないけど、それを差し引いても嫁の慌てぶりは見事なもんだ。顔は耳まで真っ赤、頭をぶんぶん激しく振って、ストレートの長い髪が乱れるばかりになっていた。

「う、嘘!無理してる!絶対無理に言ってるでしょ!同情なんかしなくていい。あたし一人で生きていくんだから、放っといてよ!」

「無理してないよ。同情は……多少してるけど、俺は君を大切にしたいんだ。ずっと一緒に暮らしていきたいんだよ」

 嫁が何も考えずに言ったであろうことは、明らかに意地を張ってるだけだってのが今ではわかる。

 ……そうだよなあ。嫁は俺と喧嘩したり、機嫌が悪くなった時も、こんな風に誰の助けも借りない!って意固地になってたんだ。

 湧き上がってきた懐かしさに、胸の奥がずきんと痛くなる。

 ずっと一緒に暮らしていきたい、と素直に伝えたのは、この女子高生嫁を守り大切にしたい、という気持ちの表れでもあった。

 が、果たしてそれを受け入れてもらえるのだろうか?

 一旦口をつぐんだ俺は、真正面で座っている嫁を見やる。

 綺麗な髪をひっつめてさえいないスエット姿の嫁は、そわそわとハーブティーを飲んでいた。視線が俺の後ろにあるキッチンやパソコンデスク、果てはリビングまでに泳いでおり、何とかして気持ちを保とうとしているのが伝わってくる。

 突如として俺の知ってる嫁ガーと言わなくなったオッサンに、不信感を覚えているのだろう。

 落ち着かない沈黙が暫し続いた後、女子高生嫁は冷めかけたハーブティーをマグから一気に飲み干した。目を伏せてふーっと溜め息をつくと、思い切ったように顔を上げる。

「あたし、オッサンの知ってる奥さんじゃないんだよ?元に戻れるかわからないのに、別れなくていいの?」

 嫁の真剣な問いに、俺も真顔で頷いた。

「うん。それについては……その、俺が悪かったと思ってるから」 

「悪いって……なんで?」

 返答がまたしても予想外だったのか、嫁は質問を重ねてくる。俺がいきなり態度を変えたことの核心に迫るところなんだから、もっともな疑問だ。

「今の君だってさ、紛れもない嫁であるわけで。逆に言うと、過去の時間の君がいたからこそ、俺の知ってる嫁がいるわけなんだから。その全部を受け入れて一緒になるのが、結婚ってことだと俺は思ってたはずなのに」

 指先で頬を掻きながら、俺は自分の言葉で己が結婚観を説明していく。五月の眩しい光に満ちるリビングで、結婚して十年を迎えた後にこんなことを語ることになろうとは……正直、思っても見なかった。

 だけど今必要なのは、結婚した相手である嫁--これまで一緒に過ごした時間を失った、十代の女の子だけれど--に、俺の今までを謝って、これからも共に歩んでいくという選択を許してもらうこと。そのために、俺の想いを知っておいてもらわなきゃならないんだ。

 緊張で、口の中が乾いてくる。

 俺はありったけの後悔と謝罪の気持ちを込め、嫁に頭を下げた。

「なのに……俺は、今の君を否定してばっかりいた。俺の知ってる嫁に会いたいって、そればっかり思ってて……今の君を蔑ろにしてたんだ。君だって、間違いなく嫁っていう人間なのに……何より君は、俺しか頼れる人間がいないのに。心細かったよな?本当に、ごめん……」

 ……絞り出すような掠れ声だけど、言えた。

 昨日から一番言いたかったことが、やっと言えた。

 これでもまだ嫁のことを十分に理解してるとは言えないかもしれないけど、とにかくもう今の嫁を否定しないと伝えられたんだ。

 だが、肝心の嫁の反応がまだない。

 俺は恐る恐る、下げた頭を戻してみる。

 すると鼻を赤くして、目の縁まで涙を溜めた嫁の顔がすぐ側にあった。

 ……ああ、覚えてる。これ、俺がプロポーズした時と同じ顔だ。嫁がずっとずっと、一番言って欲しいと思っていたことを言えたんだ、俺。

 俺が感慨深く嫁の顔を見つめていると、堪え切れなくなったらしい嫁の頬に涙が伝い落ちた。

 小さく揺れる細い肩に、震える唇。

 嫁は、への字に曲げた口から必死に言葉を紡ぎ出していた。

「で、でも……あたし、一生このままかも知れないよ?オッサンの知ってる奥さんには、絶対になれないかも知れないのに。このまんま、おばあちゃんになっちゃうかも知れないのに……」

「そしたらそれで、構わないよ」

 赤いセルフレームの眼鏡の下からぽろぽろこぼれる涙を拭い、言葉に詰まる嫁。

 でもそんな小さな女の子みたいな姿も、たまらなく愛しい。

 俯いてしゃくり上げる嫁を抱き締めたい衝動を堪えて、俺は優しく嫁の頭を撫でた。艶のあるさらさらのストレートへアに温もりを感じて、俺の心の中までが温かくなる気がする。

「君は俺にとって、世界中の誰よりも大切な人なんだよ。一生をかけて守っていこうって、結婚するときに誓ったんだから」

 だからこんな台詞も、躊躇することなく……思ったことを素直に言えた。

 好きだよ、ってのは日頃から言ってはいたけど、流石にここまではなかなか口に出せない。しかし今言わずにどうする、今こそ伝えなきゃ!って強い意思の成せる業だったんだ。

 そして嫁が俺の気持ちを受け入れてくれそうなのはいいが……離婚は回避したとしても、まだ問題は残ってる。

 このままでいることを選択肢の一つとすることはアリでも、今の嫁を元の時間に返すことを、なるべくなら諦めたくない。

 更に俺たちが一緒にいる限り、親父の幽霊が出てくる可能性は高いままだ。

 嫁との話し合いは、次の段階へ進む必要があった。

 俺は嫁のしゃくり上げが鎮まった頃合いを見計らい、頭に置いていた手を離してから言った。

「俺は……いつだって嫁の味方だし、どんな状況でも一番いい選択をしたいって思ってる。それはわかってくれる?」

 あくまで嫁のことを拒否しているんじゃないと断ると、嫁が俯かせていた顔を上げて小さく頷いてくれる。これなら大丈夫そうだと判断して、俺は先を続けた。

「だから……君のことを過去の時間に戻してあげたいって気持ちも、勿論あるんだ。ここは君が知ってる人が誰一人としていないんだし、異世界だって言っても差し支えはない。君も、帰るのを諦めたわけじゃないんだろ?」

「うん……できれば、帰りたい……みんなと会いたい。でも……」

 まだ鼻を小さくすすっている嫁が、気まずそうに視線を逸らす。

「でも……あたしのわがままでここにずっといて、オッサンの人生まで、変えちゃうわけにはいかないもん。だから、あたしとは別れた方がいいのかなって……違う誰かと一緒になって、幸せになってもらった方がいいよね、って……」

 嫁は呟くような小さな声になっていた。

 ……そんなことを考えてたのかと一瞬意外に思ったが、以前の嫁もちょっと自己犠牲に偏っているところがあったのを考えてみると、するっと納得が行った。

 でも、俺のことを考えてくれての行動なのかも知れないけど、自分の辛さを押し殺すのは認められない。何より、俺も嫁も幸せになれないじゃないか!

 口をつぐんで目を伏せた嫁を安心させてやりたくて強く、だが静かに俺は言った。

「君と一緒にいるのが、俺の幸せなんだよ」

「だけど、もしあたしがずっとこのままだったら……」

 また堂々巡りになりそうになったところで、俺は優しく嫁の肩を押さえた。ちょっとっびっくりして、嫁がダイニングテーブル越しに俺の顔を見上げてくる。

「いいんだよ、もし戻れないままでも」

 嘘偽りがない気持ちを、俺は正面からぶつけた。

 俺が惚れて、守りたくて、毎日顔が見たいと思ったのはこの人だ。現在も過去も未来も、何だって受け止めたい。

 その気持ちは変わらない。

 俺は一生、嫁を愛し続けるから。

 そう、死が俺たちを別つまで……

「その時は、二人でずっと一緒に歳を取っていこう。この先のことは、二人でじっくり考えればいいから」

 言いながら、俺は嫁の黒い瞳をしっかりと見つめた。

 嫁は一度は治まっていた涙を、ぶわっと溢れさせていた。

 さっきと違うのは、透明な滴を落としながらも嫁が笑っているように見えて、何度も小さく頷いているところだ。

 ……って、そういや、肝心なことを聞いてなかった気がする。

 今更って思うけど、一応は確認しておかねば。

「それより、聞くのを忘れてたんだけど……俺が、側にいてもいいんだよね?」

「なん、で、そんなこと聞くの……」

「いや、結婚はお互いの同意がないと成り立たないものだし」

 嫁の肩から手を離して椅子に座り直したところで、不意に照れが襲ってきていた。

 思い返してみると「うわぁ……」な台詞の数々に、赤面する思いなんだけど………けど、嫁はまだ笑顔のまま涙を拭っている。

 温かさと安堵を湛えて、嫁は呟いた。

「……ありが、とう……」

 涙でくちゃくちゃだけど、心の底から湧いてくる感情のままだと思える微笑み。

 そんな最高の笑顔を、女子高生嫁は初めて見せてくれたんだ。

 俺はまた嫁を抱きしめたいという衝動に駆られ、立ち上がって嫁を胸に--なんてことができるはずもなく、欲求を堪えに堪えて、力強く頷いて見せるしかなかった。

 と、その時だった。嫁の後ろにある窓に、俺を恨めしそうに睨みつける男の姿が映っていることに気がついたのは。勿論嫁の真後ろに当たるわけだから、嫁自身は気づいていない。それに奴が睨んでいるのは俺だけだ。

 俺は最早見慣れてしまった男から目を逸らさず、ありったけの気力を込めて睨み返した。

 親父……嫁を弱らせてまで、俺たちを別れさせたいのか。だったらもう、あんたは敵だ。

 来るなら来い。

 必ず、俺が嫁を守り通して見せる!

 俺はさっきと打って変わって厳しい顔をしていたと思うが、まだ泣いている嫁が気づいていないことが幸いだった。

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