夫の非公開ブログ -12-

 昨日の深酒が響いてるせいか、今日は調子が良くなかった。全身が何だかだるいし、胃の痛みもまだ完全には引いてない。それでもまぁ、昼頃より大分良くはなったけど。

 けど、嫁はきっと俺なんかよりずっと辛かったはずなんだ。

 それに気づけなかった……と言うよりは、逃げてばっかりいた俺は最低野郎だ。

 多分、心の奥底に自分でも気づかない不安があったせいじゃないかと思う。

 もし嫁が一生何も出来ないままだったらどうしよう、嫁の分の収入が途絶えたらどうしよう、何より嫁が俺のこと好きじゃなくなったらどうしよう、って。

 何でも俺が俺が、って。

 自分の希望を、女子高生嫁に押し付けてたんだよな。

 俺が求めていたのは「俺が知ってる」嫁像であって、嫁そのものという存在じゃなかった。

 今頃になってようやく気づくなんて……

 詰んでるよな、俺。普通に考えて。

 もう手遅れかもしれないけど、一眠りして起きたら、嫁ともっとちゃんと話をしようと思う。腹を割って、俺が間違っていたことを謝って、感情的にならずにきちんとしなきゃならない。

 もう俺の知ってた……十年間一緒に暮らしてきた嫁が戻らなくても、「嫁」という人物が一緒にいてくれるだけでいい。

 貧しい時も、病める時も、愛することを誓ったんだから。

 俺にとっての「結婚」は、相手を守り、ともに暮らしていくことなんだから。

 決意を固めておくためにも、さっきまでのことをちゃんと文章にしとく。

 今は……午前三時十分か。今いる和室は閉め切ると真っ暗だし、ソファーに寝っ転がりながらのタブレット入力はちょっとやりにくいけど、時間としては十分なんだからな。



 昨日俺が居酒屋から帰ってきたのは、深夜三時を回った頃だったか。

 Sをこんな時間まで付き合わせてたんだから、そりゃあ怒られるのも当たり前だ。俺は明けて土曜出勤なんだから、慎まなきゃとは思ってたんだが……我儘に付き合わせてほんと、申し訳なかったと思う。

 当の俺は朝六時には起きて七時には仕事に行かなきゃならなくて、殆ど寝られないかも知れなかった。けどとにかくベッドに入って、浅い眠りをちょっとだけ取ったんだ。

 それでもちゃんと六時に起きられたのだけは、自分を誉めてあげたい。

 予想通り二日酔いで気分が悪くて、胃と頭が痛くて、身体まで重いっていう最悪の状態ではあったけど。

「……おはよ、っても、誰もいないのか……」

 昨日までは大体嫁も同じタイミングで起きてきて、朝食を一緒に摂っていた。だけど離婚話が出た昨日の今日では、俺と同じ食卓なんかにつくはずがないわけで。

 俺の声は、引きっぱなしになっているリビングのカーテンに虚しく吸い込まれるだけだった。

 軽く溜め息をついてから、俺は嫁の分だけ朝食を準備した。卵とソーセージをゆでて、パンとくし形に切ったグレープフルーツと一緒に皿に盛ってからラップ。で、ヨーグルトもガラスの鉢に取り分けてから冷蔵庫に。

 俺は酒が残ってて、食欲は全くなし。テーブルに「朝食が冷蔵庫にあるので食べてね。昨日はごめん」とだけメモを残しておく。

 そうこうしてるうちに時間は六時四十分を回ってたから、慌ててスーツに着替えて、鞄をひっ掴んで玄関を飛び出した。

 休日出勤の朝くらい、もうちょっとのんびりさせろよ!って頭の隅で悪態をつきつつ、家の中に向けて大声を張り上げる。

「行ってきます、ご飯は冷蔵庫にあるから!」

 一応玄関を出るときに家の中に声はかけてみたが、返事はなし。

 それもやむなしと自分を納得させ、ドアに鍵をかけてから最寄り駅にダッシュ!

 そして会社に着くなり仕事の鬼と化し、猛然とやっつけ始める俺!

 ……だったら良かったんだけど。

 どうもここのところの不摂生が祟ってるらしくて、胃を中心とした腹は鈍く痛むし、気持ちは悪いし。おまけに貧血まで併発したらしく、一時的に気を失いかける始末だった。いやほんと、デスクから立とうとしたらふらついて、尻餅ついたぐらい。

 それで俺の顔色がかなり酷いことに気づいた上司が気を遣ってくれて、午前中で早退することになってしまった……やる気出そうと思った途端にこれなんだもんなあ、とほほ。

 ただ、この体調じゃあ仕事にならないのは事実なわけで。

 顔色が悪かったのは、昨日嫁に離婚を切り出されたことが相当堪えてたってことでもあるんだと思う。精神的なストレスも、具合いの悪さに拍車をかけてたんだ。

 俺が変な時間に帰ってきたのに気づいた嫁が驚いたのが、その証拠だった。

「どうかしたの?まだ昼なのに」

「あ、ああ。ちょっと、具合悪くて……早退してきたんだよ。残業とも相殺できるしさ、午後は休むことにしたんだ」

 出迎えてもらった玄関で半分誤魔化し、半分本当で言い訳する俺を見る嫁の視線は、心配そうな色を窺わせた。やっぱり、明らかに病人とわかる人間に無関心でいられるほど、嫁は冷たい人間じゃないってことだ。

「ふうん……」

 それでも嫁が一言残して寝室に引っ込んだのは、昨日のわだかまりが邪魔するせいだったんだろう。

 が、体調が悪いときに家に他の誰かがいる、ってのは、それだけで安心できる材料になる。だから俺は、着替えもせずにいつもの和室にあるソファーにごろんと横になった。

 ちょっと胃が痛い、ってのはよくあるから、暫く静かにしてれば自然と治まるとわかってた……んだが、どうも今回はそんな感じじゃないらしく、しつこくみぞおちあたりの鈍痛と重さは続く。

 小一時間は安静にしてたってのに、一向に鎮まる気配がない。

「いてぇ……」

 ちょっと苦しくてつい、寝返りを打ちながら呻く俺。

 あ……そう言えば、今日はまだ何も腹に入れてなかったんだ。ううっ、空腹が過ぎるのもダメってか?ならとにかく、ちょっとでも食べないと。

 そう思って上体を起こすと、木枠にクッションを置くタイプのソファーが軋んだ。

 同時に襖が前触れもなく開いて、嫁が俺のいる和室を覗き込んでくる。

 嫁は俺に元気がないことを確認すると、そのまま中へずかずかと入ってきた。

「これ……胃薬とパン。ここに置いとくから」

 パジャマにしてるスエット姿の嫁がちゃぶ台、もといテーブルにトレイを置いた。

 見慣れた胃薬の箱とコップに入った水、それに朝食の残りの食パンを盛った皿があるのに驚いて、俺は思わず声を上げていた。

「あれ……?」

 あんな喧嘩をした昨日の今日で、女子高生嫁が俺を気遣ってくれるなんて思わなかったんだ。

 まるで深窓の令嬢から施しを受けた物乞いみたいに、素っ頓狂な顔と声になる俺。変な反応を返されて、嫁は困ったように呟いていた。

「病人を放っとくわけにいかないでしょ。パンは、痛くなくなったら食べてよ」

 そして、さっさと和室の外に出て襖をピシャッと閉めてしまう。

 弱者を無視できない嫁は、やっぱり人がいいんだなあ……

 しみじみと優しさが心に染みて、俺はありがたくパンを食べて胃薬の恩恵に預かろうという素直な気持ちになれた。そのおかげで心までが多少癒えたのか、パンを平らげた後に薬を飲んで横になっていると、ほどなく痛みは引いてくれた。

 ……よし。

 今はまだ午後二時、早退したことが幸いして時間がたっぷりある。俺の中で深夜からこねくり回していた案を実行に移すのは、今をおいて他にない!

 俺は決心して横になったまま、力強く頷いた。勢いをつけてソファーから起き上がると、まずリビングへと向かった。

 するといきなり、気まずそうな顔の嫁と鉢合わせ。

「あ……」

 人の気配に反射的に振り返ったらしい嫁は自分のパソコンデスクに座ってて、調べ物をしてたみたいだった。モニターに開いてるページは……「初めての独り暮らし」を特集した、どこぞのポータルサイト。

 敢えてそれは見なかったことにして、俺は口を開いた。

「あの……あのさ」

 話すことは決めていたのに、いざとなると緊張する。

 それがまだ調子の悪さを引きずっているように見えたのか、嫁が先んじて言ってきた。

「起きてきて大丈夫なわけ?」

「あ……ああ、今はちょっと気分が良くなったから。薬、効いたみたいだよ。ありがとな」

「別に……」

 ふいと視線を逸らした嫁は、どこか照れたようにも見える。いや、単なる不貞腐れなのか。今の俺には、ちょっとしたしぐさの違いを見分ける自信がない。

 俺は卑屈になりすぎて嫁の機嫌を損ねないよう、慎重に言葉を選んで切り出すことにした。

「えと、ちょっと付き合ってもらってもいい?」

「今から?どこに?」

 まさか俺がこんな時間から出掛けようと言い出すとは、思ってもみなかったんだろう。嫁が却って興味を引かれていることを応えの中から感じられたし、俺は正直に言おう、と決意を固めた。

「うん……ちょっと、考えてたことがあって」

 そして小一時間の後、俺たちは緑豊かな丘陵地帯の駐車場に到着していた。

 乗り慣れた国産の愛車から降りると、木の芽の爽やかさと土の香りが混ざった森の空気が感じられて気持ちがいい。

 嫁は穏やかな風になびく洗いっぱなしの髪を片手で押さえて、辺りを見回していた。

「ここがそうなの?」

「うん……親父の墓に来るのって、去年のお盆以来なんだよ」

 俺たちが訪れたのは、うちの墓がある霊園だった。車なら比較的短時間で来られる場所だけど、正直盆やお彼岸以外で来ることなんか殆どない。

 そんな場所にわざわざ来たのは、親父の幽霊のことがなければ、俺と嫁とはもうちょっと冷静に話ができると思ったからだ。もしかしたら親父は、自分のことを大事にせず俺が嫁にばっかりかまけてるから、それで怒ってるんじゃないかって気もしたんだ。

 だからそれを正直に嫁に話したら、意外とすんなり納得してくれた。嫁も、親父の墓に直接行きたいと思ってたのかも知れないし。

 Sの言ってたことは幽霊の件が落ち着き次第、もうちょっと余裕を持って考えられるだろう。

 とにかく今は、落ち着いて嫁と話す機会をきちんと持つことが大事なんだ。

 俺は自分のすべきことをしっかり描きながら、嫁を連れてうちの墓へと向かっていく。

 敷地の隅っこにあるうちの墓にはものの数分で着いたけど、周囲と比べてまだ新しいうちの墓は荒れてもないし、去年来た時とさして変わらない印象だった。

 それでも俺は借りてきた桶に汲んだ水で墓石を洗い、周囲を掃除してから、親父の好きだった大福と缶コーヒーを供える。黙々とだけど、女子高生嫁が横から手伝ってくれるのはありがたかった。

 そして最後に線香に火をつけてから手を合わせると、嫁も隣に立って俺に倣っていた。俺の方が先に目を開けたから、やけに長く手を合わせている嫁の様子が気になってチラ見することになる。

 タイムリープしてきてから、明らかに痩せたとわかる嫁の横顔。俺が好きだった凛とした強さはなく、今はただ疲れているように見える。

 合わせた白い手は指先が顔に触れんばかりで、眉間には皺さえ寄っていた。

 ーー多分、もうこれ以上苦しめないで欲しいと、親父に懸命に頼んでいるんだろう。

 そうしなきゃならないほど嫁が苦しんでるんだと思うと、切ない。

 俺が胸の奥を荒っぽく掴まれたような鈍い痛みを覚えたとき、嫁は目を開けて合掌の手を下ろした。

「……じゃああたし、休憩所の方に戻ってる」

 呟きと同じくらいの声量しかない一言とともに、嫁は俺と墓石に背を向ける。その細い背中があまりにも頼りなげに見えて、思わず俺は後を追いかけていた。

「あ、ああ……場所はわかる?一人で大丈夫か?」

「あっちの方がここよりも人が多いし、平気。それに、一人で話したいこともあるでしょ」

 言いながらも嫁はこっちを振り向かず、墓石と卒塔婆の群れの向こう側へと去っていく。今は真っ昼間だから、墓地を一人で歩くことにもさして抵抗はないんだろう。

 俺はぽつんと立ち尽くして取り残される形となり、これは確かに好都合だった。

 たまに墓場で故人に話しかけてる人がいるけど、端から見れば行き過ぎた独り言みたいで、実はあんまり好きじゃない。しかし、今回ばかりはそうも言っていられなかった。

 恥ずかしさを抑えた俺は、小声で胸の裡に抱えていたことを口にし出した。

「なあ、親父……何で、俺と嫁に別れろなんて言うんだよ……もしかして、俺じゃ嫁さんを幸せにできやしないから、諦めろって言いたいのかよ?」

 当たり前かも知れないが、お袋と同じ場所に眠る親父の反応らしきものは何もない。一旦言葉を切った俺の耳に届くのは、墓地を囲む木々のざわめきだけだ。

 もう一度、俺は語りかけてみた。

「そりゃあ料理は上手いし、お金のこともちゃんとやってくれるし、俺がこんななのに浮気しないでいてくれるし、俺には勿体ない嫁だってことはわかってるよ……」

 十年間一緒にいた嫁のいいところを挙げていくと、一緒に過ごしたたくさんの思い出が頭の中を鮮やかに彩った。

 初めての結婚記念日、毎年一緒に過ごした年末と夏休み、ドライブ好きな俺が連れ回した色んな温泉街、たまに嫁の友達とも一緒に行ったスキーや海……

 そのどれにも笑顔の嫁がいて、俺はそれを守るためならどんなことでもする、と何度も誓った。嫁を泣かすまいとして、必死に頑張ってきたんだ。それは、今だって変わっちゃいない。

 なのに、どうして親父はそれをわかってくれないんだ?

 もしかして、嫁が今までの嫁と違う、知らないのか?

 だったら、今ここでそれを伝えないと!

「……でも、今の嫁さんは普通じゃないんだよ……もしここで別れたりしたら、どうなるかわからないんだ。ちゃんと暮らすための知識もまだないだろうし……俺、絶対そんなことできないよ。なのに、離婚しろって言うのかよ!」

 終わりは、殆ど声になっていなかった気がする。

 第三者に対して今の状況を口に出すと、本当に俺は離婚を切り出された身なんだと、改めて事実の重さがのしかかってくる気がしていた。

 ……嫌だ。

 嫁と離れるなんて、絶対に嫌だ!

 目頭がかっと熱くなったのに堪え切れず、俺は溢れてきた涙を拭った。眼鏡を外して俯くと、そのまま足元に温かい滴が落ちていく。

 なのに親父は変わらず沈黙を守ったままで、これまでみたいに姿を見せる気配はない。

 考えてみれば、俺が一人でいる時に親父は出てきたことがない。決まって嫁さんだけか、俺が一緒にいるときだけだ。

 そこに初めて気がついて、俺は新たに怒りを覚えた。

 ……何でだよ。

 何で俺じゃなくて、嫁なんだよ!

 あんたは嫁に恨みなんて、これっぽっちも持っちゃいないはずだろ?

 この期に及んで、どうして息子の俺には何も言わないんだ!

「なあ、親父……何とか言えよ。親父だって、見て分かってるだろ?嫁さん、親父が出てきてからどんどんやつれてきてるんだ。何で嫁さんのとこなんだ?言いたいことがあるんなら、俺に直接言えよ。もう、嫁さんを追い詰めるのはやめてくれ!」

 立って下を向いたままでいる俺の声は、墓石の間で低く籠るようだった。

 怒ったつもりでいたが、完全に泣きながら俺は必死に親父に訴えていた。それでも尚、黙したままでいる親父の意思は感じられず、その気配もない。

 どうして、親父は俺に何も言ってくれないのか……全くわからなかった。

 せめて幽霊が俺のところだけに出るようになれば嫁のダメージも少なくなるし、何かわかるかも知れないのに。それとも、俺には言ってもわからないだろうし、言っても無駄だと親父は考えてるのか?

 ……そんなに俺って、信用ないのか?

 考えがどんどん悪い方、悪い方に行ってしまう。

 情けないことに今の俺の心は、ぽっきり折れそうなくらい絶望に近い位置にあった。

 だからつい、本音がぽつりと小声で漏れた。

「俺……疲れたよ。嫁さんに、会いたいんだよ……」

 一度弱音を吐いてしまうと、もう俺は親父に何か言おうと言う意思を溶かしていた。悔しさと怒りと悲しさで頭の中がいっぱいになって、何も考えられなくなっていたんだ。

 それからの俺は、声を殺して泣くばかり。

 大の男が情けない、なんて感じる余裕もなくて。

「あの……」

 そうしてどれぐらい経ったかわからなかったが、俺が次に我に返ったのは、嫁が背後から遠慮がちにかけてきた時だ。慌てて涙を拭い眼鏡をかけてから振り返ってみると、いつの間にか気まずそうな嫁が佇んでいた。

 五月の新鮮な緑の中に、細い嫁のシルエットが映える。

 今の嫁はジーンズにボーダーの長袖カットソー、その上に薄手のパーカーと言う普段着で、以前の嫁もよくやっていたコーデ。それなのに、俺の知ってる嫁とはちっとも被って見えない。

「もういいよ。調子悪いんでしょ?帰ろ」

 帰宅を促してきた嫁は、何だかここに来た時よりも元気がなくなっているような気がした。

 ……まずい。

 もしかして、泣いてるところを見られた?

 鈍ちんな俺でもそう気づいたのは、帰りの車でも嫁が一言も話そうとせずやけにぼんやりしてる……と言うよりも、極力話そうとしなかったことに気づいたからだ。大人の男が涙を流す姿なんて見たことがない女子高生嫁は、どう接していいかわからなかったんだろうと思う。

 嫁の居心地が悪そうな様子は、俺の作ったおかゆ中心のを食べて寝るまで、ずっと続いていたんだ。

 離婚話を出すほど酷い喧嘩の後、相手がひっそりと泣くのを見せつけられるって、よく考えてみたら結構精神的に来るよな……

 多分嫁も寝つけなかったんだろうけど、それは俺も同じだった。もっとも俺は、Sが言ってたことを考えてたら寝られなくなってただけなんだけどさ。

 襖の隙からリビングの明かりが漏れていることに気づいたのは、固いソファーで薄い布団を被り、何度目かわからない寝返りを打ったときだった。

 もしかして嫁も寝つけない?

 なら、ちょっと声をかけてみようか。今日は話自体あんまりしてないし、と思い立ったけれど、俺の手は襖を開ける直前で止まったんだ。

 何故なら、聞こえてきたのは押し殺した泣き声だったから。

「もう、いい……もういいよ。あたし、いらないってことなんだから……あたしと一緒だと、誰も幸せになんか……なれないんだから」

 小声でだけど、確かにそう言ってるのが聞こえた。

 ……何だって?

 嫁がいらない?そんなわけあるか。俺がいつ、いらないなんて言ったんだよ。俺は君と一緒にいるだけで幸せなんだから!

 俺は反射的に襖をバーンと開けて、リビングに飛び出すーー

 何て真似を思い止まらせたのは、今の嫁の「自分がいらない」という一言に覚えた既視感だった。

 あれ、つい最近も嫁は同じことを言ってたよな……言葉は違うけど、何度か聞いた覚えが確かにある。一番はっきりと覚えてるのは、喧嘩のときだったっけ?

『……オッサンが会いたい嫁ってそれ、あたしじゃないじゃない。それに、自分のこと見ようともしないって……その台詞、あんたにそっくり返してやるんだから!』

『あたしだって、未来のあたしと同じだもん!』

 と、耳に残っていた悲しそうな嫁の叫びが頭の中に響く。

 ……俺の会いたい嫁と今の女子高生嫁は、あくまで違う人物だ。

 けれど女子高生嫁はそれを否定しつつ、あたしはあたし!だけど、奥さんだってあたしなの!という超理論を根底に持っていて……

 超理論と言えば、いつも嫁を懸命に想う俺を否定するSも同じで、嫁が言ったことと被るところが何となくあった。

『お前はこうなってからずっと嫁さんに会いたいって、それしないじゃんか。今の嫁さんのことなんか、全くわかってやろうともしてない。相手の立場に立って考えるってことを忘れて『理解してる』とか、簡単に言うな』

 そりゃ、女子高生嫁は俺の知ってる嫁と違ってて、思春期特有の感覚優先な超理論にゃついていけないから……ん?

 ちょっと待て。

 もしかするとそうやって思考停止する時点で、既に俺は嫁のことを理解しようとしてなかったってことなのか?

 あたしはあたし、奥さんとは違う。けど、未来の奥さんはあたし。

 そう主張する女子高生嫁は、言ってみれば過去の嫁さんなわけで、俺の知らない嫁ーー

 過去の嫁、という概念が思い浮かんだところで俺はふと気がついた。

 結婚というのは、今まで他人だった人物の過去も未来も全て受け入れ、家族として一生涯を共にすることだ。少なくとも俺は、今までそう考えていた……いや、考えていたつもりだった。

 今の女子高生嫁は、紛れもなく過去の嫁だ。俺が結婚するときに一生かけて守ると誓った、嫁という人物なんだ。それを他人だと切り捨てるのは……一度俺の中に認めていた「嫁」という人格を否定することに等しいんじゃないか?

 人間にとって多分一番辛いのは、自らの存在を否定されることだ。

「お前なんか必要ない」

「もういなくなれば?」

「あんたがいなくなっても、誰も悲しまないよ」

 こんな心ない台詞が人を深く傷つけて、時には死に追いやってしまうことがあるって、俺だって知ってた筈だ。

 なのに、俺は……

『こんなことになっちゃってさ……早く嫁にまた会いたいよ、俺』

『あの辛さが我が家の味、って感じだったかな』

『俺は嫁さんに会うのが楽しみでしょうがなくて帰ってくるのに、君は全然俺のことを見ようともしないじゃんか。それに、毎晩ソファーで寝るしかないこっちの身にもなってくれよ』

 ……ああ……何てこった。

 今までに言ったことを思い出してみても、俺が、俺が、俺の知ってる嫁が、ばっかりじゃないか!

 自分で意識もせずに女子高生嫁を拒んで、否定して、家の外に弾き出そうとしてたんだ。

 俺が投げつけてしまった発言の数々が、年頃の嫁の心をどれだけ傷つけたことか。

 過去の人間は間違いなく今に繋がる、同じそれだってのに。

 俺が自分の望みだけを女子高生嫁に押しつけていた事実が、今更ながらにのしかかってくる。何だか文字を入力する指先が震えるし、胸もずきずきと痛くて、脈が早くなってるのがわかる。明るいところで見たら、きっと顔も青くなってるだろう。

 俺……嫁から別れを切り出されたとしても、仕方ないほどのことをしたんだ。まさしく、自業自得という言葉が何よりも相応しいだろう。Sから散々バカ呼ばわりされたけど、あいつはこのことを言ってたんだな……

「そっか……そうなんだよな……」 

 やっと、やっと自分の傲慢さに辿り着いて、俺は深い深いため息をついていた。それこそ、肺の空気を全部出すくらいの。

 いつもはドS発言で、今と同じようにしょっちゅう俺に嘆息させていた悪友。

 だが今は、あいつに心から感謝したい。

 今度はもっともっと、旨い酒をご馳走したいと心から思った。

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