夫の非公開ブログ -11-

 離婚。

 離婚……

 嫁から突きつけられた単語がまだ頭の中でぐるぐるしてるけど、Sと話したお陰で、少しだけ冷静になれた気がする。

 Sは口は相手のことをちゃんと考えて、正論をドSな言葉と口調で言ってくるってだけなんだ。だからあいつが言ってくれたことをまとめて、帰ってから改めて考えてみようと思う。

 嫁と喧嘩して、それから馴染みの居酒屋でヤケ酒してた俺だけど、いつの間にかSが向かいの席で麦焼酎を呑んでた。どうも俺が電話して呼んだらしいが、まるっきり記憶にない。

 気づてみたら目の前にSがいたってんで、俺は状況が飲み込めなかった。

「あれぇ……S、偶然だな」

「何言ってんだよ、お前が呼んだんだろ」

「あ……れ?そうだっけ?」

 ジーンズにポロシャツっていうラフな格好で呆れ顔のSが呑んでるのは、俺がキープしてる麦焼酎のロック。

 これも俺が奢るから、って出してもらったんだろう。

 Sは軽いつまみでお新香と板わさなんかを頼んでた。もう遅い時間だから目ぼしいものは売り切れになっていたのかも知れない。今だから申し訳ないと思えるが、その時はそんな余裕もなかった。何せ、自分が何を頼んで何杯呑んだかも覚えてないし……

 卓の上で徳利が林を作ってたのを見ると、軽く七、八合は超えてたんだろう。

「おい、大丈夫かよ」

「大丈夫……じゃないかもなぁ。今度ばっかりは、さぁ……」

 壁にもたれて呑み続けてた俺を、流石のSもちょっと心配そうに見てたと思う。だけど俺はもう自暴自棄になってて、お猪口におぼつかなく手酌するのをやめられなかった。

 尋常じゃない呑み方をしてる俺の様子に、Sが事情を察するのは早かった。

「……何があった?」

「嫁にさ……離婚……しないかって言われて」

「は?……ああ、それで相談ってわけか」

 Sは驚きで一瞬目を丸くし、すぐに聞き慣れたやれやれ口調に戻っていた。悪友たる俺が何か面倒なことを相談するときの、まぁ取り敢えず聞いてやるから話せ的なポーズだ。

 慣れ親しんだものに触れて、俺はようやく誰かに話を聞いてもらいたかったことに気がついた。

「うん……話、聞いてもらってもいいか?」

「詳しく」

 短くSが返し、焼酎の残りを一気にあおってからお代わりを自分でグラスに注ぐ。

 男らしく呑み続けるSの手元を見ながら、俺はこの日帰宅してからの出来事を話した。

 嫁が何も家事をせず、機嫌が悪かったこと。

 それをうっかり咎めたら逆ギレされて、嫁のために懸命に働いてソファーでしか寝られない俺をちょっとは気遣ってくれとつい本音を漏らしたこと。

 そしたら、嫁が俺の言う「嫁」は自分のことじゃない、自分のことを大事になんて思ってないと言われたこと……などなど、記憶が途切れる直前まで、覚えていることはなるべくつぶさに。

 で、嫁の口から「離婚」の一言が出たことまでを話したところで、俺は唐突に口を閉ざしてしまった。

 その事実を、俺は未だ認めることができてなかった。

 できるならここまでのことが全部酒に飲まれて見た悪夢で、Sに起こされて目が覚めて、帰ったら「遅い!」ってむくれてる女子高生嫁がいるんじゃないか……って、本気で思ってすらいた。

 だけどいつまで経っても、誰かに起こされることも、酔いの気分の悪さに違和感を感じることもなく、ここが夢の中なんだと安心できる時は訪れなかったんだ。

 だから何も言うことができなくて。

 なのに、Sは黙って焼酎のロックをちびちびやるばかりだった。きっと、俺がまだ全部吐き出し切ってないと感じていて、俺がまた口を開くのを待っているんだろう。

 俺たちの耳に届くのは、未だ自分たちの話に夢中になっている酔いどれ客の呂律が怪しい声と、夜も遅くて店じまいの準備をする居酒屋の雑音だけだった。

 無音状態ってわけでもないのに、無言のままでいるのが何でだか気まずい。

 適当に繋いでもうちょっとお茶を濁しておこうと思った……のに、俺が次にこぼしたのは涙声だった。

「何が、ダメだったのかなぁ……俺、過去の嫁さん、戻してあげたくて。色々頑張ってたんだよぉ……なのに……」

 酒のせいで真っ赤になってるだろう顔に、浮かんできた涙の熱さが不快だった。

 やっぱ、酒が入ると本音が出ちゃうもんなんだよな。

 女子高生嫁は俺の頑張りをどうして認めてくれないんだ、俺がちょっと怒ったくらいで離婚だなんて、理不尽にもほどがあるだろ!って怒りが根底にあったんだと思う。多分俺の涙は嫁に対する怒りと悲しみ、悔しさが三分ずつってところだったんだ。

 だけど……いや、だからこそなのか、涙を拭う俺を見るSの目は完全に醒めていた。

 同情するわけでも、慰めるわけでもない、ただひたすらに冷静というか。相も変わらず焼酎をあおり続けて、短く俺に訊いたんだ。

「何を頑張ったんだって?」

「そりゃ、嫁が過去の世界に戻れるようにだよ。決まってんじゃん!俺、本当に嫁さんが大事なんだ。あの子が一刻も早く戻って、元の嫁に帰ってきて欲しいんだよ!」

 Sの冷たさを嫌が応にも感じさせられた俺が返すのは全く逆で、ものすごく荒れた感情的な大声だ。そう、俺の辛さを何でわかってくれないんだ、お前友達なんだろ!って言いたかった。

 しかしドSな悪友は、俺の気持ちを察しているだろうが、決して期待通りの反応は返してくれない。

「ふうん……」

 と溜め息に近い一言を呟いて、また酒を口にするだけだ。古い言い方なら眉目秀麗、今風に言えばイケメンのSのポーカーフェイスは、全く感情の動きを読ませないまま。なんだが……

 ーーあ、こいつ怒ってる。

 付き合いの長い俺には、涼しい顔の裏に怒りを隠してるのが空気で伝わってきていた。

 でも、その理由に皆目検討がつかない。コイツはいきなり何に腹を立てたんだ?

 そりゃ、夜中に電話一本で呼び出されて、深刻な相談されたことに怒りたくなるのはわかる。酔った俺がつい感情的になって、怒鳴ったことも。それが原因だってんなら、誠心誠意頭を下げるつもりでいた。

 けれどSは、そんなことが気にくわないんじゃないと身に纏った刺々しい空気で言っていた。で、ものの言い方まで尖らせてきてた。

「お前は嫁嫁うるせーけど、女子高生嫁も元の嫁さんも、同一人物なんだよな?」

「当たり前だろぉ……むしろ別人だったら、どんなに楽だったかわっかんねーよ!」

 きっついSに俺は、喚き返した。

 本当に、嫁がいっそ全く別人の人格に入れ替わったんなら、あっさりと諦めだってついていただろう。もう嫁はどこにもいないんだと、変に割り切ることだって難しくなかったかも知れない。

 だけど……だけど、現実は。俺の知ってる顔で、俺の知ってる声で、俺の知ってる姿をしてる嫁なのに……間違いなく本人だってのに、そうじゃないんだ。

 俺の記憶を一切持たない、過去の嫁。

 だからこそ、なお辛い。

 嫁の中から俺の存在だけが切り捨てられて、否定されてるみたいで……

 こんな時、私は俺くんのことよく知ってるよ、だから大丈夫だよって、十年間一緒に過ごしてきた嫁なら、きっと優しく言ってくれる。

 今だって、その台詞が本当の声として耳の中に残せるくらいだ。

 ーーなのに、嫁はここにいない。

 いないんだ。

 自分の中でその事実を反芻すると、また勝手に涙が出てきた。

「……俺なんか、結婚できたこと自体、奇跡みたいなもんなのに……あんな、いい嫁さんでさぁ。もう、嫁以外考えられないんだよ……会いたいんだ、早く……」

 またみっともなく涙を拭きながら話す俺に、またもSが一言。

「お前、バカだろ」

「はぁ……は……?」

 それも、やっぱり慰めや労りみたいに温かい感情なんて一切感じさせない「バカ」の一言。

 突然軽蔑の台詞を吐かれて、当然ながら俺は瞬時に頭が回らなかった。いや、落ち込んでる相手をこのタイミングで罵倒するか?普通。

 それどころか、フリーズして涙を拭う手も止めた俺に、Sは追撃を始めた。

「今、家にいる嫁さんは誰なんだよ?」

「いや、誰って……嫁に決まってる。少なくとも、外見上は」

「で、誰に会いたいって?」

 堂々巡りに陥りかねない、まるでなぞなぞみたいなSの質問……ではなく詰問と言うべきか、とにかくSはえらく攻撃的に畳み掛けてくる。今まで抑えていた苛立ちをぶつけようとしてるのか、気圧された俺はしどろもどろに答えるしかなかった。

「俺の、知ってる嫁に……」

「じゃあ、遠慮なくお前ん家に会いに行けばいいだろ」

「いや、家にいるのは女子高生の嫁なんだって!」

 やっぱりSの質問の意味がわからなくて、俺はまた大声を上げていた。

 俺が会いたい嫁は、今の嫁じゃない。

 十年以上一緒に過ごした、俺の知ってる嫁なんだ。

 嫁がタイムリープしたって相談を持ちかけてから一貫してそう話してきてた筈なのに、今更何言ってんだ!

 何本も並ぶ徳利が成す林の向こうにいるSへ、ぶちまけようとした時だった。

 Sが心底呆れた顔で、俺を見つめていた。

「……お前、そんな簡単なこともわからないのかよ?」

 ドSとはまた違う、軽蔑が込められた言葉だった。

 俺の知ってるSとは全く違う冷たさに、情けないことに俺はまたフリーズした。

「ふぇ……?ええ?」

 か、簡単なことって……何だ?

 Sが言ってる「嫁」って、今家にいる女子高生嫁だよな。

 で、俺が会いたきゃ会いに行けと。

 いやいや、でも女子高生嫁は俺が会いたい嫁じゃないぞ?

 その前に、Sはうちにいるのは誰なんだって聞いてきたよな。今うちにいるのは、やっぱり嫁であっても嫁じゃなくて……

 俺が間抜けな声を出したっきりで固まってると、Sは深く溜め息をついた。これ見よがしに一度視線まで落としてから、俺に叩きつける次の文句に、これでもかってくらいの皮肉を込めてくる。

「本当にわからないって言うんなら、嫁さんも別れた方が幸せかもな。今の辛さを理解してくれる旦那が側にいないんじゃ……」

「待てよ……何だよ、それぇ」

 悪友から一方的に言われ、俺は混乱の中から感じた怒りによって反撃に転じた……と言いたかったが、実際は弁解がましかっただろうと思う。

「俺は理解してるよ!あの子は自分の世界に帰りたい。環境がすっかり変わって家族にだって会うことができないし、味方は誰もいない。だからって、一人で暮らすこともできなくて……」

「だから、それがわかってないって言ってんだよ俺は!」

 今度は、要領を得ない俺を見透かしたSが怒鳴る番だった。

 だがSが俺と違うのは、酒が入ってもすぐにクールダウンできるってところだ。あいつは、俺をじろりと睨んでグラスを置くと、もう抑えた感じの口調に戻ってた。

「お前はこうなってからずっと嫁さんに会いたいって、それしないじゃんか。今の嫁さんのことなんか、全くわかってやろうともしてない。相手の立場に立って考えるってことを忘れて『理解してる』とか、簡単に言うな」

 Sが特に強調したのは「今の」嫁ってところだったと思う。それに加えて俺の今までの努力が全否定されたことも、一緒に頭の中に放り込まれたんだ。

 え?

 俺が、今の嫁のことをわかってやろうとしてないって?

 まさか、そんなこと絶対にない、絶対に!

「だから、さっきから……!」

『オッサンが会いたい嫁ってそれ、あたしじゃないじゃない。それに、自分のこと見ようともしないって……その台詞、あんたにそっくり返してやるんだから!』

 俺は今の嫁をわかろうと頑張ってると返そうとした時、嫁の台詞がリピートされた。

 Sが指摘してきたのは、さっき嫁に言われたことそのままだった。

 ……そんな。

 その場にいなかったSが、どうして同じことを言えるんだ。

 俺の話を聞いただけで、嫁が何であんなに荒れたのかがわかったってのか!

 ということは、本当に俺は嫁の気持ちを理解するどころか、歩み寄ろうとすらしていなかったってことなのか?

 嫁とSが全く同じことを言ってきたという事実に、俺は打ちのめされた。

 それからは、何で、どうしてと中途半端な自問ばっかりで頭がいっぱいになって、文字通り返す言葉もなくなって……

「いや、俺はその……本当に、あの子のこと思って……」

「ほら、またその言い種かよ」

 それでも苦し紛れに話をどうにか繋ごうとしたところに、Sがトドメを刺す形になった。

 Sが言いたいのは、俺が女子高生嫁を気遣うつもりで、本当は自分の望みを最優先にしていただけの大馬鹿野郎だってことを認めろってことなんだ。俺がこの状況を招いたんだから、これを女子高生嫁のせいだけにするな、とも。

 卓に並んだ徳利の群れを見つめて黙る俺を前に、Sがグラスに残っていた焼酎を一気に飲み干して立ち上がった。

「今日は帰るわ。このままここでお前と呑んでても、多分悪酔いするだけだろうし」

 断ってから上着を取り、帰り支度をするSを止められる理由はない。

 最初から自分が飲み食いした分の代金を渡す素振りすら見せないのは、やっぱりこいつと俺の仲ならではだけど。

 ただ、こいつが俺の奢りを断るようになったら、俺たちの仲はそこで終わるんだろうな、と言う気はした。

「……済まん」

「取り敢えず謝ってやり過ごそうとするのも、何とかしろよ」

 ぽつりと謝ったのも聞き咎めて、Sはさっさと出口へと向かっていった。

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