★嫁のメモ★
とうとうあたし、言っちゃったな。
離婚って。
まぁ、あたしがオッサンと一緒に住んでまだ十日足らずってとこだから……正直、結婚がどんなものかなんて、わかってちゃいなかったけどさ。
だからあたしが感じたのは家族じゃない誰かと一緒に食事して、寝て、その繰り返し。
好きでもない、血の繋がりがある家族でもない相手と一緒に生活するってさ、その意味がわからないよ。それでもオッサンはそれなりに優しくしてくれたし、あたしと結婚してる状態にあるってことにこだわってたみたいだから、まあいっか、って思ってたけど。
だけどオッサンが寝ても覚めても「俺の知ってる嫁!嫁!早く会いたい!」ってうるさいし、お父さんの幽霊は最近声だけ聞こえてきて「別れろ」「離婚しろ」って言ってくることが多くて……
そんなのが続いたら、高校生のあたしだって、元気じゃいられなくなるよ。
なんかもうどうでもいいから、とにかくこんな状態から抜け出したくて、離婚って言ったのかもしれない。
ほんと、疲れちゃったよ……
それにオッサンだって、前の奥さんとはかけ離れたこういう印象のあたしとなんて、一緒にいたくないはずじゃん?
って、その時は色々考えてたのに、いざ口に出しては何も言えなかった。もう、口きくのも面倒って感じで。だから無言でオッサンを見てるだけになってたら、しばらく呆然として固まってたオッサンが我に返って、あたしよりも先に言ってきた。
「離……婚、って。それ、本気?」
オッサンは顔が青ざめるのを通り越して、死人みたいな土気色になってる。
なのにあたしは別に心配する気持ちも特になくて、ただ頷いただけ。ちょっと前までなら、大丈夫?くらいは言ったと思うのにね。人の気持ちがこうも早く変わるなんて、自分でも驚くくらい。
ただしオッサンはあたしの変化には気づいてないみたいで、今度は声を上ずらせるだけだった。
「ちょ……待ってよ。何で?何で、突然そんな話になるんだよ?」
「だって、一緒にいる意味ないじゃん。あたしたち、何だか合わないみたいだしさ。それにあたしは結婚した理由も知らないし、オッサンのことだってよく知らないから」
「だったら、これから俺のこと知ってくれればいいよ!君はまだこうなってから一週間かそこらしか経ってないんだし……」
あたしの突き放した口調が引っ掛かったんだろう。オッサンは、最悪の色だった顔を今度は真っ赤にしてあたしに詰め寄ろうとする。オッサンが身を乗り出してきた分だけ後ろに下がりつつ、あたしは次に自分が吐いた台詞の冷たさに自分で驚くくらいだった。
「知ったからって、好きになれるとは限らないじゃない」
そう、相手のことを知ってるってのと、好きなのかってことは別なんだよね。
まして、好きでもない……あたしのことを大事に思ってくれなそうな奴のことなんか、大して知りたいとも思えないわけだしさ。簡単なことなんだよ。
それに自分のこと好きになって欲しいんなら、相手のことを知ろうとする姿勢だって大事じゃん?想いって、一方通行じゃただの迷惑にしかならないんだし。
高校生で、しかも女子校育ちのあたしだってわかってんのに。
なのにオッサンは、その大前提を忘れてる。
ってーか、気づいてない?どんだけガキなの?
その証拠に、オッサンは完全に頭に血が上ってるらしかった。
「何でそう、結論を焦るんだよ?小学生じゃあるまいし!」
「すいませんね、あたしはオッサンの好きな嫁より全然ガキですよ!」
だけど、オッサンの的外れな言い種に怒鳴り返したあたしもやっぱ、ガキなわけで。また奥さんと……あたしの知らない他人も同然なあたしとまた比べられてる気がして、めちゃくちゃ腹が立ったんだよね。
一度怒り出すと、色々と不満もあって、お互いに止められなくなっちゃったんだと思う。
それでもオッサンは、もう怒声を上げるのは止めようとしてたみたいだった。最近殆ど癖になってた溜め息を、一際大きくついて見せたんだよね。
「ああ、もう……そういう意味じゃなくて!」
「何が?あたしに何か言いたいなら、ちゃんと説明すれば?」
そういう意味じゃないって、ならどういう意味?
言うことが極端に走るのは幼稚だ、前の嫁なら絶対にそんなこと言わなかった……って言いたい?
オッサンの考えてることなんて単純だもん。ガキのあたしでも、すぐにわかるよ。
でも。
でも、逆にオッサンはあたしの考えてることなんてわからないんだろうな。きっと、興味もないだろうし。
奥さんのことしか頭にないんだから。
あたしがオッサンのことをわかるのに、オッサンはあたしのことがわからないんだ。
そう考えた途端、脳味噌が怒りで沸騰しそうになってたのが、すーっと冷めていくのがわかった。溜め息さえわざとらしく聞こえて、ナメてんのかってマジに思えた。
「どうせ、あたしはオッサンの好きな嫁じゃないんだから。なのに……何年一緒にいたって無駄じゃない?」
「それは……」
ほら、突っ込まれても答えらんないじゃん。
まぁ予想はしてたんだけど。
オッサンがうまい言葉を見つけられなくてしどろもどろになるのに、あたしはどんどん冷めていく一方。今度は、別方向からの突っ込みがぽろっと出た。
「それに、オッサンのお父さんからも別れろって言われてるし」
「そんな……そんなことに親父は関係ないだろ!」
「関係あるよ。何でお父さんが幽霊にまでなって別れさせようとするのか……考えたことあるの?」
頭が冷えたからなのか知らないけど、今まで心の奥にしまわれていた疑問をあたしは簡単に口に出してた……ってよりも、オッサンに言わずにいられなかって言うか。
オッサンのお父さんの幽霊が化けて出てまで、あたしたちに別れろって言ってくる。その理由は間違いなく、オッサンがあたしよりも気づくところがあるのは……間違いないはずなんだよね。
けれどオッサンは、また言葉に詰まってる。
……やっぱり。
この人、あたしを過去に返せばいい、奥さんに会いたいって気持ちしか頭になくて、幽霊が出てくる原因が何なのかってことまで考えてなかった。
確かにあたしが過去に戻れば、それで全部解決するのかも知れないよ?
でも、帰れなかった場合はどうすんの?仮にもし奥さんが戻ってきたとしても、幽霊だけがまだ出続けたらどうするの?
いや、それよりも。
それよりも、あたしの気持ちはどうなるの?
知り合いも誰もいなくて、庇ってくれる人が……一番近くにいるオッサンですら、あたしのことをちゃんと考えてくれないんじゃ……あたしの不安や寂しさを、どうすればいいの?
一度温度が下がったはずの頭にまた血が上って、そこまで一気に考えた……のに、何故かあたしは怒鳴り声じゃなく、オッサンみたいな溜め息をついていた。
「もう疲れちゃった。こんななら……もう、あたし……一人でいい……」
フツーなら大声出して感情をぶわーっと出すのに、何だか行き場がなくなったみたい。自分がまた涙声になっていることに気づいたのは、言い終えてからだった。
オッサン、あたしが怒鳴り散らすもんだと思って身構えてたんだと思う。反対に泣かれておろおろしてるのが、空気で伝わってきたから。
「いや……あの……今は確かに仕事見つけるのも大変だけど、だけどさ……いきなり別れるとか何とかって……」
あわわわ、って本当に顔に書いてあるのが目に見えるみたいだった。
けどこれも、泣かれたからって純粋な理由で動転してるだけなんだよね。どうしてあたしが泣くまで思い詰めたのかって、多分そこまで気が回ってない。だから何て言えばいいのか、わからないんだろう。
そんな人とはーーオッサンとは、もう話すことなんてない。
お互いわかりあえないから……
これ以上派手に泣かないよう必死になあたしはもう何も言えず、オッサンに背を向けて寝室に直行した。
短いフローリングの廊下を抜けてから後ろ手に白木のドアを閉めて、鍵をかける。
このところ毎日ここに寝てるから、ちょっと硬めのマットレスのシングルベッドが二つくっつけてあって、薄い掛け布団がたたんで置いてある光景も見慣れてる。
それが涙で歪んでるせいで、いつもと同じだとはちょっと言えないけど……
あたしは薄いオレンジ色のシーツがかかった、奥さん側のベッドに身を投げ出した。しんとした部屋に戻って寝っ転がったら、白い天井が眩しく思える。
静かに灯る明かりをぼんやり見てると、改めて自分が一人でいるってことを選んだんだって実感が押し寄せてきた。お父さんやお母さん、それにお兄ちゃんとずっと一緒に暮らしてきていたあたしにとって、一人だけで暮らす……なんて、産まれて初めてだ。
自分で住むところを探して、お金稼いで、ご飯も一人で食べて、自分しかいない家の中で誰とも話さずに寝て……そんなの、あたしにできるのかな。
自問しかけたところで、もう考えるのが面倒になって止めた。
どうせ、大事に思ってくれる人なんて誰もいないんだもん。
だからもうどうでもいい。あたしなんか、どうなってもいい。
「もういいんだ、別にいいよ」
口に出して呟くと、溢れた涙が頬を伝って枕に落ちていく。
乱暴に眼鏡を取って目をごしごしこすっても、全然止まってくれない。だから視界もぼやけたままなんだけど……
眼鏡を放り出して寝返りを打ったら、頭のすぐ横にあるサイドテーブルが目に入ってくる。デジタル表示の目覚ましの横には写真立てがあって、そこにはあたしらしい女の人とオッサンの、結婚式の写真が飾ってあった。
今よりも若い、黒いフロックコート姿のオッサンと、フレンチスリーブで小さな花がいっぱいついた可愛いウエディングドレス姿の、未来のあたし。
二人とも、すごく幸せそうに笑ってる。
ーーなのに、どうしてこんなことになっちゃったのかな……
写真立てに薄くあたしの顔が映ってるけど、結婚式のときの写真よりやつれてるし、何よりもすごく悲しそう……涙でまだぼやけてるけど、それでもそうとわかるぐらいなんだよね。
そしてもうひとつ、別の見慣れた顔が見えていた。
横になってるあたしの頭のすぐ後ろ、まるでベッドからまっすぐ生えてあたしの顔を覗き込むような位置にある、中年男の顔。青白くて、痩せていて、だけれどオッサンにすごく似てるってわかる顔。
普通なら悲鳴上げるか驚いて固まるかするだろうけど、あたしはその両方ともが面倒臭い。それどころか視線を動かす気力もなくて、幽霊の顔をそのままぼんやり見続けることになった。
あれ、この幽霊って……なんか、この前見たときよりも若くなってない?
変に幽霊の顔を見る機会が多くなって、あたしも感覚がおかしくなっちゃったのかな。もう、さほど心も動かないんだけど、これにはちょっとだけ驚いてた。
したら、幽霊は悲しそうに笑った気がした。
幽霊はすぐに消えちゃったから、確かにそうなのかって言われると自信ないけど。
勢いでここまで書いたら、すっごい疲れた……
オッサンはいつの間にかいなくなってるし。こんな時間なのに、どこへ何しに行ったんだろ。
けど、もう他人になるオッサンのことなんか、気にしたってしょうがないよね。
どう転んでも、結局あたしはひとりぼっちなんだもん……
もう部屋に戻ってよう……
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