夫の非公開ブログ -10-

 何だか胃を中心とした腹がずーんと重い。

 嫁があんなことになってから寝る前に毎晩飲み続けてるし、流石に酒飲みの俺の身体にも結構キテるってことなのか。夕食が終わってから和室で焼酎のストレートばっかで、それが大体一週間くらいかな?

 それにベッド代わりのソファーも寝心地が悪いから、熟睡できなくて疲れもたまってるんだろうとも思う。

 この調子だと、次の健康診断では確実に引っ掛かるよなぁ……只でさえ、今まで肝臓の数値があんま良くないんだから。

 しかし、しかしだ。

 それでも、飲まずにはいられない。

 俺は今、家の近所の通い慣れた居酒屋の卓で一人、これを書いてる。

 主に自分の気持ちを落ち着かせて、客観的かつ冷静になるために。

 嫁から、多分最も聞きたくなかったであろう単語の一つ。

 「離婚」

 それを聞かされたのは……ほんの三十分くらい前か。

 俺は今まで生きてきた中で、多分一番強いショックを受けたんだと思う……

 誰に見せるってもんじゃないこれを書き出すのも、勇気が必要だった。エディタを開いても、いつものブログを書くときと違って指先が動かない。頭と身体の両方が現実を拒否してるのが、はっきりとわかるぐらいだった。

 書き出したら、自分が認めたくない現実と向き合うってことになるんだから。

 だが、混乱し切った頭を整理するには、これぐらいしか手を思いつかない。

 本当は何を考えればいいんだかわからないし、すぐに頭が真っ白になって止まりそうになる。

 けど、それじゃいけない。このままじゃ、俺と嫁との家庭が……俺にとっての幸せが、跡形もなく崩壊するってことなんだから!

 まさか、結婚してから突然別れを突きつけられるなんて……考えてもみなかった。

 頭を鈍器でぶん殴られたような感覚って、こういうのを言うんだな。息も早く浅くなって何だか苦しいし、胸がずきずきして痛い。

 親父やお袋が死んだ時だって、そりゃショックではあった。

 しかし二人ともそれなりの年齢だったし、ある程度の覚悟はできてたから、俺にはその事実を受け入れるための猶予期間があったんだ。だから、いざその時が来ても覚悟も準備もできていた。

 それに一人っ子の俺に肉親がいなくなっても、共に生きていく家族として嫁がいてくれた。それだけで、どれほど俺が支えられたかわからない。

 なのに……

 今回は、違う。

 その嫁からもう家族でいることを止めよう、って何の前触れもなく切り出されたんだ。

 正直、これを打つにも手が震えてどうしようもないぐらい。

 それでも自分の中で今を見つめ直すため、さっきあったことをなるべく正確に思い出さねば…… 

 俺がいつも通り仕事をこなして帰ってきたのが、確か夜の九時くらい。

 嫁がこんなことになってから、そろそろ一週間は経つかって頃。

 近頃は腹が空くと胃が痛くなるけど、夕食を期待して家のリビングのドアを開けたんだ。でも、予想に反して料理の匂いはちっともしてなかった。

 嫁はTシャツにスエットっていう、朝に起きてきたほぼそのままの格好でパソコンに向かってて。俺が帰ってきたってわかってる筈なのに、こっちを見ようともしなくて。

 その細い背中には、見た目にも明らかな気だるさがまとわりついていた。

 声を掛けるのを躊躇しそうだったけど、挨拶しないのもおかしいと思った俺はとりあえず言っといた。

「ただいま」

 ……返事はない。

 っつーか、まったくの無反応。

 もしかして、イヤホンつけて英語のリスニングでもやってる?と思ったところで、やっと返事が帰ってきた。

「うん」

「何か変わったことってあった?」

「別に……」

 嫁はイヤホンをつけておらず、ただぼんやりとパソコンのモニターに表示されているニュースを読んでるだけだ。なのにいかにも面倒そうな、あんたのことなんかどーでもいい、と言わんばかりの態度で。

 最初の一言はおかえり、ですらない。抑揚がなくて意味がない、平坦な声の返し。

 こっちは生活のために必死に働いて、疲れて帰ってきたってのに。気持ちよく迎えることもできないって何だよ!

 と、喉まで出かかってたんだけど、俺はそれをぐっと飲み込んだ。

 嫁の料理の腕は目覚ましく上達してるから、旨い飯の前に喧嘩するなんて……と思えたから。が、ダイニングの上には何もなくて、乾いたキッチンのシンクは今日使った形跡も見当たらない。

「あれ?夕食は?作ってくれてないの?」

「うん。なんか、あんまり調子良くなくて……ごめん」

 期待を裏切られた感が、そっくり声に出てたんだと思う。嫁がそこで初めて振り返って俺を見ると、目を伏せた。

 嫁、目の下に薄い隈を作ってて、気だるいというよりは余裕がなくて気が回せてない、って感じだった。何だか見るからに疲れてるみたいだし。慣れない他の家事で疲れてて、そこまでできなかったってとこなんだろう。

 その割にはフローリングの床とかに埃があるし雑誌や郵便物も散らかってるけど、それは俺が片付けなかったからだ。昨日か一昨日くらいはそういうのも片付けてくれてたけど、今日はたまたまやれなかっただけなのかも知れない。

 まあ、それじゃあ仕方ないよな。

 俺は息をついて、スーツのジャケットを脱いだ。

「そっか。じゃあ、風呂入ってくるよ」

「……まだやってない」

「え?」

 おいおい!

 いくら何でも、それはないだろ……湯船を洗ってから栓して、お湯を溜めるボタンを押すだけなのに。第一、年頃の女の子が朝からパジャマのままでいて、その上この時間までお風呂に入ってないって、気持ち悪くないのか?

 俺の顔は、この時点でもう呆れた色が出てたんだと思う。

 それでも女子高生の嫁を責めることはしたくなかったから、疲れてたこともあってつい、はあぁと大きな溜息をついちまった。

 わざとらしく聞こえたんだろう、パソコンデスクの椅子にいる嫁が俺を咎めるように睨んだ気もした。けど脱力感に襲われてた俺は、もう義務感だけでパウダールームの方に足を引きずって行こうとしたんだ。

「じゃあ、洗濯物干してくるよ」

「あ」

 まだ立ち上がりもしていない嫁の顔に、「しまった!」と書いてあった。

 今の今まで、洗濯のことは意識に引っかかりもしなかったんだろう。

 ただ俺の知ってる嫁なら、例え家事を忘れてたとしても「ごめん、すぐやるから!」と慌てて立ち上がってパウダールームにダッシュするはずだった。なのにこの女子高生嫁は、腰を浮かせようともしない。

「ひょっとして、それも忘れてた?一日家にいたのに?」

 だからつい、俺もきつめの口調で言っちまった。

 今にして思えば、完全に詰問調だったかも知れない。

 嫁にだって、家事がやれなかったそれなりの理由があったかも知れない。なのに、それを聞いてみようともしなかったんだよな。普通の状態とは言えない自分のことを気遣ってくれない同居人に、余計神経を逆撫でされたんだと思う。

 嫁は口をへの字に曲げると、立ち上がって怒鳴ったんだ。

「あたしだって、忙しかったんだもん!一日くらい家事してなくたって死ぬ訳じゃあるまいし、仕方ないじゃない!」

 嫁は怒ってはいるんだけど目はどことなく悲しそうで、俺にじゃなく自分に対して怒りをぶつけてるような節があった。けどその時の俺は空腹と疲れで苛ついてたこともあって、反射的に怒鳴り返してた。

「何だよ!俺は嫁さんに会うのが楽しみでしょうがなくて帰ってくるのに、君は全然俺のことを見ようともしないじゃんか。それに、毎晩ソファーで寝るしかないこっちの身にもなってくれよ」

 で、うっかり本音が出ちゃったんだよな。

 嫁が傷ついたような顔をして言葉に詰まったのが、未だに目に焼きついてる。

 俺たちは何秒間かだけダイニングテーブルを挟んで睨み合ったけど、先に視線を外したのは嫁だった。

「……オッサンが会いたい嫁ってそれ、あたしじゃないじゃない。それに、自分のこと見ようともしないって……その台詞、あんたにそっくり返してやるんだから!」

 俯いてテーブルに置いた自分の指先を見つめてた嫁が、きっと顔を上げてまた言い返してくる。

 俺が嫁のことを見ようともしてない?

 俺が会いたいのが、今目の前にいる嫁じゃないって?

 んな訳ないだろう!

 俺はいつだって嫁のことが心配だし、この子を早くもとの時間に戻したいって、恐らく本人より強く願ってる。だからこそ夜遅くまで色々調べてるし、生活費のことでも不安がないように仕事も頑張ってるんだ。

 俺はやれるだけやってるんだ!ってことがわかってもらえてなくて、余計に腹が立った。

「見てるだろ。俺は君を元に戻してあげようと思って、ずっと方法を調べてるんだよ。一秒でも早く、嫁にも戻ってきて欲しいし……」

「ああ、そう……そんなにあたしを追い出したいの?一秒たりとも一緒にいたくないわけ?」

 けど、返ってきたのはどうしてそうなるんだ、って言いたくなるようなことで。しかも嫁は唇の端を歪めて、悲しみと悔しさを表に出さないように必死に耐える表情になってた。

 勿論俺は、嫁に出て行って欲しいなんて考えたこともない。

 だから本当に虚を突かれて言葉に詰まって、続けた言葉も弁解がましくなってたんじゃないかと思う。

「ちょ……そんなこと言ってないよ!」

「言ってるじゃん……」

 俺から視線を外して絞り出すように呟いた嫁はもう、明らかに泣き声になっていた。

 で、眼鏡の下にある目の端に涙が浮かんでることに気づいた俺が慌てる間もなく、また俺を睨みつけてきた。

「二言目には奥さんに会いたい会いたいって、そればっか。あたしを早く返したいのって、奥さんを取り戻したいってだけなんじゃない」

「え、そんなの当たり前だろ?君は姿は嫁でも、中身は違」

「あたしだって、未来のあたしと同じだもん!」

 叫んだ嫁は、もう完全に泣いていた。

 ……眼鏡を外して乱暴に涙を拭う嫁を前に、俺はわけがわからなかった。

 俺の知ってる嫁は、余程のことがなければ本気で泣いたりしない人だったから……俺は一気に怒りが後退して、代わりに焦りが胸の中に押し寄せてきているのがわかった。

 俺にとって今の女子高生嫁は、他人も同然ってことは確かだ。何せ、俺と出逢ってから一緒に過ごしてきた十年余りが全くないんだから。つまりは出逢う前の状態、全く顔も知らない同士でなし崩し的に同居してるって状態なわけで。そりゃあ婚姻届は出してあるから形の上は夫婦、ってことに変わりはないけど。

 だけど、そんなことは高校生の頭でも理解してるもんだと思ってたし、嫁だって今までは少なくともそういう態度だったんだ。

 だから、嫁が今になって激昂する理由が全くわからなかった。

「そうだけどさ、でも今は殆ど違う人間だって言っても差し支えないわけで……」

 女子高生嫁と俺の知ってた嫁は、あくまで違う人物。だから俺も接し方をきっちりする必要があると説明しようと思ったら、嫁の様子がおかしくなってた。

 何だか急に顔色が悪くなった上に表情もなくなって、能面みたいになってたんだ。一瞬前まで俺を睨んでた視線も、明後日の方を向いてるし。

 だけどそれなら、大騒するのが嫁の平常運転だ。刺激に対してこんな無反応になるなんて、これまでに見たことがない。

「……何?」

 ショックでいきなり呆然とするほどでかいゴキブリか蛾でも出たのかと、嫁が見てる方を確認してみる。

 視線の先にあったのは、カーテンのかかっていない壁一面の大きな窓だ。

 昼の間は太陽をいっぱいに迎え入れる光に満ちた場所だけど、夜の今は巨大な鏡になってリビングの様子を映している。

 その真ん中に、向かい合って立つ俺たちがいて……その中間に、中年の男がいた。

 俺は慌てて自分の正面を見返したけど、当然無表情な嫁が立っているだけで、他の人間の気配もない。俺たちの物理的に空いた空間には、確かに誰もいないんだ。

 再び、窓の方に視線を移す。

 ……やっぱり、いる。

 スエットの部屋着らしいものを着た男が俺と嫁の間に突っ立っていて、まるで知らない誰かが俺たちの言い合いを中断させようとして割り込んだかのようだ。

 だけど、少なくとも現実の物体としては何かが突如として現れたわけではなくて。

 顔と言わず、頭全体から血の気がざーっと音を立てて引いていくのがわかった。

 もう、わけがわからない。

 視覚と他の感覚との齟齬がそのまま気持ちの悪さになって、耐え切れなくなった俺は叫び声を上げていた。

「う……わぁぁぁああああっ!」

 何故か窓から目を離せなくなっていた俺は、ムンクの「叫び」もかくやという顔で絶叫したかと思う。と、中年男のスエット姿は夜の闇に溶けていった。

 あっという間だった。

 ほんの何秒かでリビングの様子がいつもと変わらなくなって、冷や汗でびっしょりになった顔に荒い息をついている俺が異常かと錯覚を覚えてしまう。だって、嫁は全く驚いてる様子もないから。

「い、今の……」

「オッサンのお父さんでしょ。前にオッサンだって見てる筈じゃん。覚えてないの?」

 不自然なくらいに落ち着いていた口調の嫁が、窓の方に歩み寄ってカーテンを閉めた。

 ただ呼吸を整えようとするだけしかできない俺を、動作にも全然乱れたところを見せない嫁が振り返った。

「さっきも出てきてたし、夜はよく出てくるんだよ」

「そ……そんなに頻繁に見えてるのか、あんなのが」

「うん。声だけの時もあるけど。流石に親子だよね、しゃべり方とかよく似てるし、何だか顔もかなり似てきた気がするんだ」

 嫁は感情を感じさせない言い方で、淡々と説明を重ねるだけだ。

 ……ちょっと待てよ。親父の幽霊が喋るなんて、俺は初めて聞いたぞ!

「気味が悪いこと言わないでくれよ!って……あいつ、しゃべるのか……」

「うん」

 まだ乱れた息の下で俺は恐る恐る確認することしかできないが、嫁は相変わらず心の動きを読ませない声でいる。何考えてるのかわからないというか、もう表情変えるのも面倒臭そう、というか。

 もしかしてもう出くわしても衝撃を受けないくらいに、親父の幽霊に慣れてるってことなのか?

 だとしたら、何てこった!

 最初に親父の幽霊を見たときに、嫁は尋常じゃないくらい怯えていたんだ。

 それがこうなるまで、俺が気づかなかったなんて……家の中で、嫁はどれだけ怖い思いをしただろう。まして、幽霊が話すのを聞いてるなんて。

 て言うか、どうして嫁は今まで俺に黙ってたんだ?

 何ですぐに相談してくれなかった?

 女子高生嫁には、俺しかいないはずなのに!

 疑問と疑い、悲しみが頭の中でぐるぐる回って、言いたいことが溢れてるのにうまく言葉が出てこない。だからなのか、俺は優先順位が低いはずのことを真っ先に聞いてしまっていた。

「親父……何を言ってるんだ?」

「別れろって、そんだけだよ」

「え……え?」

 嫁の能面がまっ平らなトーンで告げたこと。

 最初、俺は単語がすぽーんと耳の穴を抜けて、脳に留まらなかったのを自覚した。嫁の言ったことが、理解の範疇を超えてたんだよな。

 ……わ、か、れ、ろ?

 別れろ?

 つまり親父が言いたいのは、嫁と他人になれってこと?

 ここから嫁か俺が出ていって、家族じゃなくなれって言ってるってこと?

 俺は、世間で普通に使われている一般的な単語を思い浮かばせたくないために、親父の幽霊が言ったことを回りくどい表現を使って、頭の中で何度も反芻していた。

 その単語を使ったら決定的、もう戻れない、って気がしてーー

「ねえ……」

 五月だってのに汗まみれで黙りこくる俺を、嫁が見つめてくる。

 その顔は、いつも若々しさに満ち溢れていた嫁とは別人かと思うくらいにやつれた印象があった。

 そして、言われたんだ。

「離婚、する?」



 ……ああもう、これ以上書けるかってんだよ!

 大体、この先から店に入って座るまでのことは、全く覚えてないし。

 書いてはみたけど、読み返してみたくもない。

 取り敢えず、呑む!

 俺は呑んだくれてやるぞ!

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