★嫁のメモ★
★嫁のメモ★
今の時間、三時二二分。
このリビングにいても、隣の和室から盛大なオッサンのイビキが聞こえてくる。ってことは、ちょっとくらいの雑音なんかじゃ起きてこないってことだよね。
とにかくあたしもこれを書いて、とっとと落ち着きたい。
それで、ささっと寝たい……んだけど、寝られるのかわからない。
泣きたくなるようなことばっかだし、そのせいか見たくもないものも見ちゃうしさ。
このところ、いつも誰かに見られてるような気がして落ち着かない。
オッサンが食べたいって言ってた麻婆豆腐を作った後も、そうだった。
あたしはオッサンにあんなこと言われて一瞬で食欲なくしたから、せっかく作った麻婆豆腐も殆ど食べなかったけど……我が家の味じゃない、自分が思ってた味しか認めないなら、いっそ作んなきゃ良かった。余計なこと言いながら食べるなんて、作った人に対して失礼だって思わないわけ?
こうやって書けば書くほど、余計にムカつく。
何であの場で言わなかったんだろ。
ホント、文句の一つくらいはぶつけたってバチは当たんないよね。
だけどあの時は怒る気力なんかなくて、ただひたすら悲しかった……だから、冷えた心をお風呂に入って温まって、ごまかしたかった。
そのつもりだったのに、いざお風呂に入って自分の身体を見てみると、もっと気分が沈んじゃって。
あたし、自分のことを貧相な身体だって思ってた。
高校生の割に胸はAカップであんまりないし、お尻も上がってはいるけど大きさはそんなになくて。実際に髪も短くて背が高いから、ジーンズなんか穿いてると男子と間違われることもしょっちゅう。美緒っちと休みの日に遊んでると、「彼氏?」なんて言われることもあったっけ……
うちは女子校なんだっつの!
ただ、別にそれはそれで構わなかった。自分が女だってのが、むしろ鬱陶しいこともあったから。下手に胸があったりしたら痴漢に遭いやすくなるみたいだし、野郎どもが変な目で見てくるって、美緒っちも言ってたし。
だけど……今の、結婚してるあたしは、改めて見ると女らしい身体つきになってた。身長は殆ど変わらないみたいなんだけど、手足はあたしが見慣れてたのより全然、細くって。お腹の周りはあんまり肉がついてなくて、ぺったんこで。
何よりも胸が大きくなってて、湯船に浸かると膨らみが浮いてくるのが自覚できるぐらいだった。
そこに濡れた長い髪が貼りつくと、黒く踊り狂った線が真っ白なマシマロに描かれた感じになって、自分の身体なのに何ともエロい感じ。
お湯に浸かってた腕を上げると、そこから伝ってくる水の筋はまだまだ張りのある肌に弾かれて、細かい滴になってまた湯船へと落ちていく。
あー、女っぽいボディってこういうことなんだなあって思う。
どうりで、こないだ新しく買ったブラがきついわけだよ。わざわざ試着までしたのに、なんか変な気がして小さいサイズを選び直しちゃったから。やっぱ、高校生と大人の女じゃ体型も違うってことなんだよね。
でも、どっちもそれはあたしなわけで。
それが証拠に、腕を上げて左脇の下を覗くと、見慣れた位置に小さなほくろもあった。
あたしが知ってるあたしは、間違いなく今の身体と同じなんだとわかって、ちょっとほっとした……なのに、胸の奥が何だかズキズキする。
「何さ。あたしだって……未来のあたしと同じなのに」
思ってたことそのままを口に出すと、汗がうっすらと浮かんだ頬に涙がこぼれたみたいだった。
湯船に浸かったまま上を向くと、白い天井がぼやけて見えるくらい。
次から次へと溢れてくる涙と一緒に、色んなことが浮かんできた。
毎日教室であたしのバカ話に付き合ってくれてた、親友の美緒。あ、そう言えば、物理の時間にもらった手紙の返事、まだ書いてなかったっけ……
うちの制服は夏服にこの前変わったばっかで。胸のリボンは二種類あるんだし、たまには違うのにして行ってみようかな。可愛いって評判のデザインなんだしね。
でも、ストライプの方ってどこにしまってたかな。
ブルーのブラウスと一緒だったかな?あ、でもそのブラウス自体、今もうどこにあるのかがわからないのか……ここ、あたしの家じゃないんだし。
……そうなんだよね。
あたしがつい何日か前まで、手を伸ばせばすぐに触れたものが、ない。
ここには、何もない。
そう考えると、本当に、心の中がすーっと冷たくなっていく気がした。折角お湯に浸かって温めていた身体が、それこそ一瞬で寒さに震えるほどにまで。
けれど……
けれど。
また涙がどっと溢れてくることはなかった。
こんな風に胸の奥が痛いのも、何となく息苦しいのも、いつもいつも泣いてるような気がすることにも、少し慣れたのかな。その度に大泣きしてたら、あたしの心が保たなくなっちゃうから……
あーもう、ダメだ。
起きてると考えちゃうから、早く寝なきゃ。
とっとと髪を洗おうと湯船から上がったあたしは、オッサンに今日買ってきてもらったシャンプーのボトルを手に取った。
流石に、あたしが使ってたのと同じ名前のシャンプーは中身も一緒の筈だよね?
商品名は同じでも、あたしが知ってるのとはデザインが違うラベルが貼られたクリーム色のシャンプーボトルを手に取り、中身を絞り出してみる。
パールっぽい光沢がある、とろりとしたシャンプー。
少なくとも手にちょっとだけ取ってみたとこでは一緒だ……ったのに、いざ髪につけて泡を立ててみたら香りが違う気がする。ううん、ひょっとしたら香りは同じでも、あたしがそう思えなくなっちゃってるだけなのかも知れない。
だって、自分の記憶にあんま自信がないから。
この時間に馴染めなさすぎて、過去のことを美化しちゃってるだけなのかも知れない。
こんな小さなこと一つちゃんと思い出せないなんてーー
「……っひ!」
髪を洗い終えてシャンプーをシャワーで流し、顔を上げたあたしから出たおかしな声。
流し場のシャワーの後ろの壁は、半分くらいが鏡になってる変なつくりのこのバスルーム……その鏡の中、丁度あたしの裸の肩の後ろに、男の顔が小さく、しかもはっきりと覗いていた。
どう考えてもありえない位置、大きさからしたら後ろの壁にめり込んでいるとしか思えないところにある、どんよりした青白い中年男の顔!
息を吸えばいいのか、吐けばいいのか、あたしは咄嗟に判断できなかった。
「う……う、げほっ!」
中途半端に呼吸しちゃって、髪からたっぷり滴ってくるお湯まで吸い込んだみたい。激しく咳き込んだあたしは、よろよろとバスルームから飛び出した。
「な……なに、何、今の」
あたしは殆ど蹴り開けるようにして出たバスルームのドアをしっかり閉め、がたがた震えながら呟いている。自分の声がまるで他人のみたいに聞こえて、混乱に拍車がかかった。
あの恨めしそうな顔は、確かに覚えがあった。
何日か前の真夜中、オッサンと一緒に鏡の中に見えた顔。
オッサンによく似た面影のある、父親の顔だった。
でも、何で?
何であたしが、会ったこともない人から恨まれなきゃなんないわけ?
あたしがいなかった時間で、世界で、何もしてないのに。助けてくれる人も、味方も誰一人としていないのに。
何で、あたしばっかこんな目に遭わなきゃならないの?
「もう嫌だよ……こんなの嫌だ!」
激しく頭を振ると、冷たくなった髪から飛沫が落ちて、バスルームの床を濡らした。
急いでスエットのパジャマを着てからバスルームを走り出ようとしたとき、あたしはまた自分が泣いてることに気がついた。
だけどこのリビングに戻る途中の廊下で和室から漏れてきたのは、オッサンの間抜けな高いびき。
って、あたしがコイツの糞親父のせいで怖い思いしてるってのに、息子のオッサンは気づきもしないって!
一瞬頭に血が上ったあたしは、襖をパァン!と開けて怒鳴り込もうかと思ったけど、明るい場所に早く逃げたいって気持ちの方が勝った。
白木のドアのノブに手をかけて中に駆け込むと、煌々とした明かりがあたしを包んでくれる。その光が照らすテレビや、サイドボードや、カーテンの隙間から覗く窓にも、さっきの男の顔は見えない。
ほっとすると力が抜けて、膝がガクッと折れた。
やばい、腰抜けちゃったかも……
ドアの前でへたり込んだあたしは、それでも何とか這いつくばってパソコンの前までたどり着いた。
モニターがつけっ放しになってて、このリビングの中でちょっとでも明るいところに行きたかったんだ。で、椅子に登るみたいにして座ってからずっと、必死にこれを書いてるわけで。
こうやって今日あったことを文章にしたら、ちょっと落ち着けたみたいだった。
ここまで読み直してみると、少し頭の中も冷えて今までのことも振り返れる。
……やっぱり、一生ここで暮らしてなんかいけない。
早く元に戻らなきゃ。
ううん、元に戻れなくても、ここから出なきゃ!
そうでなければ、きっとまたあの幽霊……つまり、オッサンの父親が出てくる。あいつは多分、あたしとオッサンが離れない限り現れ続ける。
逃げなきゃ。あんなのに一生つき纏われるなんて、あたし絶対に嫌だよ!
自分を勇気づけるため口には出さずに叫ぶと、あたしはもう一度液晶モニターを睨んで、調べものを始めた。
色んな文字をマウスでクリックして、矢継ぎ早に移動して、どこの誰ともわからない人が書いたものを読み漁ることを繰り返した。
けど、どこを見ても、時間を移動する方法なんて見つかりゃしない。アインシュタインの相対性理論とか、本当に未来から来たっていう奴の眉唾物な掲示板の書き込みとか、タイムトリップがテーマのアニメや小説が腐るほど引っ掛かってくるだけ。
そうして時間が過ぎるうちに、何だかもう自分がやってることがバカみたいに思えてきて。
どんなに調べても、確実に元の時間に戻れる方法なんかない。
……だからもう諦めて、この時間で一生を終えるしかないんじゃないか、って……
けど、とそこでもふと立ち止まるあたし。
このまま、本当に好きでもない人と暮らしていけるの?
あのオッサンは、確かに未来のあたしが選んだ結婚相手かも知れない。だけど今のあたしにとって、オッサンはそこら辺にいるただの中年オヤジと同じで、赤の他人。
頭ではそう思ってても、一方では一人で暮らしていける自信なんかないあたしがいる。感情的に我慢ならなくても、理屈で考えたらここを出る選択肢はない。
それともこの時間のあたしなら、一人で生きていくこともそんなに難しくはなかったのかな……こんな、何もできないあたしに戻ってなんかなければ。一人でアパート借りて、一人でご飯作って、一人で仕事して。何でもできたのかな?
二二年後のあたしだったら。問題なんか、きっと……
思わず、溜め息と一緒に涙が落ちそうになった。
何だかんだでまだまだ子どもの自分が、情けなくて本当に嫌になる。
こんなあたしなんて、オッサンじゃなくても一緒に暮らしたいなんて思わないよね。
だから、あたしは……
また溜め息が出そうになって顔を俯かせると、つるつるしたモニターに見覚えのある顔が写った。あたしの肩越しに画面を覗いてる、中年男性の顔。
あたしは他人のモニターを盗み見するオッサンに怒る気力もなくて、うざったそうに振り向くことしかできなかった。
「あ……オッサン?」
でも、誰もいなかった。
残されてるのはどことなくがらんとしたリビングと、その中で行き場を失ったあたしの声。
あ、ダメだ。
もう、早く寝ることだけ考えなきゃ。
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