嫁の夢日記-2- & 夫の非公開ブログ -9-
★嫁の夢日記★
まだあたし自身半分寝てる状態だけど、覚えてることは書いとく。
寝る前に目覚ましに映ってた男が、暗い中にいる夢。
ただ、顔が何だか若くなってた気がする。
こいつ、何も言わずにただあたしのことを睨んでくるだけだった。格好は……どんな服着てたかまでは、覚えてない。
そういえばこいつオッサンのお父さんなんだっけって、途中で思い出した。そんな奴に恨まれる覚えなんか、あたしにはない。だから言ってやった。
「ねえ、あの人のお父さんなんでしょ?あたしに何を言いたいわけ。何かあるなら、ちゃんと言ってよ!」
でも男から答えはなくて、ひたすら無言のまま。
怖くてたまらなかったけど、あたしは逃げようとしても動けなかった。
なんで?
なんであたし、こんなことになってるの!
パニクって何とかしようとしたけど、全然ダメ。
もがいたつもりでいたら、どっか遠くから、今度は女の人の声がした。
「その人は……から……だよ」
何だか聞き覚えがある声。
でも、途端に男の姿がふっと消えた。
直前に見えたのは、何だかすごく悲しそうな目。それだけが強烈に残ってる。
時刻は、午前三時二九分。
★夫の非公開ブログ★
あー、何だか身体の節々がみしみしする。背中も痛いし、流石に毎日寝る直前まで飲み過ぎか。
しかし休み明けから残業が続いてるし、家ではあんまりまともに食事できてないし、飲まなきゃ正直やってられん。
それにしても、ソファーがここまで寝心地悪いとは思わなんだ。もう一枚座布団でも引くなりしないと、ベッドで寝られるようになる前に俺の腰が逝きそうだわ。
ただ……一番の原因はストレスっぽいんだよなあ。
嫁は相変わらずだし、いつまでこんな生活が続くのやら。それを考えると頭と、胃まで痛くなってくる。まあ、胃がちょっと痛いのは、昼もろくに食べる暇がなくて腹が空きすぎてるせいもあるんだろうが。
あれは確か……午後十時半過ぎくらいだったか。
残業だった上にちょっと買い物なんかしてたら、すっかり遅くなってた。マンションのフロントにも人がいなくて、エレベーターでも廊下でも、誰一人としてすれ違わない。どこの家からも夕食の香りが漂ってこず、外はしんと静まり返ってる。あんなに遅くなったのは久しぶりだった。
けど、嫁が前に使ってたシャンプーとリンス、頼まれてたからなぁ。ちょっと遠くのドラッグストアまで足延ばしてたら、このていたらくだ。
嫁の料理は期待できないんだから、ついでに夕食も買って来るんだったと真剣に後悔。
いや、また食事作ろうとして何かやらかしてないだろうな?ううっ、自分の家に帰ってきたってのに気が重い。きっと女子高生の娘がいる父子家庭の父親って、こういう気持ちなんだろうな。
俺は両肩がずしっと来るのを感じつつ、自宅のドアのロックを外した。
玄関に入った瞬間に俺の鼻腔を刺激してきたのは……何とも食欲がそそられる、ものすごくいい香り。にんにくと生姜を香ばしく炒めた中に、肉とネギが入ってるんだろうと想像がつくくらいだった。それから、ラーメンのスープっぽい香りもちょっとする気がする。ということは、中華料理か。
あ、やべ。この香りを思い出すだけで、よだれが湧いてきた……
靴を脱ぐのももどかしく、口許を拭いながらキッチンへと向かう俺。
廊下にビジネスバッグを置きっぱなしにして、脱いだジャケットも途中の和室へ放り込んだ。
猛烈に減った腹がいい香りの一撃を受けて自然と嬉しくなった俺は、きっと満面の笑みになっていただろうと思う。
「ただい」
「遅い!待ちくたびれちゃったじゃない!」
「……ま」
追加射撃は、仁王立ちした嫁の文句。
俺、アツケナク撃沈ス。
……いや、まだだ。まだ終わらんよ!
俺の野獣の如き食欲は心で咆哮を上げ、萎えかけた理性を全力で奮い立たせると、嫁のご機嫌取りに集中させてくれた。
「ごご、ごめんよ。ここまで遅くなるって思ってなくて……一応電話もしたんだけど……」
「嘘、電話一度も鳴らなかったもん」
と、ふくれっつらで追い討ち攻撃をかましてくる嫁。
不機嫌を絵に描いたような表情に、俺は反撃する気力を削がれて……って、何?
電話番号は登録してあるし、伝言メモだって残してるんだし、メールも入れた。一度も呼び出し音が鳴らないなんて、そんなはずは……
と俺はそこで、重大な間違いに気がついた。
俺は今までの習慣から、嫁のスマホに連絡してた。
しかし嫁の言う「電話」って、自宅の固定電話のことだ。
一応嫁が持ってるスマホの使い方は教えたけど、肝心の本体はこのリビングにもキッチンにも置いてないっぽい。女子高生嫁は昭和末期から平成頭にかけての人間なんだから、携帯電話は常に身近に置くって発想がそもそもないんだ。
電話なんて一人一台が当たり前の時代になったのは、ここ一五年くらいのことなんだから。
つまりこの件に関しては、完全に俺のミスってことで。
「あ……」
思わず漏れた声に、嫁の視線が険しさを増した……ような気がする。
俺は携帯電話にずっと連絡してたんだ。お前こそ、ちゃんと取れよ!
何て逆ギレ、俺はするような男じゃない。
第一そんなことしたら嫁がかわいそうだし、ここは素直に謝らねば。
「ごめん。つい癖で、携帯の方に」
「間違えて、浮気相手のとこにでもかけてたんじゃないの?」
「う……うわ、浮気相手ぇ?ん、んん、んなこと、あるわけないだろ!」
「怒鳴らないでよ!それにそんなに怒るってことは、図星なわけ?」
「いや、ホントにありえないんだって!俺自身、奥さんのことが好きすぎて困るくらいなんだからさ」
大声を出しかけてから今が夜遅いことに気づき、俺は慌てて後半の声のトーンを落とした。
浮気って……何でそーいう発想に至るんだ。自慢じゃないが、俺は嫁と付き合い出してから他の女のことなんか気にかけたこともないぞ?それこそ、タレントとかモデルが可愛い、美人だなって感想を持つ程度。
いや、でも正直なところを話してもまた奥さん一筋過ぎでキモがられるだけなのか……
それとも、もしかしたらただ単に「浮気」って単語を使ってみたいだけ?
「何、ひょっとして図星?」
横目で俺の顔を見上げてくる嫁は、構って欲しくて拗ねてる猫を何となく思い起こさせる。ややもすると倒した耳が頭に、ぱたんぱたんと振る長いしっぽが背中のほうに見えてくるくらいだ。
そう、つまり本気で怒ってるわけじゃない。
だから、俺が腹を立てたって仕方ない、ってことなんだよな……
気づいたところで安心と疲れがどっと来て、俺は大きなため息をついていた。
「とにかく、疑うなら携帯とか今ここで全部見せるから。パソコンのメールも見ていいし」
そんなのに、こっちも本気で怒ってもしょうがない。だから折れるしかないんだ。
プライベートで持ってるスマホに仕事用のPHS、両方を差し出してきた俺を暫し見つめ、嫁はぷいとそっぽを向いた。
「……いいよ。そこまでオッサンが言うんなら、もういい」
「え、見なくていいの?」
「いいんだったら!」
また俺の方に向き直った嫁はまた、むー!と音が出るようなふくれっつらだ。
かと思うと、急に目を伏せて訊いてくる。
「……奥さんのこと、そこまで好きなの?」
「ん?ああ、勿論。なのに、こんなことになっちゃってさ……早く嫁にまた会いたいよ、俺」
言いながら、俺は無意識のうちにネクタイを緩めていた。
一応嫁は物理的にはすぐ傍にいるわけなんだが、本人ってわけじゃないし。だからなのか、余計に元の嫁に早く会いたいという気持ちが募りがちなのか。
眼前の嫁からちょっと視線を外すと、ストレートの艶がある髪に包まれた頭越しにリビングの様子が視界に入ってくる。
二人で選んだお気に入りのソファーも、その上に重なってるクレーンゲームで取ってきたクッションも、スイーツを特集した雑誌のバックナンバーや漫画が重なってるテーブルも、以前と何ら変わりはない。
なのにこの家は俺が心からくつろげるわけじゃなく、愛している嫁がここにいない……
不意に、胸がずきんと痛んだ気がした。
「どうかしたの?」
突然ぼんやりと室内を眺め出した俺に、女子高生嫁が不審そうな目を向けてくる。
「ちょっと疲れただけだよ。今日は昼ごはんもろくに食べられなかったしな」
「じゃあ、お腹空いてるってことだよね?」
適当に誤魔化すと、嫁の声がちょっと弾んだ気がした。
その後ろに、キュルキュルと腹の鳴る音が連なる。
俺のじゃなくて、嫁の。
俺にまで聞こえるほどの勢いで腹の虫が鳴いたのが恥ずかしかったんだろう、嫁は見てわかるほどに顔を赤くしてぼそりと言った。
「ご飯できてるから」
「えっ!まさか、また……」
「今度は失敗してないもん!とにかく見てみてよ」
先手を打って心配しようとした俺に、嫁が反撃してくる。
あ、そっか。失敗してたら、こんないい匂いがするわけないもんな。ってことは、期待できるって話か!
昨日のキッチンの惨状を思い出すと、一抹の不安は残るけど。
若干のドキドキを残しながら部屋着に着替えた俺をダイニングテーブルで待ってたのは……ほかほかと湯気を立てている中華スープ、卵とハムのチャーハン、それに麻婆豆腐。
テーブルについたとき、思わずおおぉ……と変な声が出たくらいだった。
嫁作、俺の中では「神」の麻婆豆腐!
市販の合わせ調味料じゃ出せない、複雑な旨味が絡み合う我が家の自慢料理だ。
タイムリープ前の嫁曰く、いつも見てるレシピ本では挽き肉をパラパラになるまで炒めるし、三種類の中華味噌を使うんだ、ってことらしい。
ダイニングにそのレシピ本が出てるってことは、味付けも前と同じと思っていいんだよな?
嫁は正面の席でニコニコしてるし、俺、期待しちゃってもいいんだよな?
「いっただきまーす!」
わくわくが抑えられず、言うが早いかレンゲを取り上げる俺。
……いや、だがしかし。
俺は麻婆豆腐を掬おうとした手をはたと止めて嫁の顔に視線を走らせた。
昨日の今日で、こんなに料理の腕が上がるもんなのか?
にわかには信じられず、俺は嫁に言った。
「って、これ……ホントに作ったの?」
「疑ってんの?味見だってちゃんとしたし、大丈夫だって!」
またちょっと、怒った顔を見せる嫁。
あ、そう言えば……何年か前、嫁が焼いたパンを黙って食卓に出してきて、俺がそれを買ってきたもんだと思い込んで何も言わずに食べちゃったら、思いっ切り拗ねられたことがあったな。今の嫁は、その時の様子を何となく思い起こさせる。
嫁は恐ろしく飲み込みが早くて、一通りのことはそつなくこなせる器用な人だ。女子高生時代にその片鱗があったとしても、不思議じゃない。味覚だってまともなんだから、食べられないものは出さないだろう。
自分を納得させた俺は、頷いて麻婆豆腐をレンゲに掬った。
「そっか。じゃあ……」
ぱくり、と最初の一口を味わってみる。
最初に来るのは甘味がメインで、塩味と微妙な酸味が合わさった中華味噌の味。そこに炒めたにんにくと生姜、葱の香りが合わさり、挽き肉の香ばしさと旨味を引き立ててくれている。とろみがついた肉味噌が絡んだ豆腐はやや硬めだけど、舌触りが悪いってことはない。形が少し崩れてるのも、家庭料理ならでは。
この麻婆豆腐は、料理としてはすごく上手くできていると言える一品だ。
ただ……ちょっと……
未だ一口目を味わっている俺を見守っていた嫁が、恐る恐る訊いてきた。
「どう?」
「うん……うまくできてる」
「ホント?」
「うん、美味いよ。でもこれ、辛くないんだな」
そう、嫁が作る麻婆豆腐は豆板醤がほどよい加減で加えてあって、それが絶妙な辛さを出してたんだ。俺は嫁以外に出せない味を愛してやまず、よく麻婆豆腐をせがんで作ってもらってたくらいだった。
俺の反応が予想外だったんだろう。嫁がちょっと驚いたのち、言いにくそうに説明した。
「え……あたし、あんまり辛いのは無理だから。豆板醤は入れなかったんだけど」
「そっか。嫁が作ってたのって、いつも絶妙な辛さだったからさ」
女子高生時代の嫁は辛いのが苦手だったとは。
そんなのは初耳だったんだけど、今目の前にある辛くない麻婆豆腐だって……ちょっと物足りないけど、充分美味いからさして気にならない。
次に中華スープを食べようと、伸ばした俺の手を見つめながら嫁が呟いた。
「そういう方が良かったの?」
「あの辛さが我が家の味、って感じだったかな」
スープを一口すすりつつ応える俺は、もう食べることに夢中になっていた。
うん……このスープも、いけるじゃないか!塩加減もいいし、鶏ガラの香りがまた更なる食欲をそそる。
じゃあ、こっちのチャーハンも期待していい筈だよな……っと。
レンゲにのせたぱらりと軽い印象の米粒たちを、俺はほいっと口の中に投げ込んでみた。
卵の黄色が優しいチャーハンは、店で出せるレベル!と言ったらお世辞になるけど、少なくとも水分が多すぎでべちゃべちゃとか、油でギトギトとか、焦げ付いてて苦いなんてことはない。きちんとした一品料理だ。
まさかたった一日でこんなに上達するなんて、流石に器用な嫁だ。昔からその片鱗はあったってことなんだ!
何だか嬉しくなった俺は自然と笑顔がこぼれ、皿から視線を上げて嫁の顔を見上げる形になった。
……って、あれ?
嫁、俺と同じメニューを並べてるのに、殆ど手をつけてない。
この時間まで俺を待っててくれたんだから、お腹がすいてないわけないのに。どっか、具合でも悪いのか?
心配になった俺は、レンゲを片手に皿を見つめるばかりになっている嫁へ声をかけてみた。
「君は食べないの?調子でも悪い?」
「味見でもうそれなりに食べたもん。それにこれ、我が家の味じゃ……」
「え?」
俯き加減になってる嫁の声は、最後がよく聞き取れない。
もう一度言ってもらおうと首を傾げた俺をよそに、嫁はダイニングから立ち上がって自分の皿を取り上げた。まだ湯気すら上がっている、麻婆豆腐の皿を。
「残りは私が明日の昼にでも食べるよ。今日はもうお風呂入って寝るから」
軽い笑顔で流す嫁だったが、何だかその声がすごく寂しそうに聞こえたのは俺の勘違い?
わざわざアイロンをかけたらしい、白いリネンのエプロンに包まれた嫁の細い背。それがやたらとんがった感じになってるのも……気にしすぎだよな。前に俺、ちょっと心配性だって言われたことがあるし。
結局俺は、自分の分の食事全てにラップをかけて冷蔵庫にしまっていく嫁に何も言えず、ぎこちなく声をかけるだけで精一杯だった。
「あ、えと……おやすみ」
「先に寝ることになっちゃって、ごめん。また明日ね」
嫁は小さく微笑んでから、リビングを後にしていった。
……何だろう。
今の嫁、何を話しかけても全部笑顔で拒絶しそうな雰囲気があった。
俺、何か怒らせるようなこと言ったっけ?いや……それはなかったと思うんだけど。
でも、今日はあんまり考えてる時間は無さそうだった。何故なら、美味い食事のせいか俺はもう睡魔に襲われかけてたから。
このウェーブに乗り損ねたら、久しぶりに訪れてくれそうな安眠を逃しそうだ。そうはなるものかと、急いで食事の残りをかっ込む。
「うーん、やっぱもうちょっと辛い方がいいよなぁ……」
俺の漏らした呟きは、暖かい光が照らすダイニングでひたすら飯をがっつく雑音に紛れていった。
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