★嫁のメモ★

 オッサンからは毎日つけろって言われた日記。

 なのに、結局つけられてない……ダメだあたし。

 こんなんじゃ、思い出せることも思い出せるようにならないよ。

 ただ引っ掛かるのは、今まで以上に思い出す?

 一体何を?

 って、思考停止することがよくあるってこと。

 自分がどうしたいのかが、本気でわからなくなることが結構な頻度である。

 あたしの未来の旦那だって言うオッサンと一緒にいてまだほんの二、三日だけど……あのオッサン、二言目には早く元の奥さんに戻ってきて欲しい、君のためにも、って、そればっか。一度や二度ならまあ仕方ないけど、あんまり何度も言われるとマジでムカつくんだよね。

 あたしだって、アンタの奥さんなんだってーの!

 まるであたしが要らないような言い方、しなくったっていいじゃん!

 だけどムカッ腹が立つ度に、じゃああたしはこのままこの世界に留まりたいのかって言うと……そうじゃない。

 あたしだって、早く元の時間に戻りたい。

 いつも買ってるアニメ誌だって早く買わなきゃ売り切れるだろうし、テレビの続きも話忘れちゃいそうだし、友達のみんなとまたバカ話して爆笑したい。

 なのに……このモヤモヤは、一体何だろう。

 こんなんじゃ何をするにも身が入らない。

 中間テストまでもう日がないから、なるべく早く帰りたいのに。気がつくと違うことばっか考えてて、ちっとも前に進めない。

 それに……今勉強なんかしたって、もしこれから先ずっとこのままだったら無駄ってことになっちゃうんだよね。この世界でのあたしは、もうとっくに大学まで卒業してるんだから。だから余計に勉強なんかに身が入るわけがなくて、かと言って何かしてなきゃおかしくなっちゃいそうで。

 でも、外の世界のことを何も知らないあたしができることなんて、殆どないことに気づかされる。

 パソコンのインター何とかも使えるようにはなった。反面、仕組みは説明してもらっても全然わかんないし。危なそうなところは行くなって言われたって、何が危ないのかもよくわかんない。迂闊に何かしてパソコンを壊しちゃう方が余程危ないから、やっぱりあんまやる気にはなれない。

 で、何をするのかと言えば……家事。

 それくらいしかないんだよね。ホント。

 テレビの画面は大きくて綺麗に、リモコンのボタンはやたらいっぱいに変わってても、チャンネルを変えることぐらいはできる。

 その画面でニュースやバラエティ番組をずっと流しながら、午後から掃除と夕食作りをやってみた。オッサンが仕事に出掛けてて昼はあたし一人だから、インスタントラーメンにしちゃってた。だけど二人してそればっかりじゃ、身体に悪いし。

 家での家事は完全にお母さんがメインで片付けてたものの、流石にあたしだって手伝いくらいはしたことがある。料理だって、お菓子作りならスポンジケーキが電動の泡立て機を使わなくたって、ちゃんと焼けるくらいの腕はあるんだから。

 普通の料理は、正直あんま作ったことがない。でもお菓子ほど材料や作り方が細かく決まってる訳じゃないんだから、何とかなる!

 ……って思ってた……のが、甘かったのか……

 キッチンと、その後のパウダールームでもそう思い知らされたのは、昨日の晩のことだ。

 なるべく詳しく思い出しながら、その時から今朝までを書き綴ってみることにする……トホホな気分になるから、本当はあんまり思い出したくないけど。

 あたしは焦げついて真っ黒になった豚肉が薄い煙を上げるフライパンと、味噌汁が吹きこぼれまくってもうもうと湯気が立ち込めてるガスレンジ、水分が見事に飛んで干物になった南瓜が入った電子レンジを交互に見渡していた。

 ちょっとキッチンを離れてインター何とかしてたら、この有り様。

 もし揚げ物なんかに手を出してたら、このマンションごと丸焼けになってた可能性すらあった。それに比べれば万倍はマシなんだと言えるかも知れないけど、慣れないことなんて、ホントにするもんじゃないわ……

 って、呆然としてる場合じゃない!と思い直すあたし。

 今の時刻は午後七時四五分。

 あのオッサンが仕事から帰ってくる前に、この焦げ臭さと湯気に占領されてるキッチンを何とか片付けなくちゃ!

 で、今夜はハムエッグに千切りキャベツ添えたのとインスタント味噌汁、ゆで卵のサラダみたいな、あたしでも作れるメニューで誤魔化しちゃおう。あ、これだと卵が被るか……じゃあサラダはトマトサラダに……あれっ、それでもトマトってあったっけ?買いに行くにしても、あたし近所のお店なんか知らないし。

 まず味噌汁まみれのガスレンジを拭こうとして布巾を取り上げた手が、はたと止まっていたことにそこで気づいた。

 いやいや、メニュー練り直す前にまず片付けだって!

 あー、それでもやりながら代わりの晩ごはんを考えておかなきゃ、まず間に合いっこないし!

 とにかく、片付けながら同時進行で準備を進めようと決めた。

 あたしは急いでキッチン台にまで散った味噌汁の飛沫を拭うと、シンクに置きっぱなしにしてたまな板を水ですすいでからセットした。急いで包丁も洗ってからまな板の上に置き、冷蔵庫からキャベツを出す。

 拍子に、包丁の柄が腕に引っ掛かって落ちた。

 だん、と床で鋭くも変な音が立つ。

「ぎゃあ!」

 同時に飛び退いたあたしは、一瞬前まで足があった位置に包丁が突き立っている光景を見た。

 き、危機一髪ってまさにこういうこと?

 自分の爪先が全部無事なことを確かめてほっと胸を撫で下ろしたとき、玄関の方で鍵を外し、ドアが開く音がした。

 わ、わわわわわわ!マズい!

「ただい……ん?」

 玄関ドアの方まで漂っていた異臭に気づいたのか、訝ったオッサンの挨拶が中断される。直後、慌ただしく靴を脱いで廊下を走ってくる音が接近してきた。

「どーした!」

 リビングに通じるドアから、スーツ姿のオッサンが駆け込んだ。

 あたしのいるカウンターキッチンは、リビングに入ってすぐの位置。当然、キッチンの惨状は即刻オッサンの目に晒されることになる。

 キッチンを覗くなり、目を見開いて固まるオッサン。

 あちゃー、よりによって最悪のタイミングに……

 そりゃ、ガスレンジには茶色い汁が溢れてフライパンには炭化した豚のソテー肉、開けっぱなしになってた電子レンジには限界までカスカスになった南瓜、っていう地獄絵巻だもんね……挙げ句、床に包丁が突き刺さったままだし。これで驚かない方がおかしいよ……

 ましてあたしが料理上手だった、ってんなら尚更。

 綺麗に片付いてたキッチンをこんなにしちゃって申し訳ないやら、恥ずかしいやらで、穴があったら入りたい気分だった。マジで。

 口を半開きにして本気で魂が抜けかけてるオッサンの顔を見上げて、あたしは率直に言った。

「その、ちょっと……失敗しちゃったの。ごめんなさい!」

 ちょっとどころの失敗じゃなねーよ!と心の中で自分にツッコミを入れてから、あたしはその分だけ深く頭を下げた。

「す……すぐ片付けて、何か簡単なもの作るから。それ、それなら失敗しないから!」

「あー……」

 あたしが噛みながら側にあった雑巾を手に取ると、宙をさ迷っていたオッサンの目の焦点が合った。

 続けて落ちかけていた眼鏡を無意識に直してキッチンの中を見渡し、すかさずあたしの方を振り返る。

 怒られる、と反射的に身を竦ませたあたしにかけられたのは、意外な言葉だった。

「いいよいいよ。俺が片付けるから。んで、今日はもう外食だ」

「……え?怒んないの?」

「失敗は誰だってするもんだろ。ましてや今の君は高校生なんだし」

 オッサンの口調は、あくまで穏やかだ。

 うちのお父さんは、あたしが何か失敗するとまず怒鳴るのに。お兄ちゃんすら、大きい声を出すことはなくても最初はやっぱり怒る。それが普通じゃないの?

 意外さに動くことを忘れてるあたしをよそに、オッサンは慎重に床の包丁を抜いて刃物立てにしまっていた。そしてジャケットを脱いでソファーに放り投げると、さっさとシンクの下の引き出しから新しい雑巾を出して、キッチン台を拭き始める。

 ……雑巾のストック場所、あたしは知らなかったんだけどな。オッサンはちゃんと把握してるんだ。

 それにオッサン、妙に手際がいい。力を入れてキッチン台を拭くと、こびりつきかけてた汚れもあっさりと落ちてくし。

 それが終わると、次に電子レンジの中の干からびた南瓜を生ゴミ用のゴミ箱に捨てて、焦げついたフライパンを取り上げた。

 ワイシャツにネクタイも外さないまま、まずは炭と化した豚肉を剥がしにかかってる。これには意外と手間取ると思ったのか、オッサンは薄いストライプが入ったワイシャツの腕を捲り上げた。

 その腕は白かったけれど、これまでの印象と違って不思議と逞しい感じ。あ、それに手も身長がある分だけ大きいんだ。

 この手でずっと、あたしを助けてきてくれたのかな……今みたいに。

 オッサンはあたしがぼんやり思ってるうちに炭の肉二枚分を剥がすと、今度はフライパン本体をシンクに入れて水を張り始めた。

 これなら、こっちから何も言うことなんてないみたい。

 少なくとも、あたしよりオッサンの方がずっと家事をやり慣れてるみたいだし。

 それだけ、結婚したあたしを手伝っていてくれてたってことなんだろう。

 うちのお父さんは、全然家事なんてやってなかったのに。だからオッサンのこんな姿は何だかすごく新鮮で、そして頼もしく見える。

 あ、あれ?

 ってことは、オッサンは世間的に言う「家のことを大切にするいいダンナさん」ってこと?

 一歩引いた位置から見てはっとしたあたしは、もう一つの重大なことに気がついた。

 オッサンは全く美形でもないし、あたしを自分だけの収入で養えるほど稼いでないみたいだし、リビングにアニメのやつっぽいフィギュアも飾るオタクだ。

 けど、あたしは……こっちの時間に来てから、何でこんなのと結婚しちゃったの?とか、結婚後のあたしってどんだけ不幸なんだ!って思ったことは一度もない。

 つまりあたしの結婚は失敗してない、むしろ成功って……

 ……いや。いやいやいや!

 オッサンは、あたしが本当に望んでた相手じゃなかったかも知れないんだし!

 こんな状態、やっぱ納得できないから!

 あたしは俯いてフローリングの床を見つめるばかりになってたけど、キッチンを忙しく片付けるオッサンは何も気がついてないみたい。

 何だかいたたまれなくなって、あたしは一言残してからキッチンから出ていった。

「……あたし、洗濯物干してくる」

「ああ、頼むよ」

 律儀に応えたオッサンを尻目に、あたしは悶々とした気持ちを抱えたままでバスルームへ向かう。洗濯機はバスルームにパウダールームの隅にあって、そろそろ脱水まで終わってる頃。

「あぁー!」

 だったんだけど、あたしは洗濯機の蓋を開けるなり絶望の声を上げる羽目になった。

「今度はどうしたんだ?」

 オッサンがあたしの呻きを聞きつけ、濡れた手のままでパウダールームにやって来る。

 洗濯機の中をあたしの後ろからひょいと覗くと、オッサンもあたしと同じくあちゃー、と顔に書きたくなる表情になった。

「これぇ……洗う前は、こんな色じゃなかったのに」

 脱力して、あたしは呟いた。

 洗濯機の中には、オッサンが金曜日に放り込んでいただろう白いワイシャツ。それと、あたしの赤いTシャツやこれまた白いバスタオルが何枚か。

 それが、一面のピンクになっていた。一緒に洗ったあたしの真っ赤なTシャツが強烈に色落ちして、他の白い布をまだらのピンクに染め上げちゃってた。

 そう言やこの赤いシャツって、お母さんがアメリカに行った時にお土産で貰ったやつだっけ……これまでに何度洗っても色落ちし続けてから、特に気をつけなきゃならなかったのに。アメリカ産の衣類って、生産工程が結構テキトーだから。

 スイッチを入れる前に一度中を改めなかったあたしのミス。それは、疑いようがなかった。

「あちゃー、色が出ちゃったのか……こりゃあ、もうどうしようもないな」

「これって、仕事でも着るやつなんだよね……?」

 溜め息をついて、オッサンがまだ湿ってるワイシャツを取り上げる。

 ピンクのむら染めになったワイシャツが外じゃ着られないことぐらい、女子高生のあたしだって判別はついた。それほどにまで酷かったんだよね。

 ああ、料理で失敗しちゃった分をちょっとでも挽回できるかと思ったのに……完全に裏目に出ちゃった。

 肩が重くなってがっくりと落ちるのが、自分でもわかるくらい。

 でも、ずーんと落ち込んだあたしをどん底から引っ張り上げたのは、またしてもオッサンの意外な一言だった。

「うーん……ワイシャツならまだ予備があるしさ。気にしなくていいから」

「え?」

「今週一週間分くらいは着回せるし。大丈夫だよ」

 今一度、あたしは赤いセルフレームの眼鏡の下にある目をしばたかせてた。

 直接の被害被ってるのはオッサンなのに、どうして怒んないわけ?

 それに、あたしまだ謝ってもないし!

 もしかして、お前みたいなガキの謝罪なんざ要らん!ってことなの?

 そう考えた途端、まだらのワイシャツを広げて眺めるオッサンの横顔が憎たらしく思えてくる。あたしのことまともに見ようともせず、ガキだからバカにしてるのかって。

 あたしはまだ濡れてるワイシャツをオッサンの手から強引に引ったくり、側の洗剤置き場になってる棚を漁り出した。

「それじゃ、あたしの気が済まないもん!漂白とかしてみる」

「いや、もういいからさ。安物のシャツだし、もっと取り返しがつかなくなるかも知れないから」

 そうしたら、オッサンがあたしが握ってるシャツの片袖を掴んで取り返そうとする。

 ってか、今『もっと取り返しがつかなくなる』って聞こえたんですけど?

 ムッカー!

「何?あたしが家事下手ってこと?バカにしないでよ、あたしだってそれぐらいできるんだから!」

 意地でもこのワイシャツは綺麗にして見せるんだから!と言わんばかりに、あたしはワイシャツの本体を引っ張り返した。

「んなこと言ってないよ。それにこれ、もうそろそろ捨てようかと思ってた奴だし……」

「いいから貸してって」

「良くないって。漂白剤は危ないから!」

 女子高生に負けじと、オッサンはワイシャツの袖を離さない。

 漂白剤が混ぜるな危険、ってことぐらいあたしだって知ってる。

 そこまで無知なアホじゃないわ!

 余計にムカついて、あたしは更に力を込めてピンクのシャツ本体を引き寄せた。

「ほらやっぱり、あたしはできないって思ってるじゃん!」

「思ってないよ!」

 狭いパウダールームに響く、二人分の怒鳴り声。

 こうなったらもう、どっちが負けるかだった。

 絶対にワイシャツは綺麗にすると譲らないあたしに、そんなの無理だってことにしたいオッサン。

 やる前から諦めるなんて間違えているというポリシーのあたしに、引くつもりなんてないんだからね!だからオッサンが諦めて、大人しくシャツを渡してよ!

 あたしが思いきりワイシャツを引きながら、口に出そうとした瞬間のことだった。

 ブチッ、というかビリッ、というか。

 とにかく濁音の入った音を立てて、引っ張り合っていたワイシャツが破けた。

「あー!」

 これまた同時に、あたしたちは声を上げる。

 慌ててお互いが手にしてるワイシャツ、もといワイシャツだった布を広げてみると……袖は肩のところからの縫い目から裂けていて、完全にちぎれた状態になっていた。もう、袖とワイシャツ本体が完全に別のパーツになっちゃってる感じ。

 オッサンは唖然としてあたしと自分とを見比べると、こんなマンガみたいなことって本当にあるんだ……と目で語りつつ呟いた。

「もう、縫って何とかするってレベルじゃないな……」

「ご、ごめんなさい!」

 またも物理的な損害を出したあたしは、反射的に謝って頭を下げた。

 ……今度は、オッサンは何も言わない。

 恐る恐る視線を上げてみると、呆れたような、黒髪眼鏡で情けないようなそんな表情が目に入ってくる。重たい息をついて、オッサンはあたしが差し出した袖の部分を受け取った。

「嫁だったらこれぐらいほいほい直してたかも、だけどな」

 キッチンにごみ袋を取りにいくついでにこぼした一言が、胸に刺さる。

 何それ、あたしに対する嫌みのつもり?

 喉元まで出かかっちゃったけど……それを何とかぐっと飲み込んで、あたしはオッサンの背を見送った。

 あたしがろくに知らないままで家事したせいで、シャツ一枚ダメにしちゃったのは事実。文句の一つも言われたって仕方ない。オッサンの態度に対してこっちが暴言返したりしたら、まさしく逆ギレってもんなんだから。

 そっか。あたしが元の奥さんだったら、袖が取れたシャツくらい難なく直してたってことか……

 そんなデキた奥さんなんだもん。そりゃあ、戻ってきて欲しいって切実に思うよね。フツーは。

 オッサンに返す言葉もなかったあたしは、もう一度ごめんなさいと小さく言ってから寝室に引っ込んだ。

 ベッドの上にぺたんと座ると、途端に身体がだるくなってくる。

 嫁嫁言ってるオッサンに見直してもらういい機会だったのに、大失敗しちゃうなんて……ホントダメだ、あたし。

 はぁ、とついただけのつもりでいた溜め息が、思ったよりも長い。

 意外とキツいダメージが来ちゃってるみたい……何か、この部屋から出るのも気が進まないし。今日はもうこのまま食事しないで寝ちゃおうかな。

 と思ったんだけど、オッサンが近所のファミレスに行こうって誘ってくれた。

「そのまま寝るのは良くないよ。お腹が空いてると、多分ちゃんと寝られないだろうしね」

 う……よくわかってんじゃん、オッサン。

 あたしは誘われるままに行ったファミレスで、スパイシーアラビアータ?っていうパスタのディナーセットをぺろっと平らげてしまった。ううっ、やっぱお腹空いてたから、余計に暗いこと考えちゃってたってことなの?

 気持ちとは裏腹に、食欲がある自分が恨めしくなる。ために、あんまり話さずデザートのミニチョコサンデーを食べるあたしに、オッサンは笑ってこう言ってくれてた。

「あ、さっきもう一度謝ってくれてたのは聞こえてたからさ。もう気にしなくていいよ、本当に」

 特に嫌味とか全くそんなつもりはなさそうで、純粋にあたしに負担をかけるまいとする気持ちの表れ。それが、どっちかって言うと鈍いあたしにもわかるくらいの、優しい言葉だったなぁ……

 コイツ、何カッコつけてんだか。

 奥さんのことが恋しいくせに、無理しちゃってさ。

 別に、失敗したあたしのことなんか放っといていいのに。いっそ怒鳴られた方が、あたしの気持ち的に楽だった気がするよ。

 ファミレスから家へ戻って、日付が変わる頃にベッドに入ってからも、胸のモヤモヤは晴れなかった。

 あーあ。

 今のあたしって、一体何なんだろ。

 少なくとも、あのオッサンが結婚したいと思うような人間じゃないよね。まだ一七年しか生きてないんだし、元の奥さんとは倍以上歳が違うんだし。

 でも外見が同じなんだから、実はオッサンの方があたしよりも辛いのかも知れない。

 ……だったら。だったら、あたしも自分の立場に甘えずに何かしなくちゃいけないと思う。

 あたしは他人に一方的に迷惑かけて平然としてられるほど、腐った人間じゃないんだから。世話焼いてもらってる分だけ、借りを返さなきゃ気が済まない。

 だけど、とあたしは寝心地のいいベッドの上で寝返りを打った。

 あたしは一体何ができるの?

 超能力者でもなければ家事の一つも満足にできない、今の世の中のこともろくに知らないあたしにできることなんて、何がある?

 また失敗して、さっきみたいに奥さんと比べられて、キツい一言もらうだけなんじゃ?

 それだったら、最初から何もしない方が……とも思えてくる。

 考えがまとまらない中で、暗闇に置かれた目覚まし時計が時を刻む音が嫌に耳についた。

 たまらずあたしは上半身を起こし、枕元の間接照明をつけた。サイドテーブルの上にあるアンティーク調の時計が示す時刻は、午前一時十五分。

 ココアとか、何か温かいものを飲めば落ち着けるかなぁ。この奥さんならお酒、ってまず思うところなんだろうけど、生憎あたしは口にしたこともないアルコールなんて飲む気にはなれないし。

 この寝室は、あたし一人が使ってる。オッサンは、リビングの隣にある和室に移したソファーがベッド代わりだ。この時間だと、流石にもう寝てるだろう。

 寝室のドアをそっと開けて真っ暗な廊下に出た……つもりだったけど、リビングにはまだ煌々と明かりがついていて、こっちまで光が漏れてきていた。

 思わず小走りにリビングまで行ってみると……パソコンデスクの前に、眠そうなオッサンが陣取ってた。白木の雑然としたデスクの上では、飲みかけのブラックコーヒーが湯気を立ててる。

「あれ、まだ寝てないの?」

 オッサンがあたしの顔を見るなり、驚いた顔をして眼鏡を上げた。

 ……それはあたしの台詞なんだっての。

 言い返したかったけど、あたしは咄嗟に生意気な口を叩き返すことが、何故かできなくなっていた。

「うん、まあね……そっちこそ、明日仕事なのにまだいいの?」

「いや、まあ、ちょっと調べものをね」

 今度はオッサンがばつが悪そうな感じで口ごもると、モニターに向き直った。

 その後ろから、頭越しに液晶ディスプレイ?って、薄いモニターを覗き込んでみる。

 そこに出てたのは、文字ばっか。よく見てみると、「俺が異世界に足を踏み入れた時のことを……」とか、「お前ら、ドッペルゲンガーを見かけたらどうする?」とか、オカルトっぽい見出しがずらっと並んでるのがわかった。しかも全部誰かが書いた小説とかじゃなくて、何人もの人が同じ話題について文字で話してる感じみたい。

 オッサンが画面を送りながら流し読みしてるのを目で追いつつ、あたしは口を開いた。

「これ何?色んな人の体験談か何か?」

「誰でも自由に投稿できる掲示板を集めた場所が、ネット上にあるんだよ。そういうところにヒントが転がってないかと思って」

「ひょっとして、私が元に戻るための?」

「うん。君だって、早く戻りたいんだろ?俺も奥さんに早く帰ってきて欲しいからさ」

 オッサンの最後の一言に、あたしはまたしても神経を逆撫でされることになった。

 そりゃ、あたしだって早く帰りたいと思ってる。

 それでも、邪魔者は早くいなくなれ、みたいに言わなくたっていいじゃん!

 流石に怒りが込み上げてきて、自分の眉がつり上がったのがわかったくらい。

「早くしないと、君もせっかく勉強したことが無駄になっちゃうかもわからないんだし」

「え?」

「試験勉強してたんだろ?高校の英語とか、数学とか、これの履歴にあったからさ」

 怒鳴ってやろうと思ったのに、オッサンはものすごく絶妙なタイミングで言ってきた。

 ……何さ、卑怯者。

 そんなこと言われたら、喉元まで出てた文句も言えなくなっちゃうよ。あたしのこともちゃんと心配してくれてるんだっていう安心が、ムカつきを上回っちゃうじゃない。

 だからオッサンには、声を押さえたあたしが神妙に呟いたようにしか聞こえなかったんだと思う。

「そういうの、わかるんだ」

「君は家事もしてくれたんだし、慣れないことして疲れたんだろ?俺はもうちょっと調べてから寝るからさ。先に寝てなよ」

 オッサンが真剣に色々な見出しを追っかけながら言ってきたことに、あたしは耳を疑った。

 え。

 家事してくれた、って何?

 むしろ失敗しかしてなくて、何かやったうちには全く入らないのに!

 ……だってのにさ。

 オッサンが示したのは、本当の感謝から来る気持ちだってことが伝わってきた。結果はどうあれ頑張ったんだし、失敗してもそれを補おうとして努力したんだから、次からは気をつけてくれればいい。

 言葉に出さなくても、不思議とそういう思いがちゃんと感じられる。

 あたしの燻ってた怒りの感情は行き場をなくして、だけどそれをすぐに消すこともできず、あたしは無言でオッサンの後ろに佇む結果になった。

 あたしがすぐに寝ようとしないことを、オッサンは不審に思ったんだろう。軽く振り向いて、心配げに声をかけてくる。

「どしたん?」

 オッサンの無精髭が生えかかった顔は、やっぱりハンサムでも何でもない。そこらにいる、フツーの中年男だ。

 それでも、あたしのことを気にかけてくれてるのは間違いない。

 この時間の中でたった一人、あたしの姿を知ってる人。

 そんな人に、恩を返さずにいるのはやっぱ癪だ。とりあえずは……

「あ、あの……今日は、失敗ばっかりして……ごめんなさい」

「いいって。逆にそんなに謝られたら、俺の方が申し訳なくなってくるよ」

 素直に謝っとこう、と行動に移したら、オッサンは却って恐縮。

 それじゃあ意味ないじゃん!ちょっとは、あたしの気持ちも受け入れるようにしてよ!ってーか、絶対受け入れさせてやるんだから。そのためには、まず見返してやんないと!

 変に意地を張りたくなったあたしは、顔を上げて続けた。

「明日からもっと、もーっと家事とか頑張るようにするから」

 今度は、オッサンも微笑んで頷いてくれた。

 よし。これなら今日は安心して寝られそう、かな。

 次の機会になる朝食では、絶対に失敗なんかしないんだからね!

 そうと決まれば、今日はもう寝なきゃ。

「お休みなさい。あ、それと……」

「まだ何かあった?」

 もうひとつだけ思うところがあったあたしは寝室に向かう足を止めたけど、いざ言おうとするとうまく言えない。

 ああもう、最初にあんなみっともないところ晒してるクセに、あたしは今更何を照れてるんだってーの!

「あの、あんまり無理しちゃ駄目なんだからね!」

 結局最後の方は、乱暴に言い捨てるみたいになっちゃった……

 オッサンがびっくりした顔してた気がするけど、きっと気のせい。うん、そう!

 ついでにベッドに横になったとき、目覚まし時計に男の幽霊の恨めしそうな顔が映り込んでたのも、絶対にあたしの勘違い!そうに決まってる!

 だってその証拠に、目覚ましを絶対見ないように背中向けて寝たらすぐ意識がなくなったし。気がついたら朝だったしね!

 それが証拠に、今朝はすごくすっきり目が覚めてたんだから。しかも時間を見たらまだ午前五時台で、オッサンが寝てる時間。キッチンでこっそり料理するのは大変だったけど、おかげでじっくりやることができたんだよね。

 一時間はかけた朝食のメニューは、得意のハムエッグと生野菜のサラダにオレンジを絞った生ジュース。それにトーストと、ちゃんとホットミルクで淹れたカフェオレ。これをちゃんと食卓に並べてからオッサンを起こしてみたんだ。

 そしたらちゃんと料理できてることにオッサンはびっくりして、全部平らげてから会社に行ってくれたよ。まあ、オレンジジュースはちょっと砂糖入れすぎたり、ハムエッグがところどころ焦げてて会心の出来だとは言えなかったけどね。お菓子類以外を作ったのが久しぶりだった割には、ちゃんと作れてたと思う。

 にしても気になるのは、オッサンがよく遠い目をしてぼんやりすること。

 今朝も食べながらそうなってた。

 ……奥さんのことが気になるんだよね、やっぱ。

 今更だけど、あたしも奥さんの気持ちがちょっとだけわかってきた。自分のことを大切にしてくれる人が側にいて、その人と気持ち良く暮らすために何かをするって……意外と楽しい。相手が喜ぶ顔を見れば嬉しくなるしね。だからきっと、未来のあたしは幸せな結婚をしたんだなって思う。

 相手が平凡なオッサンだ、ってことはあるけどさ。

 でも、そう考えると切ない。

 だってあたしは、オッサンの知ってる奥さんじゃないんだし。

 おまけに変な幽霊まで出てくるし。

 それにオッサンは……あたしのこと見てくれない。変な話、オッサンはあたしの中に元の奥さんだけを求めてて、今のあたし自身を認めてくれてるわけじゃない。

 一応、今のあたしは元の奥さんの一部みたいなもんなのにね。

 やっぱそういうのって寂しいし、悲しい。

 こんなんで、大丈夫なのかな……

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