夫の非公開ブログ -8-
やっと、と言っていい苦労をして辿り着いたランジェリーショップは、既に大勢の女性で賑わっていた。結構な広さの店内に会計の行列ができているのが、外からでもわかるほどの混みっぷり。お客さんは、中学生とおぼしき制服姿の女の子や、四十代くらいに見える白髪混じりのキャリアウーマンまで様々。
ヨーロッパ風の洒落た装飾が窓やドア、壁紙なんかの至るところに見られ、店の前に来ただけでふわりとしたいい香りがするこのショップは、嫁の独身時代からのお気に入りだった。
「うわー、可愛い。それにいい匂いするし、すごい大きなお店」
ただし女子高時代の嫁はまだここを知らなかったらしく、店を覗いてから呟いた次の瞬間には、もう期待に顔を輝かせていた。
服選びも母親任せだった女子高生嫁は、恐らく下着についてもそうだったんだろう。
親が選んでくる下着なんざ、ババくさくて可愛さの欠片もなかったであろうことは、まあわかる。だから目の前の店が、レースやフリル、リボンとパステルカラーでいっぱいの宝の山に見えるらしいってこともまあ、わかる。
……しかし、こっちを振り向いた嫁が向けてきた軽蔑の視線は解せなかった。
「でも、何でオッサンがこんなとこ知ってるわけ」
「そりゃ、嫁はいつもここで買ってたから。店の場所ぐらい自然に覚えるって」
「ふーん……」
そんなことまでするんだあ。ホント、奥さんとラブラブだったんだねぇー(全て棒)
と言わんばかりに、女子高生嫁がジト目になってくる。
「んじゃ、買ってくるから」
「え?あ、ああ」
しかしそうかと思うと、一言言い残してあっさりとこっちへ背を向けてしまう。
俺は店の中に消えていく嫁の背を見送りながら、上ずった返事を返すだけだったが……待てよ。下着って確か、ブラひとつ四、五千円前後とかするんじゃなかったっけ。凝ったデザインのやつほど高かったよな。
この店は純粋に女性客相手だから、スケスケやら穴開きやらあんまり過激なのはない。けど、嫁が好きそうな可愛いのは、俺が下ろしてきて渡した一万円程度じゃ満足に買えないかも知れない。
確かこういう非常事態に備えて、嫁のクレジットカードも持って来て……あった!
俺は財布から嫁のカードを出し、嫁の姿を求めてランジェリーショップへと入っていった。
当然、中にいる女性客の目が一斉にこっちを向いた……が、それも数秒の間だけだ。彼女たちはまた、目の前の小さな布切れに神経を戻して、俺になんか注意を向けなくなってくる。
俺がもっと臭くてヨレヨレの服で変質者然としてて、ゲヘゲヘとキモい笑いを浮かべながら下着を漁ってたら通報されたかも知れない。逆に俺は小綺麗な身なりでナチュラルに入ってきたから、誰かの家族だと思われてるんだろう。
やっぱ、見た目って大事なのな。
いや、俺が今着てる服は、全部嫁が選んで買ってくれたんだけどな……
そういや首回りがダルダルに伸び切ったTシャツやら、毛玉だらけになってるチェックのネルシャツみたいな「制服」は、結婚してすぐの頃に有無を言わさず捨てられたっけ。
『また、こんなダサいの着て!次の週末に、新しいの買いに行くよ。だからもう捨てるからね。いいよね?』
有無を言わさない迫力で俺に迫る嫁の笑顔が、今もまだ忘れられない。
自分の稼いだ給料の範囲でお洒落を楽しんでいた嫁は、俺が如何にもオタクって感じの伝統ファッションでいるのが、どうしても我慢できなかったらしかった。毎年セールの時期になると、家計からやりくりした余剰金や誕生日のプレゼントと称して、アウトレットモールなんかで一緒に服を選んでくれたっけなあ……
で、そういう時にはついでに嫁も自分の下着をよく買ってた。
ここもよく来てた店の一つで、わざと俺好みのやつを持って来ては意地悪く言ったもんだ。
『ねぇねぇ、これ可愛くない?こういうの好きだよね?』
ニヤニヤ笑って嫁が見せてくるのは、あんまりエロくなくて布とレースやリボンの色が違うのがアクセントになったような、清楚系可愛い感じのやつ。嫁は下着だけじゃなく、服も俺好みのお嬢様っぽいのを突きつけては反応を楽しむ、なんて遊びをよくしてたっけ。
でも、俺はそういうのが楽しかったんだよな。
ちょっとした悪戯をされて困った顔をするのも、一緒に雑貨を選んでお気に入りを買うことも、安い旬の食材を見つけて夕食のメニューを話し合うことも。
だってそんな日常って、嫁がいなければ全て経験できなかったことだから。
日々の暮らしに小さな幸せを見つけて、共に分かち合うこと。
派手さがなくても、綺麗なことじゃなくても、二人で穏やかに、安らいだ場所にいられるってだけで良かった。いつか死ぬまで一緒に生活していけるってことに意味があって、それを守るためお互いに責任は持たなきゃという意識もあった。
女子高生嫁はそんなことわかれ、と言っても急にはとても無理な話だろう。
だからやっぱり、早く元通りにしなきゃならないんだ。
……と、白やピンクのリボンやレースの海に紛れてシリアスに考えるのはどう見てもおかしいシチュエーションの中、俺は目指す後ろ姿を見つけ出していた。
嫁はワゴンに山盛りにされた二枚千円のパンツの中から一枚を摘まみ出し、唸っている。
「うーん……」
どうやら真剣に悩んでいるらしい嫁が手にしてるのは、グレーで飾りっ気の欠片もないめちゃくちゃ地味なやつだった。
おいおい、十代の女の子ってもっと可愛いの選ぶもんだろ。少なくとも嫁は、リボンの一つもついてないのなんて持っちゃいなかったぞ。
第一、あれじゃ俺も萌えな……おっと。
俺は近寄ったデニムジャケットの細い肩に、軽く触れて言った。
「そんな地味なのじゃなくて、もっと可愛いのにすれば?」
「わあっ!」
周囲のことなんか完璧に忘れていたっぽい嫁が、小さく叫んで五センチくらいぴょこんと飛び上がる。
「な……ななな何で、オッサンが店の中まで入ってくるの!」
「いや、今まではこういうのも一緒に見てたし」
で、俺の姿を認めるなり文句を垂れるが、俺の動じなさに却って動揺を煽られたようだった。
「だ、だってここは!……その……」
よく見ると耳まで真っ赤になった嫁が右手に握りしめてるのは、まだあくまで売り物であるグレーのパンツ……
そこに気づいた嫁が、慌てて背中にモノごと手を後ろに回した。
しかしここはランジェリーショップなんだから、隠してみたところでさして意味はない気がするんだが。
「いいから外で待っててよ!もう、信じらんない!」
次の瞬間には、嫁の空いた左手で背をぐいぐい押される俺。それでもまだ嫁が囁き声でいるのは、こんなところで目立ちたくない!と強烈に思っているせいなのだろう。
いや、まさかここまで恥ずかしがるとは思わなんだ。
当初の目的も果たせずに送り出し攻撃を喰らった俺は、急いで嫁のカードを目の前に翳して早口で言い訳した、じゃなくて説得を試みた。
「わかった、わかったからさ。もしお金が足りなくなったら、この君のカードを使いなよ。それだけ伝えようと思って来たんだって。あ、使い方わかるよな?会計の時にそれ出して、カードで一括払いって言えばいいから。それにさ、折角買うんだからもっと可愛いげのあるやつに……」
って、ああ……最後の一言は余計だったと、言ってから気づいた。
何故ならちらりと見えた嫁の顔がこれ以上ないくらい、林檎のほっぺなんてもんじゃなく、熟しすぎたトマト並みに紅潮してるのがわかったからだ。
「わかったから、早く出てってってば!」
嫁の羞恥の叫びは声がヒソヒソであろうとも、もーイヤ!って意思表示をひしひしと感じさせる。もしこれで普通に叫んでたら、さぞかし盛大な喧嘩に見えただろうな……
何てつまらんことを考えていた俺は、万引き防止のゲート外にぺいっと押し出されてしまった。
そこから待つこと数十分。
一向に嫁は店のゲートをくぐってくる気配がない。
「遅いなぁ……」
ランジェリーショップの入口が見える位置に立ってスマホをいじっていた俺も、流石に待ちくたびれて意識しない呟きがこぼれた。ゲームは好きだがスマホでのソシャゲは一切やらないオッサンの俺は、それそろ足も疲れてきたぞ。
帰りに運転するのは俺でマニュアル車だから意外と足も使うし、これも疲労がたまるんだよな。この後どっかでお茶でもするか……座っての休憩は必須だよな。
「お待たせ」
俺が近隣のカフェを検索しようかと思い立った時、ようやく嫁が戻ってきた。
が、下着だけを買ったにしては結構な量だ。でかい紙袋二つ分って、一体上下揃いのやつが幾つあるんだ?
俺は目をしばたかせてから、素直な感想を口にした。
「ん?随分買ったんだね」
「し、仕方ないでしょ!最低限、一週間はローテーションさせなきゃなんないんだから!それにその、すごく可愛いのもいっぱいあったし、前と胸のサイズが違うみたいだったから試着だって……」
嫁はそっぽを向いて、ごにょごにょと続けている。
ああ、妙に時間がかかってたのは試着してたせいか。
もし可愛いやつばっかり選んでたんだとしたら、試着の時はさぞかし嬉しかったろうなあ。淡いピンクやらブルーやら、ちょいセクシーな感じの黒とか。それでも、上品さがあるデザインを選ぶのが俺の嫁のセンスだ。決して色気だけに偏ったものは選んではおるまい。
嫁が楽しそうに試着する様子を浮かべると、俺も和む。嫁が笑顔でいてくれると、俺も嬉しくなる……
んだが、それ態度に出てやらしくゲヘゲヘ笑ってるようにでも見えたのか?
「……そんで、今日買った下着つけてるとこ見せろとか言うんでしょ?」
と、帰宅して晩に寝る支度をするなり、嫁からイキナリ言われることになった。
「え、えええ?いや、全然そういう雰囲気じゃないじゃんか。言わないよ」
「嘘!変なことするつもりでいるくせに」
全くそんなつもりはなかった俺は、まさしく虚を突かれていた。嫁の発言に本当に驚いて否定したにもかかわらず、全く信じてもらえていないらしい。
嫁はお風呂を済ませてから昨日と同じパジャマを着てるんだけど、リビングにいる今でさえ俺からは距離を取っているのがわかる。まるで変態男を見るような目つきで俺を睨んでくるのが、地味に辛いんだが……
どうやら女子高生嫁の頭の中は、「夫婦=夜は毎日えっち」という図式が出来上がっているらしい。
確かに俺たちが新婚の頃はそうだったけど、十年も経てば関係が落ち着くのと、歳のせい……いや、精神的な繋がりにウェイトが出てくるせいで、最近は極端にハァハァするってことがない。
「そんなつもりないってば!第一、今の君じゃ……」
それでも嫁の警戒を解きたくて、俺の反論は続く。
そりゃ、買いたての可愛いランジェリー姿を見せてくれるに越したことはないんだけどさ。無理矢理そうするつもりなんて、俺にはゼロなんだ。
いや、そういうプレイもアリっちゃアリなんだけど、何より大切なのは本人の意思なんだから。とにかく、嫁にそのつもりがない限り俺だってするつもりがない。
「信用できない!あっちのソファーで寝てよ!」
と言おうとしたら、リビングのソファーをびしっ!と指されて一喝。
僅かに後ずさった嫁はもう一度俺に一瞥をくれ、くるりと踵を返して寝室へと向かっていく。
「……わかったよ」
溜め息混じりにこぼして、俺は何故かずっしりと重みが増した肩を落とした。
昨日変なものが見えた時は無我夢中で抱きついてきたってのに、今日はこんな状態だってのがキツい。ありゃ、所謂「吊り橋効果」って奴だったのか?
そこまで信用されてないと、凹むわ。
廊下にあるクローゼットから来客用の枕と布団を出す俺は、無意識のうちにまた溜め息をついていたようだった。ううっ、随分と使ってなかった布団の埃っぽさが身にしみる。
それでも俺は、布団をリビングに運ぶ前に寝室へと向かって挨拶を送らずにはいられなかった。
「お休み」
ちょっと待ってみたが、何も聞こえてこない。
既にドアが閉ざされた寝室の中からの返事は、なかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます