夫の非公開ブログ -7-

「ふう……」

 それでも、一人で二人分の家事を全部こなすのはやっぱり大変だった。

 洗濯物をベランダに干し終わり、ソファーに座った俺が軽く溜め息をつくと、ダイニングの椅子に座っている女子高生嫁が呆れたような口調になっていた。

「今日日曜日なんでしょ、休まなくってもいいの?」

「仕方ないよ。週末に色々やっとかないと、平日の夜はお互いやる暇なんてないんだから」

 嫁の認識としては、男は家事なんてしないのが普通なんじゃないの?というのがあるのだろう。実際俺の実家でも母親は専業主婦だったから、若き日の俺もそう思ってたし。

 が、夫婦共働きが当たり前の今の世の中じゃ、家事をしない旦那というのは産業廃棄物に等しい扱いを受けるのが普通という流れだ。時代は変わるんだよな、やっぱり。

 勿論自分の考えも昔とは変わって、嫁さんにばっかり負担を強いるそんな風潮は、所詮過去の遺物なんだというのが現在の俺だ。

 ただし俺が大変なのは、家事量が倍だからなんだけど……

 と、そんなことも言えないチキンな俺。ああ、家事をちゃんとやってくれてた嫁のありがたさが身に沁みるわぁ~

 早く元に戻ってくんないかな、マジで。

 声に出さないぼやきを心に抱きつつ、俺は今腰を下ろしたばっかりのソファーからもう立ち上がった。今干した洗濯物と入れ替えで、取り込んだ衣類を片付けなきゃならないからだ。

 今度はフローリングの床に座って、山盛りになっている洗濯物に手を伸ばす俺を眺めながら嫁が訊いてきた。

「あたしも、仕事忙しいの?」

「うん、結構なバリキャリだからね」

 俺が自分のアンダーシャツや嫁の夏物カットソーなんかを取り上げて畳んでいくのを、やっぱり嫁は眺めているだけ。幸いちゃんとした畳み方は嫁に仕込まれたから、文句つけられることもないだろう。

「バリキャリ?」

「バリバリのキャリアウーマン、ってこと」

「ふうん……」

 その時だった。

 聞き慣れない単語を聞き返してきた嫁が、椅子を蹴るようにして突然立ち上がったのは!

「って、ちょっと!何で、そんなの畳んでるわけ!」

「何でって、洗濯物は片付けなきゃなんないだけ……だけど」

 ビビって固まる俺が持ってたのは……嫁のパンツ。

 しかも、レースとか小さいリボンが前とかサイドについた、凝ったデザインのやつ。

 白いパンツを手にした俺を睨み、ドスドス床を踏み鳴らして歩いてきた嫁の目は……怒りで血走ってて怖ぇ!

「それ、あたしのってことじゃない!返してよ!」

 そして有無を言わさず、俺の手から小さなパンツを引ったくる。

 いや、洗濯物は大概二人で一緒に片付けてたから、たかがパンツなんて俺は何とも思わないんだが……そりゃ流石に、ブラを頭に乗っけたりしたときは怒られたけどさ。

 しかし嫁は洗濯物の山に向かうと、物凄い勢いで女物と男物とを選り分け始めていた。女物の中に、俺のタンクトップがたまに間違って紛れ込むのは愛嬌か。

「これくらいはいつも……いや、何でもない」

 その必死な嫁に、今一度言葉を飲み込む小心者な俺。

「それじゃ、自分の分は片付けてくれな」

 小声でそれだけ伝えてみようとしたが、頬を赤くして黙々作業する嫁には聞こえているかどうかも怪しい。

 ううむ。やっぱ、女子高生メンタルではオッサンが自分の女のパンツを片付けてるって図は我慢ならないもんなんだろうか。今の嫁の中の人は複雑な年頃なんだから、それぐらい察してやらにゃならんのだろうな。

 もし俺たちに娘ができたとして、将来こんなやり取りをすることになるのかも知れんし。

 とは思ってみるものの、実際にそう思われてる現実を目の前に晒されるのは、やっぱりちょっとショックなわけで……

 複雑な思いをいだく俺をよそに、洗濯物の山を完全に二つに分けた嫁は達成感に満ちた顔で頷いたが、その中からさっきの白いパンツをつまみ上げた手をふと止めた。

「これ……あたしのだけど、ちょっと使う気にはなれないかも……」

「でもそれは間違いなく君のだし、つい昨日洗濯機に入ってた」

「他人のパンツなんて、気持ち悪くて穿けるわけないじゃん!それにこんなの、あたしの趣味じゃない!」

 少女趣味全開というか、フリフリのパンツをじっと見ていた目を上げた嫁が猛然と反論してくる。

 だがそんなこと言われても、嫁の下着や服は基本家にあるもんなんだし。何せここは、俺たちの家なんだぞ?

「んなこと言ったって、ここにあるのは全部君が結婚してから自分で買った奴なんだから。しょうがないじゃんか……」

 今にも自分のパンツを床に叩きつけんばかりになってる嫁を、俺は宥めるしかなかった。

 じゃあ今穿いてるのは何なんだと突っ込みたくなったが……キレられそうだから、危ない橋を渡るのは止めとこう。

 にしても、結婚してから自分で買ってた下着を趣味じゃない、と言い切ったのが意外だった。嫁は可愛いものが好きで、見えないところも気を使うタイプだと思ってたのに。

 そう俺が逡巡してる間に、当の嫁はパンツを洗濯物の山に投げてから、思い当たったようにこぼした。

「ねえ……あたし、お金持ってるんだよね?」

「そりゃあ、普通に働いてるわけだから。貯金もしてたみたいだし、それなりにはあるだろうね」

 唐突に口走ったことをフォローすると、そこで口をつぐんで視線を外した嫁。

 数秒の間を置いてから再び嫁はばっと顔を上げ、迫力のある口調で訊いてきた。

「あたしの銀行口座の暗証番号って、知ってる?」

「一応は」

 何で俺が嫁の口座の番号を知ってるのかって言ったら、非常事態に本人の代わりに処理できるようにするためなんだけどさ。

 よろしい、とばかりに頷いて、嫁は短く言った。

「後で、買い物行くから」

「え、突然どうしたんだよ?何買うの?」

/ またイキナリな決意表明に俺が驚くと、嫁は真っ赤になって俯いた。

「……」

「何?」

 嫁が今までの威勢はどこへやら、ごにょごにょと呟いたもんだから全く聞こえない。

 俺が思わず聞き返すと、嫁はへの字に結ばせた顔を徐にこっちへ向けた。

 そして、耳まで赤くして叫んだ。

「だからぁ……パンツ!買いに行くの!」





 嫁を連れて出かけたのは新宿。

 いつもなら俺が運転して車で行くところだけど、電車がいいと主張する嫁に従った次第だ。幸い新宿は二人とも通勤定期の範囲内だから、余計な交通費はかからなくて済むし、途中で乗り換えなきゃならないこともない。

 俺は白のポロシャツにチノパンという、この世代のオッサンなら普通のカッコなんだが……嫁も派手なロゴの入ったTシャツにジーンズ、羽織りものとしてデニムジャケットでスニーカっていう、何だかなぁなスタイル。勿論、メイクもしないドすっぴん。

 雑誌とかの記事でよく見るステレオタイプの女子高生は、制服でいる時もメイクばっちりという感じだけど、嫁はどうも違うようだった。電車の中でそれとなく聞いてみても、

「メイク?するわけないじゃん。うちの学校って厳しいもん。スカートの長さ変えたり、ピアスなんかつけてたりしたら、一発で呼び出しだよ。根性のある子は、授業中に耳たぶに消ゴム当てながら画鋲で穴開けたりしてるみたいだけど」

 ってことだからな。やる奴はやる、やらない奴はやらない、ってとこか。

 彼氏もいる子はいるけど、女子高では彼氏なんか要らん、女同士で遊ぶ方がいい!って方が圧倒的多数らしいし。それに嫁の学校は進学校だから、勉強で忙しくてファッションになんぞ興味が湧かない、とも言ってたな。

 だからお洒落に興味が出たのも、社会人になってからだったんだろう。

 しかし……今までなら休日に出掛けるときは、デニムジャケットを着るにしても下は可愛いワンピにパンプスとか、コーディネートそのものを考えるのが楽しいって感じだったのに。それに、ウキウキしてお洒落する嫁を見るのは俺も楽しかったんだよな。

 その片鱗が唯一見えるのが、今嫁がつけてるピアス。

 確か穴開けたのはもう五年くらい前の話だけど、何もしないまま放置してたら塞がるらしかったから、出かける前に俺が話をして適当なのをつけておくように言ったんだ。そしたら嫁はぱーっと目を輝かせて、溢れんばかりの笑顔になってた。

「え、あたしピアスの穴開けてたんだー。おぉ、やるじゃん未来のあたし!」

 何て呟きながら嬉々としてアクセサリーボックスを漁ること、十分くらいか。ようやくお気に入りとして見つけたピアスはピンクゴールドとダイヤの小粒なやつで、嫁が一番よくつけてるやつだった。

 しかもそれは、俺が誕生日プレゼントで何年か前に渡したやつ。

 女子高生嫁はファッションには無頓着でも、好みのベースはやっぱり今の嫁に繋がってるんだなぁと思うと、切ない気持ちになってくる。だって俺が好きなのは、あくまで俺と十年間一緒に過ごしてきた嫁なんだよ……嫁、ピアスはつけても結婚指輪はつけてくれないし。

 本当は嫁がはぐれないように手を引いて歩きたいんだけどさ、今のままじゃ手を繋ごうとしても、拒否られるのがオチだよな。

 と、新宿地下街の雑踏をつかず離れずの距離を保って歩く俺たちは普通の夫婦に見える……と思いたかったが、実際はそうじゃないと思わざるを得なかった。

 落ち着かなげに周囲をきょろきょろ見回す嫁は、いい歳をした大人ならば決して吐かないであろう台詞を口にした。

「ふーん……人間の生活って、あんまりそれ自体が変わってないんだね。私がいた頃より二十年も未来って感じがあんまりしないや。まあ、さっき改札入るときに使ったカードにはびっくりしたけど」

 しかも声が無駄にデカイ。

 それに何だ、この「私は違う世界から間違えて転生してきちゃったの、だから今この世の中のことを必死に勉強してるんだ!馴染むまではちょっと的外れなことしちゃうけど、それくらいは大目に見てね!テヘペロ★」的な、厨二感に満ち満ちた発言内容は!

 いや、今の嫁が違う時間から来たってことは事実だから、素直な感想であることは間違いないんだけど。二十年ほど前の電車の自動改札は、裏が黒い切符でしか通れなかったわけなんだし。

 それでも、そんなのは俺以外の一般人から見れば単に頭が不自由な人、としか見えないだろう。

「わ、ち、ちょっと!そういうことあんまり大きな声で……」

「うわー、何あれ?」

「ってオイ!人の話を!」

 これ以上、厨二病をこじらせた発言は控えてもらわねば!と注意しようとした俺の横をすり抜けて、嫁は走っていってしまった。

 慌てて後を追おうとしても嫁のフットワークは軽く、人と人との間を器用にぬって目的地を目指している。好奇心に引っ張られた故の行動だけに、隣にいた俺のことなんて全くお構いなしだ。

 言うことを全く聞かない反抗期の子供を追っかけ回す父親って、多分こういう気分なんだろう。

 すいませんと繰り返しつつ、人ごみをかき分けてやっとのことで追いつくと、嫁は地下街特有の太い柱に嵌め込んであるディスプレイに釘付けになっていた。最近一般的になってきた、薄型液晶タイプの広告だ。

「すごいなあ。こんなとこにテレビつけちゃうんだ。それにこれ、まるで写真が動いてるみたい!」

 目まぐるしく表示が変わるディスプレイを眺める嫁の瞳はキラキラしてて、ホントに未知の物体に触れたお子様そのものだった。俺にとってはもう珍しくも何ともない代物だけど、女子高生嫁には生まれて初めて見た未来の最先端技術なんだから、興奮するのも当たり前と言えばそうかも知れない。

 狭い地下通路で立ち止まって往来を妨げてるから、周囲の人の目は冷たいけどな!

「これは広告用の液晶ディスプレイだよ。ここ最近、紙の広告は減ってきてるんだ」

「へえ、すごい。高そうだし、すっごく綺麗だね!」

 俺は苦笑しながら説明して、さりげなく嫁を邪魔にならないところへ誘導した。にもかかわらず嫁の視線はまだ広告へ向いたままで、口調もテンションが高い。

『ねえねえ、さっきニュースで言ってたんだけどさ……!』

 と、タイムリープ前の嫁が興奮気味に言い出してくる時の様子が思い出される。

 そう言えば嫁は科学技術にも高い関心を持ってて、ガンの最新治療法だとか、犯罪捜査に新しい分野の解析技術が適用されたとか、専門外のことにもやたら詳しかったっけ。そういう科学オタクっぽい傾向は、十代の頃からあったってことか。割とガチなオカルトマニアなのに科学の分野にも詳しいって、なんか大いなる矛盾がある気はするけど……

 ふと、無邪気な笑顔でいる目の前の女子高生嫁と、元の嫁の姿が重なったような気がした。

 ずきんと、胸の奥が痛みを訴えてくる。

 嫁は物理的にはすぐ側いるけど、俺と一緒に十年という時間を暮らしてきた嫁は今、一体どこで何をしているんだろう?そもそも、同じ世界に存在するとは断言できないんじゃ?

 そのことを考えると、言い知れぬ恐怖が黒い霧となって目の前を覆ってしまうかのような感覚に襲われる。身体の中がすーっと冷たくなっていくのが掴めるほどだ。

 早く……早く、嫁を元通りにしたい。

 俺の表情にも、きっとその不安な気持ちは出ていただろう。

 けれど目の前の女子高生嫁はそのことに気づかずに、今度は傍らにあるドリンクの自動販売機に心を奪われているようだった。

「この自販機も、よく見るとホンモノが入ってるわけじゃないんだ……液晶って、時計の文字盤からここまで進化するんだね……」

 本物そっくりの缶やペットボトルの映像を映し出している液晶パネルをしげしげと見つめる嫁は、それ以外のことが全く眼中にないらしい。当然、俺の顔なんかチラ見すらしてないし。

 以前なら、俺の様子がおかしいことを敏感に空気で察するくらいだったのになあ……

「あれ、缶コーヒーが一本一二〇円?これすごく高くない?この缶も随分小さいし」

 そこで初めて、嫁はこっちを振り向いた。

 純粋な好奇心に支配されているその顔には、当然のことながら悪びれる様子も、わざとらしさも欠片すら見当たらない。

 子どもらしさすら伺える様子に一瞬で毒気を抜かれた俺は、もう一度苦笑するしかなかった。

「そりゃあ物価だって、二十年も経てば変わるよ。税金の制度が何度も変わってるしね」

「へぇー。へー……」

 しきりに頷いていた嫁が、また自販機の見慣れないらしい一点をガン見する。

「それはカードのセンサー。さっき電車に乗ったときに使ったカードをそこに当てると、そこからお金が支払われてものが買えるんだ」

「カードをここに当てるだけ?すごい、SFみたい!」

 まだ興奮冷めやらぬ嫁は、声を高くしてはしゃぎっぱなしだ。やっぱり、現役女子高生は意識せずにデカイ声で喋るのがお約束らしく、それに驚いた人たちがチラチラとこっちを見てくる。

 何だこの女?ハッ、こんなのも知らないってどんなド田舎から出てきたんだよ。

 っつー、無言の蔑みが視線になって一斉に俺らに向かって来てるのが、チクチクと肌に感じられるくらいだ。

 流石にいたたまれなくなり、俺はまだ動こうとしない嫁に言った。

「そういうのは家の近所にもあるからさ、そろそろ行くよ」

「えー、何か買わせてよ!いいじゃん、あたしのお金なんだから」

「後で、後で!ほら、もう行くよ!」

 あと二千円分くらいはチャージしてある定期をセンサーにくっつける寸前の嫁から離れつつ、俺の後につくよう促す。

「ち、ちょっと待ってよ。あたし一人置いてかないで!」

 途端に嫁は困り顔になり、慌てて定期をしまうと小走りについてきた。来たことはあっても自分の記憶とは違い、あまり詳しくもない場所で置き去りにされる怖さはやっぱり大きいのだろう。

 それからの嫁は周囲の珍しいものに時折視線を走らせながらも、俺から離れようとはしなくなった。

 純粋な心配から、俺が手をつなぐチャンスをずっと窺ってたのは秘密だけどな……

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