夫の非公開ブログ -6-

 今日は日曜日で安息日。

 魂の休日の筈、だったのに……ドタバタしてて、ちっとも休んだ気がしなかった。

 明日から俺は普通に仕事だけど、嫁はこんな状態じゃとてもそうはいかない。嫁は最先端の技術を扱うシステムエンジニア故、記憶が二十年以上昔じゃあ務まるわけもなし。それに就業経験が全くないんだから、仕事場まで行ったとしても、何もできずにパニクるだろうことは目に見えてる。

 嫁の有給は確かまだ十日くらい残ってるって前に言ってたから、それをフルに使ったとしても、仕事を休めるのは二週間程度が限度か。

 その間に、何とかしなきゃならない。

 もしそれ以上長引くなら、最悪嫁は仕事を辞めることになるかなあ……

 でもそしたら、嫁は専業主婦くらいしかやれないだろう。そうなれば、五十歳くらいまでの共働きを前提にして組んだこのマンションのローンも払えなくなるし、日々の生活ももっと切り詰めなきゃならないことになる。

 いや、でも、今の嫁に倹約なんてできるのか?

 遊びたい盛りの十代の女の子のメンタリティで?

 あああ……考えなきゃならないことが山積みで、頭がパンクしそうになる!一体、どれから手をつければいいのやら。

「優先順位決めて、考えよ?」

 ふとその時、タイムリープ前の嫁の声が聞こえた気がしてはっとした。

 そう言や、嫁は仕事でいつもそうやってるからって、目の前にあるタスクを紙に書き出したり、パソコンのメモにまとめたりしてから考えてたっけ。

 よし、俺もやってみるか。

 朝から意気消沈しそうになったところに活を入れ、気持ちも新たにキーボードを叩こうとした時に、寝ぼけた嫁の声がした。

「……はよぉ……」

「おはよ」

 反射的に、俺は短く挨拶を返す。

 この時、時刻は午前十時半過ぎ。

 嫁は足をフローリングの床に引きずりながら起き出してきていた。けだるそうに起き抜けの目をこすりながら、軽く息をついてダイニングの椅子にかける。

 位置としてはパソコンに向かう俺の後ろになるので、振り返って様子を見てみた。ちょっと寝癖がついた長い髪はいつも通りだけど、ものすごく眠たげな顔だ。

 あんなことがあったんだもんなぁ。そりゃ、よく寝られるわけがない。

 それにしても、ゆうべは何で鏡の中に俺の親父なんかが見えたんだ?あれって、将来の結婚相手が見えるっておまじないのはずなんだよな?

 絶対、何かがおかしい。

 同じことを考えていたらしい嫁も、ぼそりとこぼした。

「何で、あんなのが見えたんだろ……」

「……何でだろうなぁ」

 全く見当もつかない俺は、そう答える他ない。

 嫁が胡散臭そうな視線をこちらに向けてきた気配がする。そのジト目が俺の顔まで達すると、俺は蛇に睨まれたカエルみたいに固まってしまった。

「オッサンさ、親父って言ってたよね?」

「え?そ、そ……そうだっけ?」

 咄嗟にごまかそうとして、別にごまかす必要もなかったことにすぐ気づく。

 それで言うべきことを飲み込んでしまい、パニックを起こしかける俺。

 どんだけ動揺してんだ!我ながら、情けない……

 嫁は明らかにキョドる俺を冷静に見つめながら、質問を続けてきた。

「オッサンのお父さん、結婚に反対してたわけ?故人なの?」

「いや、とんでもない!って、親父は確かにもう死んではいるけど。息子みたいなのと結婚してくれる人がいるなんて、これでもう思い残すことはないって……俺らの式の時、泣いて喜んでくれてたんだよ。心残りと言えば、孫を見せられなかったってことぐらいで」

 慌てて弁解の言葉を並べるが、嫁はまだ疑ってるようだった。

 俺の親父は、七年前に病死していた。

 その後を追うように、お袋も五年前に逝った。

 一人っ子の俺には事実上の家族が嫁しかいないわけなんだが、その嫁に親父がケチをつけるなんてとても思えなかったんだ。

 死ぬ直前にも、息子のことをくれぐれもよろしく頼むと繰り返してたんだよな……何より俺の両親と嫁との仲も悪くなくて、実の娘のように思ってくれてたんだし。

 まあそれも、両親が俺たちの生活に殆ど干渉せず、年に一回か二回しか会わないようにしてたせいもあるのかも知れないけど。

 とにかく、親父が化けて出てくるような原因はなかった筈なんだ。

 少なくとも、俺が知る範囲内では。

「じゃあ何で?」

「それは……死んだ人間とは話なんてできないし、わからないけど」

 だから問い詰められても、俺にははっきりした答えを示すことなんてできない。

 だけれど、調べる必要はあるだろう……親父の魂が嫁のお呪いを手がかりとして現世に戻ってきたんだとしたら、必ず未練がどこかにあるってことなんだから。

 そのための手段は……ああ、これも嫁がまともなら、建設的な意見を出してくれるとこなんだけどなあ。

 と、頭をぼりぼり掻いて考えてる俺に、嫁の呑気な声が届いた。

「……ねぇ」

「何?」

「お腹すいた」

 ……予想外の言葉に、パソコンの前で椅子から転げ落ちそうになる俺。

 さっきまで深刻に悩んでる感じだったのに、この切り替えの早さは何だ。

 これが若さってヤツなのか!

 普段の嫁なら自分から動いて、キッチンをごそごそ探ってから朝食の準備にかかってくれてたんだけど。女子高時代の嫁は全部親任せだったらしく、自分で作るっていう発想に至らないんだろう。

 おい!飯は、普通嫁が用意するもんだろ!

 なんて亭主関白を気取るつもりは全くない俺は、やれやれと思いつつも普通に立ち上がっていた。

 第一今の嫁じゃ、キッチンのどこに何があるのかもわからないだろうしなぁ。

「ああ……じゃあ、朝ごはんにしようか」

「へー、オッサン料理できるんだ。うちのお父さん、台所に立ってるところなんか見たことなかったけど」

 冷蔵庫からソーセージや牛乳を取り出す俺の姿を、嫁がカウンター越しにしげしげと眺めてくる。

 どうも俺が食事の支度をするのが心配、という感じじゃなく、何が出てくるのか期待と好奇心で目を輝かせてるような印象だ。

「ところで、何ができるの?」

 わくわくが抑えられないのか、食器や食材を並べる俺の手元から目を離さずに嫁が訊いてくる。

 メニューはいつもの休日と同じでホットドッグに高級ヨーグルト、それから果物とカフェオレに小さな菓子パン。

 正直手を加えなきゃならないものは殆どないんだが、それでも嫁は物珍しげに見つめ続けてくる。身近で料理人でも何でもない男がキッチンに立つのが、余程新鮮なんだろう。

 でも、これから平日まで家事を俺に任せっきり、というのは無理な話だ。

 ちょっとでも家のことを覚えてもらおうと、俺はなるべく下出に言ってみた。

「すぐできるから、ちょっと待ってな……あの、できたらコーヒー淹れる準備してくれるとありがたいんだけど」

「ヤカン、どこにあるの?」

 嫁の質問に、ドッグパンにパン切りナイフで切り込みを入れようとしてた俺の手は止まってしまった。

 ヤカンとは……何とも懐かしい響き。

 やっぱ知識は昭和のままか、嫁よ。

 まだカウンターの向こうからキッチン内をきょろきょろ見回している嫁に、俺は傍らの電気ポットを指差して見せた。

「うちにケトルはないよ。ポットの水を替えて、スイッチ入れといて」

「はあい」

 意外と素直に従ってくれた嫁がカウンターに置かれたポットを取り上げて、キッチンに回り込んでくる。ポットは昨日の昼、カップラーメン作る時に使ってたみたいだし、お湯を沸かすだけならそうそう失敗もしないはず……だろう。

 俺はその間に手早くドッグパンにソーセージを挟み、ヨーグルトを盛って、グレープフルーツをくし形に切っていった。

 そして十分程度の後にはダイニングに皿が並び、ホットドックの焼けるいい香りが漂ってくる。俺がトースターからこんがりとしたホットドックをモーニングプレートに取り出すと、嫁はやっぱり素直に自分の分を受け取った。

 で、俺が自分のプレートを持って振り向くと、嫁はもう熱々のホットドックを両手で持ってもっきゅもっきゅと食べ始めてる。

 ……そういう小動物みたいなしぐさは前と一緒なんだけど、今まではちゃんと俺のことを待っててくれたのになぁ、という一抹の寂しさが心を横切った。

 が、俺の心境なんぞ知らない嫁は悪びれもせずに言った。

「簡単な食事なのに、意外と時間かかるね」

「嫁だったら、この半分くらいで準備しちゃってたんだけどな……」

 そう、とにかく嫁は手際が半端なく良かったんだ。自分の家のキッチンは牙城とばかりにものの場所は完璧に把握して、料理しながら同時進行で片付けをこなせるマルチタスク脳だったし。

 はあ、と溜め息をついた俺を、女子高生嫁がじろじろ眺めてくる。

「ふーん。あたし、料理得意な奥さんなの?」

「ああ。和洋中、お菓子だって、何でもレシピさえあれば作れるって感じだよ。特に麻婆豆腐は絶品で、俺の大好物だったんだよなあ」

「へえ……」

 赤いセルフレームの奥にある瞳が、プレートの上にある食べかけのホットドックと俺の顔とを行ったり来たりしているようだった。

 ふーん奥さんの評価ってそんなに高いんだへー(棒)。

 って、まるで娘から言われてるようで、何とも居心地が悪い……

 俺としては本人を誉めてるのに、人格がほぼ他人でまして記憶もないなわけだから、単なる嫁自慢としか聞こえないんだろうけど。

 女子高生嫁はカフェオレを一口飲んでから、何故か半分睨むような目付きで俺をじろりと見た。

「奥さんのこと、そんなに好きなの?」

「そ……そりゃあもちろん!頭のてっぺんから爪先まで、性格だって大好きだよ」

「へえ、言い切れるんだ」

「何か、おかしい?」

「別に……」

 カフェオレのカップをつまみ上げ、嫁がぷいと視線を逸らせる。その先には初夏の光に溢れるリビングがあり、黒い瞳はその全体を落ち着かなげに眺めているようだった。

 インテリアはお互いの家から独身時代のを持ち込んで使い続けてるのもあるけど、八割は嫁と選んだ思い出の品ばかりだ。

 しかし流行りの北欧家具中心にしたお洒落な、夫婦お気に入りの空間も、今の嫁には他所の家のものでしかないんだよな……きっと。

「でも、それなら早く元に戻る方法を見つけなきゃね。あたしだって、ここは知らない世界も同然なんだし。友達とかにも会いたいもん」

 その俺の胸の裡を見透かしたかのように、嫁がそっぽを向いたままぽつりと呟いた。

 だが、その一言が俺を勇気づけてくれた。

 多分こういうのは本人の意思が一番大切なんだろうから、何よりも女子高生の嫁が戻りたいと真剣に願わなければどうしようもないはずなんだし。

 俺だって、早く元の嫁にまた会いたいし!

「そうだよな!俺、協力するから。何でも言ってくれよ」

 恐らく俺は、輝かんばかりの笑顔になっていたんだと思う。

 嫁は俺の弾んだ声にちょっと驚いたのか、一瞬びっくり顔で振り返ってからカップをダイニングの上に置いた。

「何か思い出したり、思いついたりしたらね」

 嫁の声が何だか悲しげに聞こえたのは、俺の気のせいだと思うことにした。

 よし、朝飯が終わったら早速ネット中心にして調査してみよう!

 ……とは思ったものの、今日は連休でも何でもないただの週末、日曜日なわけで。いつもは嫁と二人で平日にできてない分の家事を片付けてたから、今日だってまずそっちをやらなきゃならない。どんどん散らかっていく家で生活するなんて、ストレスがたまる一方だし。

 けど、俺がシンクに積んだ食器を洗い、フローリングの床に放置されてたバッグとかを片付けて掃除機をかける間も、嫁はただこっちを見てるだけだった。

 やっぱ、これが「普通の」女子高生クオリティなのか……

 母親が専業主婦だから、手伝いもあんまりしないって感じの。

 正直、自分から何もしようとしない女子高生嫁にイラッとはきた。いつもの嫁は、俺が食器洗いしてる間に洗濯物の片付け、掃除機をかけてる間にシーツや枕カバーの交換、って感じだったから余計に。

 ちょっとは手伝ってくれよ!と女子高生嫁への小言が喉まで出かけたが、そこを俺はぐっと堪えた。

 下手に片付けを頼んで、嫁と暗黙の了解で決めたような皿の置場所とか、衣類の収納場所が変わるのも困るわけだし。

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