夫の非公開ブログ -5- & 嫁の夢日記
それから嫁に説明を受けて、「お呪い」の決行は丑三つ時、つまり午前二時と決まった。
と言うよりも、その時間にしかできないやつみたいなんだけど。具体的には、時間ちょうどに櫛を口にくわえて洗面所とかの鏡を覗くっていう、簡単なものらしい。
なるほど。確かにちょっと気分を変えるのに軽い気持ちでやってみようかって思うよな、そりゃ。
嫁がその時使ったのは、母方の祖母から貰った柘植の櫛だって話だ。確かに嫁は結婚する時にそんな櫛を持ってきてて、つい最近も大切に使ってたのを覚えてる。
俺がその櫛を嫁のヘアケア用品がまとめてあるバスケットを漁って渡すと、今の嫁も確かに同じものだと呟いてた。
でもそれが、本当に時間を超えて来てしまったんだって実感を強めたようで、嫁のテンションはだだ下がりだった。時間になるまで嫁は殆ど寝室にいて、俺が時々様子を見に行っても、ぼんやりと座ってるだけだったし。
Twitterや各種SNS、調べものなんかで手放すことのなかったスマホすら、充電器に繋ぎっぱなし。これは使い方も知らないだろうから、考えてみれば当然だけどさ……
夕食に俺がありあわせで卵とハムのチャーハンを作って出しても、半分も食べようとしない。
そうかと思うと、午前一時半を回った頃にパソコンの前に座っている俺のところまで来て、いきなり話しかけてきたりもした。
「ねえ、何してんの?」
「このインターネット?って、仕組みはどうなってんの?」
「これで調べれば、何でもわかるの?」
「じゃあ、これまでに起こった事件とかをこれで調べてから元に戻れば、あたし預言者になれるじゃん!」
「タイムスリップは実在するんだって、あたし発表しちゃうかも!」
みたいに、無駄に高いテンションで喋る喋る。
でも、内心は不安でいっぱいなんだろうから、適当に相槌を打って付き合うことにしてた。タイムリープ前の嫁って不安なときは大概そうだったし、多分若い頃から変わってない癖なんだろう。
ところが、儀式開始の十分前になると、嫁のお喋りはぴたっと止んだ。
パソコンに向かう俺からちょっと離れたところにあるダイニングテーブルで、使うつもりの櫛を見つめたり、弄ったり、壁の電波時計を頻繁に確認したり。とにかくその落ち着きのなさときたら、俺までもが煽られてるような気分だった。
そしていざ時刻が午前一時五十八分を回ると、嫁がガタッと音を立てて立ち上がった。
「んじゃ、やるね」
俺にもう一つの櫛を渡してきた嫁の言い方は軽くても、表情の緊張感は隠せていない。
あんまり肩に力が入りすぎてても良くないだろうから、俺は敢えて普通の口調で返した。
「いいけどさ、こんなやっすい櫛でいいのかよ?」
「し……仕方ないでしょ。こんな立派な櫛、あたしだってこれしか持ってないんだもん」
嫁が渡してきたのは、それこそ百均で買ってきたようなプラスチック製の安っぽい櫛だ。こんなんで本当に「魔術」に分類されるようなことが可能なんだろうかと、おかしな疑いすら湧いてくる。
でもこういうのには嫁の方が遥かに詳しいだろうから、ここは従っておくべきなんだろう。こういうのは、何よりも信じてやるってのが一番大切なんだって話だったし。
なので、それ以上は突っ込まずに口に櫛の細い柄をくわえた。嫁も続いて柘植の櫛を形のいい、ふっくらとした唇で挟む。
嫁は黙って頷くと、着いて来いと手を振って示してきた。
深夜二時、櫛を口にして洗面所に向かうルームウェア姿の二人の男女。
傍目から見れば、さぞや滑稽だろう。
けれども俺たち二人にとって、この先の人生を左右しかねない重要なイベントだ。お互いに口許を緩めるような余裕などどこにも持たず、白熱灯の暖かい光に照らされた廊下を一歩一歩、慎重に進んでいく。距離にしてみれば、リビングから洗面所まで二十歩もない。なのに、やたら遠く感じてしまう。
開けっぱなしになっている洗面所の入口まで辿り着くと、先を行っていた嫁がこっちを振り返った。
眼鏡の奥の見慣れた黒い瞳に、迷いと恐れの光がちらついている。
俺はそんな嫁を勇気づけるつもりで、できるだけ力強く頷いて見せた。つもりだったが、口に櫛をくわえたスゥエット姿のオッサンが役立ったかどうか、甚だ疑問だが。
それで覚悟を決めたのだろう。嫁は大きく足を踏み出して、一気に洗面所に据え付けられた鏡の前へと歩み寄った。無論、俺も後に続く。
二人の前に開けた大きな鏡の中に見えたのは……
何も映っていない、真っ暗な空間だった。
ん?
んんん??
俺は思わず振り返り、背後を自分の目で確認した。すぐ後ろはマンションの白いボード壁で、これまでもが見えないなんてことはあり得ないはずなのに。これが心霊現象……もとい、超常現象って奴なのか!
ある意味、俺はおかしな感動まで覚えてしまう。
「あ……」
そこで、鏡をひたすら見つめていたらしい嫁が一言漏らし、柘植の櫛が落ちて転がる乾いた音が響いた。
何か起きたのか!と慌てて振り返ろうとしたところへ、嫁が俺の腹目掛け力一杯タックルかまして……いや、抱きついてきた。
「うぉわあああ!」
突然のことに情けない叫びを上げ、ふらつく情けない俺。
けれども、俺の腰にがっちりと腕を巻きつけてる嫁はそれどころの話じゃなかった。茶色の長い髪に包まれた顔は真っ青で、目が哀れなほどに見開かれている。息もものすごく乱れてるし、細っこい身体全体が酷く震えているのも伝わってきていた。
かわいそうに、声を出すこともできないらしい。
ここまで恐怖を露にしてる嫁は、結婚してからも見たことがなかった。
一体何があったってんだ?
俺はまだ縋りついてくる嫁の背中にそっと手を回しながら、恐る恐る鏡の方へ視線を向けた。
途端、このマンションを買った時から備えつけてある大きな鏡がばっと目に入ってくる。
裏側には収納があり、周囲が数箇所の明かりで照らされる光景はちょっとしたホテルみたいで、俺たち夫婦がお気に入りの鏡。
その、今は真っ黒い闇しか映していない鏡の中に、ぼんやりとした人影が見えた。
一目見てわかった。
俺が確かに知っている後ろ姿だったんだ。
そして、ちらりと見えてからふっとかき消えた顔にも見覚えがあった。
びっくりした、驚愕した、なんてレベルの話じゃない。
がーんと頭を殴られたような衝撃が走り、頭の中がフラッシュを炊かれたみたいに真っ白になった。
「……親父……?」
呆然としながらも呟いていたことに、俺は後から気づく有様だった。
自分の声が深夜の静寂に残った一瞬の後には、抱き合う嫁と俺の姿だけが鏡の中に残っていた。
★嫁の夢日記★
さっき見た夢。
ぼんやりした感じの中で、女の人の声だけがどこかから聞こえてくる。
「こんなことになって、ごめんね。でも、呼んだのは多分……だから。あの人を……てあげて……と……あなたに……も、誰……も……な人だから」
声は途切れ途切れでよくわからない。
どうするって?
あの人って、誰?
言いたいんだけど、何故か声が出せない。
「ごめん、詳しくは言え……でも、あなた……きっと大丈夫……は、もう始まってるんだよ……」
そこで目が覚めた。
怖い感じではなかった。
声は何となくだけど、自分に似てた気がする。
五月×日午前三時十分。
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