2.Snow

 こんこん、と、控えめなノックが響いた。


天香てんか姉、起きてる?」


 おそるおそる訊ねる佑里ゆりに、起きてるよ、と掠れた声で応じた。

 そろりと、明かりのついていないあたしの部屋をのぞき込んでくる佑里は、あたしと目を合わせて、気まずそうに逸らした。


「パスタ、作ったんだけど。お昼に。……食べる?」

「んー……」

「昨日、天香姉、なんも食べてないでしょ。体壊すよ」


 入り口傍のスイッチを探り当てて、ぱちり。暖かい色のシーリングライトが緩やかに点灯する。


「ほら、気分転換しようよ! 部屋の空気も変えてさ。あたし、今から友達とショッピング行くんだけど、天香姉も一緒に行ってもいいしさ」

 気を遣って、明るく接してくれる佑里は、あたしにはもったいないくらい、出来た妹だと思う。


 一昨日、クリスマス・イヴ。あたしは一つ年下の男の後輩と、二人きりで出掛けていた。イヴだし、二人きりだし、あたしはもう完全に浮かれていて、これならきっとOKがもらえると、そう思ってた。

 あたしは今年短大に入学したばかりで、彼は高校生で。ちょっとオトナの余裕とか、見せつけたりして。だって、男の子って好きでしょ、ちょっとオトナな、アヤシイ余裕のある女の人って。


 でも、結果は。


「先輩の気持ちは、嬉しいんですけど。俺には、もったいないですよ。先輩には、もっと大人な人がお似合いです。俺より、素敵な人がいますよ」


 まさか断られるなんて、思ってなくて。イルミネーションの下で、幸せそうに微笑みあう恋人たちの仲間入りをするのだと思っていて。飾られたヤドリギの下で幸せなキスをするのだと思っていて。

 あたしは背伸びして貼り付けていた余裕を、思わず取り去ってしまった。


「い、いないよ。あたし、蛭子えびすくんがいいの」

「いますよ。……います、絶対。先輩みたいに綺麗で、優しくて、大人な人には、もっと、相応しい人」


 くしゃっと、困ったように、蛭子くんは笑った。


 なにも、言えなかった。


 背伸びして、素敵に見られたくて、頑張って演じた「オトナ」が、裏目に出たのだ。


 沈黙。気まずい空気も、浮き足立ったイヴの夜には埋もれてしまう。相対的には幸せな日でも、たぶんどこかに不幸せは舞い降りる。それが、たまたま、あたしだった。

 寒くなってきましたね。蛭子くんが気を利かせてくれる。帰りましょうか。

 あたしは、泣かなかった。中途半端にぶら下がったオトナの余裕が、涙を押し込めた。

 駅まで送ってくれる、その最中。あたしはワガママみたいに、蛭子くんの腕にすり寄った。迷惑だったと思う。実際、やんわりと引き剥がされてしまったし。

 けれど、手を繋いだ。それがきっと、最低ラインだった。蛭子くんが考える、あたしと蛭子くんのベストな距離感だった。

 電車に揺られて、家に帰り着いて、振られたことなんて知らない佑里が満面の笑みで出迎えてくれた。


 楽しかった?


 訊ねられたとき、はじめて、ぽろりと涙が零れた。




 佑里はあたしを気にして、しつこくショッピングに誘ってくれたけど、とても出かける元気がなくて遠慮した。メイクする気力も、服を選ぶ思考力も、人波を歩く体力も多分、ない。

 リビングに降りて、テーブルの上にあったパスタを温める。ぶつ切りニンニク入りのペペロンチーノなのは、ニンニク食べて元気出せっていう、佑里からのメッセージなのかもしれないと思うとちょっとだけ、ほっこりした。

 電子レンジの中で回るお皿を見るのも早々に飽きて、なんの気なしに、窓の外に目をやると。


「……雪」


 佑里、ちゃんと傘持っていったかな。ぼんやり考えながら窓に歩み寄る。ひんやり、冷気が肌を撫でた。大粒の雪は、一つ一つが重たそうだ。


 ふと、一昨年のことを思い出す。

 あたしと蛭子くんは、部活の先輩と後輩で。帰りの時間は当然一緒だったから、下校中、いろいろな話をした。雪の話は、よく覚えてる。


「雪って、いろんな名前があるんですよ」

「名前って……粉雪とか、みぞれとか、そういうこと?」

「そうですそうです!」


 文芸部の、特に純文学を好む蛭子くんが好きそうな話題だと思った。


「俺、一番好きなのは牡丹雪ぼたんゆきなんです」

「ぼたん雪?」

「ぼたゆき、とも言うらしいんですけど。牡丹の花びらみたいな大きな雪のことで」

「蛭子くん、牡丹が好きなの?」


 訊ねると、蛭子くんはちょっと目元を染めて、頷いた。あたしもいっぺんに、牡丹雪も牡丹も好きになった。


 けれどその年も、その翌年も、雪には恵まれなくて、結局あたしは、蛭子くんと並んで牡丹雪を見ることはなかった。


 それなのにどうして、いまさら大粒の雪が降るのだろう。


「皮肉だなあ……」


 とっくに枯れたと思っていた涙がまた一粒、溢れた。

 全部ぜんぶ、タイミングが悪かった気がする。あたしの告白も、牡丹雪の降るのも、もしかしたらあたしが生まれるのも、もう一年遅かったら、蛭子くんと同い年だったら、背伸びなんかしなかったかもしれない。


 笑った顔が好きだった。困ったみたいに眉をさげて、弱々しくふにゃりと笑う顔。あたしの告白を断った、あのときの顔は、あたしの大好きな顔だった。

 あたしが卒業してからもマメに連絡を取り合ってくれたこと。イヴに二人きりで会ってくれたこと。あたしを置いて帰らないところ。無理矢理手を振り払わないところ。あたしのことを、大事に、傷つけないようにしてくれること。全部好きだ。振られても、まだ好きになる。


「その気がないなら、イヴにデートなんてOKしないでよ」


 大粒の雪は、残念ながらあたしには牡丹の花びらには見えなかったけれど、それが地面に落ちる様に、なんとなく納得した。

 ぼた、ぼた。雪の重さで、それは舞うことなく、まっすぐ落ちる。ぼたゆき。

 蛭子くんには、この雪は牡丹に見えているのかもしれない。背伸びしたあたしなら、この雪を牡丹だって例えたかもしれない。けれど等身大のあたしは、どうやったって、ぼたゆき止まりで。

 そういうすれ違いが、ちょっとのことが、悔しくて、切なくて、でもどうしようもなくまた蛭子くんに惹かれてしまって。

 ぼた、ぼた。雪と一緒に、あたしの涙も床へ衝突していった。

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