第三章 月下の舞踏と決別

 前日は早めに眠り、誰も起きだしていない早朝に屋敷を出ようとしたラファクスは、アルエクスと鉢合わせた。

 兄の顔を見た途端顔をしかめたアルエクスは、遠慮がちに尋ねてきた。

「あの女のところに行くのか?」

「ああ。約束したからな」

「そうか……」

 それ以上、アルエクスは何も言わなかった。ラファクスはそのままアルエクスに背を向け、屋敷を後にした。


 人間界につけば、そこは夕暮れ前だった。例によって人目のつかない場所に下りて人間の姿に化けてから、白亜の屋敷に向かう。

 いつも静かな屋敷の周りが、大勢の人で溢れている。ラファクスはその活気に一瞬顔をしかめるが、気を引き締めてその人混みの中を進んだ。

 クラファイアの屋敷で開かれる舞踏会が有名だというのは、本当のことらしい。開かれていた玄関を通ると、昨日会った使用人と目が合った。丁寧に頭を下げる使用人に、ラファクスは苦笑する。

「お嬢様はあちらにいらっしゃいます」

「ありがとう」

 短く礼を言って、ラファクスは示された方へと向かう。

「ラファクス」

 声をかけられ振り返れば、正装に身を包んだテューデルがいた。

「テューデル……殿」

 呼び捨てをしそうになり、ラファクスは慌てて敬称をつけた。悪魔であるラファクスが、人間に敬意を込める意の敬称をつける慣習など持ち合わせているわけがないので、当然といえば当然である。

 テューデルはテューデルで、そんなラファクス豪快に笑い飛ばした。

「ラピュアが待っているぞ」

「来るのが、遅かったかな」

「先ほどからそわそわしっぱなしだ。迎えに行ってやってくれ」

 テューデルの言葉に、ラファクスは微笑んだ。

「頼まれて行くわけじゃない」

 そう言って、ラファクスはテューデルが指差した方へと向かう。丸いテーブルがいくつも並べられたその広間に、人混みができていた。その中心に、ラピュアがいた。

 淡い水色の輝くようなドレスに実を包み、美しく微笑むラピュアを見て、またラファクスの心臓が止まりそうになる。その足が、止まってしまった。

 滅多に姿を見せないお嬢様を一目見たいらしい大勢の着飾った者達に囲まれながらも、ラピュアの美しさは際立っていた。不躾なほどの熱意のこもった挨拶にも、笑顔で返している。

 そんな中、自分に近づく銀色の光に気づいたのか、健気に生きる美しい百合が顔を上げた。いつかのように、ことさらゆっくりと空と金の視線が交錯した。

「ラファクス様」

 花が咲くような笑みを浮かべ、ラピュアが立ち上がった。そしてその右手をラファクスに向かって差し出す。

 ラファクスに気づいた群集が、道を開けた。ラファクスは軽く一礼してから、愛しい人に歩み寄った。

「どなたでしょう?」

「見かけない方ですね」

 小声で囁かれながらも、ラファクスは背筋を伸ばしてラピュアの前に立った。そして滑らかな動きで跪くと、その手を取って口づけた。

 そのあまりにも絵になる様に、群集からため息が漏れる。

「なんて素敵な方」

「ラピュア様も、とても嬉しそう」

「どなたなのでしょう? こんなに目立つ方なのに」

 誰が、この輝くような精悍さを身に纏う若い男が、悪魔だと信じるだろうか。そして、ラファクスは口元に笑みを浮かべた。

「迎えに来た」

「遅かったですわね」

 ラピュアもそう笑い返した。ラファクスが立ち上がると、ラピュアが群集に向かう。

「こちらはラファクス様。私の、大切な方ですの」

「お初にお目にかかります」

 ラファクスが一礼をし、ラピュアがそっとラファクスの腕を取った。腕を組んで歩き出す二人を、皆がうっとりと見つめていた。

「お似合いの二人ですな」

「素敵、羨ましい」

 あちこちで囁かれる賞賛の言葉に微笑を返し、羨望の視線を浴びながら、二人は夜空を一望できる天窓の下に立った。陽はすでに落ち、月と星達が顔を出していた。

 向かい合って舞踏の姿勢を取ったとき、ラファクスが少し困ったような顔をした。

「こんな洒落たことはしないから、足を踏むかもしれない」

 そんなラファクスに、ラピュアが笑い返した。

「舞踏会に出るのは初めてだから、私の方が先に踏んでしまうかもしれないわ」

 その言葉を合図に、ラファクスがラピュアを誘導した。舞踏場に流れる柔らかな音楽に合わせて、若い二人が軽やかに舞いだした。

 それは、まるで月下の影で踊る妖精だった。そこに浮遊しているかのように、ふわりと上下する身体に、その儚げでいて眩い雰囲気――二人は舞踏場内中を魅了していった。

 特に、彼らが天窓の下に位置し、月影に照らされたときの美しさは、言葉にもできないものだった。

「素敵……」

「何が?」

 踊りながら呟いたラピュアに、ラファクスが尋ねた。ラピュアは口元に笑みを浮かべる。

「私、こんなふうに注目されたかったの」

「そうなのか?」

「本当はね、いつも注目されてるのよ。あの子は病気なんだ、って」

 少しだけ寂しそうに言ったあと、ラピュアは嬉しそうに続けた。

「だから、こういうふうに皆に羨ましがられるなんて、本当に夢みたい。ありがとう、ラファクス。全部、貴方のおかげよ」

 ラピュアの言葉に、ラファクスは目を見張った。

「俺は何もしていない」

 その時、ちょうど演奏が終わった。ラファクスが足を止め、ラピュアの礼に合わせて頭を下げる。そんな二人を湧き起こるような拍手が包んだ。

 ラピュアが本当に嬉しそうに微笑むものだから、ラファクスも知らず笑みがこぼれた。

「ラファクス、庭に行きましょう」

「ああ」

 惜しみない拍手の中、二人は大きな庭へと出た。綺麗な月に見守られながら、喧騒が届かぬ静かな場所まで歩いた。そして二人は木陰に並んで座った。

「ちょっと、疲れたわ」

 短い舞踏でも、結構な体力を使う。ラピュアはそっと息をついた。そんなラピュアの頬に触れ、ラファクスは微笑んだ。

「綺麗だった」

「本当に?」

「ああ」

 ラファクスはうなずいて、ラピュアの少し乱れた髪を直した。

「……っ」

 そのとき、あることに気づいて、ラファクスは息を呑んだ。

「どうしたの?」

 ラピュアの首にまで、痣が広がってきているのに、気づいてしまった。言葉を失ったラファクスは、思わずラピュアを抱きしめていた。

「ねえ、どうしたの」

 ラピュアの声は、笑っていた。しかしその声が震えていることに、一番近くにいるラファクスは気づいていた。

 この愛しい人は、迫り来る死の恐怖に怯えている。

「ラピュア……」

 ラファクスはそっと、ラピュアの額に口づけた。

「何、くすぐったい」

 そう言って顔を上げたラピュアは、金色の視線に捕らえられる。そして、二人はそっと口づけを交わした。真ん丸に笑う、青白い月の下で――。

「ラファクス」

 ラファクスに身を預けたラピュアが、そっと名を呼んだ。

「何だ?」

「私が死ぬまで、一緒にいてね」

 その言葉が、ラファクスの心臓を突き刺した。

「私は、永遠に貴方を愛してる」

「ラピュア」

 次の瞬間、ラファクスが感じたのは、怒りだった。

「どうして、諦めるんだ」

 ラピュアの言葉は、生きることを諦めているように受け取れたから。

「貴方も、気づいたんでしょう?」

 怒気を含んだラファクスの言葉にも怯まず、ラピュアはことさら静かに続けた。

「痣が広がってきたことに」

「っ……!」

「もうすぐ、この病は私の命を持っていくわ」

「俺が治すと言っただろう!」

 叫んだラファクスが、ラピュアの肩をつかんだ。ラピュアは一瞬顔を背ける。

「痛いよ、ラファクス」

「すまない……」

 はっとして手を離したラファクスを、ラピュアが見上げた。

「心が、痛い」

 ラピュアが、空色の瞳を歪ませる。

「私、もっと貴方と一緒にいたいのに……」

「ラピュア……」

「もっとお話をして、たまには喧嘩もして、そんな……皆が羨むような夫婦になりたいのに」

 ラピュアの瞳から零れた涙が、月の光に当てられて光った。

「貴方に愛される、世界一幸せな女の子になりたいのに……ラファクス、怖いよ」

 悲哀という言葉では言い表せないほど、ラピュアの瞳は哀しく陰っていた。そして、それはラファクスも同じだった。金色の瞳が、悲痛に歪められている。

 ラファクスだって、同じことを望んでいるのかもしれない。一生、ラピュアと二人で幸せに暮らして生きたいと、思っているのかもしれない。

 だけど、それは叶わぬことなのだ――。

「ラファクス、私、病気に殺されるのなんて嫌」

 ラピュアが、縋るようにラファクスの服を握る。その手が、震えていた。

「だから、いざとなったら……」

「信じろ、ラピュア」

 その先を、ラピュアに言わせたくなかった。聞きたくもなかったし、想像もしたくなかった。

 ラピュアが汚れていないと言ってくれた、この血塗られた手で、ラピュアの命を奪うことなど、ごめんだった。

「俺は、絶対に君の病気を治す」

 ラファクスは真っ直ぐにラピュアの瞳を見つめる。

「俺が、世界一幸せな女にしてやる。誰もが羨むような、幸せな女に。だから、俺を信じてくれ」

 ラファクスはラピュアを抱きしめた。

「俺が、絶対に君を治すから」

 ラピュアは、ラファクスの腕の中でうなずいた。そして迫りくる死に恐怖しながら、愛する男の胸を濡らした。


 それからのラファクスの毎日は、レシティカの部屋と人間界を行き来する生活で、ろくに自分の家にも帰らなかった。

 初めて会った日から、レシティカは度々アルエクスも部屋に呼ぶようになった。もしかしたら、レシティカは一人が寂しいのかもしれないとラファクスが思っていたところに、今日もアルエクスがやってきた。

「アル?」

 しかし、どうもその様子がおかしい。ラファクスは眉をひそめて弟を見た。

「ラフ、父上に知れたぞ」

 恐怖や怯えを含んだ声で、アルエクスがそう告げた。しかし言われたラファクスの方は、少しも動揺しなかった。来るべき時が来た、ただそれだけのことだったから。

「ラフ、あの女と会うのはやめろ。そうすれば父上だって……」

 説得するように言うアルエクスをさえぎり、ラファクスはため息をついた。

「ひとまず、家に帰るか。……レシティカ様」

「ああ、行っておいで」

 レシティカが指を鳴らせば、二人は宮の外に立っていた。そしてお互い何も言わずに、帰路に着いた。

 ラファクスとアルエクスがそろって屋敷に入ると、険しい顔をした彼らの父親が待ち構えていた。

「ラファクス、話がある」

「……はい、父上」

 心配そうに二人を見るアルエクスをその場に残して、二人は広間へと入った。部屋に入った瞬間、父親は般若のような面持ちで仁王立ちになった。

「最近、よからぬ噂を聞く」

 しかしラファクスは、その絶対的な瞳から目をそらさなかった。

「悪魔が、人間ごときに懸想をしていると。それも、[残酷なる血]と畏れられたかのラファクス=ドラフトスが、だ」

 父親の怒りに震えるその瞳を見ても、ラファクスは何も感じなかった。

「どうなんだ、ラファクス。それは本当のことなのか? いや、このさい事実でもいい。さっさとそんな遊びはやめて、女を喰ってしまえ」

「俺は彼女を喰いません。彼女と一緒にいると決めたんです」

 その瞬間、ラファクスは脳天を突き破るような衝撃で――それこそ、テューデルのときとは比べ物にならぬほどの勢いと破壊力で吹き飛ばされていた。身体が天井まで吹き飛び、そのまま地面に叩きつけられた。

「く……っ」

「この、愚か者……! 我らが血をなんと知ってのことだ!」

「[残酷なる血]、百も承知だ」

 身体を起こしながら、反抗的に父親を見返す息子に、父親はそれこそ怪物のように気迫で身体を膨らませながら、ラファクスに迫った。

「殺されたいのか、ラファクス。お前などいなくともな、私にはアルエクスがいるのだ。お前を殺しても、何の支障もきたさないのだぞ!」

 父親は、片手で息子の首を締め出した。その瞬間、ラファクスは牙を剥き、父親を弾き飛ばしていた。

「何が血だ! そんなもの俺には関係ない! それに俺には、[永久なる血]が流れてるんだ!」

 一瞬、父親は驚きの表情を浮かべたが、すぐに皮肉に顔を歪めた。

「なるほど、[永久なる血]か。捨て札が、偉くなったものだ。出て行け、この屋敷から! そして二度と私の前に顔を見せるな!」

「望むところだ!」

 ラファクスはそのまま屋敷を出て行った。

「父上……!」

 アルエクスが父親の元に向かうと、父親は顔を歪めて笑った。

「私にはお前がいるのだから、あんな捨て札など要らん」

 その言葉に、アルエクスはまるで自分が言われたかのような、衝撃を受けた顔をしていた。そして、アルエクスの中に込みあがってきたものは、怒りだった。

 背を向けて歩き出したアルエクスに、父親が顔をしかめる。

「呼び戻しても、許さんぞ」

「そんな理由じゃない」

 アルエクスは怒りを押し殺した声でそう告げると、屋敷を後にした。


 荒れ狂うような心のまま、ラファクスは屋敷を飛び出した足で真っ直ぐレシティカの元へと戻っていた。そんなラファクスを出迎えたレシティカが口元に笑みを浮かべる。

「どうした、お怒りのようだな」

「破門されました。どうせ視ていたんでしょう」

 ラファクスの言葉に、レシティカはくすりと笑った。

「どうも、派手な親子喧嘩に見えてならない」

 しかしラファクスはそっと微笑んだ。その顔を見て、レシティカがはっとする。

「もう、会うこともないだろうから」

「まさか……」

「ラフ!」

 レシティカの言葉を遮るように、怒りの形相に顔を歪めたアルエクスが部屋に飛び込んできた。

「なんだ」

 顔をしかめて出迎えたラファクスに、アルエクスは掴みかかった。

「なんだ、じゃない! なんだよ出ていくって! 意味がわからない! 父上にまで捨て札と呼ばれて悔しくないのか? なんで反撃しない!」

 するとラファクスが、ぞっとするような笑みを浮かべた。それにアルエクスが言葉を飲み込む。

「もう、良いんだ」

「散々だな、ラファクス。しかし間違えるな。私はお前を必要としているぞ、若き男よ」

 レシティカの言葉に、ラファクスは答えなかった。

「あの女が悪いんだ……」

 ラファクスははっとしてアルエクスを見た。牙を剥いて、憎しみに顔を歪めたアルエクスに、ラファクスは顔をしかめる。同じ顔をした弟が、こんなふうに自分のことで荒れるのは、見ていて気分の良いものではなかった。

「どうしてあの人間を食わない! あいつさえいなければこんなことにはならなかったのに……っ」

「アル。俺のことは、いいんだ。ラピュアは何も悪くない。アル、父上と母上のことは、頼んだぞ」

 ラファクスの言葉に、一瞬悔しそうに顔を歪めたアルエクスは、そのまま部屋を飛び出していった。

 レシティカはそっと微笑んだ。

「アルエクスは、君が好きなんだね」

「あいつ、いつも俺のせいで引け目に感じてたから……」

 ラファクスは少しだけ寂しげに呟いた。すると、レシティカが何かに気づいたかのように、はっと水柱を見た。

「レシティカ様?」

「ラファクス、今すぐ彼女の元へ向かえ」

「え?」

 珍しく焦ったようなレシティカの声に、ラファクスは首をかしげた。

「アルエクスが彼女を殺そうとしている!」

「っ!」

 それを聞いた瞬間、ラファクスは部屋を飛び出していった。そして、らしくもなく取り乱したレシティカは、片手で髪をかきあげた。そして、膝の上に載っている分厚い本をそっと撫でる。

「どうも、応援したくなってしまうんだよ、ミラージュ」

 そう言い訳をするように、この世にはいない者の名を呟いた。


 ラピュアは侍女が用意した薬を口にする。近頃、いつにも増して身体が重くなってきているのを感じていた。

 体調が悪くても、死が迫っていても、ラピュアが笑顔を絶やさないのはラファクスのおかげだった。そしてそろそろラファクスが来るのではないかと思い、バルコニーに出た。

 しばらくすると、月から黒い影が近づいてくるのを見つけ、ラピュアは立ち上がった。

「ラファクス! ……え?」

 声をかけてから、近づいてきた悪魔がラファクスではないことに気づく。愛する男と同じ顔をしているが、見慣れた紋様の位置が違っていた。

 悪魔は全て同じ顔をしているのだろうかと首をかしげ、反射的に後ずさったラピュア。

「お前さえいなければ……」

「きゃっ!」

 そんな彼女に、アルエクスが飛び掛った。硝子を突き破って、部屋の中に押し込まれたラピュアは、背中を床に押し付けられる。そしてラピュアに馬乗りになったアルエクスが、彼女の首を絞めた。

 アルエクスの爪が、首に食い込んでいるのがわかった。硝子で斬ったのか、あちこちから血が出ている。

「お前さえ……っ」

 その言葉が不自然に途切れたのは、アルエクスの身体が吹き飛ばされたからだった。いきなり解放され、ラピュアは激しく咳き込んだ。そして、今しがた飛び込んできた愛しい人の影を見た。

「何をしている、アルエクス=ドラフトス」

「ラフ……っ」

 生まれたときから一緒にいるアルエクスですら聞いたこともないような低い声で、ラファクスは床に倒れこむ弟に歩み寄った。それは、そばで見ていたラピュアも身を震わせるほどの殺気だった。

「何を、している?」

「こ、この女さえいなければ……ぐっ!」

「いやっ」

 ラファクスは、アルエクスを力いっぱい殴った。それを見たラピュアが悲鳴を上げて顔を背ける。それは奇異な光景だった。同じ顔の男が、片方を殴り、そして殴られているのだから。

「もう一度、同じことをしてみろ! 俺は、自分の弟もこの手にかけるぞ!」

「っ!」

 激しい怒気と殺気に当てられ、アルエクスの身体は硬直し、動けなくなった。それを見たラファクスは、ラピュアのもとへ向かった。

「すまない、ラピュア。本当に、すまない」

 ラピュアのか細い腕と足が、切り傷で血まみれになっていた。激しくつかまれたせいで、首にも痣が残ってしまっている。

「すまない……」

「痛い……」

 恐怖と痛みに震えるラピュアに、ラファクスは出来うる限りの治癒で、ラピュアの傷を治してやった。服は破れ、その痣だらけで痛々しい四肢が、剥きだしになってしまっている。顔をしかめたラファクスは、ラピュアに寝台にあった毛布をかけてやる。そして身体を抱え上げ、寝台まで運んでやった。

「ラファクス、これは……誰?」

 ラピュアは怯えたように、今しがた自分を殺そうとした男を見た。ラファクスは、呆然としているアルエクスを横目で見て、そっとため息をついた。

「あれはアルエクス、俺の双子の弟だ」

「弟……」

「俺が、破門されたから……君を殺そうとしたらしい」

 ラファクスの言葉に、ラピュアは息を呑んだ。

「は、破門……? え、私のせい、なの……?」

「お前のせいだ!」

「黙れ、アル」

 ラファクスに制され、アルエクスは再び黙り込む。心配そうに自分を見るラピュアに、ラファクスは頭を振った。

「もともと、[残酷なる血]の家を出ようと思っていたから、関係ないんだ。ラピュア、君が気にすることじゃない」

「……でも」

 ラピュアは困ったように呆然としているアルエクスを見た。

「あの方は、そう思わないでしょう……?」

 ラファクスは息を吐いた。そして未だに座り込んでいるアルエクスの元に向かった。そして右手を差し出した。

「ほら」

 差し出された右手を取って立ち上がろうとしたアルエクスは、その手が空をすべり尻餅をつく。

「何をする」

 不満げに兄を見たアルエクスだったが、ラファクスの真剣な顔を見て黙った。

「一人で立つんだ、アルエクス=ドラフトス」

 その言葉に、アルエクスは動揺した。

「まさか、ラフ……」

「帰れ、アルエクス=ドラフトス」

 頑として譲らない様子のラファクスに、アルエクスは泣きそうな顔になった。

「ラ、ラフ。いつもみたいに、呼べよ……」

「アルエクス=ドラフトス、二度は言わない。もう、帰れ」

「……そんな……」

 最後に、ラファクスは少しだけ微笑んだ。

「俺はもう、いいんだ。な? 心配しなくていい。俺は辛い思いなんてしていない。今までも、これからも。だから、お前も俺のせいで哀しむな」

「……っ」

 アルエクスは歯を食いしばると、自分の力で立ち上がり、そのまま闇夜に去っていった。それを見送ったラファクスは、しばらくその場を動かなかった。

 何が起こったのかは、ラピュアにはわからなかったが、二人のただ事ではない様子に、彼女は何も言わなかった。

 そしてしばらくして、ラファクスがラピュアの元に戻ってきた。

「……大丈夫か?」

「どうして、泣きそうだったの、彼?」

 ラピュアが、躊躇いがちに聞いてきた。するとラファクスは寂しげに答えた。

「俺が決別の意を見せたから、だろう」

「え?」

 なんとなくは感じていたが、しかしラピュアは驚かずにはいられなかった。

「あいつは、俺のことで傷つきすぎなんだ。本当に、気にしなくても良いのに……」

「そんな……」

 心を痛めて俯くラピュアの髪を、ラファクスはそっとなでた。

「……私の、せいね」

「違う。全部、俺が決めたことだ」

 ラピュアがラファクスを見上げる。その空色の瞳に、ラファクスが映っていた。そしてラファクスの金色の瞳にも、泣きそうに顔を歪めるラピュアがいた。

「血まみれになってしまったな」

「もう、痛くはないわ」

 ラファクスは、自分も寝台に上がった。そしてラピュアの腕を取ると、そのこびりついた血を舐めだした。そっと、裂けてぼろぼろになってしまった服を、脱がせながら――。

「くすぐったい」

「我慢しろ」

 ラピュアは自分の血を舐める男を見て、羞恥が混ざった呆れたような顔をした。

「そんな、汚いのに……」

 真っ赤な顔で呟いたラピュアを、ラファクスが上目で見た。

「汚い血は好みだと言っただろう? だが、ラピュアの血は綺麗すぎる」

「あら」

 その時、ひどい有様になっていたラピュアの部屋に変化が起こった。倒れた家具がひとりでに元通りになり、割れた硝子までも騒動が起こる前の状態に戻ったのだ。そんな魔法のような光景に、ラピュアは目を丸くした。

「不思議……」

「レシティカ様か」

 心当たりがあるラファクスはその名を呟いたが、ラピュアには聞こえなかったらしい。

「ラピュア、愛している」

 ラファクスは血を舐めながら、決して顔を上げなかった。泣いていたからだ。この愛しい人の血からは、すでに生気を感じられなかったから――……、

「私も、愛してる……」

 己の身体をつなげて、少しでも自分の生気を分けてやろうと思った。


 ラピュアの部屋を元に戻して、二人の様子を眺めていたレシティカは、小さく声を上げた。

「おっと、これ以上視るのは野暮だな……」

 レシティカはため息をついて、そっとその瞳を閉じた。

「……ミラージュ、ラファクスは一体どんな答えを出すのだろう。やはり、ラファクスもラピュアに辛い思いをさせたくないと、そう思うのだろうか……」

 しかしレシティカの心の隅に引っかかっていたのは、ラファクスの言動だった。

「それとも……」

 その時、レシティカの瞳がふらふらと飛んでいるアルエクスを捉えた。

「ふ、傷ついてふらふらだな……」

 レシティカはおもむろに右手を振った。

「うわっ」

 音を立てて部屋に落とされたアルエクスは、顔中に疑問符を浮かべる。

「よう」

 レシティカが右手を上げて声をかけると、アルエクスは心底嫌そうな顔をした。

「……なんですか」

「ラファクスは、全てに決別したようだな」

 レシティカの言葉に、アルエクスは立ち上がりもせずに俯いた。

「……本気だった」

「うん?」

「ラフは、本気で俺を殺そうとした……っ!」

 絶望的な声を出すアルエクスに、レシティカは困ったように首をかしげた。

「それは、お前が本気でラピュアを殺そうとしたからだ」

 しかしレシティカの言葉を無視して、アルエクスが続けた。

「驚いたんだ……」

「何に?」

 アルエクスが身体を起こす。

「あの女は、あんなにも死にかけているのに、諦めていなかった!」

「ふうん?」

 アルエクスは自分の右手を見つめた。ラピュアに触れた、その手を。

「痣だらけで痛々しい身体だった。触れたら壊れてしまいそうな――でも、温かかった」

 レシティカが、そんなアルエクスを見つめていた。

「あんなに強く叩きつけたのに、壊れなかった」

「それは、ラファクスがいたからだ」

 アルエクスがレシティカを見れば、レシティカはどこか遠い場所を見つめていた。

「彼女はラファクスと約束をした。諦めないと、そして彼を信じると――。だから彼女は必死に生きているのだよ。少しでも長く、ラファクスといたいから……」

「死ぬ」

 レシティカがアルエクスを見た。その兄と同じ色の瞳が、歪められている。

「彼女は死ぬ、もうすぐに」

 レシティカは、しばし言葉を失った。

「……わかったのか?」

 アルエクスが小さくうなずいた。

「触れればわかった。病が彼女の全てを覆って、奪った。だから死ぬ。あの女からは死の香りがした」

「全てを?」

 突然、レシティカが笑い出した。アルエクスは訝しげにレシティカを見た。

「アルエクス、病は彼女の全てを奪ってはいない。いや、奪えやしない。彼女にとって一番大切なものは、決して奪えないだろう」

「大切なもの……?」

「彼女の心だ」

 アルエクスは何も言わずにレシティカをしばし見つめていた。そして、立ち上がる。

「帰るのか?」

 無言でうなずいたアルエクスを、レシティカは宮の外へと送った。そして、レシティカの目が沈もうとしている陽に向けられた。

「あちらでは、そろそろ夜明けか……」

 そして哀しげな声で、ぽつりとそう呟いた。


 小鳥の囀りと眩しい朝日に、ラファクスは目を覚ました。そしてその隣では、ラピュアが眠っていた。

 ラファクスの腕を枕に、安心しきったように眠るラピュアをしばらく眺めていると、視線を感じたのかラピュアが目を開いた。そしてラファクスと目が合って恥ずかしそうに笑う。

「初めて、貴方と朝日の光を見た」

「そうだな」

 ラファクスがくすりと笑い、静かに服を身につける。ラピュアは恥ずかしそうに毛布に包まったままだ。

「ラファクス、着替えるから、しばらくの間外へ出ていて。そろそろ侍女が来ちゃうわ」

「ああ」

 ラピュアの声に力がないのは、恥ずかしがっているせいかと首をかしげながら、ラファクスはバルコニーに出た。そして丁度死角になる部分に身を潜める。

 しばらくすると扉を叩く音が聞こえて、侍女が入ってきた。

「お嬢様、着替えをなさったのですか?」

「ええ、寝汗をかいてしまって」

「そうですか」

 昨日、血まみれになってひどい有様となってしまった服は、ラファクスが燃やしてしまったのだ。布のこすれるような音の後、侍女が退室する。それを確認したラファクスは、部屋に戻った。

「ラピュア、気分はどうだ?」

「いろいろあったから、疲れてるのかしら。ちょっと、だるい」

 ラピュアが力なくそう言う。

「大丈夫か?」

「大丈夫。ねえ、バルコニーに行きましょう? 風に当たったら、気分が良くなるかもしれないから」

 そう言うラピュアの声も、やはり力がない。ラファクスは少しふらついているラピュアの身体を支えながら、バルコニーに出た。ラピュアを座らせ、ラファクスもその正面に座る。

「ここで、初めて貴方と出逢ったのね……」

 目を細めて、ラピュアが呟いた。

「君は、俺を見ても怖がらなかった」

 するとラピュアは照れくさそうに笑う。

「実を言うとね、とても怖かったの。でも、怖がっているって気づかれたくなかったから、ああ言ったのよ」

「そうなの?」

「ええ。それに話してみたらちっとも怖くない悪魔さんなんですもの。怖くないどころか――」

 ラピュアはラファクスの手を握った。

「とても大切な人になった」

「君も」

 ラファクスは、異常に冷たいラピュアの手に眉をひそめた。昨夜はあんなにも温かかったのに、今自分に触れている手は、氷のように冷たい。

「貴方と、出会えて……嬉しかった」

「ラピュア?」

 蒼白な顔をしたラピュアは、微笑もうとして、できずにいるようだった。

「ラファクス、今まで、ありがとう……」

 途切れ途切れに呟くラピュア。そして、その手がラファクスの手から零れ落ちた。

「もう、限界……みたい」

「っ!」

 ゆっくりと、ラピュアの身体が崩れた。

「ら、ラピュア……っ?」

 呼びかけても応えないラピュアに、ラファクスはすぐに彼女の身体を横たえた。彼女に触れた瞬間、死が彼女を包み込もうとしていることがわかった。彼女の胸に耳を押し当てれば、その鼓動が今にも止まりかけているのが、わかった。

 それは一瞬の出来事だった。

「……っ」

 考える間もなく、ラファクスは自分の胸を引き裂いていた。

 奇妙な感覚だった。不思議と痛みも感じない。開かれた胸の中で、自分の心臓が脈打っているのがわかった。

 ラファクスはそっと自分の心臓に触れた。そして潰してしまわぬように、ゆっくり取り出す。

 血管の切れる音がした。掌の上で脈打つ心臓を、ラファクスは奇妙なものを見るような目で見つめ、それをそっとラピュアの胸に押し当てた。

 心臓を失った自分が急速に死に近づいているのがわかった。しかし胸に空洞があるのに、未だ意識のあるラファクス。

「……血、か」

 それは[永久なる血]の力だった。すなわち、ラファクスの身体から血が流れきれば、それがラファクスの死を意味していた。

 ラファクスがラピュアの胸に押し当てていた心臓が、ゆっくりと溶けるように彼女と同化していく。そして、完全に彼女の体内に取り込まれた。ラファクスがラピュアの胸に耳を押し当てれば、しっかり鼓動が聞こえる。そして、急激な変化が起こっていた。

「ラピュア、良かったな」

 ラピュアの身体に現れていた痣が、一気に消えていったのだ。そしてラファクスは穴のあいた自分の胸を押さえた。全ての血が流れ出る前に、ラピュアに言いたいことがあったから。


「っ!」

 様子を見ていたレシティカが、言葉を失った。

「いかん……っ」

 レシティカが指を鳴らすと、部屋にアルエクスが呼び出される。

「今度は何なんですか!」

 突然変わった景色に驚いたアルエクスが、レシティカに怒鳴った。

「ラファクスが死ぬ!」

「……は……?」

 レシティカの言葉に一瞬硬直したアルエクスだったが、はっとしてレシティカと一緒に水柱を覗き込んだ。そこには、バルコニーで血まみれになっている二人がいた。


「ん……」

 身じろぎをして、ラピュアが目を開いた。

「……ラファクス……?」

 安堵と同時に、ラファクスはその場に倒れこんだ。ラピュアが混乱して身体を起こした。

「ラファクスっ!?」

 わけがわからないラピュアは自分が血まみれで、そしてラファクスの胸に穴があいていることに気づいて、血の気を失った。

「ラファクス……一体……」

 蒼白になって自分に縋りつくラピュアに、ラファクスは笑いかけた。

「俺の心臓……いや、俺の血で君を生かすことができる。だから、あげることにした」

 ラピュアは恐ろしいものを見るように、ラファクスの胸にある空洞を見た。そして、そこから流れ出る、血を――。

「何を、言ってるの……ラファクス?」

「ラピュア、腕を見て」

 ラピュアが呆然と自分の腕を見れば、痣が消えていた。そして目の前に横たわる男に視線を戻す。愛しい男は、死に面していても、笑っていた。

「俺は、何度も君の幸せを願った……」

「そうよ、だから、ねえ、何してるの? 立ち上がってよ……ねえ」

 どんどん弱くなっていくラファクスの声に、ラピュアが嗚咽を漏らす。とめどなく流れる涙を、ぬぐおうともしなかった。

 そんなラピュアを見て、ラファクスは安心していた。本当は涙をぬぐってやりたいし、抱きしめてやりたい。だけど今は、ラピュアの命を助けられたことで、満足していた。

「何度も、君の幸せを想像した……」

 どんどん弱くなる声に、ラピュアは耳を澄ます。唇をかみ締めて、ラファクスに縋りついた。

「君の、未来の姿……でも、そこに俺は、いなかったんだ……」

「何言ってるの? 最期まで、一緒にいてくれるって……約束したのに……っ」

 ラファクスは、力のこもらない手でラピュアの頭をなでる。

「俺の、幸せは……君が幸せになること。言っただろ、君を……世界一幸せな女にすると」

「ねえ、ラファクス……やめて……」

 ラピュアがラファクスの胸を押さえても、彼女の手が血に染まるだけで、その流れ出る血が止まることはない。

「そうしたら……君の隣に、いるのは……俺じゃなかった」

「ねえ……やめて……お願い……」

 ラファクスは、微笑んだ。優しく、穏やかな――笑顔で。

「俺は……、ここで君に心臓を与えて、死ぬ……そのために、君と出逢った。それで、いい。ラピュア、幸せになれ……」

 ラピュアがラファクスの手を握った。その冷たさに、ラピュアは息を呑む。

「わ、私は、幸せよ、ラファクス! 貴方がいるから……」

「でも俺は、悪魔」

「ラファクス……っ」

「俺が君にしてやれることは……これだけ、なんだ」

 ラピュアが歯を食いしばる。冷たく、硬くなっていく愛しい男の手に、何もできない自分が悔しかった。自分のために、最愛の人が死んでいくという事実を、受け入れられなかった。

「なんで……ねえ、どうしてこんなことしたの! 貴方のいない世界で、生きていけって言うの? そんなひどいこと言うの!?」

「……ラピュア、君の幸せは、自分で見つけて、くれ……」

 ラファクスの金色の瞳は、焦点が合っていない。見えない中、手探りでラピュアの頬に触れた。

「ラピュア……死の向こうにはさ、天国とか地獄とか……ないと思ってる。皆、同じ場所へ……」

「ラファクス……っ」

 ラピュアがラファクスの手を押さえる。そうしなければ、今にも消えてしまいそうだったから。

「だから……俺が、いなくても……君が世界一幸せな、人生を……送って……、百年も、ない時間くらい……待てるから」

「やだっ……ラファクス、いや……っ」

「君が幸せな……人生を、送った後……君が俺のところに、来るときには……一緒になれたら、幸せ……だ」

「何言ってるの! 死なないでよ! 当たり前でしょう? 今すぐ、貴方は私と一緒になるの……っ」

 ラファクスが、そっとラピュアに口づけた。そして、微笑んだ。

「ラピュアが、死ななくて……良かった……」

 それが、ラファクスの最後の言葉になった。ラファクスの手が、力なく落ちる。ラピュアは、呆然としてラファクスの身体をゆすった。

「嘘、ラファクス、ラファクス……? ねえ、嘘でしょう? 変身して、私を騙しているんでしょう? ねえ、やめて……お願い……」

 いくらその身体をゆすっても、ラファクスはぴくりとも反応してはくれなかった。ラピュアの愛しい男は、笑みをその顔に浮かべたまま、息絶えていた。

「貴方が、貴方がいなくちゃ意味がないじゃない……っ」

 ラピュアが叫ぶ。しかしその声も、ラファクスには届かない。

 そのとき、ラピュアはラファクスの身体が足のほうから空気に溶けるようにして消えていることに気づいて、愕然とした。

「やめて……っ! ラファクスを連れて行かないで……っ!」

 叫んでも、ラファクスの身体は砂のように溶けては、虚空に消えていく。

「やめて……っ!」

 ラピュアが悲痛に叫んだときには、すでにラファクスの身体は跡形もなく消えてしまっていた。からん、と何かが落ちる音がした。

「私が生きたいと思ったのは……ラファクスがいたからなのに……貴方がいなくちゃ意味がないじゃない!」

 ラピュアの手元に残ったのは、ラファクスの翼にあったピアスだった。

「……嘘つき」

 血まみれのラピュアが、そのピアスを握り締めた。

「嘘つき……っ! ラファクスの、嘘つき……」

 ラピュアは止め処なく流れ出る涙を、止めることができなかった。

「貴方がいなくちゃ、意味がないのよ……ラファクス……」

 嗚咽しながら震えるラピュアの身で脈打つその心臓は、彼女の最愛の悪魔の心臓だった。

「ラファクス! 貴方がいない世界でどうやって生きていけば良いの? ラファクス! 嫌だよ……っ! 貴方がいない世界なんか……っ!」

 ラピュアが顔を覆った。

「ラファクス……っ! ラファクスっ! いやあああああああああああああっ!」

 狂ったように泣き叫んでも、ラピュアに応えてくれる声は、なかった。


 レシティカの部屋で水柱を覗き込んでいたアルエクスは、蒼白な顔で震えていた。レシティカも、険しい表情を隠せていない。

 そのとき、ラファクスの亡骸が部屋に現れた。二人がラファクスに近づいた。

「……ラフ? ラフ!」

 アルエクスが必死に身体を揺さぶるが、それはすでに物言わぬ亡骸でしかなかった。アルエクスは泣きながら叫んだ。

「何やってるんだ? ほら、お前の大切な人が泣いているぞ! お前が泣かしているんだぞ! おい、何か言え! ラフ! ラファクス!」

「……ラファクス=ドラフトス……お前は、いったい何を望んでいるんだ……?」

 レシティカが、困惑したように呟いた。

「お前の愛しい人は、これからお前のいない世界で生きていくんだぞ? 辛い思い出を、背負いながら……これが、お前の答えなのか……?」

 レシティカの問いの答えなど、わかる由がなかった。ラファクスは笑みを顔に浮かべたまま、何も応えはしないのだから。


―― 五年後

 銀の髪の少年が、大きな屋敷の中を歩き回っている。どうやら、誰かを探しているようだった。

 そして、バルコニーでその人を見つけ、少年は叫んだ。

「お母様! お父様が待ってるよ!」

 金色の髪を結った女が、少年の声に振り返った。

「ラファクス」

「何をしているの?」

 バルコニーに出してあるテーブルで、母親――ラピュアは手紙を書いていた。

「ちょっと待っていて。もうすぐ手紙が書き終わるの」

 ラファクスと呼ばれた少年は首をかしげて、母親の隣の椅子によじ登った。

「手紙?」

 ラファクスが母親譲りの水色の瞳でラピュアを見上げると、ラピュアは少しだけ寂しそうに微笑んだ。

「そう。私のとても大切な人への、手紙なの。でも、読んでもらえることはないのだけどね」

「どうして?」

 小さな息子の問いに、ラピュアは微笑みながら何も答えなかった。そして手紙を書き終わったのか、それに封をした。

「おいで、ラファクス」

 ラピュアは息子の手を引いて、手紙を空に掲げた。

「親愛なる、ラファクス=ドラフトス様へ……」

 自分の名前を呼ばれたラファクスは、きょとんと母親と手紙を交互に見る。すると、驚くことに手紙が炎をまとって消えてしまった。驚いたラファクスが目をまん丸に開いた。

「消えちゃった……」

 ラピュアはそんな息子を抱きかかえた。

「お母様、どらふとす、って誰?」

「私の、大切な人よ」

「僕よりも?」

 身をひねって母親を見る息子の首の付け根に、青黒い痣のような紋様が浮かんでいた。そんな息子に、ラピュアは笑いかける。

「いいえ、ラファクス。皆とても大切なの。さあ、お父様が待っているわ」

「うん!」


 中央に水柱が走り、物が乱雑と置いてあるその部屋は、あれから少しも時間が経っていないかのようであった。

 その薄暗い部屋で、アルエクスは手紙を受け取っていた。

「……レシティカ様、彼女から手紙だ」

「読めばいい。きっと、彼女もそれを望んでいるのだろう」

 膝に乗せた分厚い本の頁を思い出したようにめくりながら言うレシティカの言葉に、アルエクスはうなずいた。そして、もうこの世にはいない兄宛の手紙の封を開いた。


《最愛なるラファクス=ドラフトス様

貴方がこの手紙を読むことがないということは、わかってる。だけど、どうしても書きたかったので、綴らせてください。

まずは、文句を言わせて欲しい。貴方がいなくなって、私、沢山泣いたのよ? 毎日、部屋にこもって泣いて過ごしてた。泣いて、泣いて、それでもまだ涙が出てきて、ずっと泣いていたの。

貴方は、本当に嘘つきだった。そんな貴方が、大好きだった。

私の病気を治ると言ってくれた時、嘘だとわかったけど、それでも嬉しかった。だって、あんなに嬉しい嘘は、初めてだったから。

ねえ、ラファクス。お父様、とてもお怒りだったわよ? 貴方のために涙を流して、怒っていらっしゃったわ。約束が違うって。娘を頼むと言ったのに、ですって。

でも、私の病気が治って、皆喜んでくれたの。奇跡だって。だけど、ラファクスがいないのが、残念だって。


ラファクス、私、貴方に言わなくてはいけないことがあるの。私、二年前に結婚しました。それとね、今年五歳になる息子が生まれたの。ラファクスと名づけたわ。これの意味がわかる? 貴方の、息子なの。私達の、子供なのよ。その証拠に、息子の首の付け根には、悪魔の紋様があるの。

私が子供を身ごもっていると知ったとき、とても驚いた。だって、私達は最後の日、たった一度交わっただけだったのに。驚いたけど、本当に嬉しかったの。だって、私と貴方の日々を証明するものがなかったから。夢だったんじゃないかとも、思いかけていた。それを――息子が証明してくれた。

夫もね、全て知っているのよ。あの舞踏会で、私達のことを見ていたらしいの。とても優しい人で、私の過去も、息子のことも話したのに、それでも結婚しようと言ってくださったの。私は、それをお受けすることにしたわ。

貴方が、幸せになれと、言ってくれたから。貴方がいたから、私がいるの。貴方と出会わなかったら、私はあのまま死んでいた。

私、今でも貴方を愛している。今でも貴方のことを思い出して涙を流すことがある。そのことを、夫も気づいていると思う。

だけど、貴方は世界一幸せになれって言った。だから、貴方を思い出して泣いていてはいけないと思うの。優しい夫も、息子もいるのに、私が泣いていては、いけないと思うの。

だから、そろそろ貴方を思い出して泣くのは、やめようと思う。そう言ったら、貴方は怒るかしら? いいえ、きっと笑って言うでしょうね。それで良いって。

私は、貴方に生きていて欲しかった。貴方は笑うかもしれないけど、私は貴方と結婚して、一緒に暮らす未来を夢見てたのよ?

だけど、そんな想いを抱いたままでは、夫にも、せっかく未来をくれた貴方にも、悪いと思うようになった。夫の優しさに甘えて――だから、私はそんな幻想を抱くのはやめることにする。

私が、この世で幸せな人生を送った後、そうしたら私は、魂の向こう側で貴方と結ばれると信じているから。

いつか、息子を紹介できる日が来ると信じているから。

この手紙は、私の決別の手紙です。私と、夢見てやまない幻想の日々との決別の手紙。

もうしばらく、私はここで、貴方の言うとおりの幸せな人生を送ることになるけれど、お願いだから私のことを待っていて。

ラファクス、愛してる。心の底から。

最期の時、貴方は笑っていたわね。今なら、貴方の気持ちがわかるような気がする。だから、私も笑ってさようならを言うわ。

しばらくの間だけ、さようなら、私のもっとも愛しい人――ラファクス=ドラフトス。本当に、ありがとう。

ラピュア=クラファイア》


 手紙を読み終わった後、アルエクスは呆然としていた。そして、何度も、その手紙を読み返した。

「なんと、書いてあった?」

 レシティカがじっとアルエクスの様子を見ていた。視る気になれば、視れるのに、それをしようとはしない。

「ラフは、幸せだったんですよ、レシティカ様」

 レシティカは、何も言わずにアルエクスを見つめていた。

「ラフだけじゃない。彼女も幸せになった」

 アルエクスが笑顔でレシティカにそう言った。それを聞いた瞬間、レシティカの心の中で、何かが疼いた。

「ラフ、彼女は笑っているぞ」

 アルエクスはそう、この世にはいない兄に呼びかけた。


 その日アルエクスが退出した後、レシティカは膝に乗せていた本に触れた。そして、とある頁を開く。いつもは、意図的に開かないページを――。

 そこにはさんであったのは、古い写真だった。儚げに微笑む、悪魔の女の。

「ミラージュ、君は私がいない世界はまっぴらだと言った。同じことを、ラピュアも言っていた」

 レシティカが、そっと自分の胸に触れる。その、永久に生きる鼓動を刻む胸に――。

「そして私は、心にしこりを抱えたまま永い時を生き、私の見込んだ少年は幸せに死んでいった。その大切な人を、幸せにして――」


 レシティカは疲れたように微笑んだ。

「結局彼は捨てJOKERなんかじゃなくて切りJOKERだったんだなぁ」

 そして、そう呟いた。

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