第二章 死にゆく女と長寿の悪魔

 手紙を受け取ったラファクスだったが、ラピュアに会いに行くのを躊躇っていた。己の中に流れる残忍な血、それが彼女に牙をむくのではないかと思ったのだ。

 しかし、気になって仕方がないことも事実。いてもたってもいられなくなったラファクスは、気づけば人間界へと飛翔していた。

 月影に照らされながら、ラファクスは白亜の屋敷を目指す。逸るような気持ちを胸に抱き、ラファクスは目的の屋敷に辿りついた。しかしそのバルコニーに、彼女の姿はなかった。

 息を呑んだラファクスを、恐怖に似た感情が支配する。気づいたときには急降下してバルコニーに飛び込んでいた。おもむろに目の前にある扉を開けば、そこはラピュアの寝室だった。

「っ」

 突然飛び込んできた人影に、ベッドの中にいたラピュアが飛び上がって驚いた。

「……ラピュア」

 すっかり動転していたラファクスはそっと息を吐いて心を落ち着かせた。そして静かにラピュアに近づく。

「驚いた。来てくれたの?」

 ラピュアはゆっくりと身体を起こして、嬉しそうに笑った。しかしすぐに困ったような顔をして続けた。

「でも、その格好で飛び込んできたら、他の人がいたら驚くわよ」

 ラピュアの言葉に、己の姿が他人を驚かせるものだということを思い出す。

「すまない……、今、他の人間には見えないようにする」

 同じ悪魔を惑わす術を使うのは術者の技量と魔力に依るが、人間を惑わす術くらいは誰にでも使えた。ラファクスは人間にはわからない言葉で小さく呪文を唱えた。そして何事もなかったかのようにラピュアと向き合う彼に、ラピュアは不安げに尋ねる。

「本当に見えないの?」

 ラファクスは不器用ながらも、ラピュアを安心させるように微笑みながらうなずいた。

「大丈夫……。手紙、読んだ」

「本当に?」

 ラファクスに言葉に、ラピュアが嬉しそうに顔を輝かせた。しかしラファクスはあることに気づいて眉をひそめる。ラピュアは冷や汗を流し、肩で息をしていたのだ。ラファクスは表情を曇らせた。

「体調が悪いのか?」

「ええ。わかる?」

 でも大丈夫よと笑うラピュアの額に、ラファクスは手を伸ばした。そして、ラピュアの耳では聞き取れない言葉を呟く。

 するとラファクスの指先がほんのりと光り、その光がラピュアを包み込んだ。

「これ以上はできないけど……」

 自分に溶け込むように消えていく光を見つめて、ラピュアは首をかしげた。そしてその変化に気づいてはっとする。

「え、あら? 不思議! 身体が軽くなった」

 ひどく顔色が悪かったラピュアだったが、その血色が戻ってくる。ラファクスは解熱の術をかけただけだ。それでも喜んでくれるラピュアを見て、ラファクスは苦しくなった。

 本当は病を治してやりたいのに、不治の病は誰にも治せない。

 迫り来る死を取り除いてやりたいのに、自分にはそれができない。決められてしまった死は、誰にも止められないから。

 命を奪うことは、誰にでもできるのに――。

 もどかしい思いを抱え、苦しくなったラファクスは唇を噛んだ。するとそこに、部屋の扉を叩く音がした。

 ラピュアが心配そうにラファクスを見たが、ラファクスは大丈夫とうなずいた。

「どうぞ」

 ラピュアが声をかけると、一拍を置いて声がした。

「失礼します」

 そして部屋に侍女が入ってきた。

「お嬢様、ご加減はいかがですか?」

 侍女は盆に載せて持って来た水をテーブルに置いた。ラピュアは不安そうにラファクスを横目で見るが、本当に侍女には見えていないようだった。

「熱は下がったみたいなの」

「そうですか」

 そっと安心したように笑顔で言ったラピュアに、侍女も微笑んだ。

「お医者様に様子を見るように言われたのでしょう?」

「いえ、テューデル様に」

 遠慮がちに言う侍女に、ラピュアが笑いかける。

「でも、もう今日はいいわよ。貴女もお休みなさい」

「ありがとうございます。おやすみなさい、お嬢様」

 深々と頭を下げて部屋から出て行った侍女を見届けたラピュアは、寝台から抜け出して、カーディガンをはおった。

「ねえ、ラファクス、バルコニーに出ましょうよ」

 そしてラファクスの手を引いてバルコニーに出た。

「ラピュア、俺は熱を下げただけで……」

 まるで病気が治ったかのようにはしゃいでいるラピュアを心配して、ラファクスが声をかけた。自分は熱を下げただけなのだから、彼女が感じているはずの不調が消えたわけではないのだ。

 しかしラピュアは笑って首を横に振った。

「これくらいの不調、いつものことだもの」

 当たり前のことを言うように笑う女の目を、ラファクスはそっと覗きこんだ。

 その水色の瞳は穢れたものなど映したことがないのではないかと紛うほど綺麗で透き通っていた。

「だから平気よ」

 その瞳を見た瞬間、ラファクスは血が湧騰するような、身の毛がよだつようななんともいえない感覚を覚える。

 己の中に流れるおぞましい血を、嫌でも思い出した。その[残酷なる血]の衝動のまま、人を殺し同胞を殺した自分――沢山の血を浴び、汚れきった己の手。

 この美しく綺麗な彼女に比べたら、自分は確かに世界の捨て札と呼ばれるに相応しい存在であるということを思い知らされるようで、ラファクスはその笑顔から目をそらした。

「見るな」

 思わず声に出ていた。

「その目で、見るな……」

「ラファクス?」

 突然様子がおかしくなったラファクスに、ラピュアは首をかしげる。

「私、貴方の気分を害すようなことをした?」

 不安いっぱいの声でそんなことを言われ、ラファクスはうつむいた。そして、吐き出すように続ける。

「俺を見ないでくれ。汚れてるから……今までに、何人もの血を浴びてて……汚いんだ」

 それは死に神と呼ばれた男の、弱々しい告白。その場にいるだけで畏怖を与える男の、信じられないような姿だった。

「……貴女の綺麗な瞳に、俺を映さないで」

「ラファクス……」

 ラピュアは両手で包み込むようにしてラファクスの顔を自分の方に向けさせた。そして、泣き笑いのような笑顔をラファクスに見せた。

「ラファクスは汚れてなんかいないよ。ちっとも、汚れてなんかいない。私の方こそ、こんなに醜い身体で……」

 突然、ラピュアの目から涙がこぼれる。それを隠すように手で顔を覆って泣き出してしまった。そんな彼女に、どうすればいいかわからないラファクスは戸惑った。

「み、醜くなんかない! 貴女はとっても、綺麗なのに」

 そんなラファクスの言葉に、ラピュアが顔を上げた。涙に濡れた水色の瞳が、金の視線と交錯する。

 ラピュアはひどく傷ついたような、哀しそうな顔をしていた。それは今まで彼女が見せてこなかった表情で、笑顔の裏に隠された彼女の哀しみと辛さを表すものだった。

 哀しみに濡れた瞳に、ラファクスが映っている。その瞳の中のラファクスは、自分でも見たことがないような顔をしていた。

 ラファクスは震える手を伸ばした。ラピュアの頬に伝った涙をぬぐうように、恐る恐るその柔らかな頬に触れた。

「貴女は、綺麗だ。そんな病気では君を侵せやしない。だから、泣かないで……」

 困ったように言うラファクスに、ラピュアの口元が笑みの形になる。そして涙をぬぐった。

「ありがとう。貴方って、本当に不思議な悪魔さんね」

 そう言って微笑むラピュアに、ラファクスも微笑む。

「貴女も俺が初めて見た、不思議な人間だ」

 目が合って、二人してそっと笑う。そして二人は、バルコニーに出されてある椅子に並んで座った。

 穏やかな時間だった。お互い何を話すでもなく、ただ月を眺めていた。ラピュアの金糸のような髪を、時折夜風が撫でる。

「身体は、大丈夫か?」

 ふと夜風は身体に悪いということを思い出し、ラファクスが尋ねた。

「大丈夫よ」

 目を細めて答えたラピュアを見て、なぜかラファクスは自分のことをラピュアに知ってもらいたいと思った。

 それは言葉にはできないような感覚で、口が勝手にというのがしっくりくるもので、気づけばラファクスは口を開いていた。

「俺は、世界の捨て札と呼ばれてるんだ」

 突然そんなことを言ったラファクスを、ラピュアが不思議そうに見つめた。

「この世界には要らないって言われた」

「どうして?」

 ラファクスはそっと目を伏せて続けた。

「俺の中には、大昔に大量殺戮を行った悪魔の血が流れてる。俺自身も、今まで沢山の命を奪ってきたんだ。それこそ、死に神と呼ばれるほど」

 ラファクスは自分の両手を見つめた。この手は何度血に染まって、真っ赤に汚れただろう。

「こんなに汚れた俺だから、捨て札なんだろうな」

 ラピュアは小さくかぶりを振った。

「ラファクス、手についた血は、洗い流せるのよ」

 ラピュアの言葉に、ラファクスは顔を上げた。ラピュアが彼の手を取って続ける。

「だから、貴方は汚れてなんかいないわ。捨て札なんかじゃない」

「……ありがとう。だけど、それだけが理由じゃない」

 ラファクスはそっとラピュアの手を握り返して、続けた。

「悪魔はまだ母親のお腹にいるとき、占いをするんだ」

「占い?」

「そう。その子供がどんな風に育つか、そういう占い。その時の結果がなぜか出るはずのない捨て札が出たらしい。だから、捨て札って呼ばれてるんだ。要らない札だって」

「そんな……」

「双子の弟がいるんだ。同じ顔なのに俺ほど畏れられてないのは、外を出歩かないせいかもな。そもそも出た札も捨て札じゃなかったしな。でも俺は、嫌がられているとわかっていても、外にいたかったんだ……」

〝外が心地良かったわけでも、ないけどな……〟

 心の中でそっと呟いたラファクスをよそに、ラピュアは水色の瞳を好奇の色に輝かせて彼を見た。

「私ね、あまりこの屋敷から出たことがないの。だから、どこへでも飛べる貴方の翼が羨ましい」

 ラピュアが折りたたまれているラファクスの背翼をそっと撫でた。それがくすぐったくて、ラファクスは身じろぎをする。

「ねえ、空を飛ぶってどんな感じなの?」

 そんなラピュアの言葉にラファクスはしばし考え、立ち上がった。

「どうしたの?」

「ちょっと立って」

「え?」

 首をかしげながらも言われるがままに立ち上がったラピュアの身体を、ラファクスは後ろから抱きかかえる。その身体は驚くほど細くて、羽根のように軽かった。

「何をするの?」

 ラピュアは驚いてラファクスを振り返った。

「暴れないで」

 しっかりとラピュアを抱えたラファクスの背翼が、ばさりと風を切った。ぐんっ、と星が引く力から逃げ出すように、宙に浮かぶ。

「きゃっ」

 怯えたラピュアがラファクスの腕にしがみつく。ラファクスには、その感覚が心地よかった。そして、落とさぬようにしっかりと支える。

「大丈夫、落とさないから」

 ラファクスはラピュアを抱きかかえたまま、飛翔した。

 高く、高く――月に触れることができそうになるまで。

 風が冷たく、月影が頬を撫でる。

「大丈夫か?」

 黙ってしまったラピュアに、ラファクスが声をかける。ラピュアは呆然と下を見ていた。

 夜闇の中を、光が踊っている。人間達が灯している光達。大きな光、小さな光、さまざまな色と形の光達――。それらが闇を、彩っていた。

 そんな幻想的な光景を眺めていたラピュアは、ふっと笑みをこぼした。

「き、れ、いーっ!」

 そう、美しくもか弱い声で叫んだラピュアを見て、ラファクスは口元に笑みを浮かべた。

 風を切りながら進むそこは、闇の中の二人だけの世界だった。病に侵され余命幾ばくもない人間の女と、世界の捨て札と呼ばれた悪魔の男の――……。

 しばらくの空中月歩を満喫した後、ラファクスはそうっとラピュアをバルコニーに下ろした。そしてそのまま去ろうとしたラファクスの手を、ラピュアが掴んだ。

 すっかり冷え切っているその手の感触に、ラファクスはどきりとする。

「貴方は私にとって、捨て札なんかじゃないわ」

 真剣な眼差しでラファクスを見上げたラピュアが、そう告げた。

「だから、また来て。お願い、また私に会いに来て」

「ありがとう」

 その言葉に、ラファクスはそっとラピュアの額に唇を落とした。そして天高く飛翔し、消えていった。


 レシティカは何をするでもなく、膝の上で開いたままになっている分厚い本を指でなぞっていた。その目が視ていたのは自分の世界の一部――一人の悪魔と一人の人間の交流の様子だった。

 ふ、と知らずに笑みがこぼれる。

「羨ましい、ラファクス。私にはできなかったことだ」

 呟きながら、その脳裏にふと古の記憶が蘇る。苦く、切なく、哀しい記憶。何もかもを手にしたレシティカが何もできずに死なせてしまった美しい女性――……。

「自分の命を投げ捨てる覚悟で、彼女を愛していたと思っていたのにな……」

 邪念を振り払うようにレシティカはかぶりを振った。そこにラファクスが悪魔界に戻ってきたのが視えた。沈みゆく太陽に赤く照らされた彼は、おそらく真っ直ぐここに来るだろう。

「彼は、どんな答えを見せてくれるのだろう――世界の捨て札と呼ばれた少年は」

 そんなことを呟いている間に、ラファクスが宮につく。タイミングを見計らってレシティカがぱちんと指を鳴らせば、ラファクスが部屋に出現していた。

「おかえり、ラファクス。夜のお散歩はどうだった?」

 その言葉に、ラファクスは気まずそうにレシティカを見た。

「……視ていたんですか?」

「ああ、視ていた」

 ラファクスはそっと肩をすくめる。そんなラファクスの様子を見て、レシティカはくすくすと笑った。レシティカは世界を視る者だ。隠し事などできるわけがなかった。

「やめた方が、いいですか? 彼女と会うこと……」

「君は彼女と約束したじゃないか」

 自分に気を遣って思い悩む様子のラファクスに、レシティカは笑みをこぼしてしまう。

「私に気を遣う必要はない。お前は、自分の道を歩め」

「はい」

 するとラファクスは思い出したように続けた。

「[永久なる血]を受け継ぐために、何かしなければならないことはありますか?」

 ラファクスの問いに、レシティカは首を横に振る。

「特にはない。しかし、全てを視る覚悟をすることだ。そしてそれを受け入れる覚悟も。嬉しいことも、楽しいことも、哀しいことも、辛いことも――この世界で起こること全て、君は視ることになる。時には目を背けたくなることもあるだろう。しかし、それを受け止めるのが、世界の主としての定めだ」

 レシティカの言葉に、ラファクスはうなずいた。

 少なくとも彼には、死にゆく彼女がいた。これから何がどうなるにしても、彼は彼女を最期まで見届ける気でいるのだろう。

「……あと」

 世界を視ていると、時折意識が遠くなる。レシティカは力のこもらぬ声で続けた。

「今度、アルエクス=ドラフトスを連れておいで。君の片割れを見たいから」

「わかりました」

 ラファクスにうなずき返して、レシティカは彼を宮の外へと送った。

 再び部屋に一人になったレシティカは、そっとため息をついた。一人でいると、時折自分が誰なのかわからなくなる。

 永久に生きることを、苦に思ったことはない。あの若い悪魔にも言ったように、世界が好きだったからだ。

 だが時折、一人が苦しくなる。レシティカは己の気持ちをごまかすように目を閉じて、しばしの眠りについた。


 翌日もまた、ラファクスは人間界にやってきた。バルコニーでラファクスを待っていた様子のラピュアが、不満げに顔をしかめた。

「昼間には来てくださらないの? 私、夜は眠らなくてはいけないのよ?」

「す、すまない」

 強い口調で言われ、ラファクスは思わず謝る。そして弁解するように続けた。

「悪魔界の昼は、こちらの夜なんだ」

「少しくらい夜更かししてもよろしいでしょう?」

 ラピュアは笑いながらそう言って、ラファクスに座るように仕草で示した。ラピュアの正面に座ったラファクスに、彼女は一切れの紙を渡した。

「これは?」

 どうやら何かの招待状であるらしい。

「明後日、この屋敷で舞踏会があるの。毎年開かれているのだけどね。それでね、私、最近体調が良いから、出ても良いってお父様に言われたの」

「良かったね」

 嬉しそうに話すラピュアは眩しいくらいに輝いていて、ラファクスは目を細めた。舞踏会で舞うラピュアは美しいんだろうなと考えていたラファクスだったが、ラピュアの突拍子もない一言でその思考が止まることとなる。

「ラファクスは、人間に化けられないの?」

「……は?」

 呆けた声を出すラファクスをよそに、ラピュアは熱心にラファクスの身体を探り出した。尖った耳、鋭い犬歯、鋭い爪、血色の悪い肌、なんといっても背中の翼――。

 それらを確かめたラピュアは一人で納得したようにうんとうなずいた。

「人間に変身できないの?」

 その言葉に何かを感じ取ったラファクスはなんともいえない顔になり、確認する意味で次の問いを口にした。

「まさか、俺と舞踏会に出ようと思っているのか?」

「もちろんよ」

 何を当たり前なことを訊くのだとでも言いたげにうなずいたラピュアに、ラファクスは頭が痛くなる。

「舞踏会ということは、大勢人が来るんじゃないのか?」

「うちの舞踏会は有名だから、あちこちから貴族達が集まるわ」

 ラファクスは苦笑した。

「だったら、そういうものには貴女の大切な人とでなくちゃならないだろう?大勢の人の前でペアになって踊るんだから……」

 きょとんとしたラピュアが、ラファクスを指差した。

「だから、貴方よ」

「?」

 ラファクスは目を瞬かせて彼女を見た。ラピュアはいたって真剣で、愛しい者を見るような目でラファクスを見つめた。

「私の大切な人は、貴方よ」

 それを聞いたとたん、ラファクスの胸の中がかっと熱くなる。

「私ね、他の殿方と話せる自信もないわ。凄く緊張して、気を遣って。それに哀れみの目で見られるのなんてまっぴら。でも、貴方なら大丈夫。貴方とじゃなきゃ嫌よ。だから明日、人間に化けてうちに来て。私がお父様に紹介するわ」

 嬉しいやら突拍子もないやらで、ラファクスは頭を抱えた。部屋で大笑いしているレシティカを容易に想像できて、げんなりした。

 そもそも、あまり屋敷を出ない娘が突然男を紹介するなど、どう考えても不自然だ。下手をすればラピュアの父親に殺されかねない。

「そんなの、無理があるだろ。大体、どこで出会ったことにするんだ?」

「そんなことはどうでもいいの。貴方は明日、こちらの昼間に現れて。もちろん、玄関からよ? そして明後日は私と一緒に舞踏会よ」

 胸を張って決めてしまうラピュアの強引さも可愛らしかったから、頭が痛かったラファクスも笑ってしまう。それに、嬉しかったのも事実だ。彼女に大切だと言われ、自分じゃなきゃ嫌だと言われた。ここまで自分を欲してくれる人に出会うのは初めてだったから、余計に哀しくなった。

 目の前でこうして笑っている彼女は、もうすぐこの世からいなくなってしまうのだ。

 そんな事実を忘れてしまいたかった。できるのなら、彼女にこれからもずっと元気に生きてもらいたかった。彼女に、幸せになってもらいたかった――。

 なぜ自分がここまで彼女に惹かれるのかはわからなかった。だけどわかっているのは、自分が今や完全にラピュアに惹かれているということだった。

 だからこそ、彼女がいなくなるとわかっているのは、凄く辛かった。いなくなってなど、ほしくなかった。

 そんなことを考えていたラファクスは、服の袖を引っ張られてはっとした。

「いいでしょう? 私、貴方が来ないのなら舞踏会には出ない」

 ラピュアは不安げに、すがるようにラファクスを見つめた。

「……わかった。ちゃんと来るから」

「本当?」

 ラピュアはぱっと顔を輝かせた。

「それなら、今すぐ化けて見せて。私に見せてよ、貴方の人間の姿」

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

 人間を惑わすときに使う術の一つなので、できることは確かだ。だが、なにぶん今までやろうとすら思わなかったので、うまくいくかどうかまではわからなかった。

 知識としては知っていても初めて口にする呪文を唱え、首をかしげた。すると身体が一気に熱くなり、苦しさを覚える前に――、一気に冷えた。

「まあ」

 ラピュアが感嘆の声を上げた。

「うまく、できてるか?」

 ラファクスは背中に手を回すが、そこに本来あるはずの翼がない。手を見れば、鋭い爪もなく、血色も良い。

 ラピュアが部屋から鏡を持ってきた。それを覗き込めば、顔の紋様もなく、血色も随分良い自分がいた。

「上手くいった」

「貴族の服を着て来てね」

「わかった」

 ラピュアの可愛らしい笑顔に負けて反射的に答えたラファクスだったが、よく考えるまでもなく人間用の貴族服など持っていなかった。考えながらも変身を解く。

「明日、お父様どんな顔するかしら。楽しみだわ」

 にこにこしながら言うラピュアだったが、ラファクスはきっと自分を殺したいと思うだろうなと思った。そこでふと気になっていたことを口にした。

「ラピュアは、いくつなんだ?」

「十八よ。ラファクスは?」

 質問を返されて、ラファクスは言葉に詰まる。

「えっと、十六になったばかりなんだけど……人間の齢だと、二十歳か」

 寿命も、流れる時間も違う人間と悪魔。だからこうして一緒にいるのは、随分不思議なものだと感じた。

 そして自分よりも年下なのに、ラピュアに残された時間は短く、自分には望むまで永久に近い時を生きる権利が与えられていた。

 そのあまりの不公平さに、ラファクスは苦しくなる。胸の中にもやもやとした渦ができて、それが嫌な振動となって心に伝わってきた。

 悔しくてどうしようもなかった。彼女に、何もしてやれない自分が。永遠の時間を生きられるという自分の血を、呪いたくなった。

「どうしたの?」

 突然黙ってしまったラファクスを、ラピュアが不安げに見つめた。

「いや、なんでもない……」

 ごまかすようにラファクスが言った途端、ラピュアが哀しげな顔をした。そしてみるみる泣きそうになる。

「今、可哀相だって思ったでしょう……」

 ラピュアの言葉に、ラファクスははっとして首を横に振った。

「嘘よ。貴方は、治るって言ってくれたのに……」

 ラファクスはさらにかぶりを振って、おもむろにラピュアの肩をつかんだ。

「治す」

 鋭い金色の眼光に貫かれて、ラピュアはびくりと身体を震わせた。

「え……?」

 ラファクスを見上げる瞳に、涙が浮かんでいた。ラファクスは唇を噛み締めた。

「確かに君の病は重たい。自然に治ることは……難しいと思う。だけど、俺が絶対に治す」

「……本当?」

 ラピュアは、震えていた。ラファクスには伝わっていた。ラピュアは、死が怖いのだ。

 死ぬことが怖くないのは、まじめに生きていない者くらいだ。かつての自分のように。一生懸命に生きているラピュアが、どうして死ぬのが平気でいられようか。怖いに、決まっているではないか。

「絶対に、君を死なせたりしない」

「……嘘じゃない?」

 ラファクスがうなずいて、ラピュアを抱きしめた。ラピュアはラファクスにしがみつく。その背をなでてやりながら、ラファクスの心は狂いそうなほどに締め付けられていた。

「治して。いくら時間がかかっても良い。お願いだから、治して。だから、これからもずっと一緒にいてほしい……」

「絶対に」

 ラファクスはラピュアの頭をそっとなでた。この人の命は、あまりにもか弱い。そしてあまりにも儚く、美しい人だった。――愛おしくて、たまらなかった。

 夜が、更けていく。

「絶対に、俺が治す。そしてずっと君と一緒にいるから」

「それじゃあ、また、明日」

 ラピュアは不安げにラファクスを見つめていた。しかし不安だったのはラファクスも同じだった。今放してしまえば、二度と会えないのではないかという恐怖が、心の奥から消えてくれない。

 ラファクスは真剣な面持ちで、ラピュアに顔を近づけた。そしてそっと口付けを交わすと、月に向かって飛翔した。


 自分の屋敷に戻ったラファクスだったが、アルエクスが出かけようとしているところに鉢合わせて驚いた。

「出かけるのか?」

「いや、少し外の空気を吸おうと思っただけだ」

 この弟はひどく出不精である。それが兄である自分に引け目を感じているせいだとも、ラファクスは気づいていた。

「出かけたいのなら、出かければいいだろう」

 自分に気を遣う必要なんてないと思っているのに、アルエクスはやはり何かを負い目に感じているらしい。

 そんな弟を、ラファクスは誘った。

「一緒に、中央の宮に来てくれないか? レシティカ様が、お前に会いたいと言ってる」

「ああ、良いぞ」

 うなずいたアルエクスだったが、兄から漂う香りに気づいて、かすかに顔をしかめた。自分には馴染みのないそれは、甘い人間の香りのように思えたのだ。それなのに、血の匂いを感じないことに、アルエクスは違和感を覚えた。

「それなら行くか」

「ああ」

 二人して並んで屋敷の外に出ると、二人を見た者達の反応は凄まじかった。蜘蛛の子を散らすように、去っていく民を見て、アルエクスが苦笑した。

「お前は、凄いな」

 こんな状況には慣れているラファクスは肩をすくめた。

「言っておくが、お前も一因だからな」

「それもそうか。俺も[残酷なる血]の一族には違いない」

 アルエクスは納得したように呟いた。

 面白いように逃げていく悪魔達を横目に、二人は中央の宮まで歩いた。考えてみると二人でこうやって歩くのは、初めてかもしれなかった。

「ここが中央の宮か……いやに派手だな」

 アルエクスが宮を見上げて顔をしかめていると、どこからともなく笑い声が聞こえてきた。

「誰だ!?」

 ラファクスにとっては聞きなれた声も、アルエクスには初めての経験。全く人の気配を感じないのに聞こえてくる笑い声に、困惑した表情を見せた。

「いらっしゃい、アルエクス=ドラフトス。今から部屋に招待するよ」

「なっ!」

 そしていきなり変わる景色――二人は、レシティカの部屋に来ていた。突然の出来事に困惑しているアルエクスをよそに、レシティカが嬉々としてラファクスに歩み寄った。

「ラファクス、服は持っているのかい?」

 自分が楽しんでいるかのようににこやかに言い放ったレシティカに、ラファクスは困ったように首を横に振った。

「服……?」

 アルエクスは不思議そうに兄を見た。

「華やかな服は持ってないです」

 レシティカは心底嬉しそうに笑うと、左手を一閃した。すると今まで隠されていたような奥の洋服ダンスが音を立てて開いた。そしてその中には、悪魔式のものから人間式のもの、男物から女物、そして身分から年齢までさまざまな洋服が揃えられていた。

「さてさて、私が見てあげよう」

 そして見た目も気にせずタンスに頭を突っ込む姿を見て、ラファクスは肩をすくめ、アルエクスはそんな世界の主の姿に唖然としていた。

「楽しんでますね」

 諦めたように笑っているラファクスに、アルエクスは一人だけ状況をつかめない。レシティカに手招きされ、ラファクスは彼の前にたった。そしてレシティカは、人差し指でラファクスの額に触れた。その瞬間、ラファクスの身体が人間の姿に化ける。

「に、んげん?」

 それは、アルエクスにとっては信じられない光景だった。

「ラフ、どういうことだ? 人間を毛嫌いしていたじゃないか……」

「アル、これには事情があるんだ」

 そう言って微笑んだラファクスに、アルエクスは唖然とする。

 そんな兄弟のやりとりに、レシティカがくすくす笑う。

「自己紹介が遅れたな。私はレシティカ、この世を統べる者。まあ、アルエクス。事情は後で説明しよう。だが今は、黙って見ていてくれ」

「はい……」

 レシティカが両手を動かせば、洋服がその動きに合わせてついてくる。それをラファクスに合わせる。華麗に何着もの洋服を操る姿に、ラファクスは感心した。そして気に入ったものがあったのか、レシティカは満足げにうなずく。そしてラファクスの髪の毛をいじり、小物を揃える。実に楽しそうなので、ラファクスは口を挟む隙もない。

「うむ、こんな感じで良いな。今夜の分と明日の夜の分を用意したぞ。なかなかに似合っている。さあ、これを着ろ」

 そう言ってレシティカがラファクスに触れれば、その姿が元に戻る。

「ありがとうございます」

 着替えようと服を脱ぎかけたラファクスに、レシティカが声をかけた。

「だが、彼女の病を治すことは難しいぞ」

 ラファクスの手が、止まった。

「……わかって、います」

 そして、着替えを再開した。先ほどから飛び交う奇怪な単語に、アルエクスは一向に状況が理解できない。

「二人とも今夜はここへ泊まっていけ。ラファクスはもとよりそのつもりだろうし、アルエクスも状況を把握したいだろう。大丈夫、寝具も全てそろっている」

 双子は同時にうなずいた。

「さて、ラファクス、今日は世界の視方を教えよう。アルエクス、少し隣の部屋で休んでいてくれ」

 返事を待たずにレシティカが右手を振れば、一瞬でアルエクスの姿が消えていた。

「お前も、世界を統べる者になればこのような術は使えるようになる」

 洋服ダンスを片付けながら言ったレシティカの背に、ラファクスが声をかけた。

「彼女の病、治す術はありますか?」

「死は防げない」

 間を空けずに返答があった。そして、その答えはラファクスを打ちのめすのに充分なものでもあった。

 しかしレシティカはこうも続けた。

「お前の血はな、心臓も加えてだが、悪魔の身体でなら永遠に生きる糧になる。しかし、人間の身体に入れば長寿になるだけのものだろう。そして病に蝕まれた彼女の身体にそれが入れば普通の人間の寿命になるだろうな」

 じっとレシティカのどこを見ているかわからない瞳がラファクスを見つめている。そしてラファクスも、その目を見つめ返していた。

 レシティカの言葉の意味は、きちんと伝わっていた。

〝俺の心臓を、彼女に……?〟

 ラファクスの心臓が、早鐘を打つ。手が震えるほどに動揺していた。そんなラファクスの頭を、レシティカがなでる。

「他人のために、命を投げ売らなくても良い。それがいくら愛する相手でも、いつかは死が二人を別つのだから」

 そう言ったレシティカは、どこか自分を責めているようだった。

「私はかつて、種族の違いこそあれど……お前と同じ状況だったことがある」

「え……?」

 今まで飄々としていて、つかみどころのなかったレシティカの突然の告白に、ラファクスは驚く。

 レシティカは自嘲気味に続けた。

「私は、彼女に自分の心臓を与えることはできなかった……そして、彼女もそれを望まなかった」

「……望まなかった?」

 レシティカは悲しみに顔を歪ませながらうなずいた。

「彼女がそうやって生き長らえても、その後の世界に私がいないのは嫌だと――」

 ラファクスがレシティカを見上げた。

「それなら彼女がいない世界は、辛かったでしょう」

 ラファクスの言葉に、レシティカは目を見開いた。

 まさに、そうだった。自分の命を与えれば、彼女が辛い思いをする。自分が生き残れば、自分が辛い思いをする――そして、レシティカは気の遠くなるほどの時間が過ぎた今でも彼女を忘れられないでいるのだから。

 ラファクスはうつむいた。

「俺は、まだ戸惑っています」

「……彼女への想いに?」

 そっとうなずいたラファクスは続ける。

「生まれてこれまで、誰かを愛しいと思った事はありませんでした。だから、これが愛しいという感情なのかはわからない。ただ、彼女には生きて欲しい。彼女には、笑っていて欲しいんです」

 苦しげに言葉を紡ぐラファクスに、レシティカは優しい声をかけた。

「それを、愛しいというのだ」

「では何故?」

 ラファクスは不安げにレシティカを見た。

「俺は、今まで人間なんか虫けらだと思ってた。今も、そう思う。そんな人間を、愛すというんですか? 彼女を見た瞬間、俺の時が止まった。でも、それならどうして人間なんかだったんでしょう、どうして、彼女だったんでしょう」

 レシティカは笑って、ラファクスの銀の髪に触れた。

「心というのは、説明がつかぬものなのだよ、ラファクス」

 縋るようにレシティカを見つめるラファクスに、レシティカは微笑む。

「いくら嫌いだと思っていても、一瞬の後には惹かれている自分がいるのだ。胸の高鳴りを感じている自分がいるのだ。理由などない。それは魂と魂の出逢いなのだから――。ほら、時間だ。彼女が待っているだろうよ」

 ラファクスはうなずいて、身支度をするとそっと部屋を出て行った。そんなラファクスを見送り、レシティカは胸に手を当てて呟く。

「まるで、若い頃の私を見ているようだ――。……アルエクス」

 ぱちんと指を鳴らすと、アルエクスが部屋に出現した。

「こちらにおいで」

 突然変わった景色に目を慣らしていたアルエクスだったが、レシティカに呼ばれて一緒に水柱を覗き込んだ。そこに映し出されている、彼にとっては馴染みのない町並み。

「これは……? あ、ラフ」

「これは、人間界だ」

 アルエクスは人間界にいるという兄の姿を凝視した。突き刺さるような包む込むような暖かな日差しの中を、ラファクスが空高く飛んでいる。

「……先ほどから奇異な単語が聞こえましたが、まさか」

「見ていればわかる」

「……はあ」

 アルエクスは、良いように言いくるめられた気分になりながらも、水柱の光景を食い入るように見つめた。


 そしてアルエクスが疑問を抱いている頃、ラファクスははやる思いで眩しすぎる日光の下を飛んでいた。初めて陽光の下で見る人間界はまた違った雰囲気で、活気に満ちていた。

 そしてラピュアの屋敷に着くと、バルコニーを覗いた。部屋の中にいたラピュアを見つけてとんとんと扉を叩けば、ラピュアがラファクスに気づいて出てきた。

「こんにちは! 本当に来てくれたのね」

「今から行くから」

 声が弾んでいるラピュアに微笑みかけたラファクスは、屋敷の外の人目につかない場所に降下し、人間の姿に化けた。ラピュアは逸る気持ちを抑えて、玄関に向かった。そこに来訪者を告げる呼び鈴が鳴る。

 使用人が扉を開けた。

「どちら様ですか?」

「あ……」

 何と言えば良いのかわからず言葉に詰まったラファクスを、使用人が胡散臭い目で見た。

「ラファクス!」

「お、お嬢様?」

 普段、部屋から滅多に出ないお嬢様が玄関に現れ、使用人は驚いた。しかしラピュアには、正装に身を包んで精悍な表情を見せるラファクスしか目に入っていなかった。

「お嬢様、こちらは?」

「こちら、私のことをずっと手紙で励まして下さった貴族様なの。とても遠くに住んでいらっしゃって、今日は遠路はるばる来てくださったの。明日の舞踏会のために!」

 ほんのりと頬を染めて興奮して話すラピュアを、使用人が珍しいものを見るように見つめる。そしてどうしても気になるようで緊張している様子のラファクスを盗み見ていた。

「ねえ、貴方、お父様を応接間に呼んでくださる?」

「かしこまりました」

 ラピュアはそっとラファクスの腕を取った。

「さあ、ラファクス様、こちらへ」

「様……?」

 小声で呟いたラファクスの戸惑いは、幸い使用人には届かなかったようだ。

 応接間までの道を並んで歩く二人を見て、他の使用人達も驚いたようだった。それも無理もない。病気のお嬢様と見知らぬ男が一緒にいるのだから。

 ラファクスはそんな視線を気にせず、初めて見る屋敷の中を観察していた。豪勢な屋敷で、あちらこちらに高級そうなアンティークの装飾品が飾られていた。

「こっちよ」

 応接間に入って扉を閉めると、ラピュアが歓声を上げた。

「ラファクス、とっても素敵!」

 そっとラファクスに近寄って、ラピュアはラファクスに触れた。

「ここ、襟が……」

 ラピュアがおかしな方向を向いていた襟を直した。そのラピュアを見下ろし、ラファクスは切ない気分になった。

 一生懸命に生きている彼女を抱きしめたい衝動に駆られたとき、扉を叩く音がして二人は離れた。

「ごきげんよう、ラピュア」

 そこに金髪の紳士が入ってきた。背筋を伸ばし、教養を感じさせる深い声で挨拶をする。翡翠色の瞳で目尻に皺が見て取れるが、年齢を感じさせない人だった。

「ごきげんよう、お父様」

「そちらは?」

 ラピュアが会釈をすると、金髪の紳士はラファクスを見て尋ねた。

「ラファクス様、遠い北の貴族様なの。こちら、私の父の――」

「テューデル=クラファイアだ」

 テューデルは嬉しそうな娘の様子を見て微笑み、ラファクスに自己紹介をした。

「ラファクス=ドラフトスです。本日はどうも」

 ラファクスが深々と頭を下げる。しかしラファクスの名を聞いた途端、テューデルの顔が険しくなった。

「ラピュア、しばらく席を外してくれないか?」

「わかりました」

 突然険悪になった雰囲気に、ラピュアは不安そうに部屋を出た。それを見送ったテューデルがラファクスをじっと見つめる。

「ドラフトス、聞いたことのない名前ですな」

「……遠方の貴族の名ゆえ」

 テューデルの睨みつけるような視線に、ラファクスは言いようのない不安を覚える。

「我らの家は、代々騎士の家系なのだ。大昔から続く、な」

 テューデルの声に険が混じり、ラファクスはとっさに身構えた。それは、殺気にも似た気迫――。

「……昔からの言い伝えがある。かつて王都に各地から有能な騎士達が集められた。突如現れ、無差別に虐殺を始めた残忍な怪物の討伐のためにな。殺すだけ殺して満足したのか、そのドラフトスという名の悪魔は消えた」

 ラファクスの背を、嫌な汗が流れた。

「騎士の家系では必ず言い伝えられている有名な話だ。どこの土地から来たかは知らぬが、そのような悪魔の名が貴族の名となるだろうか? お前、娘をたぶらかす悪魔だろう!」

 ラファクスが一瞬怯むほどの声量と気迫だった。

「違います!」

 負けじとラファクスが叫び返したのは、ラピュアのためだった。しかし次の瞬間にはテューデルの拳がラファクスを殴り飛ばしていた。

 思い切り吹き飛ばされたラファクスは、飾られてあった骨董壷にぶつかり、盛大な音を立てて壷は割れてしまった。ラファクスがはっとテューデルを見た。

「ならば、何故貴様の瞳は縦に割れている!」

「っ!」

 怒りに震えるテューデルの言葉に、ラファクスは息を呑んだ。

「お父様っ!」

 物音を聞きつけたのか、ラピュアが部屋に飛び込んだ。

「ラファクス……っ!」

 そして壷の破片の中央で倒れるラファクスを見て、ラピュアは彼の元へ向かった。

「離れろ! ラピュア! それはお前を殺しに来た悪魔だ!」

「違うの!」

 叫び返したラピュアに、テューデルは驚く。ラピュアはラファクスに手を貸して立ち上がらせた。

「お父様、嘘をついてごめんなさい。ラファクスは、確かに悪魔なの……」

「な……」

 すまなそうな声で続けたラピュアに、テューデルは言葉を失った。

「私、知ってたわ。だって、悪魔だと知っていながら彼と接していたんですもの。ずっと前から」

「何故……っ」

 娘の信じられないような告白に、テューデルは目を剥いた。ラピュアは必死の体で続けた。

「彼は、私の病気を治るって言ってくれたから……っ」

 その言葉で、テューデルの顔が怒りで赤く染まった。

「貴様、戯言をっ!」

「やめて!」

 再びラファクスに殴りかかろうとしたテューデルを見て、ラピュアはラファクスに覆いかぶさるようにしてかばった。

「お父様、聞いて!」

「そこをどきなさいっ」

「彼は、私の大切な人なの!」

「っ」

 テューデルは正気を疑って己の娘を見た。しかしラピュアの瞳は真っ直ぐにテューデルを見つめ返している。

「治すって言ってくれたの。私の病を」

「何……」

 ラピュアは切れているラファクスの頬に触れ、その血をぬぐった。しかし納得のいかないテューデルは怒髪天を衝く形相で叫んだ。

「貴様、どれだけ娘を傷つければ……っ!」

「治す!」

 そこで初めて、ラファクスが叫び返していた。金色の鋭い眼光がテューデルを見つめ返す。

「ラピュアの前では嘘はつかない。俺には治せる、彼女の病気!」

「戯けたことを抜かすな!」

 間髪を入れずに飛び交う咆哮のような叫びに、ラピュアは身をすくめた。

「俺は確かに悪魔だ、だけどラピュアを殺しに来たわけじゃない!」

「ほざけ、悪魔は殺すのが仕事だろうが!」

「治す!」

 ラファクスの気迫に、今度はテューデルが怯んだ。そしてその真っ直ぐな瞳を見た。

「どんな言葉で説明すれば良いのかもわからない」

 うまく言葉に出来ないもどかしさに震えながら、ラファクスが続ける。

「確かに人間なんてどうでもよかったし、今でもどうでもいいと思っているが、ラピュアは違うんだ。俺は、彼女を助けたいと思った」

 ラファクスは自分の身体が燃えあがるのではないかと思うほどの激情を感じていた。

「殺したい、じゃない。この俺がだぞ? あんたの言う、ドラフトスって悪魔の末裔が!」

 テューデルだけでなく、ラピュアも驚いてラファクスを見た。

「この、世界の捨て札と呼ばれた俺が、[残酷なる血]に生まれて向こうでも恐れられ、疎まれていた俺が! 脆弱な人間を愛しいと思ったんだ。ラピュアが、大切だと思ったんだ! 嘘などつくわけがないだろう! 彼女の命を助けたいと思って、何が悪いっ!」

「ラファクス……っ」

 ラピュアがラファクスに抱きついた。肩で息をしているラファクスの身体は、興奮でひどく熱い。とても――。

 テューデルはしばし沈黙した後、ラファクスに向かって右手を差し出した。

「殴って、悪かった」

「……」

 ラファクスは無言でその手を取って立ち上がる。ラピュアがその服についた埃を払った。

「娘を、頼む。ラファクス=ドラフトス」

「お父様っ!」

 未だ険しい顔だったがそう言った父に、ラピュアは顔を輝かせた。

「ラピュア、もう殴らないと約束するから、ちょっと二人で話させてくれ」

「はい、部屋に戻ります」

 頭を下げて出て行ったラピュアを見送ると、テューデルは幾分表情を和らげた。

「すまなかったな」

「いえ……」

 ラファクスは頭を振る。テューデルはラピュアが出て行った扉を見つめ、遠い目で呟いた。

「私には、何もできないのだ」

 ラファクスはテューデルを見た。

「娘があんなにも嬉しそうに、楽しそうに笑っているのを久しぶりに見た。私が彼女に与えられないものの一つだ……」

 テューデルは疲れたようにどっと椅子に腰掛け、両手で顔を覆った。

「あんなに若いのに、好きなこともできず……ただ、死を待っているんだ。私にはそれを治してやることもできなければ、励ましてあげることもできなかった」

 テューデルはラファクスの手を握った。

「治ると、そんな一言さえ言えなかったんだ。安易な嘘は彼女を傷つけるから。それを――」

 ラファクスの手を握る手に、力が込められる。

「ありがとう」

 テューデルは泣いていた。泣きながら、口元に笑みを浮かべていた。

 どれだけこの人は辛いのだろう。最愛の娘が死を待つしかないというのに、何もできない。もどかしく、悔しく、辛いのだろう。きっと、代わってやりたいと思っているのだろう。それなのに、何もできない――。

「ありがとう……」

 ラファクスが娘を笑顔にしているということが、どれだけの救いになっているのだろう。それは、テューデルにしかわからないことだった。

「あの子の笑顔を見せてくれて、ありがとう。どうかお願いだ。彼女を支えてやってほしい。彼女がどうなるのかはわからない。だがせめて、彼女が死ぬまで一緒にいてやってくれ。彼女を、娘を、愛してやってくれ。私達には、もう彼女を笑わせてやることも、できないんだ……」

「はい」

 そんなテューデルに、他に何が言えようか。ラファクスは切なくなって、うなずいた。

「明日の舞踏会、娘と舞ってくれ。あんなに楽しみにしていた理由がわかった。君がいたからだったんだな」

 そう言うと、テューデルは涙をぬぐい、ラファクスの手を解放して立ち上がった。

「君の嘘、わかっている」

 ラファクスははっとテューデルを見た。

「悪魔にも、娘を治すことなどできないだろう。だが、これだけは約束してくれ。娘の最期まで、添い遂げると――」

 ラファクスは、うなずいた。

 二人が一緒に部屋を出る。そしてテューデルは肩をすくめた。

「年頃の娘の部屋に男を通すのも変な話だが、行ってやってくれ」

 ラファクスも苦笑して、そのまま屋敷を後にした。そして変身を解いてバルコニーからラピュアの部屋に向かった。

「邪魔するぞ」

「あ、ラファクス!」

 ラピュアがラファクスを部屋に招き入れる。そして心配そうに、彼を見た。

「どうだった? お父様、怒らなかった?」

「娘を頼むって、言われた」

 ラファクスがそう言うと、一瞬きょとんとしたラピュアの顔がみるみる赤く染まっていった。そして恥ずかしそうに俯いてしまう。

「君や、テューデルに頼まれたから一緒にいるんじゃない」

 そう言って、ラファクスはラピュアの頭をなでた。

「俺の意思で、一緒にいるんだ」

「いいの?」

 ラピュアの問いに、ラファクスは首をかしげた。ラピュアは顔を赤らめながら続ける。

「私、わがまま言ってるわよ?」

「全然、わがままなんかじゃない」

 ラファクスは微笑む。

「私、ラファクスのこと大好きになりますわよ?」

「俺も、ラピュアのこと大好きだ」

 ラファクスはそっとラピュアの髪に触れた。

「私、愛してしまうわよ?」

「俺もそれだけ君を愛する」

 ラピュアの目から、涙がこぼれた。それをぬぐったラファクスは困惑する。

「これは、泣くところか?」

「ち、違う……嬉しいの」

 ラピュアはそっとラファクスの胸に顔を埋めた。

「私、今まで人を好きになったことなんてなかった。でも、私、ラファクスのこと大好きなの」

「俺も、同じだ」

 ラファクスは優しく微笑んで、その身体を抱き返した。

 永遠に、この時が続けば良いと思った――。


 ラピュアと別れてレシティカの部屋に入ったラファクスを、アルエクスの視線が迎えた。気味が悪いものを見るような、そんな視線で。

「見せたんですか?」

 部屋の奥にいたレシティカは、笑ってうなずいた。

「……あれは、幻か?」

「幻でもなんでもない。俺は、ラピュアにこの身を捧げるつもりだ」

 かすれた声で尋ねたアルエクスに、ラファクスは微笑みながら答えた。

「何を、何をふざけてるんだ、ラフ!」

 アルエクスが真っ青になって悲痛な声で叫んだ。

「人間だぞ、ただの餌だ! それを、愛すだと?」

 ラファクスの目がすっと細められる。

「俺にとって、ラピュアは一人の女性だ。とても、大切な」

 アルエクスはわけがわからないといったふうにレシティカを見た。

「ラフに一体何をしたんですか! 今までのラフなら絶対にこんなことは言わなかった!」

「アル、これは俺の意思だ」

 ラファクスの強い言葉に、アルエクスがはっと息を呑む。そして、俯いた。

「……後悔、しないか?」

「後悔なんかしない。安心しろ」

 その言葉に、アルエクスは納得しないながらも、うなずいた。

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