第一章 残酷なる死に神の出逢い

 紫色の空に浮かんでいる暗い色の太陽が、くすんだ石畳を照らしていた。


「お母さん待ってよ!」

「ほら、早く」

 公園からの帰り、小さな子供が母親の後を追いかけている。母親は微笑みながら、わが子を待っていた。

 それはどこでも見られるような光景、ただ彼らが悪魔であるということ以外は。


 悪魔といえども、彼らには人間と同じような生活がある。自然の摂理で生を受け、その命を生き、そして死んでいく。ほとんどの悪魔がそうやって平穏に生きていく。

 しかし数こそ少ないが、中には人間や同じ悪魔の生血を、命を喰らう者もいた。そういった悪魔達は同種からも忌み嫌われ、畏れられている。


 庶民階級の家が立ち並ぶ街中で、だらしのない格好をした若い悪魔達が、人通りのほとんどない道を塞ぐように集まって話をしていた。他愛もない話で、笑いあっている。

「それでな、エチブが言ったわけだ」

「はは、なんて?」

 そのとき、ふと近づいてくる気配に気づいた一人がはっと息を呑んだ。

「おいっ……道を開けろ」

 焦ったような声に、そちらを見た彼らは慌てて道を開けた。そこを通りかかったのはまだ年若い悪魔だった。肩にかかるくらいの銀の髪は鈍い太陽の光を受けて煌き、その表情を宿さない顔の左側には目の上と下にまたがって紋様が浮かんでいた。畳まれた左翼の付け根には月をモチーフにしたピアスがついている。

 そのいでたちに、若い悪魔達は震え上がった。彼の視線が自分達に向かぬようにひっそりと息を潜め、出来うる限り気配を消した。

 そんな彼らのことを気にするふうでもなく、虹彩が縦に割れた黄金の瞳はわき見などせずに真っ直ぐと前を見ていた。彼の道を塞ぐものは何もない、はずだった。

「ヒーシャ……っ!」

 女の悲鳴のような声と同時に、何かが彼の足にぶつかった。

「いてっ……」

 ぶつかってきたのは子供だった。彼はすうっとその目を細めて立ち止まる。若い悪魔達が震え上がり、息を呑んでその様子を伺っていた。

「も、申し訳ありません……っ」

 母親が我が子を抱えて、地に額をつけるほどの勢いで頭を下げた。その瞬間、彼は子供ごと母親を蹴り飛ばした。

「っ……!」

 ありえない力で吹き飛ばされ、母子は地べたに倒れこんだ。そして彼は何事もなかったかのように歩き出す。その間、彼が表情を変えることは一度もなかった。

 彼は周りの者から死に神と呼ばれ、畏れられていた。それは彼の持つ血と所業のせいだった。

 ただ歩いているだけで、みなが避ける。凄んでいるわけでもないのに滲み出る威圧感と力量に、ただの悪魔達はそれだけで震え上がるのだ。

 やがて彼は貴族の屋敷が立ち並ぶ通りへと入っていく。弱い者に対して傲慢である貴族達も、彼をひどく畏れていた。

 昼間だというのに辺りは静かで、誰もが息を潜めている。

 彼が己の屋敷の門へと消えていくのを見届けると、あちこちから安堵のため息が漏れた。


 屋敷に帰ってきた彼は、身なりを整え姿勢を正した。

「只今帰りました」

 静かながらも良く通る低い声で、彼は告げた。特に反応を期待していたわけではなかったのか、そのまま自分の部屋へ向かう。

 階段を上っていたところ上から人の気配がして、彼はそちらを見た。降りてきたのは彼と同じ容姿をした少年だった。

「おかえり、ラフ」

 感情のこもらない単調な声をかけ、その少年が彼を見た。二人の相違点は少年の紋様が顔の右側にあるということくらいだ。二人が向かい合えば、鏡にでも映しているようにも見える。

 彼らは、双子だった。彼の名はラファクス=ドラフトス、少年の名はアルエクス=ドラフトス。生まれた順番の上ではラファクスが兄だ。

 彼らは共に十五歳。そして明日、十六になる。だが悪魔の年の数え方と人間の年の数え方とでは時の流れ方と寿命が違うので、人間の年齢に換算すると二十歳くらいだ。

 ラファクスは、そっとため息をついた。

「飽きた」

 そう言って再び階段を上りだすラファクスと、その隣に並ぶアルエクス。

「なんか、もう見るものがない」

 憮然と告げられた彼の言葉に、アルエクスはにやりと笑った。

「ラフは外へ出すぎだ。それとも、血肉を貪るのは飽きたのか?」

 アルエクスの言葉に、ラファクスは不気味な笑いを浮かべた。

「あの味に飽きることなどないだろう。汚れきった人間の血は、美味い。腐りきった悪魔の血も同様にな」

 くっくっ、と喉の奥で声を鳴らし、聞く者が底冷えのするように笑う。

「[残酷なる血]、それが俺の中に流れているだけで、誰もが俺を避けるようになる。面白いな。今に俺は、お前ですら手にかけるとでも思っているんじゃないか」

 その言葉にアルエクスは顔を歪めた。

「俺がお前に殺される? そんな馬鹿なことがあるか」

 ラファクスの言葉を鼻で笑い飛ばすと、アルエクスは続けた。

「皆は血を畏れているわけではない。お前を畏れているんだ」

「捨て札の俺をか?」

 ラファクスの一言に、アルエクスははっと息を呑んだ。今までの余裕が一瞬で消え去り、もともと血色のよくない肌がさらに蒼白となる。やがてどうにか言葉を紡ぎだした。

「……違う。外に良く出て餌をあさっているお前だ」

「違いない」

 挙動不審なアルエクスを気にするでもなく、ラファクスは静かに言った。しかしアルエクスの方はまだ動揺しているようだった。

 二人がそれぞれの部屋に向かっているとき、ちょうど部屋から出てきたらしい母親が通りかかった。

「二人とも、今日は早く寝なさい。明日、とても大切な話があります」

 抑揚に乏しい声で、母親が二人にそう告げた。

「「はい」」

 二人がうなずいたのを見て、母親はその場を去った。アルエクスは不思議そうに首をかしげる。

「話って、何だろうな?」

「さてな」

 ラファクスは何の関心もないようだった。

「じゃあな」

「ああ、おやすみ」

 感情のこもらぬ声でアルエクスに就寝の挨拶をし、ラファクスは自分の部屋へと入っていった。


 ドラフトス家は、悪魔達の中でも知れ渡った旧家で、[残酷なる血]を受け継いだ一族である。

 長寿である悪魔の世代も数世代ほど遡る大昔、悪魔界と人間界を共に揺るがす大量殺戮が起こった。人も悪魔も関係なしに、無差別にその血肉を貪り、殺した。いずれその悪魔は、人間界の騎士達と人間界に出向いた悪魔達によって倒されたのだが、その被害は尋常ではなかった。

 [残酷なる血]とは、この悪魔を起源とした血族のことだ。


 翌朝、食卓についたのは双子と母親だけだった。当主である父親は、数日前から出かけていた。

 二人がそろっているのを確認した母は、相変わらず抑揚のない声を紡いだ。

「ラファクス、アルエクス、まずはお誕生日おめでとう」

「「ありがとうございます」」

 二人も感情の篭らぬ声で答える。

「貴方がたが生まれた晩、この屋敷に来訪者がありました」

 普段、感情など表に出さぬ母親の顔が少し緊張しているのに気づき、ラファクスとアルエクスは顔を見合わせた。

「その方は突然わたくしの部屋へといらっしゃいました。雷雨の激しい夜更けのことでした」

 その抑揚のない声が震えていた。今までなかったことに、二人は顔をしかめる。

「そして、こうおっしゃったのです。顔の左に紋様の在る子を我が宮に、と」

 顔の左に紋様の在るラファクスが顔を上げた。

「どういう意味ですか、母上」

 母は長年秘めていたものを告白した安堵からか、そっとため息をついた。

「ラファクス、貴方は[永久なる血]を持っているのだそうです」

 ラファクスの黄金の目が見開かれる。その様子を、アルエクスが伺っていた。

「その来訪者とは、レシティカ様、現在の[永久なる血]の継承者、そしてこの世を統べる方ですわ」

 それを聞いたラファクスは、何も言わなかった。じっと母親を見つめている。

「ラフ、凄いんだな、お前」

 アルエクスが呟く。しかしラファクスの方は面倒なことを押し付けられたと感じたようだ。

「で、あの方の宮へ行け、と?」

「そうです。貴方はあの方のもとで[永久なる血]の後継者となるのです」

 ラファクスは馬鹿馬鹿しいとでもいうふうに鼻を鳴らした。

「[残酷なる血]を持つ者が[永久なる血]の後継者ですか。そんな馬鹿らしいこと……」

「行くのです、ラファクス」

 ラファクスの言葉を、母が有無を言わさぬ声で遮った。

「この世で彼に逆らえる者などおりません、この[残酷なる血]の一族でさえも」

「……ふん」

 ラファクスは忌々しげに鼻を鳴らした。

「捨て札ですものね、俺は」

 母がはっきりと顔色を変えた。

「貴方は捨て札などではありません!」

「この家にはアルエクスがいる。捨て札の俺など必要ないんだろう」

 ラファクスは乱暴に立ち上がり、母に背を向けた。

「中央の宮へ行ってきます」

 母は、その背に言葉をかけることが出来なかった。

 この若い悪魔は、これから己が歩む道を知らずに、自分の生まれ育った屋敷を出て行ったのだった。


 ラファクス=ドラフトスは死に神という忌み名のほかにも、世界の捨て札と呼ばれている。その残忍性から要らない悪魔という意味もあるのだろうが、本当の理由は悪魔に伝わる生誕前の占いのせいだ。

 悪魔達は子供が胎にいる間に札占いをする。ドラフトス夫妻の子が双子であることはわかっていたので、優秀な占い師を呼び、荘厳な雰囲気の中占いが行なわれた。

 双子とのことで二度占いが行なわれたのだが、最初に出た札が問題だった。占いで使われるはずのない札、出るはずのない捨て札、すなわちJOKERが出たのだ。二度目の占いで出た札は困惑と理解を示す札だった。

 このことによって先に生まれたラファクスは世界の捨て札と死に神という忌み嫌われる二つの呼び名を持つこととなった。

 生まれた順番次第では己がその忌み名を受けたであろうアルエクスは、ラファクス以上にそのことを気にしていたのだった。


 中央の宮、それは悪魔界を支える役所のような場所だった。全ての機関がここに集まっている。そしてその屋敷の一番奥に、代々の[永久なる血]を継ぐ者が住まうのだった。

 その荘厳な宮の前に立ち、ラファクスは思案顔で建物を見上げていた。生まれて初めて来たこの場所でどうすればいいのかわからなかったせいもあるが、[残酷なる血]の一族である自分が[永久なる血]を持っているということに納得していないというのが本音だった。

 ラファクスがやはり帰ろうかとも思い始めたときのことだった。

「入れ、[残酷なる血]を継ぐ者」

 どこからともなく、聞いたことのない男の声がした。訝しげな顔をしてラファクスが辺りを見回すが、彼の周りには誰もいない。

「どこにいる?」

 警戒を顕わにした低い声で呼びかけるが、返事がない。

「この世を統べる者、か……」

 誰も逆らえないという母親の言葉が頭をよぎり肩をすくめたらファクスは、仕方なしに宮へと入った。

 初めて入ったそこは、大理石と金銀宝玉で彩られたいやに派手な場所だった。半球型の空間に、いくつもの廊下が入り口からは先が見えぬほど続いていた。廊下にはそれぞれ数え切れぬほどの扉があり、何人もの正装をした悪魔が部屋を行き来している。

 入り口に立ったままのラファクスは顔を歪めた。彼は派手なものが好きではなく、綺麗なものは好みではなかったからだ。

「ここは綺麗だろう、ラファクス=ドラフトス」

 自分の後方から声が聞こえた気がして振り向いたラファクスだったが、一瞬のうちに自分がくぐったはずの玄関が消えていた。

「それとも、綺麗なものは嫌いか?」

「っ?」

 それどころか、いつの間にか彼は薄暗く、部屋の中央に下から上へと流れる水中のある妖しげな部屋に立っていた。

「……誰だ?」

 冷静沈着、極悪非道といわれる死に神たるラファクスが、軽い驚きと焦りをこめて尋ねた。しかし、この部屋には他に誰かがいるような気配がしない。

 ラファクスは警戒しながら部屋を観察した。

 部屋の奥には淡い光を放つ水晶が見えた。良く見れば壁の一部が結晶化しているようだ。他の壁という壁は本棚に覆われ、そこに収まりきらなかった本や、占いに使われる球や札が乱雑に置かれている。圧巻なのはやはり部屋を縦断している水柱だった。物音も立てずに水が自然の摂理に逆らって流れている。

 首をかしげたラファクスは、ふと横にあった椅子に誰かが座っているのに気づいた。というよりも、ラファクスの目には彼が突然そこに現れたかのようにも見えた。静かにこちらを見ているのは、男とも女とも判別がつかぬ中性的な顔を持つ綺麗な男だった。

 その瞳を見たラファクスは当惑する。どこを見つめているのか判別しかねるような、それでいて何もかもを見つめているような、どこか現実離れしている男だった。

 唖然としてその男を見ているラファクスを面白がるように、男は長い髪をさらさらと流して小首を傾げて笑った。

「レシティカ、この世を統べる者」

 そう流れるような声で言った。それは美しい旋律のような声だった。ラファクスは睨みつけるようにその男を見た。

「貴方が、[永久なる血]の……?」

 レシティカは不敵な笑みを浮かべながらうなずいた。そして緩慢な動きでゆっくりと腕を上げて、ラファクスの胸元を指差した。

「お前もまた、[永久なる血]を持つ者よ」

 指を指されたラファクスは、不可解そうに、いやむしろ不愉快そうに顔をしかめた。

「冗談でしょう。俺は[残酷なる血]の一族だ。それに、世界の捨て札と呼ばれてるのも貴方はご存知だろう」

 そんなラファクスを、レシティカは気に入った玩具を見つめるような目で見つめた。

「生まれも占いも関係ない。お前は永遠に近いときを生きることができる血を持っている、それだけが重要なこと。そしてそれは、この世界を統べる者の証――」

 謡うように告げたレシティカが、そっと奥の水晶の塊を指差した。反射的にラファクスがそちらを見れば、そこには脈打つ血脈があった。水晶の中で蠢くように脈打っている血液。しかし心臓は見当たらない。ラファクスはそれに目を奪われた。その脈動が、なぜか子守唄のように心地良くて――……

「[永久なる血]を持って生まれてくるものは少なくない」

「っ?」

 ぼんやりとしていたラファクスは、レシティカの言葉にはっと我に返った。レシティカは人差し指を空中に何かを描くように動かした。

「[永久なる血]を持つ者は、生まれてくる数人の中から一人選ばれ、こうして世界に息吹を与えるのだよ。選ばれなかった者はいたって普通に一生を生きるのだ。多くが、自分がそのような特別な血を持っているとなど知らぬままに。夢にも思わずにな」

 そう、美しい旋律のような声で続けた。

「それじゃあ……あれは、貴方の?」

 唖然としているラファクスの口から呆けた声が漏れる。レシティカはくすくす笑うだけで答えなかったが、おそらくあの水晶の中の血液はレシティカのものなのだろう。

「[永久なる血]など持っていても、普通ならただ死ぬだけだ。普通の悪魔と何も変わりなどない。導かれない限り、ただ死ぬ。しかしお前は私が選んだ。だからお前は永き時を、お前がやめたくなるまでの永き時をその血を持ってして生きるのだ」

 その言葉に、我を取り戻したラファクスがレシティカを睨みつけた。

「……アルはどうなんです。俺の双子の弟だ。同じ卵から生まれたんだから、アルも[永久なる血]を持っているんじゃないんですか?」

 しかしレシティカは何も言わない。ただ笑みを浮かべて、ラファクスを見つめているだけだ。ラファクスはもどかしげに二の句を紡いだ。

「何故、俺を選んだんです?」

 ラファクスの黄金の瞳が、レシティカの水晶のような瞳を見つめていた。そんな威圧感に満ちた真剣な瞳に見つめられても気にならぬようで、レシティカは気だるげに肩をすくめた。

「お前という者を見てみたかったからだ、ラファクス=ドラフトス」

「……?」

 レシティカの言葉の意味がわからず、何も言わずにその言葉の先を促した。すると何がおかしいのか、レシティカは一人でくっくっと笑い出した。

「お前の魂は、実に愉快な形をしている。きっと、お前はこれから実に愉快な道を歩くのだろう。私にはそれがわかる。おそらく、お前も予期していないような――私の予想も裏切ってしまうような」

「……馬鹿馬鹿しい」

 ラファクスは忌々しげに吐き捨て、レシティカに背を向けた。

「俺はこんな退屈な世界で、永遠に近い時間を生きようとなど、これっぽっちも思わない。帰る」

 世界の主に対するには随分無礼な言い方だった。しかし、レシティカは気分を害した様子を少しも見せず、面白そうにラファクスを見ていた。

「ふふ、そうか」

「っ?」

 そんなレシティカの声が聞こえたかと思うと、目を瞬かせる間にラファクスは玄関の前に立っていた。いきなり明るくなった視界とに目を細め、混乱するラファクス。

「……あの男」

 引き止めるかとも思われたが、止めないどころかレシティカは丁寧にラファクスを宮の出口へと送っていた。

 心に釈然としないものを抱えたラファクスは、そのまま乱暴に宮を出た。

〝愉快な形……? 愉快な道だと? ふざけるな。俺は俺の道を歩く。これまでと何も変わらない!〟

 酷く気分を害したラファクスは、その足で郊外にあるスラムへと赴いた。

 スラム――そこは薄汚れた、自尊心も何も持たない悪魔達の溜まり場だ。陰の気に満ち、覇気のない悪魔達が屯するところ。

 幼い頃から、ラファクスはここに足を運んでいた。綺麗事も何もない、汚らしいこの場所が、居心地よかった。気に入らない者がいれば、簡単に殺しもした。たとえラファクスが血にまみれていようと、誰も見向きもしない。そんな無関心で無秩序なこの場所が好きだった。

 スラムを歩いていたラファクスは顔を歪め、今にも崩れそうな壁を思い切り蹴飛ばした。その反動で壁は壊れ、その裏にいたらしい悪魔があわててその場から逃げ出した。

〝ちっ……くだらない〟

 居心地がよかったはずのスラム。しかし、彼にとってそこはすでに未知の世界などではなく、見慣れた場所になってしまっていた。時間が止まってしまっているかのような何の変わり栄えもしない薄汚れた町に、ラファクスは苛立つ。

 自分の中を流れる[永久の血]、それをレシティカに導かれれば、ラファクスは永い時を生きることができるらしい。しかしラファクスにとって永く生きることは何の価値もないことだった。忌み嫌われ、暴虐の限りを尽くすラファクスが求めていたのは、変化。何の変化も感じられず、面白いものなどないこの世界は、ラファクスにとって窮屈で退屈な場所でしかなかった。

 だからこんな世界を見るために永い時を生きようと思うのはレシティカのような変人だけで、自分はそんなことは絶対にしない。そんなことをするくらいなら、今ここで死んだ方がましだとラファクスは考えていた。

 中央の宮で害した気分をどうにかしようと思ってやってきたスラムだったのに、いつもと変わらないその場所がラファクスの気分を高揚させることはなかった。ラファクスは大きく息を吐いた。

「……馬鹿な人間どもでも、覗きに行くか。珍しく面白いものでも見れるかもしれない」

 そう呟いたラファクスは、背翼を思いきり広げた。そして何度か羽ばたいたのち、薄暗い太陽へと向かって飛翔した。

 悪魔界と空を隔てた向こう側にある人間界。その場所への行き方を知りつつ翼という飛行手段を持っていても、ほとんどの悪魔達は人間界へと行かない。その必要がないからだ。

 人間界へと赴く悪魔の目的は、その命を弄ぶことだと決まっているのだから。

 そしてその一人であるラファクスは、その乱れた心を表すように羽音を立てて人間界へと入っていった。

 このことが彼を大きく変えていくことになるとは、誰も予想だにしていなかった。


 金色の月が藍色の空に浮かんでいた。上空から見下ろせば幻光虫の群れのように光を宿す人間達の家が見える。

 炸裂音にそちらを見れば北の方で祭りが開かれているようで、巨大な花火が空に散っていた。人間達の喧騒が、風に乗って聞こえてくる。

 滑空するように音もなく空を飛びながら、ラファクスは言いようのないくだらなさを感じた。

 悪魔のそれに比べれば絶対的に短い寿命しか持たない人間達は、ラファクスにとって一瞬で命が散る虫と同じようなものだった。そんな人間達がこのように生きているということが、笑って楽しんでいるということが、とてつもなく虚しいことのように思えた。

 そんな人間は、ラファクスにとっては快楽のための餌であった。短い時しか生きられぬくせに、長寿を望む人間達。そんな人間達が悪魔の姿を見たときの恐怖に満ちた顔は、背中を走りぬけるような快感をラファクスに与えてくれた。喰われていく時の断末魔の叫びは、それこそ甘い旋律のように耳に心地よかった。

 だがそれも、数をこなすうちに決まりきった反応ばかり見せられ、少々飽きてもいた。それでも、汚れきった人間の血は甘美な味がした。

 獲物を探しながら、ラファクスが人間の貴族の屋敷が立ち並ぶ一角の上空を飛んでいるときだった。古風な茶色が貴重の家が多い中、白亜の巨大な屋敷がラファクスの眼に留まった。そしてその黄金の瞳が、バルコニーにいる人間の姿を捉える。

〝あれにするか〟

 ここは貴族ばかりが住んでいる場所だから、あの場所にいるのも貴族に違いないと思った。大概が汚い心を持っている人間の貴族というものの血は、美味だったのだ。

 狙いを定めたラファクスは一気に下降する。獲物はラファクスが近づいていることには気づかず、ただ月を見上げていた。一気に襲おうか否か思案しながらその人間の顔がよく見える場所まで近づいた瞬間、月影に照らされたその人に、ラファクスの心臓が飛び跳ねた。

〝っ!〟

 息をするのさえ怪しくなり、びくりと身体が硬直する。そのまま危うく落下しそうになったのを、ラファクスは慌てて体勢を持ち直した。それは、ラファクスらしからぬ失態であった。

 突然の羽音に、その人がラファクスを見た。そしてその水色の瞳と金色の瞳が交錯した瞬間、またもやラファクスは息ができなくなる。

 月光に照らされたその人に、どきりとさせられた。一瞬、ラファクスの眼にはその人が周りを圧倒して美しく咲き誇る魔赤花のように見えた。何か得体の知れない禍々しいオーラがその人を取り巻いているようにも見えた。

 ラファクスを見たその人が泣き叫ぶかと思った。はたまた恐怖で逃げ出すかと思った。しかしその人はラファクスの予想を裏切る行動に出る。しばらく彼を見上げて目を瞬かせていたかと思うと、ラファクスに向かってにっこりと笑いかけたのだ。

「こんにちは、死に神さん。迎えに来るのが随分遅かったのね?」

 微笑みながら、小鳥の囀りのような透き通った声でそう言われ、ラファクスは戸惑う。

 何度も死に神と呼ばれた。そしてその度に不愉快な思いをしてきたラファクスだったが、その人の声で死に神と呼ばれたときは、どうでもいいことだと感じた。

「待ちくたびれちゃったわ」

 柔らかい金の髪に顔を縁取られた美しい人は、近くで見ると百合のような人だった。沢山の魔赤花の群れの中でひっそりと咲く、一輪の百合のようだった。禍々しいと感じたオーラなど見えず、そんなものとは縁がない雰囲気で、儚げながらも凛としている様子だった。

 声も出せずに、ラファクスはその人を見つめていた。自分に向かって笑顔を見せるその人の顔に浮かぶ、何もかもを諦めたような色。それでもなお、美しいと感じた。

「さあ、待っていたのよ。私を殺すんでしょう? さあ、どうぞ」

 そう言って自らの身をラファクスに差し出す女は、怖気づくどころか堂々としている。

 ラファクスは困惑していた。どうすればいいのかわからなかったのだ。彼女はラファクスが今まで見たことのないような反応を返す、初めての人間だった。悪魔でさえラファクスにこんな口をきく者はいない。

「どうしたの?」

 硬直しているラファクスを見て不思議に思ったのか、彼女は小首をかしげて尋ねてきた。何か言わなくてはと散々悩んだ挙句、ラファクスは口を開いた。

「俺はお前を迎えに来たわけじゃない……」

 絞り出されるように吐き出されたその声は案の定かすれていた。

 彼女と対峙しているうちに湧きあがってくる得体の知れない感情に、ラファクスは息苦しさと不可解さを覚え、胸苦しささえ感じた。その場から逃げ出したくなったラファクスは、反動をつけて上空に舞い上がろうとした。

「待って」

 しかし、彼女の一言でラファクスはその場にとどまった。

「ねえ、お話しましょうよ。私、相手がいなくて退屈していたの」

 そんな女の言葉に、その場に浮遊したままのラファクスは恐る恐る女を見た。彼女はどこか物悲しい雰囲気を漂わせていて、それが悪魔であるラファクスにとって心地良いものであった。しばらく思考をめぐらせていたラファクスだったが、そっとバルコニーの手すりに腰掛けた。自分でも感じられるほど、心臓が異様に大きな音を立てていた。

 らしくもなく緊張しているラファクスの様子にはお構いなしで、女はまじまじと好奇に満ちた目でラファクスを見つめている。透き通る水色の瞳でじろじろと大胆に見つめまわした挙句、背翼に手を伸ばした。

「凄い、こんなものでよく飛べるわね。触ってもいい?」

 ラファクスはあわてて首を横に振る。

「そっか、残念。でも、死に神って皆、貴方みたいなの?」

 怖がりもせずに尋ねてくる女に、唖然呆然困惑状態のラファクスは顔をしかめた。

「死に神じゃない……悪魔だ」

 搾り出すように言ったラファクスに、女はそうなの、と目を瞬かせて笑う。無邪気に笑うその顔は、一瞬で喰ってしまいたいとも一生取っておきたいとも思える、不思議なものだった。ラファクスはその笑顔をずっと見ていたいと思った。

「そう、悪魔さんなの。はじめまして、私はラピュア=クラファイア。貴方は?」

 困惑するラファクスをよそに、女――ラピュアが名乗った。

「俺は……ラファクス=ドラフトス」

 戸惑いながらも答えるラファクスだったが、この女の態度が不思議でならなかった。今までの人間達は、自分が姿を現すと驚き、怯え、逃げ出そうとした。そんな人間を圧倒的な力で押さえつけ、狩るのが楽しかった。しかしこの女は少しも自分を恐れず、それどころか話しかけてきた。それは初めての出来事で、本当に奇妙な感覚だった。

 理屈を抜きに、ラファクスの感覚が彼女に惹きつけられている。それは初めて自分に話しかけてきた人間だというせいもあるが、最初に感じた女が放つ禍々しいオーラのせいでもあった。近くで観察してみると、女自身が放っているものではないようだが、時折そのオーラが彼女からにじみ出てくる。それが気になって、ラファクスも彼女をちらりちらりと盗み見ていた。

 そんなラファクスの様子を気にもとめず、ラピュアは生まれて初めて見る悪魔という生き物を観察していた。透き通るような水色の瞳にまじまじと見つめられ、ラファクスは気恥ずかしくなってくる。その恥ずかしさを追いやるために、ラファクスは口を開いた。

「どうして、俺が怖くないんだ?」

 突然の問いに驚いたのか、ラピュアは大きな瞳をさらに見開いた。そして、ぞっとするほど儚い表情で微笑んだ。

「だって私、ずっと死に神が迎えに来るのを待ってたんだもの」

「何……?」

「いつ来てもおかしくないから、夜はいつもおめかしして外を見ていたの。そうしたら貴方が来たから、やっと来た!って思ったのよ」

 何かの冗談を言うように笑いながら話すラピュアに、ラファクスは戸惑う。もともと人間は短い寿命しか生きられないくせに、長生きを望む生き物だと思っていた。それなのにこんなことを笑いながら話すラピュアは、おかしな女だ。悪魔であるラファクスから見ても、ラピュアはまだ若く見えるのに。

「……死にたいのか?」

 ラファクスの言葉に、ラピュアは一瞬悲しげな表情を見せた。しかしすぐに笑顔に戻る。

「そんなことより、貴方は人間を食べるの?」

 そんなラピュアの問いに、ラファクスは悪戯心を起こして口を開く。

「ああ、汚れた人間の肉は美味いし、断末魔の叫びは耳に心地いい」

 こんなことを言えば、女は怯えるだろうと思った。しかしラピュアはふうんと鼻を鳴らしただけだった。

「じゃあ、私を食べないの?」

 そんなことを真っ直ぐ目を見つめられながら言われ、どきりとラファクスの心臓が跳ねる。ラピュアの穏やかで真剣な顔に、心を握りつぶされそうになった。

 ほんの数刻前まで彼女を殺そうと思っていたくせに、ラファクスはこの女を食べたくないと思った。殺したくなどないと、はっきりと心が叫び、この綺麗な生き物に、誰にも触れて欲しくないと思った。誰かが彼女に触れようとするのならば、そいつを自分が殺してやりたいとまで思った。

「俺は……綺麗なものは嫌いだ」

 そんな自分の心が理解できず、ラファクスは振り絞るように言った。

「あら」

 ラファクスの言葉に、ラピュアが笑う。そして、ゆっくりとその首を横に振った。

「私、綺麗なんかじゃないわよ」

 普通、その言葉は謙遜とともに使われるものだろうが、ラピュアがそういう意味で言っているようには見えなかった。

「私、病気なの」

 そして続いたその言葉に、ラファクスははっと息を呑んだ。

「服で隠しているんだけれど、痣だらけなの、私の身体。目も当てられないほど、醜いのよ」

 そう言われてみれば、ラピュアは長すぎる袖と裾のスカートのドレスを着ていた。ラピュアはラファクスの目に晒すように、袖をまくり自分の左腕を見せた。

「っ」

「ほら、ね」

 ラピュアの腕を見て、ラファクスが思わず息を呑む。彼女の腕には赤と黒の斑点が浮かび上がっていた。確かに目を背けたくなるような光景だった。

「死にたいのか、って言ったよね?」

 そして、ラピュアが悲しげに続ける。

「死にたくは、ないんだけど……病気には勝てないわ。もうすぐ死に神が私を迎えにくるって、知ってるの……」

 ラピュアの言葉に、ラファクスは何も言わなかった。いや、言えなかった。

〝オーラの正体は、これか……〟

 ラピュアは袖を直して、ラファクスに笑いかけた。

「顔に出なくて幸いよね。こんな痣が顔にあったら、外に出られないものね。もっとも、今でも外には出られないんだけど……」

 そう、自嘲気味に笑うラピュアを見て、ラファクスはいたたまれなくなった。たかが、一人の人間のために何かをしてやりたいと思った。どうでもいいと、ただの餌だと思っていたはずの人間ごときに、何かをしてあげたいと願った。

「きゃっ」

 突然ラファクスはラピュアの腕を取って、その尖った舌で痣を舐めた。そして真っ直ぐとラピュアを見つめる。

「治る」

「え?」

 唐突に告げられた言葉に、ラピュアは困惑する。

「こんな邪気では、君を殺せない」

 それはラファクスの嘘だった。触れただけですぐにわかってしまった。彼女が長くは生きられないことは――。

「そうなの?」

 ラピュアは、そっと微笑んだ。きっと、それが自分を癒すための嘘なんだと気づいて。

「ああ、治る」

 ラファクスは、うなずいた。

「貴方が言うのなら、きっと治るのね」

 そう言ったラピュアの顔が、近づいてくる。何が起こるのかわからず、ラファクスは動けなかった。ラピュアはそんなラファクスの顔をそっと引き寄せると、その唇に己の唇で触れた。

 激しく高鳴っていたはずの己の心臓の音も聞こえない、静かな時間だった。

 そっと離れたラピュアは、今まで見たことがないほど美しい、本当に綺麗な笑顔をラファクスに向けた。

「貴方に会えて、良かった。できたらまた会いましょう」

 ――もしもそのときに、私がまだ生きていたら。

 ラピュアのそんな言葉が聞こえてきそうで、ラファクスはらしくもなく泣きそうになった。泣き顔を見られたくなくて、ラファクスはその場から姿を消した。

 じゃあ、とラピュアは嬉しさと寂しさが入り混じったような顔で虚空に向かって手を振り、自分の部屋に戻っていった。


 人間界から戻ったラファクスは、真っ直ぐ家に帰り、自室にこもった。そしてずっと先ほど出逢った人間の少女のことを考えていた。

 ラピュアのことを思い出すたびに、胸を締め付けられるような、切ないような気持ちになる。自分でもその不可解な感情の正体がわからない。

 ラファクスにとっては人間など所詮餌に過ぎず、生きようが死のうが関係のないものだったのに、病に侵され死んでいく彼女が可哀相だと思った。ラピュアに、死んで欲しくないとさえ思っている自分がいた。

「……」

 ラファクスは彼女が口づけていった唇に触れた。数秒触れただけのラピュアの唇は、今まで感じた何物よりも温かく、そして柔らかかった。

 そっとため息をついたラファクスは、夢想を断ち切るように首を横に振った。

「もう、会うこともない」

 そう自分に言い聞かせるように呟いたラファクスは、寝台に潜り込んだ。目を閉じてしばらくすると、あの言葉がラファクスの脳裏をよぎった。気に食わないレシティカが放ったあの言葉。

「愉快な、道……」

 目を開いたラファクスは、自分の掌を月影にかざした。そこには[永久なる血]がながれているのだという。しかし自分は、かつて無差別に大量殺戮を行った悪魔の末裔で、[残酷なる血]を引く残忍な悪魔のはずだった。そんなラファクスがたった一人の人間を、こんなにも気にかけることになるなど、なるほど愉快なことだった。


 それから数日後、中央の宮の前にラファクスの姿があった。自分でもここに来た理由がわからず、ただ入り口をぼんやりと眺めていた。

「何が君をここに連れてきたのか、是が非にも尋ねたい」

 何もないはずの場所からレシティカの声が聞こえてきた。

「……何もかも、お見通しなんじゃないんですか?」

「私とてわからないことは山ほどある。だから世界を視ているのだ」

 そんな言葉とともに、ぱちんという破裂音が聞こえ、そして気がつけばラファクスはレシティカの部屋にいた。

 相変わらず乱雑とした部屋で、ラファクスはその部屋の主の姿を探す。そして服が濡れるのも気にしないで、部屋の中央の水柱に手を突っ込んでいるレシティカと目があった。

「君に手紙だ、ラファクス」

「手紙?」

 首をかしげるラファクスをよそに、レシティカが水柱から手を引き出した。するとその手には手紙が握られていて、不思議なことにその手も服も手紙も濡れてなどいなかった。ふっとレシティカが手紙に息を吹きかけると、ふわりと浮遊した手紙がラファクスの方へと飛んできて、その手に収まった。

「?」

 手紙を裏返すと、そこに差出人の名前があり、ラピュア=クラファイアと書かれてあった。はっとしたラファクスはその手紙をしばらく見つめ、そして胸元に片付けた。

「馬鹿馬鹿しいのではなかったか?」

 手紙を大切に扱うラファクスを見つめていたレシティカが、そっと尋ねる。しかしその問いには答えず、ラファクスは口を開いた。

「……数日前、人間の女と出会いました」

 ラファクスの言葉に、レシティカの眉がぴくりと動く。

「ほう、人間の女とな?」

 レシティカはゆっくりと移動して、以前来たときに座っていた椅子に腰掛けた。荷物がごたごたと置いてあるのに、全く物音を立てない。その理由は荷物のほうがレシティカのために道を作るように勝手に動くからであった。しかしラファクスはそんなことも気づかないようで、少々思い悩んだように言葉を続けた。

「その人は、病に侵されて今にも命が果ててしまいそうな儚い人でした」

 暗い表情で言葉を紡ぐラファクスを、レシティカは内心面白がる。しかしそれを悟られぬようにしかつめらしく振る舞った。

「それで、喰わなかったのか?」

 レシティカの問いに、ラファクスは大きくかぶりを振った。

「……喰えませんでした。喰う気にもならなかった。彼女は不思議な人で、初めて見るような反応を見せる人だった。だから、知ったんです。この世界にはまだ俺の知らないことがあるんだと」

 飽き飽きとしていた世界だった。何の面白いこともない毎日だった。しかし今、ラファクスは確かに、自分でも理解できない感情に、自分でも予想のつかない反応を見せる女に、心を奪われていた。

 そんなラファクスの告白に、レシティカはふうむと息を吐いた。

「人間、か」

 面白がるようなレシティカに、ラファクスはうなだれる。悪魔にとって人間はただの餌で、興味の対象ではないのだ。

「今まで目もくれてこなかった。だけど、変な生き物なんだと知りました」

〝きっと、人間という生き物がじゃなくて、ラピュアという人が……〟

 レシティカはにやりと笑った。

「それで、もっと知りたいと思った?」

 その言葉に、ラファクスはうなずかなかった。今でも人間を知りたいとは思わない。ただ、ラピュアのことは知りたいと思っていた。

 気を取り直したラファクスは、気になっていたことを口にした。

「貴方が[永久なる血]を受け継いだ理由はなんですか?」

 そんなことを訊かれるとも思っていなかったのか、レシティカは目を見張り、思案顔になる。

「はて……数百年は遡らなければなるまい……」

 レシティカはああでもないこうでもないと、しばらくぶつぶつ呟く。そしてぱっと顔を上げ、にっこりと微笑んだ。

「忘れた」

「……いいです。訊いた俺が馬鹿でした」

 ラファクスはそっとため息をついた。このレシティカという男はなかなかに食えない人物だ。しかし不思議なことに、最初のように話していて気分を害すようなことはなかった。

「しかし、覚えていることもある」

「?」

 レシティカの言葉に、ラファクスは彼を見た。すると、レシティカは子供のように微笑んだ。

「私はこの世界が大好きだったのだ」

 ラファクスは、何も言わずにレシティカの言葉を聴いていた。

「いろいろなものが生き、死んでゆく世界。何のために生まれ死んでゆくのか考えるのが楽しかった。いや、今でも楽しい」

 レシティカがおもむろに手を伸ばすと、本棚から一冊の分厚い古びた本が浮かび上がり、レシティカの手に納まった。

「……答えは、出たんですか?」

「答えなどない」

 平然と答えるレシティカを、ラファクスは呆気に取られて見た。当のレシティカはくすくすと笑っていた。

「何のために生まれ死んでゆくのか、そんなものに答えはない。だってな」

 レシティカが天井を指差した。つられて見上げたラファクスは驚いた。沢山の光、それも色も大きさも形もばらばらな光が天井に蠢いていたのだ。一つも同じものはないように見えた。

「あの光のように答えは個々の数だけあるんだ。だから決まった答えなんかない。そして」

 レシティカはそっとラファクスを見つめる。

「お前にとっての答えはなんだろうな」

「…………」

 レシティカの言葉に、ラファクスは息を呑んだ。自分が何のために生まれ死んでゆくのか。そんなことを今まで考えたこともなかったし、見当もつかなかった。自分が今までどれだけ空虚に生きてきたのか気づかされた。だから、考えたくなった。自分にとっての答えを。知りたくなった。世界とは、何なのかを――。

 そう思った瞬間、考えるよりも先に言葉が口をつついて出いていた。

「……俺、[永久なる血]を……」

「よし、責任持って私がお前を引き取ろうぞ」

 レシティカが笑顔でうなずくと、ぽんっと、炸裂音がした。すると、ラファクスの前に黒のローブが現れていた。

「私の弟子の証しだ、ラファクス=ドラフトス」

「はい」

 ラファクスはそのローブを受け取ると、皮肉でも自嘲でもない、晴れやかな笑みを浮かべた。


 家に着いたラファクスは、寝台に寝転がりながら胸元にしまっていた手紙を取り出した。ラピュアの儚げな笑顔を思い浮かべながら、そっと手紙をなでる。そして、その封を切った。


《優しい悪魔さんへ

いつか聞いたことがある。手紙を届けたい人への想いを込めて空に投げると、炎をまとって手紙が消えるって。本当かしら。でも、本当に貴方の元に届くことを願って書きます。

私は幼い頃から永くは生きられないと言われてきたの。だから、籠の中の鳥のようにそっとそっと大事に育てられてきた。でも、誰も言ってはくれなかった。この病気は治るのよって。

みんなね、私を見て泣くの。そんな身体に生んでごめんなさいって、お母様に言われたときは、私のほうが謝りたくなった。

みんないつも私に気を遣うの。治るから大丈夫。そんな気休めは私にとっては凶器だった。辛いだけだったから。でも、貴方の言葉は違ったの。何が違ったのかは私もよくわからない。だけど貴方の治るって言葉、本当に嬉しかった。貴方が人間じゃないからかしら。本当に、治る気がした。だから、もう一度――いえ、何度でも会いたい。一度だけじゃなくて何度も、私の命が尽きるまで、どうか――私の側にいてくれないかしら……。わがまま言ってごめんなさい。でも、この手紙が貴方に届くことを願っています。

ラファクス様  ラピュアより》


 手紙を読み終えたラファクスは、それをそっと胸に押し当てた。ラピュアの気持ちが、痛いほど伝わってきた。

 ラピュアだけでなく、ラファクスも彼女に会いたいと思っていることに気づき、そしてラピュアが自分に会いたいと言ってくれていることを嬉しがっている自分を、不思議にも思った。

 手紙の感触を愛おしみながら、ラファクスはふと疑問に思う。

〝あの人は、郵便配達まで請け負っているのか……?〟

 想いのこもった手紙が炎をまとって消えるということは、おそらくはレシティカの部屋へと消えているのだろう。そしてそれがきちんと届いてるということは、レシティカがそれを届けているということになる。

〝なんて物好きな人なんだ……〟

 そんなことをぼんやりと考えていると、扉を叩く音がした。

「ラフ、いいか?」

 アルエクスの声だった。ラファクスが扉を開くと、アルエクスが部屋に入ってくる。そしてラファクスが胸に抱いている手紙に気づき、首をかしげた。

「誰からの手紙だ?」

 しかしアルエクスの問いに、ラファクスは微笑むだけで答えなかった。そんな兄の様子を見て、アルエクスは気味の悪いものでも見るように顔をしかめた。

「ラフ、何か変なものでも食べたのか?様子が変だが……」

「アル、俺は[永久なる血]を受け継ぐことにした」

 そんな唐突なラファクスの言葉に、アルエクスは目を見張った。

「……そうか、頑張れ」

 あまり感情の伝わらない声でそう言ったアルエクスは、兄の肩を叩いた。

「俺が永久の時間を生きるとしたら、俺はお前の最期も見届けることになるんだと思う」

「おお、それは良かった」

 ラファクスの言葉に、アルエクスはくすくすと笑った。

「それなら俺がラフの死に顔を見ないで済む。しかと覚えておいてくれよ、お前の弟の死に様を」

「一体いつの話になることだか」

 ラファクスも同じように笑った。

「それで、用は何だ?」

「いや、いい。ここのところ部屋にこもって様子がおかしかったから。元気ならいいんだ」

 アルエクスはそう言うと、部屋から出て行った。それを見送ったラファクスは、ラピュアからの手紙を大事にしまった。

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