JOKER

神水紋奈

Prologue――気まぐれと偶然――

 それは、単なる気まぐれだった。

 人間の世になど興味はなかったし、わかろうとも思っていなかった。

 俺達に比べたら人間なんて、短い時間しか生きられない。力だって及ばない。それなのに、人間達は笑って、泣いて、怒って、楽しんで、死んでいく。

 俺達からしたら、ほんのちょっとの短い間なのに。そんな人間が、俺にとっては理解不能だった。

 だから、人間の世界に行ったのは、本当に気まぐれだったんだ。

 それなのに――……


 大きな紫の月がてらてらと赤い土を照らしている。ここは悪魔界、悪魔達の暮らす世界だ。

 それは、何かが起こりそうな夜だった。臭気を帯びた風が狂ったようにやまず、あちこちで赤い大地を抉るように雨が降っている。

 深い森では得体の知れない鳴き声があちこちであがり、透き通った黒い色の湖には波紋が浮かんでは消えていた。


 その男は、夜道を歩いていた。

 不気味なほど透き通った青白い肌に、腰まである真っ白な髪。そして身体のどこかに浮き出ているであろう青黒い奇怪な紋様。そして背翼。それが、彼らの特徴だ。

 その美麗すぎる男は、悪魔だった。

「……見つけた」

 美しい、その男の口元に笑みが浮かぶ。その瞬間、赤黒い悪魔界の空に稲妻が走った。そして木々を折るような勢いで風が吹く。

 男は笑みを絶やさぬまま、豪奢な屋敷が立ち並ぶ通りを足音も立てずに歩んでいく。腰まである白い髪は、風が狂ったように吹いているにもかかわらず微動だにもしなかった。その男の細い首筋には、くっきりと青黒い紋様が刻まれていた。

「…………」

 とりとめもなく歩いているようにも見えた男だったが、ある屋敷の前でふとその足を止めた。それはひときわ大きな屋敷だった。侵入者を拒む荘厳で巨大な塀と、それに見合うだけに重厚な門が行く手を遮っている。

 しかし男はその門を気にする様でもなく、まるで門など存在していないかのようにそのまま足を進めた。すると奇怪なことに、男の歩みに合わせてその門が音も立てずに開き――、そして男の姿が敷地の中に飲み込まれるとひとりでに閉じていった。

 稲妻と暗闇が交錯する中、男は迷わず屋敷へと足を運んだ。玄関の硬く閉じられた扉も、先ほどの門と同じようにひとりでに男を迎え入れた。複雑な造りになっている廊下にも、大量にある部屋にも惑わされることなく、男はとある部屋に向かって真っ直ぐ歩いていく。大昔からこの屋敷に住んでいるかのように慣れた様子で階段を上り、廊下を渡る。そして目的の部屋についた。

 部屋の前に立った男は、そこで初めて己の右手を使い、何の躊躇もなくその扉を開いた。

「誰です」

 暗い部屋の中から、女の抑揚のない声がした。部屋の中にいたのは若い悪魔の女で、その額の右側には紋様があった。夜も遅くのことで、女は寝台の中にいた。

 突然の訪問者に驚いているであろうにもかかわらず、冷静な表情で男を見つめていた。

「見つけた、[永久なる血]の種」

 女の視線を気にするでもなく、男はそう呟いた。男の視線の先にあったのは、女の寝台の脇にある小さな寝台だった。二つ並んだ、赤子用のものだ。

 女には全く興味を示さない男に、女は疑念に満ちた目を細めて、薄暗い中男の顔を見ようとした。そして男の正体に気づいた瞬間、初めて女の――母親の顔に驚きの色が現れた。

「貴殿は、レシティカ様……まさかっ?」

 はっとして自分の隣で眠る我が子を見下ろした母親が、男に戸惑いの視線を向ける。

「右の子だ」

 男が目を細めながら言った。

「紋様を顔の左に持つ子だ」

 二つ並んだ寝台の中には、それぞれ赤ん坊がぐっすりと眠っている。顔の右側に紋様を持つ子と、左側に紋様を持つ子。二人は、双子だった。

 唖然としていた母親だったが、すぐに我を取り戻した。

「レシティカ様、ご存知でしょう、わたくし達の血を。それが[永久なる血]ですか?」

 母親が、右側の寝台で眠るわが子の頬にそっと触れた。

「間違えるな、顔の左に紋様を持つ子だ」

 しかし男は母親の言葉には応えなかった。夢見心地に、ただ幻影のように、ただ霞のように、朗々と己の言葉を紡ぐだけ。

「[永久なる血]を持って生まれたこと、十六の朝まで告げるな。そしてその日、我が宮に参らせるのだ。他の者にも告げるなよ」

「……承りました」

 しばし沈黙した母親だったが、この男には逆らうことができないということを知っていた。だから、そのまま素直に頭を下げた。

 そこで初めて母親に興味を持ったように、男はにやりと笑った。

「面白いではないか。[残酷なる血]を持つ一族の者から[永久なる血]が生まれたのだ。そして私が選んだのだ。これから何が起こるか、とくと見守ろうではないか」

 男はそう言い残すと、ひときわ激しい雷鳴とともに、その場から跡形もなく消えた。

 部屋に残されたのは、突如として泣き出した二人の幼子と、呆然とする母親だけだった。

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