モーニング・ブルー

猫柳 呑兵衛

第1話 カワタレ

 海に面した小さな町に、朝日がかぶりを見せ始める。新しい一日が、やってくる。


 まだ冷えている空気が、肺の中を巡っていく感覚は心地良い。自転車のかごに入れた牛乳ビンが、車輪の回転とともにカタカタと音を鳴らした。


 桐子とうこが朝の配達をする際に、必ず通る岬にさしかかる。

 灯台を横に置き、太平洋を抱えるお気に入りの場所。子どものころから好きだったが、この仕事をするようになって初めて夜明けの景色を目にした。あまりの感動に心が満たされ、残り二件の配達を忘れて事務所に戻ってしまったのをよく覚えている。

 ちょうどここを通る時、空の色が海を染めていかんとする様がはっきりと伺える。その時ばかりは、世界で最初にこの景色を目にしているのは自分しかいない、という優越感がわきあがる。

 しかし三月も終わりを告げる頃、二番目になってしまった。


 今日も変わりなくそこに佇む黒髪の人。髪はあまり長くなく、華奢な体つきから女性だと見受けるが遠目なので確信は持てない。というのも野暮ったいデニムにグレーのパーカーだったり、迷彩のハーフパンツに白いトレーナーだったりする、その少年のようなカジュアルな服装によるところが大きい。


 桐子の配達は、だいたい早朝三時から五時の間に行われる。この町の半分を請け負ってはいるが、住人のほとんどが顔見知りと言えるほど町は小規模だ。移動に時間はかかるもの、量でいえば自転車で事足りる。

 あとは高梨さんとこのおばあちゃんと、横山さんの事務所に届けて終わり。そんな時にこの場所を通るから、時間は四時を少し過ぎた頃だろう。そんな時間にそんな格好で旅行者でもあるまいし、知り合いにも心当たりがなかった。全体どこの誰が。

 もう一週間は考えているが、答えは出ないままだ。


 ──ちょっとだけでも顔が見えないかな。


 そんなことを考えながらぐっと首を伸ばす。


 どんな顔で、この景色を見てるんだろ。


 その瞬間、肩に届きそうな黒髪がかき分けられ人の顔が覗いた。振り返ったのだ。


 「エッ!」


 素っ頓狂な声をあげたかと思うと、桐子は態勢を崩し、乗っていた相棒と共に地面に体を放り出した。


 ──びっくりした。


 この歳にもなって転んだことではない。テレパスなんていう能力があるらしいが、今回はそのチカラのためではないことを祈る。

 いくら太陽が登り始めたといってもまだ闇の要素が多い。念願の顔はよく見えなかった。


 気恥ずかしさのあまり目を伏せて、彼の人の足元に視線を配ると、どうやらこちらを見ておいでの様子。


 ──あら、おはようさん。今日はいい天気ねアハハ。


 現状を整理しよう。

 化粧もろくにせず、髪の毛はひっつめ、スウェットにジャンパーを羽織った二十歳そこそこの女。おまけに牛乳ぶちまけ済み。

 一言で言えば、“関わりたくない人”であった。


 ──しまった......。


 正直、いつかどこかで会って「あら、もしかしていつも岬にいる子じゃない云々」と話しかけ、あの景色について語り合い、交流を深める、なんて前向きな空想を桐子は繰り返していた。

 一割ほどあった可能性ももう一分を切った、というか零であろう。


 かなりの落ち込みを見せていた彼女の目の端に、か細い手が割れたビンを拾っているのが見えた。

 ぎょっとそちらを向くと、気づき顔をあげた少女。想像よりもはるかに小さな体躯。薄闇の中でも分かる、つるんとした白い肌に血色のいい頬からは幼い印象を与えられた。


 ──なんて、美しい。


 もしも日本に息を呑むという慣用句がなければ、自分が最初に広めたことだろうと桐子は確信した。

 

 当然のごとく視線が重なると、少し眉尻をさげて会釈をくれた。慌てて微笑み返す。

 いやいや、と首を振り脳を刺激。素手でガラスなんぞ触っては彼女の陶器のような手指が傷ついてしまうではないか。


 桜貝のような爪をつけた手を握り、動きを止める。

 急いでポケットの中にいれていたハンドタオルを差し出し「悪いけど、これで拭いてもらってもいいかな」と、横道に流れていこうとする白い水たまりを指して桐子は告げた。

 当の少女はじっと桐子の手を見つめたあと、少し戸惑うようなしぐさをした。刹那の間の後、こくりと頷いてハンドタオルを受け取る。図々しいお願いをしてしまったと桐子は後悔したが、一人で片付けていては木々と草花を牛乳に浸らせてしまうので仕方がなかった。彼女の優しさに甘え、桐子は首に巻いていたタオルを広げてガラスの破片をかき集めた。ふと彼女のほうを見やる。

 確か天の川のことを英語でミルキーウェイと言ったな。道を横切るように伸びた白い筋は視界の暗い中でも存在感を放っていた。惨状、と言っていい。しかしそれを拭う織姫がいることにより、この景色が夏の夜空と繋がっているように思われた。


 美しい人の傍にあるものはその人同様の価値を発揮できるのかもしれない。


 またおかしな空想をしていたことに気付き、止まっていた手を動かす。

 大粒のものをタオルで回収したあと細かいものを指先でつまみ、持っていたビニール袋に突っ込んだ。そして白くなったハンドタオルもそこへ。


 「本当にありがとう」


 手伝わせて悪かったね、苦笑混じりに告げたものの、少女は形のいい唇を反らせて弱く微笑むだけ。


 ──ちょっと変な子。


 第二印象はそうつけられた。

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