第3章 そのて・せめて・とどいて

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 ベッドは安息を得るためにある場所だ。

 白いシーツに寝そべり、布団を被って、然るべき時まで体と頭を休める場所だ。

 しばらく寝よう。少し疲れたから。

 しかし、そのあいだ家を無防備にするのは怖い。だから寝ずの番を頼もう。いずれ私たちが目を覚ましたら伝えに行くから。次は君たちが眠る番だ。


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 テラヒト・イラ記念大学付属高校の屋上は、普段は立入禁止とされている。

 といっても実際に何らかの規則があるわけではない。屋上へ続くドアが終年施錠されているために誰も立ち入ることができないのだ。それゆえに誰も来ない、誰もいない。シャノアラとビナタにとって孤独を享受するにはもってこいの場所だったのだ。

「やっほー!」

 しかし今日だけは例外だった。その楽園のような場所に一人の闖入者が現れたのだ。ショートカットの優等生は風でめくれ上がるスカートを抑えながら、二人に向かって片手を上げる。

「ここは進入不可よ、スオウさん」

「シャノアラさんとビナタさんもいるじゃない」

「あたしたちは侵入可能だから」

「じゃあ私も可能だったってことよ」

「鍵が掛かってたでしょう」

「登って来ちゃった」

 スカーフが乱れているのはそのせいらしかった。

「それで……何か用?」

「特に用ってわけじゃないんだけどね。姿が見えなかったから……というより、見えたから、というべきかな。あそこから」

 指をまっすぐに伸ばすのは中庭を挟んで対岸の校舎だ。会議室、があるだろうか。

「だからほら、親睦を深めるために、ね?」

「別に。あたしが一人でいたいだけだから」

「一人?」

 ……失言だった。

「ずっと思ってたけどさ。シャノアラさんとビナタさんって、どういう関係なのかな。仲がいいだけじゃなくて……なんというか、家族とか、姉妹、みたいな……。一緒にいるのが当然なのに、別の人間として見てない、みたいな。隣にいるのが普通、なのかな。そういうのってなんていうか……」

 ――夫婦、みたいな。

 その言葉に、さすがのシャノアラも動揺を見せる。

「そ……」

「そ?」

「そんなわけ……っ。第一あたしとビナタは、女の子同士だし」

「さぁねぇ。わたしはそういうのもありだと思うけど……ビナタさんは? どうなのかな?」

 アリカが視線を合わせると、人形のように小さな顔が斜めに傾ぎ。――きっかり五秒見つめてから、アリカは苦笑を浮かべる。

「ビナタさんも不思議な人よね……。ひひひ、デリケートな問題だったかな? 図星ではないみたいだけど。ほら、シャノアラさん、どんな顔したらいいか分からないみたいな顔してる」

 今度はシャノアラの方へ、ずいっと顔を寄せてくる。分厚いレンズ越しの、星空に似た青い瞳が眩しく思えて、顔を逃がす。

「ね、シャノアラさん。あなたは、何者なの? あなたは、どんな人なの? あなたは何が好きで、何が嫌いで、何を企んでて――何をそんなに、必死になっているの?」

「……必死、ね」

 シャノアラがすっくと立ち上がったために、アリカは慌てて身を引いた。そして驚愕した。あのシャノアラが、笑っているのだ。ずっと無表情で無感情で、幽鬼とまで言われたあのシャノアラが、薄ら笑いを浮かべているのだ。

「スオウ・アリカ」

「は、はい」

「見たければ見ればいいよ」

 シャノアラが、覚束ない足取りでフェンスまで歩いて行く。その後をビナタが追う。

「あたしが何物で、何が好きで、何が嫌いで、何に必死になってるか。――あなたに、それが見れればの話だけどね」

「? どういうことよ」

「さぁ。それも含めて見ればいい」

 そう言ってシャノアラは飴玉を頬張る。舌の上で数度か転がし、そして、フェンスを乗り越え、飛び降りた。

「なっ! ……あ」

 空を見下ろし、両手を上に掲げ、真っ逆さまに落ちていく二人。長い髪が別の生き物のように暴れるその中で、シャノアラの口が、にやりと笑って――誇らしげに――言葉を紡いだ。

『行くよ、ビナタ』

 次の瞬間、ビナタの二束の髪が蜘蛛の巣のように展張した。

 落下していくシャノアラの体を捕らえ、その体全体を包み込み、たちまちにスーツ状の皮膜と化す。

 たんっ。屋上から地面までの約三十メートルの落下の衝撃を信じられないほど軽い音だけで殺して、シャノアラは着地した。黒髪が後を追ってふわりと背中へ垂れる。ぴっちりとしたラバースーツのような全身服は、あの質感は、そう、まるで――

「……サキ、モリ……」

 アリカのその言葉に応答するようにシャノアラが片手を伸ばした。その前面の空間が大きく歪み、とてつもなく巨大な卵が現れた。大理石のように滑らかな表面と光沢を持つそれは、紛れもなく休卵状態にあるサキモリだった。

 卵の円が歪む。

 その輪郭は見る間に解けて溶け落ちる。下から現れるのは細かな凸凹と人に似た四肢。完全に現れた人型は蹲った姿勢からゆっくりと力強く体を起こす。

「まさか、シャノアラさんって……モリビト……なの? じゃあビナタさんは……じゃあフェイスって、そういうこと……?」

 ずっとずっと遠い世界の存在だと思っていた。テレビの先の存在だと思っていた。新聞記事の中の存在だと思っていた。語られるだけの縁のない存在だと思っていた。そのサキモリが、今こうして目の前に現れたのだ。

 立ち上がった巨人はゆらりと上体を倒し、まるで重さなどないかのように脚を踏み出した。直後、地響きがアリカの体を震わせる。一歩、また一歩、地響きの間隔は短くなり、サキモリの巨大な体が信じられないほどの速度で加速していく。

「……あ、ま、待って! ……あーもうっ、追いかける身にもなってよ!」

 すっくと立ち上がってから、アリカは自分が尻もちをついていたことに気付いた。あれが、サキモリという異種の迫力なのだ。

「絶対に見届けてやるんだから……」

 そして、屋上から校舎へ続くドアを蹴破った。



 オルダ基地内部、戦術艦橋。

「人型……しかも数を揃えた群体とは」

「珍しいパターンですね……しかし。何か事情があるのでしょうか」

「分析はあとです。サキモリ・アングリカの出撃は? もうシーボーズは上陸間際ですよ」

「あと一分のようです。ツールコンプレックスの着装時にトラブルがあったらしくチェックに手間を取られています」

「ああっ……さ、サキモリ・ビーナータが出撃しています!」

「おや。非番ではなかったのですか?」

「自主出撃のようですが……ともかく通信を繋ぎます」

「お願いします。どうせあの数はアングリカ一人じゃ抑えきれません」

 突如として出現した人型のシーボーズは数体の獣型を連れていた。その数は確認されているだけで二十。もっと増える可能性さえある。それに対して今トサカ近辺で稼働可能なサキモリは、非番にも関わらず真っ先に出撃したビーナータと当番のアングリカ、そしてやや遅れてヨツンディフ。本来ならばこの頭数で充分捌ききれるが、不測の事態に対応するにはやや足りない。

「それとユホリくん、他基地へ応援を要請しておいてください」

「了解しました」

 一通りの支持を出してブルックリンは口を閉じる。

 アマチ=ノワ=シャノアラ。無理をしなければ良いが。

「シャノアラ特佐、応答してください。特佐。……中将、シャノアラ三佐が通信を遮断しました」

「……なんという」

 以前から思いつめている節はあったが、この場にきてそれが表面化するとは。或いは、この場だからこそ表面化したのか。

 そこへさらに緊急の通信が飛び込む。

『封鎖隊より本部へ、封鎖隊より本部へ』

「こちら本部オペレータ。どうしましたか?」

『民間人が一人、封鎖を乗り越えて警戒区域へ侵入した。指示を』

「……捜索隊にも連絡を入れておいてください。後に回しましょう」

『ですが!』

「二次災害を防ぐためです。封鎖隊は引き続き任務を継続してください。何人たりとも通さぬように気を引き締めて」

『……了解』

「頼みましたよ」

 通信が切れてから、ブルックリンは両手で顔をこすり、ぎゅっと目を閉じて、開けた。

「……三年前のアレを繰り返してはいけませんからね」


 サキモリ・ビーナータは長い手足をしならせ、ベイパーコーンを乗り越えてまたたくまにトップスピードへと到達した。が、海までは一キロメートルもない。海岸が目前に迫った瞬間、ビーナータは振り向いた。両手足を地面へ突き立て、四肢を全力で駆使して最高速度からゼロ速度まで勢いを殺す。

 大地に四本の爪痕をくっきりと残して、ビーナータは停止した。

「無理させたね……ビナタ……。……でも、もうちょっとだけ、付き合って」

 電子音。本部からの通信が入ってきた。咎められるだろうか。

『シャノアラ三佐!』

「……申し訳ありません。切ります」

 シャノアラは《フィンガーボウル》内部のパネルを操作し、通信を遮断する。ここで邪魔に入られるわけには、いかないのだ。ユーリのために。

「会いたかった……ユーリ」

 彼女とは二人きりでいたい。

 だから。

「邪魔者は――みんな消しちゃうね」

 ビーナータはウェポンラックから剣を引きぬいた。低い駆動音と共に刃が振動を始める。それを左手に持ち替え、右手でもう一本の剣を抜く。刃の微細な振動に空気が切り裂かれ、高い音が響き渡る。悲鳴とも金切り声ともつかない甲高い音。

 凶暴性を極限まで引き伸ばしたその刃を逆手に持って疾駆し、ビーナータは目の前にいた長い鼻を持つシーボーズに突き立てた。一瞬だけくぐもった悲鳴に変化したのち、その長い鼻もろとも頭部がバターのように切れ落ちた。その塊が地面につくより早く、左から飛びかかってきたネコのようなシーボーズの体を捻って回避し、左のブレードの刃をその鼻面に立てる。等速度運動の法則に則ったシーボーズの体は運動エネルギーを殺すことなく刃を通りぬけ、下顎から下腹へとまっすぐに切り裂かれる。

 シーボーズの傷口から吹き出した真っ黒な体液がビーナータの体を染める。返り血というにはあまりにもどす黒い。

「ずっと、ずっと、待ってたんだよ、ユーリ。がんばって、がんばって、一番近くにいられるようにしたんだ」

 目の前のシーボーズの長い首を横に薙ぐ。粘ついた音を立てて抱きついてきた奴を微塵切りにする。大きなヒレを持った奴を三枚におろす。細かく羽ばたく小柄な三匹を串刺しにし、返す刀で丸呑みを目論む上顎を切って捨てる。鎌首をもたげるその舌を握り、口の端から尻尾までを一直線に切り開く。

「だから、会いに来てくれたんだよね。また一緒に遊ぼうね、あの約束、守ってくれたんだよね。ユーリ、何か言ってよ、ユーリ」

 懇願するかのごとく、シャノアラは言う。《フィンガーボウル》でビーナータのモーションを制御しながら。黒い異形のものたちを皆殺しにしながら。視線だけはずっと遠くにいるかつての友人を見据えている。

 対して、人型のシーボーズは何も言わない。微動だにせず佇立している。のっぺりとした顔面はまるでマネキンのそれが微笑んでいるかのように唇の端を上げている。

 とうとうシャノアラとユーリの間に立ちはだかるシーボーズはあと一体となった。小さな丸い頭に円い瞳のついた、鳥のようなシーボーズだ。ヘドロにまみれた枝を加えたそのシーボーズの両の翼を、シャノアラは容赦なく切り裂いた。

「やっと会えた……」

 シャノアラは呟いて、ビーナータの腕を動かす。マネキンじみた人形の肩を抱き、胴を寄せて抱きしめる。が、力を入れた途端、その体はぐずぐずと輪郭が乱れて崩れ、崩れ落ちはじめた。

「あ……ま、待って、待ってよ……ねぇ、ユーリっ!」

 腕の中から、指先から、『ユーリ』が溶けていく。溶け落ちていく。真っ白な海へ紛れて流れ落ちていく。

「……今度は……今度こそ、離さないんだから」

 ビーナータが脚を踏み出す。

 遠浅の大地の端を乗り越えたサキモリの巨体は、まっすぐに海の中へと沈んだ。


 一万。二万。三万。高度計の正負が逆転し、数字が加速度的に増えていくのを、シャノアラは冷えた目で見つめていた。しかしその瞳はもう何も写してはいない。全天周囲モニターの外側が深い青に染まっていくのをじっと見ている。

 四万。五万。六万を超えたとき、ツールコンプレックスの損傷を知らせる警報が鳴り響いた。複合装甲の一部が弾け飛んだのだ。それを皮切りに各部位のパーツが次々と水圧で圧壊していく。当然だ。これらの武装は水圧に耐えうるようにできていない。本来このような環境に置かれることすら想定されていないのだから。手元のコンソールで警告を止め、ツールコンプレックスをパージする。エラーを吐き続けるプロセスを強制的に殺すと、再び静寂が戻ってきた。

 七万。めきり。嫌な音が響いた。音のした方を見る。

「ビナ……タ……?」

 ビーナータの左腕が歪に曲がっているのだ。シャノアラの顔から血の気が引いた。ようやく思い当たったのだ。当然起きるであろうその事実に。

「だめ……。だめ……止まって……」

 悲鳴に近い静止。だというのに、ビーナータは構わずゆっくりと沈んでいく。

「や、やだ……なんで……なんで止まってくれないのよ……。ビナタ……。あたしが悪かったから、ごめんなさ……、だからもう……やめて……。ねえ、ビナタ! もう諦めるから! 姿が見えただけで充分だから!」

 フィンガーボウルを操作して逆噴射をかける――できるはずがない。ツールコンプレックスはさっきパージしたばかりなのだ。

 八万。ビーナータの四肢が縮んでいく。水圧を回避するためのメカニズムなどシャノアラは知る由もなかったが、少なくともビーナータがより防御に徹した形状になろうとしているのだと理解した。コクピット外殻の隙間からビーナータの構成物質がとろりと入り込んでくる。パイロットスーツに絡みつくように――シャノアラに抱きつくように――その体を爪先から頭のてっぺんまで包み込み、薄い皮膜と化す。

 九万。小さなひび割れ音がしてから、目の前のモニターが裂けた。真っ黒い色の水がたちまちコクピット内部を蹂躙する。体中を握り潰されたかのような暴力的な圧力。だが、動く。指先も、体も、動かせる。そのことに気付いて、シャノアラは自らの体を――ビナタを、抱きしめた。

「ビナタ……ありがと……」

 九万六千八百。おそらくこの世界でもっとも深い場所に、表面が鈍色にさざめく人型が着地した。前人未到の地を踏んだという感動はしかし、欠片もない。彼女たちの悲願はそんなところにはないのだ。

 不思議と海底は明るかった。上を見ても前後を見ても左右を見ても、ただ真っ青な水の色が広がる。ただ足元には白く淡く光る大地が横たわっているように感じた。鈍重で緩慢な水の流れが確かに存在する。この深海においても、確かに何かが息づいている。

 海の底に何かがいるとすれば、それはつまり、陸を目指すものだ。彼らが元いたところはこんなにも透明で、澄んでいて、静かな場所だったのか。ならばなぜ地上ではあんな醜い姿になってしまうのだろう。シャノアラには分からなかった。

「ね、どう思う。……ユーリ」

(わたしも、よく分からないや)

「ここにいるのに?」

(気付いたらいたんだもの)

「久しぶりだね、ユーリ」

(うん、久しぶり)

 水圧に速度を抑えつけられた動作で振り向く。

「服くらい、着なよ」

(水着なんて持ってきてないもん)

 屈託のない笑顔を浮かべて。

 ずっと前に別れた幼馴染が、もう逢えないと思っていた友達が、同い年なのに憧れていた女の子が、自分が未熟だったせいで救えなかった人が、そこにいた。

 裸で。

「着替え、持ってきてあげればよかったね」

(またシャノンの服貸してよ)

「嫌よ。これは私の一等お気に入りなんだから。また伸ばされたらやだもの」

 じわりと景色が滲む。鼻がつんと痛む。久しぶり過ぎて忘れていた、泣くという感覚。

(あれはあなたの胸が小さかったから悪いんでしょ)

「今は随分膨らんだんだよ、ほら」

(あ、ほんとだ。揉めるかな?)

「当たり前じゃない。なんならやってみなよ」

(やりたいのは山々なんだけどね……)

 猫っ毛の長髪の毛先を弄びながら、彼女は気まずそうに言った。

(ごめんね、シャノン。わたしまだそっちに行けないや)

「……どうしてよ。こうやって話せてるじゃない。また会えたじゃない。なのに、なんで!」

(時期尚早……なんだよ。多分。少し戻れたけど、たまたまだったんだ、あれは。また、しばらく……会えないと思う)

「じゃあ、また、会えるの? 今度はちゃんと帰ってきてくれる?」

(いつ帰れるかは分からないけど、ね。また会えるよ、きっと)

「本当? 本当に本当? 絶対に?」

(まったくもう、甘えん坊なんだから……いつまで経っても変わりゃしない)

 ユーリと呼ばれた少女は笑って、右手を差し出す。小指を立てて。

 シャノアラはそこへ自分の小指を絡める。

(もう一回、約束)

「……ん」

(ゆびきりげんまんうそついたら)

「はりせんぼんのーます」

 指切った。

(また一緒に遊ぼうね。……さ、早く帰んなさい。その子だってつらいでしょ)

 シャノアラは涙を流して何度も頷いた。もう呼吸さえできなかったけれど、声も出せなかったけれど、それでも笑顔で頷いた。

(ほら、ジャンプ!)

 小指が解けた手を握られ、上へと持ち上げられる。体が浮上する。意識が落ちる。



「話には聞いてたけど……きっついのね……」

 ハンカチを口に当てて、アリカは海岸に這いつくばっていた。シーボーズは消滅したあとですら悪臭を撒き散らす。それは何の装備もない一般人のアリカにとって耐えられるような代物ではなかった。一呼吸ごとに体の内側に新鮮な腐敗物を詰め込まれるようだ。迂闊に咳などしようものなら体の内側から腐り果ててしまう気がする。

 それでもアリカが海を睨んでいたのは、紛れもなくシャノアラのためだった。あの不可思議なキャラクターの鼻を明かしてやる、その一心で。自分でもなぜここまで拘るのか理解できなかったが、自分の意地っ張りな性格だけはよく理解していた。だから今回もそれだと思っていた。

 そのとき、アリカは海の中にぷかりと何かが浮かんでくるのを見た。直感的にその正体を理解し、その名を叫ぼうとする。が、できない。口を酸素呼吸器によって抑えられたのだ。振り向くと、ガスマスクに重装備を整えた迷彩柄の服を着た男たちが自分を取り囲むところだった。映画みたいだ、とアリカは思う。なら今だけ自分は主人公だ。アリカは暴れた。そして自分の見つけたものを指差した。獣のような悲鳴を上げてアピールする。あそこにいる、友人がいる、助けてやってくれ、と。男の一人がそのメッセージに気付いたのを見届けて、アリカはそれっきり騒ぐのをやめた。自分の役目は、一旦終わりだ。


     2


 シャノアラが目を覚ましたとき、周囲は真っ白なベールに覆われていた。目が明かりに慣れてきて、ようやくそれが透明なカーテンのようなものだと気付く。

「起きた?」

「……メティ……?」

 白衣を着た長身の女性。見慣れた顔。赤い眼鏡が白ばかりの視界に一点のアクセントを置く。その位置へ瞳の焦点が合ってから、ようやくシャノアラの瞳は覚醒した。

 右手が痛い。

「自分が誰か分かる?」

「シャノ……アラ」

「私のことは?」

「メトイアリア……」

「ここはどこ?」

「……知らないよ」

「トサカ記念病院の集中治療室よ。あなた五日間眠りっぱなしだったんだから」

「ビナタは……?」

 こぼれた言葉にメトイアリアは苦笑する。

「少し前まで休卵状態だったけど、昨日フェイスを出せるようになったわ。随分無茶させたみたいね」

「……ん」

「かなり衰弱してるけど、大丈夫みたいよ。報告によるとね」

「そう……」

「大変だったのよ、あのあと。何しろ前例がないことばかりだったから。あぁ、それと……アリカさんもいるわよ」

「……アリカ? スオウ・アリカ……?」

「そう! 他のだれでもないこの私、スオウ・アリカです」

「!?」

「へへ、びっくりした?」

 隣のベッドに腰掛けて身を乗り出しているのは紛れもなくスオウ・アリカその人だった。青みがかった患者衣の上に、人懐っこい笑顔とノンリムの眼鏡が乗っている。

「おはよう、シャノアラさん」

「……おはよう」

 あのあと。

 救出されたシャノアラとアリカは隔離病棟集中治療室にすぐさま押し込められた。精密検査の結果二人共命に別状は無いと判断されたものの、濃い臭気を浴びたアリカは三日間の隔離生活、シャノアラは絶対安静を申し渡されたという。もっとも、意識がなかったシャノアラは安静にせざるを得なかったが。そしてメトイアリアが通うこと二日。ようやくシャノアラは目覚めたのだ。

「ところでメティ。右手、痛い」

「あっ……ごめんなさい」

「ううん、いいよ。……あたしこそ、ごめん」

 恥じ入るように遠ざかろうとする手を捕まえて、握り返す。鬱血するほど握りしめられていた手は痛かったが、文字通りに、メトイアリアの心配は痛いほど伝わってきた。

「……えと、わたし外したほうがいい?」

「まだ外に出られないでしょう、アリカさん」

「う。そうでした」

「気にしなくていいわよ。そうしんみりするつもりはないから」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 アリカが軽く肩を竦めたとき、病室の扉が開いた。小柄な二つ結びに真っ黒な服、そして眼帯をした少女が立っていた。

「ビナタ……その……」

 言い淀むシャノアラのそばまでとことこと歩き、赤い瞳で数秒ほど見つめて、

「……あのときは、ごめ、……っ?」

「ん?」

「あ」

 唇を、重ねた。

「ん、む、ぅ……ん、ちゅ……っ。はぁ……っ」

 生温い軟体物がシャノアラの口の中に侵入してきて、丸い塊が押し込められる。歯に当ってカラコロと音を立てるそれは、僅かに酸味があって、甘ったるい。

 ややあってビナタはシャノアラから唇を離した。普段と同じ無表情のくせに、何故かしてやったりと言わんばかりの顔に見えた。

「これ、《キャンディ》……? もしかして、ご褒美……に?」

 何も言わず、ぽふんとシャノアラのベッドに座る。そして体を、さらさらとした髪と小さな頭を、預ける。

「……そっか。ありがと、ビナタ。ごめんね」

 頭を撫でる。いつものように。

「それと、スオウさん」

 撫でながら、シャノアラはやや畏まってアリカに向き直る。

「アリカでいいよ」

「アリカ」

「うん」

「……アリカとう」

 静寂。

「あのー。ひょっとしてそれ、ギャグで言ってる?」

「あ……あ、あ、いえ、なんでもない。ありがとうって言ったのよ。それくらいちゃんと聞いてなさいよ」

 ぷっ、とアリカは吹き出し、腹を抱えて笑い出した。

「あははははは! わははは、ははははっ! あんたつまんないやつだと思ってたけどなかなかやるじゃん! ここでボケてくるとか見直しちゃったよ。あ、『アリカとう』って、今時小学生でもそんなこと言わないってえの」

「うううううるっさい! 思いついたんだから仕方ないでしょうが!」

「だからって口に乗せる方が悪いって」

 ひひひひははははとアリカの笑いは止まることがない。相当ツボに入ったのか枕をバシバシと叩いて全身で笑い転げている。

 メトイアリアとビナタは顔を見合わせ、小さく肩を竦めた。

「んで、なんでありがとうって?」

「だって……追いかけてきて、くれたから」

 あれだけ冷たくあしらっても、あれだけ無茶を押し付けても、追いかけてきてくれたから、嬉しかった、から。とは、言えなかった。そこまで言うのはあまりにも気恥ずかしくて。

 アリカはへへんと鼻で笑って、

「どういたしまして。それで、シャノアラはちゃんと実感した?」

「……?」

「あんたを好きで、無茶して欲しくないって思ってる人がいるってことをさ」

「ぁ……」

 メトイアリアを見る。

 ビナタを見る。

 アリカを見て。

 ……どこを見ていいか分からなくなって、シャノアラは目を伏せた。

「だから、あんまり無茶しないようにね」

「うん。分かった」

 肩に手を置いて言うアリカの言葉が目に染みた。

 ずっとずっと無茶をしてきた自覚はあった。けれど、あえてそのことを考えないようにしてきた。ユーリと会いたくて、その一心で今の自分があると、自分に言い聞かせてきた。そうでないと転んでしまいそうだったから。自分の力でどうにかしなければいけないとすべて背追い込んでいた。けれど違ったのだ。自分には、メトイアリアがいて、ビナタがいて、基地のみんながいて……誰もが、ユーリもが、心配してくれている。その事実を、シャノアラは今更ながらに――或いは、今、更に――思い知った。

 頬に一筋の涙が垂れるのを、シャノアラは感じた。

「ありがと。みんな」

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