第2章 かかる・わかる・かわる

  0


 水に浮かんで見る光景はいつだって同じだ。

 伸ばした手は届かない。叫んだ声は聞こえない。崩れた脚は動かない。ただ無力感のさざ波が胸を覆い尽くす。

 波。

 そう、波だ。

 高い高い波が私を覆い尽くす。あまりにも突然のことで私は何が起こっているか分からないままにその光景を見ていた。愛する家族も、嫌いだった食べ物も、温かい布団も、教室の机も、知ってる友達も、みんな一緒くたにして覆い尽くす。押し流される。浚われていく。私を支えてくれたのは大切な大切な友達との、好きな人との、約束だった。

 ――また遊ぼ――

 ――うん、また明日ね――

 またねって、そう言った。また明日って、そう約束した。

 だから。


  1


 運命などという大袈裟な言葉を使ったところで所詮学校という閉じられた空間での扱いが決定されただけにすぎないのだが、言い換えれば必然とでも表現していいだろう。

 アマチ=ノワ=シャノアラとビナタは、一週間もしないうちに変人ペアの烙印を押された。話しかけてもろくな返事もない。据わった目でじっと見つめてくるばかり。私に関わるなさもなければ死ぬぞオーラを漂わせている二人が四六時中一緒にいるのだからオーラはさらに二乗である。そんな二人に触らぬようにするのは当然であり、賢明と言えた。

 黒い長髪をなびかせてゆらゆらと歩く様は黒い幽鬼のようだとまで噂され、シャノアラ自身は幽鬼ちゃん、それに付き従うビナタは影ちゃんなどと呼ばれるようになってしまった。

「確かにまぁ、あのドスの利いた目付きはカタギじゃ出せないと思うけどね」

「一度会ってみたいもんだねぇ、そんな子。愉快そうじゃないかい」

 朝の食卓を囲みつつ、アリカは祖母に学校のことを話していた。

「愉快そうっていうか……うーん、多分悪い子じゃないと思うよ。いい子でもないけど。なんていうか、寂しそう、っていうか」

「アリカがいじけたときにそっくりかね?」

「う、うー。そういうんじゃなくて! ……そういうんだけど」

「ほら見なさい」

「でもそういうのとはちょっと違うのよねぇ」

 そう言って味噌汁をすするアリカ。ごっくんと飲み込んでから、

「ん、ふぁ~! やっぱりワカメっておいしいね。高級品なだけあるなぁ」

「そうかいそうかい。昨日オキタさんにもらってきた甲斐があったよ」

「年に何回かしか食べられないもんね。お祖母ちゃんが持ってきてくれるやつ、いっつも楽しみにしてたんだよ、海の食べ物。切り身とか、焼いたのとか、それに小さいのを揚げたやつ。あれ美味しかったなぁ」

「お刺身と焼き魚とザッコ揚げね。じゃあ今日の晩御飯はお刺身にしようかねぇ」

「よっしゃー」

 諸手を上げて喜ぶアリカである。

 この世界では海産物の流通が極めて少ない。理由は第一に漁業の安全を脅かすシーボーズの存在、第二に人類の暮らす少陸という大地の特性によるものだ。

 数千年ほど前、人間は少陸と共に旅立った。史書によればそう記述されている。地殻変動により巨大な大陸が水に呑まれた際、親が子を溺れさせまいとして幼子を水上へと掲げるように、母なる大陸から分かたれてしまったのが、今の少陸だ。さらに史書にはある年月を経て母なる大陸よりの便りが届くと記述されているものの、その便りとは何なのか、いつ来るのか、一体どんな形でくるのか、はっきりしたことは分かっていない。ただ一つ確かなのは、過去からの手紙を唯一の頼りとして洋上を彷徨う一握の迷い子、その背なで人間たちは暮らしているということだけだ。

 遠洋漁業の実入りは確かにいいが、少陸は始終移動している。またシーボーズの撃退にはサキモリの力が必要不可欠であり、遠く離れた海上ではその戦闘力を充分に発揮させることはできない。その結果として、海産物は高級かつ珍しい食材として扱われているのだ。本来ならばアリカのような中流階級の娘が口にできるようなものではないのであるが、祖母のミヨが漁業従事者にコネを持っているために、こうしてしばしばお裾分けとしていただいたものに舌鼓を打っているというわけである。

「あーゆっくり食べ過ぎちゃった。ご馳走様でした!」

「お粗末さまでした」

 朝のニュースは今日の天気予報を伝えている。少陸の進路、それによる風向きや天候の変化。いわく、今日の午後からはトサカと雨雲の進行がちょうどかち合うため、一部で強めの雨が降るらしい。念のため傘を持っていったほうがいいかもしれない。

「あぁそうそう、アリカ。今日はお祖母ちゃんちょっと遅くなるよ。遠いとこだからね」

「へ? どこまで行くの?」

「アカルヒ。分かるかしら?」

「えーっと静国の方だっけ? 『屋根』にちょっと近い?」

「そんなとこね」

 祖母の含み笑いを見るに、当たりではないが方角は合っているようだ。禮国の北の隣国に近く、少陸の中央にそびえる山脈の方面ということになる。

 ミヨに限らず、多くの老人は産業人材庁に登録している。高齢化・長寿命化が進む社会では、老人であっても体が動くならば貴重な労働力だ。農業が盛んな禮国では特に、老人の労働力と知恵と経験は、武器であると同時に文化でもあった。現代の老人たちが幼い頃から既に機械化が進んでいた農業分野であっても、必ず人の手を入れなければいけない部分はある。

「うん、分かった。晩御飯は?」

「お風呂だけ沸かしておいてちょうだい。あなた魚捌けないでしょうに」

「う……。が、がんばって覚える」

「期待してるわよ」

 傘を手にして家を出る途中、玄関の横の家庭菜園に目をやる。プランターの中で育つ植物は昨日より成長していた。しかし、そのまま成長してもプランターの中では大きく育つのは難しい。それでも枯れさえしなければいずれは実をつけるのだろう。瑞々しい野菜を想像して、アリカはなんとなく笑顔になった。


 アリカの所属する高等部一年三組の生徒は男女あわせて二十五人いて、女子が一人多い。他の組の人数もだいたい同じようなものらしく、入学式のときの演説では高等部は新入生含め二百人ほどしかいないと言われていて、高等部の校舎はこの人数に見合った大きさでしかない。一方大学はといえば、パンフレットによれば社会人受講生や留学生まで含めて、高等部生のおよそ十倍、建物もそれに見合った大きさだ。空中から見ればさながら母屋と納屋のような印象を受けるだろう。

 ともあれ、アリカはその三組の学級委員長という立場を買ってでた。理由は特に無いが、強いて言えばイメージ作りだ。マジメで明るい優等生、という外面を固めるための。或いはもう一つ理由があるかもしれないけれど。

 通学路を歩くアリカの視界の端に、黒い幽霊が二人写った。

 シャノアラとそのお供、ビナタである。いつも通りの黒ずくめの服、黒尽くめの髪、ソックスまで黒だ。そしていつも通りの、見ていて痛々しい目の下の隈。

 アリカはこっそりと近付いていって、努めて明るい声で挨拶する。

「おはよう、アマチさん、フェイスさん」

「……」

 声の代わりに返ってくるのは二対の――いや、分厚いレンズ越しの一対と、眼帯に隠れていない一つ、三つの視線だ。ずっと見つめられているとじっとりと嫌な汗をかきそうな、そんな目付き。嫌悪まではいかない、倦厭。

「なにか用なの?」

「用ってわけじゃないんだけど……ほら、クラスメイトだし。会ったから挨拶しようかなって」

「……おはよう」

「うん、おはよう! ――って、ちょっとぉスタスタいかないでよぉ」

 視線を外してさっさと歩き出す二人にアリカが追いすがる。歩道を完全に塞いでしまうので三人で横並びになれないのが痛いところだ。アリカはいかにも根暗そうな二人の背後から、めげずに世間話を持ちかける。

「そうそう、こないだ漁業艦隊が帰ってきたでしょ。知ってる、漁業艦隊? 多分知ってるよね? 漁業してくるんだよ、あれ。でっかい船なんだよねー。実はあたしの部屋から、先週のあれが戻ってくる港が見えたの。トサカ湾ってあるでしょ。あそこってあたしの部屋から綺麗に見えるんだよねー。実はお祖母ちゃんの知り合いの人がその関係者でね、たまに色々もらえたりするの」

「……」

「そうそうお祖母ちゃんね、うちのプランターで植えてる野菜の苗がちょっと育ってたんだよ。えっと、ナスときゅうりとピーマンと……鷲の爪? とかそういうのでね、いつか大きくなったら収穫して食べるんだ」

「……」

「それからそれから、今日こんなに晴れてるけど、実は午後から雨が降るんだって。天気予報で言ってたよ。だからあたし傘持ってきたんだけど――」

「……うるさい」

 ぴた、とシャノアラが立ち止まった。

「――でもやっぱり折りたたみにすればよかったかなって。ん?」

「うるさいから。しずかにして」

 普段無表情なシャノアラがわずかに眉根を寄せている。そんな感情の機微が見られたことが嬉しくもあり、怒らせてしまったかと気まずくもなり。しかしほんの少しだけでも感情を見せてくれたのが、アリカはなんとなく嬉しかった。黒い幽鬼とまで噂されるシャノアラでも、本物の幽鬼なんかではないのだ。

「あはは、ごめんね」

 とりあえず謝る。

 シャノアラは済まなそうな表情のアリカを少しだけ見つめると、すぐに歩き出した。

 まぁ、このへんが潮時だろう。そう思いつつ、アリカはつややかな黒髪と二つ分けの髪の後をついていった。

 アリカの『アマチちゃん&フェイスちゃんと仲良くなろう』作戦――シャノアラにとっては甚だ迷惑なその行為は、ここ一週間ばかり続いていた。

 あるときにはこうだ。

「アマチさん、フェイスさん、一緒にお弁当食べよう! それとも購買組? 早くしないと売り切れちゃうよ」

「……眠いから」

「お昼寝? 二人とも? そっか、邪魔しちゃったね……おやすみなさい」

 またあるときはこう。

「どうしてトイレについてくるの?」

「どうせなら一緒にと思ったんだけど」

「……」

「だって女の子同士だし」

「……」

 こんなこともあった。

「わっ。アマチさん、そんなにふらふらしてたら階段から落ちちゃうよ!」

「……眠いの」

「もう、わたしが受け止めなかったらどうなってたか……ちゃんと寝なきゃだめですよっ」

 どうせビナタが助けてくれる、とはいえなかったが。

「……離して」

「素直じゃないわねえ」

 誰のせいだ、とシャノアラは嘆息した。

「溜息つくと幸せが逃げちゃうぞ~」

 誰のせいだ。



 黒いフルリムの眼鏡をかけた、やや背の高い女生徒。目にかからない長さの前髪を頻りに払う仕草が癖で、姿勢が良いせいか均整の取れたスタイルに見える。そのせいだろうか、言動の一つ一つが奇妙に洒脱な印象を受ける。

 名は確か、スオウ・アリカ。スオウ氏はもともと旦国の近衛に属する一氏族だったから、禮国でその姓を見かけるのは少々珍しい。旦国民の特徴は美しい金髪と青い瞳だが、アリカは明るい茶色の髪に青い瞳だ。

 彼女がシャノアラに絡み始めたのは始業式の次の日からだ。学級に馴染むつもりなどさらさらなかったシャノアラだったが、全体に薄く広く交友関係を広げつつあるアリカの手引き――あるいは策略――によって、学級内での扱いはプラスでもマイナスでもない状態である。シャノアラ当人は静かに学生生活を送れればいいと思っていたのだが、しかし彼女とビナタの容姿を考えれば遅かれ早かれ名物のように扱われるのは畢竟だったのだから、アリカの仕掛けたイメージ戦略は成功と言えた。何事もスタートダッシュが肝心なのである。

 もっとも、どんな意図であれ普通は付きまとわれて良い気のする人間などいない。シャノアラは今も後ろに立っているアリカをチラリと見遣った。

「ん?」

 目敏い。

 隙がない、とでも言えば良いか。

 絡んでこないときもさりげなく、アリカはシャノアラを気にしている。当初はただの自意識過剰だろうと思っていたが、ビナタに否定されてしまった。非常に、やりづらい。

「んー。やっぱり雨降っちゃったね。シャノアラさんはどうするの? 傘ある?」

「ない、けど」

「じゃあみんなで相合傘ね」

 ――などという提案により、女三人が一つの傘で帰るというやや無理のある光景が繰り広げられていた。

 アリカがいなければビナタを着込んでさっさと帰れたのだが、それを口に出すのは憚られた。サキモリ及びモリビトの肩書きは特別に隠さなければいけないものではないが、同時に言い触らすものでもないので、シャノアラはなんとなく隠していた。その結果が、この状況である。

 雨の中を女三人相合傘。さほど大きくない傘なので当然誰かの肩は濡れるのだが、アリカが巧妙にシャノアラとビナタに傘を差掛けていることに、シャノアラは先程から気付いている。

 とはいえ、シャノアラの住居は目下のところオルダ基地内の寮だ。そこまでついてこられるわけにはいかない。

「ここまでで」

 十字路を前にして、シャノアラは立ち止まった。駅前商店街のアーケードが続く道だ。この道を右に折れれば基地の寮で、左に折れれば一般住宅地、まっすぐにいけば海に辿り着く。

「あとは屋根のあるところ歩くから」

「えー」

 えーってなんだ、えーって。

「いいじゃない、送るよ」

「いい。いらない」

「……むー」

 むーじゃない。可愛く言っても困るものは困る。

「一つ聞くけど」とシャノアラ。

「うん? なぁに?」

「どうしてそんなに私につきまとうの?」

「あ……えっと」

 ぽりぽりとアリカは頬を掻く

「邪魔だった?」

「それなりに」

「う……それは謝らなきゃだよね。ごめんなさい」

「で、どうして?」

「どうしてって言われても困るけど……んと、気になるから、かな? ほら、アマチさんって個性的っていうか、一匹狼っていうか、ほっとけないっていうか」

「ぼっち?」

「うんそう。あ、いや、そういうんじゃなくて」

 空いている片手を振って否定するポーズを取る。

 要するに、野良猫に構うようなものだろう。憐憫、同情、優越? それとも優等生としての点数稼ぎか。

 シャノアラは腕時計を確認する。時間にはまだ余裕がある、が。

「まぁ、なんでもいいよ。それじゃ、さよなら」

 最後通牒を突きつけるつもりで別れを告げたのに、アリカから帰ってきたのは喜色ばんだ声だった。

「うん、ばいばい! また明日ね!」

 あっさり引き下がったことを内心意外に思いつつも、シャノアラは振り向かずに寮へと歩き出した。その途中で、あ、と思い当たる。別れの言葉を告げたのは初めてだったことに。



 シャノアラの前には、巨大な卵があった。

 直径はおよそ三十メートル、高さは二十メートルに届かないくらい。表面はマーブル色で、触ると大理石のようにつるつるしている。指で押し込むと弾力があるが、さほど深くは沈まずに、離せばすぐに元に戻る。

 シャノアラはその卵に愛おしそうに手のひらを当てた。傍らの幼女が僅かに目を細める。その頭を優しく撫で、シャノアラは呟いた。

「ただいま、ビナタ」


 寮に戻ったシャノアラは私服に着替え、ビナタと共にオルダ基地へと出勤した。

 シャノアラの詰めるオルダ基地は、三層に分かれたショートケーキのような形をした基地である。背側の方が海に面しており、ご丁寧に屋上の高機能複合レーダーは赤いキャノピに包まれたゆるやかな尖塔形で、キャノピの色から通称苺の目と呼ばれる。ここまで徹底されていると、基地設計者に重度のケーキ好きがいたとしか思えない。その基地へと続く多種のレールや道路はさしずめ蟻の道といったところか。

 小綺麗な建物に入ると、受付の女性が笑顔で手を振ってきた。その顔馴染みの彼女に目礼を返し、タイムカードだけ切ってすぐに出た。

 シャノアラが本当に用があったのはそのショートケーキのそばに建つ背の低い建物だ。昼夜を問わず可視光を放ち続けるその様から《灯台》と呼ばれているそこは、サキモリの格納庫である。関係者通用口の指紋・声紋・静脈照合をクリアーした者しか通れない鉄壁の詰所だ。

 サキモリはこの格納庫にいるとき、休卵状態と呼ばれる省エネルギー形態を取る。読んで字のごとく、戦闘時は人型だった身体を折りたたみ、モーフィングし、鶏卵のような形に収まるのだ。

 そのとき本体から分離させるのが、今シャノアラのそばにいる小さなビナタ、《フェイス》である。主に付き従って行動し、主の身の安全を確保し、それらに反しない限り自らの身を守る、それが《フェイス》の存在意義であり、また行動原理であるとされている。すなわちサキモリは、自分の相方であるモリビトを守る意志があるのだ、というのが目下のところ、サキモリ研究者の間では常識となっている。

「ビナタ、乗せて」

 視線を下げてフェイスのビナタに声をかける。すると卵の表面がゆるゆると変化し、たちまち人一人が通れるほどの通路になった。

「ありがと」

 微笑んで、奥へと入る。

 少し歩くとコクピットがあった。計器類がごてごてとついた制御卓に取り囲まれた多動性座席は、今はダイレクション・フルイドが充填されていないせいか妙に固く冷たく見えた。シャノアラは身体を滑り込ませるようにして座席へ身を預ける。

「おいで」

 ビナタは小さく頷いて、するりとシャノアラの股の間へと収まった。小さな体を抱いて、二振りに髪を分けた後頭部に頭を乗せる。温かくも冷たくもない、ビナタの体。抱きしめる腕には乾いた包帯の感触がある。

 一度ビナタに聞いたことがある。この眼帯と包帯は何なのかと。するとビナタは録音学習した音声でこう答えた。『わたしが/ずっと/たたかった/あかし』。つまりこの格好は、ビナタの来歴の表れなのだと、そうシャノアラは納得したのだ。

 コンソールを操作してシフト表を呼び出す。

 サキモリによる防衛網は、基本的に居住している地域を中心として、その近隣の基地を行き来してシーボーズに対する警戒態勢を取るというシフト制を採っている。シャノアラもモリビトの中では若年ながらその例に漏れず規定の時間を割り当てられている。担当する時間は社会的な立場や年齢、性別その他の要因によって考慮されるが、モリビトの要望も可能な限り通る仕組みだ。

 シャノアラは高校入学が決まると同時に、真っ先に夜間の担当を増やしてもらうよう申請した。規定からすると夜間シフトに就けるのは成人――禮国の法律ならば十六歳――以上に限られているため、シャノアラは本来なら数ヶ月後でなければ申請できない決まりである。しかし同じく禮国の法律で、高校に籍をおけば成人と見做される。それを利用して、シャノアラは十五歳ながら夜間シフトを申請できたのだ。

「十日夜……十二日昼……十三日夜……。……十、四……」

 指折り確認しながらカレンダーと当てはめていく。学生であることを考慮してか夕方や夜が多く、夜間といってもあまり長引かない時間がほとんどだ。

 プッ。短い電子音と共に映像通信が入る。面倒臭いなと思いながらもシャノアラは通信を受諾した。

「はい」

『こんにちは、アマチ特佐。あ、ビーナータさんも。シフト表はもうご覧になりましたか』

 童顔の女性が透過ディスプレイに表示される。リーリン・ペギー。オルダ基地の技術班員の一人で、ツール・コンプレックスやサキモリのタイムスケジュール表の管理も彼女の仕事の一部だ。作業中だったのか縁無しの眼鏡をかけている。

『あなたの要望を入れておいたけど、大丈夫かしら。都合が悪い日があれば早めに言っていただけると助かります。それと学校側の単位との兼ね合いも計算しておいてくださいね。折角入学したんだから』

「分かりました。特に問題はないと思います」

『ありがとうございます。先日新しいモリビトが見つかったみたいでね。そのおかげであなたへの負担が少し減ってます。ほんの週に二、三回くらいですけど。えーと……あ、あった。サキモリ・メンジーエンシーのモリビトね。十七歳ですって。特佐と年も近いし女の子し、仲良くなれるかもしれないわね』

 傍らにあったらしい資料をめくる音がする。

 リーリンの敬語平語混じりの奇妙な口調は、立場は上だが別部署の人間、知り合いでありながら階級は上、馴染みの顔でありながらいつも硬い表情、そんなシャノアラを気遣ってのものだ。

『これで稼働中のサキモリは二十四体中十三体。昔は二十四体全部が稼働してた時期もあったらしいですけど、今は全然なのよね。もう少しモリビトが増えれば一人一人の負担も減ると思うんですけどね。サキモリさんの負担だって減るわけだし、ね』

 ペギーはそう言って、眼帯と赤い瞳の幼女に視線を移した。ビナタはその鳩の血色の瞳を伏せたままじっとしている。

「そろそろいいですか、リーリンさん。これから報告書を書かなきゃいけないので」

『あ、そうだった? ごめんね、邪魔しちゃって。それじゃまた。何かあれば通信ください。失礼致します』

 略式の敬礼を最後にペギーの通信が切れた。

 シャノアラは座席にもたれかかって長く溜息をつく。ペギーはお喋りが長い。報告書の作成は嘘ではないが、それ以上にサキモリにとって大切なことがあるのだ。

 一言で言えば、それは鍛錬である。これまでに記録したデータを参照し、情報を整理して未来へと役立てる。記録の咀嚼と反芻を繰り返してベリフィケーションとシミュレーションを徹底し、行動と対応をより的確かつ正確に研ぎ澄ませて効率的なものへと変化させていく。自らの身を守るため、次の戦いに勝つため、次の敵を撃退するため、報告書よりずっと重要なことだ。

「……よろしく」

 ビナタの頭をそっと撫でてから、両手をパームトップインターフェース《フィンガーボウル》へと差し入れ、目を閉じる。

 体の感覚がすぅっと遠くなり、シャノアラはアーカイブへと没入した。


 見る夢はいつも同じだ。

 見覚えのある海辺を、小さなシャノアラは彼女の手を引いて走る。息を切らして襲ってくる怪物から逃げる。だが、だめだ。すぐに息ができなくなって、膨大な質量に呑まれる。

 それでもシャノアラは手を離さない。捕まってて、とシャノアラは叫ぶ。息ができない。この手を離したくない。しかしどんなにがんばっても、繋がれた手が、絆が、解けてしまう。そして彼女は呑まれながら笑うのだ。涙を流しながら。

『大丈夫、また会えるから。待ってて』

 声にならない絶叫がシャノアラの喉から搾り出される。そのまま誰かに左手を捕まれ、シャノアラの体は圧倒的質量から引きずり上げられた。

 後に残るのは後悔と屈辱と自責と……それから決意と。

 そんな、夢。



 本日最後のクライアントが部屋を後にした。

 アマチ・メトイアリアは猫のような声を出しながら、大きく伸びをした。あとはカウンセリングの結果をまとめて、少し書類を作って、終わりだ。作業を終えたメトイアリアは、お団子にしていた髪を解き、ゆったりとした形に束ね直した。蜂蜜色の豊かな髪がふんわりと背中に降りる。

 右手の内側にはめている腕時計を見る。夜六時。シャノアラはまたビーナータのところだろうか。小さくため息をつく。連携を強化するため、結びつきを深めるため、戦闘パターンを突き詰めるため、理由は色々あるが、サキモリとモリビトが一日のうち長い時間を共にすることは不思議なことではない。

 しかし――とメトイアリアは思う。シャノアラは特にその傾向が強いように思える。三年前に留学すると言い出したときは驚いたものだが、それが逆に依存を強める結果になったような気がするのだ。

 飽くまで、気がするだけだが。

 そう考えるメトイアリアの足は、自然と《灯台》へと向いていた。作業着と決めている白衣を羽織ったまま、愛用のワインレッドの眼鏡をかけたまま。

 角を曲がろうとしたところで、右手から出てきた人影とぶつかりそうになった。

「ひゃっ、す、すみませんっ」

「あ、ごめんなさい……なんだ、ペギーじゃない」

「……先輩ですか。びっくりさせないでくださいよ」

「それはこっちの台詞よ。それと先輩はいい加減やめなさい」

「先輩はあたしにとってずっと先輩なんですっ」

「……。で、どうしたの、そんなに急いで」

「課長が明日の会議の資料のコピー忘れてたらしくて。今急いで刷ってたんです」

 はぁ、と溜息をつく彼女の腕には紙束が抱えられている。女性としても小さな体つきながらフットワークが軽くパワフルなのは彼女の長所だ。もっとも、そうでなければTC技術班にはいられないだろう。

「手伝いましょうか」

「あ、お願いできます? ありがとうございます!」

 メトイアリアは苦笑して、半分ほどを受け取った。

「明日の会議って、十三人目のモリビトのことかしら? メンジーエンシーだったわね」

「ええ、そうなんです。その報告とか今後の扱いとか」

「どんな子なの?」

「んー、私もまだ会ったことはないですけどね。さっき話してたんですけど、シャノアラちゃんに歳が近いですよ。十七歳。これが写真見るとなかなか可愛い子なんですよ~。活発そうで目が大きくてですね。あ、見ます? これに写真載ってますよ」

「見ていいの?」

「構いませんよ。どうせバレやしませんって。すぐに周知になるんですし」

 肩を竦めながら手元のペーパーへ目を落とす――と言ってもさっきから視界に入ってはいたのだが、じっくり見るとなるほど確かに、小顔で活発そうなショートカットの少女だ。人好きのする顔立ちである。その下には彼女の細かい来歴が書いてあったが、歳が若いこともあって余白が多かった。メトイアリアは「かわいいわね」と一言、素直に感想を述べた。

「となると、ツール・コンプレックスの消耗も激しくなるわね」

「まぁそうですねぇ。私たちの労働時間に直結しますけど……今も暇なくらいだし、いいんじゃないですか? 私だってこんな紙束運ぶくらいならナーヴセルユニット運びたいですし」

 ツール・コンプレックスとは、その名の通り様々な工具(ツール)の複合体(コンプレックス)を装備したサキモリ専用の保護鎧である。工具複合体と称してはいるが、その実態は多機能ウェポンラックと五百十七枚の複合装甲からなる戦闘用アーマーだ。

「まー予算はたっぷりもらってますから、結構のびのびやれますよ。幸い……っていっちゃなんですけど、今稼働してるサキモリは少ないですし、一体当たりの予算も余裕があるってな具合で。モリビトさんたちに負担かけるのはちょっと心苦しいですけどね」

「しかたないわよ。彼らも納得してくれるわ」

「と思いますけどね。なんだかんだで……あ、ここで結構です」

「会議室でなくていいの?」

「ええ、ここから仕分けして運びますので。ありがとうございました!」

「分かったわ。ところで、さっきシャノンと話したって言ってたけど……やっぱりビナタのところよね」

「そうですね。報告書を書くって言ってましたから、まだいるんじゃないでしょうか」

「ありがと。行ってくるわ」

 敬礼するペギーに手を振り、メトイアリアは再び《灯台》へ向かう。


 休卵状態のビーナータの側面に通路が開いていた。聞いた通り、シャノアラはビーナータのコックピットにいるらしい。

「入るわよ、ビーナータ」

 すべすべした表面に手を触れ、歩を進める。規則正しい小さな呼吸音が耳に届いた。シャノアラの寝息だ。ビナタを抱きしめ、座席に凭れかかったまま目を閉じている。

「……またこんなところで」

 手を伸ばそうとすると、じろりとビナタに睨まれる。もっともビナタにとっては普通に視線を向けただけかもしれないが。

「しょうがないでしょう。こんなところで寝かせておくわけに行かないじゃない」

 メトイアリアは諭すように言う。シャノアラのことを第一に扱い、何物にも優先し、尊重する。ビナタのその行動原理は理解しているつもりだが、それにしても過保護が過ぎる。いや――依存しているとさえ言えるかもしれない。

「……ん」

 シャノアラがごそごそと身動ぎした。腕の中のビナタを見てから、ぐるりと首を回して、入り口にいたメトイアリアを見る。

「メティ……あたし寝てた?」

「そうらしいわね」

「いま何時?」

「七時半。いつから寝ていたの?」

「多分ちょっとだけだよ」

「そう……。……飲む?」

 途中で淹れてきたココアのカップを渡すと、シャノアラは両手で受け取った。

 自分のカップの中で少し言葉を転がしてから、メトイアリアは言った。

「今年も眠れてないみたいね」

「……うん」

「あまり無理しちゃだめよ。健康でなかったらできることもできないんだから」

「……ん」

「拘るなとは言わないわ。でもね、シャノン。今のあなたはこうして生きているのよ。それは何も悪いことなんかじゃない。ビナタだって、私だって、あなたにここにいて欲しい」

「……」

 四月十四日が近くなると、シャノアラは決まって寝不足になる。それは三年前の忌まわしい出来事と彼女自身の後悔によるものだ。『トサカ冒蝕』――当時住んでいた居住区を襲った災害に、シャノアラは巻き込まれた。当時小学生だった彼女はそれによって父母と親友を失い、自身も重体となったのだった。

 事件のあと、病院のベッドの上で目にした彼女を、メトイアリアは今も忘れられない。真っ白な患者衣に身を包んだシャノアラの顔は病院の壁より真っ白で、焦点の合わない瞳はどんなガラス玉よりも虚ろだった。

その背後に佇む黒い人影を見たときは、死神かと疑ったものだ。本当のところは違った、いやむしろ逆だった。死神と見紛うほどに根暗そうで不健康そうで疚しそうな幼い女の子は、シャノアラにとって救世主であったに違いない。彼女が、ビナタがいなければ、あのあとのシャノアラがどうなっていたか、メトイアリアには想像もつかない――想像も、したくない。

 今でこそこうしてモリビトとしての業務をこなし、学校へ通ってはいるものの、未だにあのときのトラウマをシャノアラは引きずっているのだ。

「ところで、学校の方はどう? ちゃんと溶け込めてる?」

「うん、大丈夫。体育は面倒だから出てないけど。こっちの言葉も、全然忘れてないし。勉強もあんまり、難しくないし。クラブ活動とかは興味ないけど。……食べ物も美味しい」

 うんうんと相槌を打ちつつも、メトイアリアの心配は晴れることはなかった。人間の話がまったく出てこないということは、つまり孤立しているということではないか、と。しかし、その心配はすぐに打ち消された。

「あと、よく声をかけてくる子がいるの」

「……へぇ。どんな子?」

「髪が短めの、眼鏡の子。クラス委員長の」と言って、シャノアラは腕の中のビナタに落としていた視線を上げる。「おせっかいでうるさいやつ。今日も帰りについてきたし」

「昔の私くらいの髪かしら。あなたを放っておけないんじゃないの?」

「さぁ。どっちにしろおせっかいなのよ。……眠いのにさ」

 ビナタの髪を梳りながら言われると、メトイアリアにはビナタさえいればいいと暗に言っているように聞こえる。

「学校でも居眠りしてるんじゃないでしょうね」

「授業中は……起きてるもん」

 つまり休み時間は寝ているということだ。或いは起きていても、睡魔と戦っているか。

「じゃあ夜はちゃんと寝ないといけないわね。さ、帰りましょう」

 シャノアラはあくびを噛み殺して頷いた。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る