私は夜の海を眺めていた。入鹿池の周辺で起こった全ての出来事が私をここへ導き、そして環が閉じた。

 風に飛ばされないように強く握っていた手紙が、海に向かって鳴き声を上げている。それは木村が遺したもう一つの手紙、即ち遺書だった。手元にあるのは遺族に許可を得てコピーしたものではあるが、とにかく、その遺書を読みながら、私は入鹿池の岸辺から大友館へ戻って行くときに、中川恵理がこんなことを話していたのを思い出した。


 「若い頃の情熱は映画のようなもの。狭い世界の中で何かを遂げたような気分になるけれど、それは小さな箱の中の出来事であって、現実には何も起こっていないし変わってもいない。ただ、そこに気持ちがある。揺れ動く感情が、要約できない何かがそこにある。人の本質は、本質とでも呼ぶべきものがあるのだとすれば、その何かこそが本質なのではないか」


 ……木村の遺書のコピーを途中まで読んだところで、私はふう、と息を吐きだした。私を愛してくれた全ての人に謝りたい、そんな言葉から始まった遺書には何者の介在も許さないという強固な意志があった。

 果たしてこの遺書は、何のために残されたのだろうか。さすがに育ての親や周囲の人間のことなどを考えたのだろう、この続きには遺品の整理についてなど最低限のことが記してある。しかし、あえて他者の言葉を引用して読み手を混乱させるあたりを見ると、木村には自分がいなくなった世界への関心がなかったかのようにも思えてくる。では、どうして?

 真実は木村の書いたように謎という暗闇の中に沈んでいる。それを暴くことはもう不可能なのだ。私は沈黙しなければならない、それは語りえぬものだから。

 ふと、視線を上げて夜の海を眺めた。いつかのように恐ろしい深淵が視界いっぱいに広がっている。私は急に泣き出したいような気分になった。荒波の険しい海のどこかに、木村という存在は溶けてしまった。いつか私もそこへ還っていかねばならない、いつかここを去らねばならないのだと思うと、とてつもなく寂しい感情が湧き上がってきたのだ。

 家の中から私を呼ぶ声が聞こえた。海に面した玄関先の椅子に腰掛けていた私は、家庭という温かなものに守られて暮らしていきたいと思った。玄関を開けたとき、背後から私のことを呼ぶ声がした。振り返れば、夜の日本海が相変わらず横たわっている。私はどちらへ行くべきか迷った。

 木村一の遺書から始まった旅は、愛や大浦さんや中川恵理といった人々との出会いを通じて、私という容器を大きく変容させた。この旅で辿ってきた道の先に何が待っているか、それは分からなかった。答えはまだ何も出ていないのだから。






「私を愛してくれた全ての人に謝りたい。今の私には自殺という選択肢しか残っていないのだ。最初にこれだけは明言しておきたいが、こうなってしまったことで誰かに責任があるわけではない。そのように考えることは特定の人物に迷惑をかけてしまうことになるし、何よりも私自身に対して失礼である。何故ならば、これは誰かに押し付けられた死ではなく、私が自分で選び取った死だからである。そこで、どうして私が死を選ぶしかなかったのかと、きっと疑問に思われるであろう。それは先に書いたように誰かのせいではない。何かに理由や原因を求めることは容易いかもしれないが、そうやって抽出されたものは全てが正しく全てが間違いである。真実を知る特権は私にしかない。真実を知る私はこの空やあの海に溶けてしまい、それは永遠に謎という風呂敷に包まれてしまうだろう。真実だけは誰にも渡さない。それでも遺書を残す以上は納得させる言葉が必要なのかもしれない。あえて言うとするなら、太陽が眩しかったのだ。……」

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輪転 雨宮吾子 @Ako-Amamiya

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