九
「連絡が直前になってしまってすみませんでした」
中川恵理が発した第一声がそれだった。彼女は午前九時にこの旅館を訪れ、まだ幼い息子を旅館の主人に預け、そして二階の私の部屋の卓に私と向い合って座っている。彼女一人であったならば下のロビーで話しても良かったのだが、彼女が二人きりで話すことを希望したので、このような形になった。私と彼女は不思議な関係だった。これまでに築きあげてきた何かがあるわけでもなく、これから続いていく何かがあるかどうかも分からない。私たちを繋いだものはただ一つ、木村という男の手紙だった。
階段を上ってこの卓に向い合って座るまでの間に考えたことだが、彼女は想像していた中川恵理という形にぴったりと当てはまる存在だっただろうか。一見すると平凡な母親であり、三十歳という年齢から良くも悪くもはみ出すものはなかった。私が無意識のうちに築いてきた理想像とは異なっていたのだが、その理想を押し付けるのは私のわがまま以外の何物でもなかった。きっと、誰がこの場に座っていたとしても、期待を裏切られたという気持ちに変わりはないだろう。
「お子さんはお一人ですか」
「ええ。今年で三歳になります」
私は尋常な話題を選んでそう尋ねた。彼女も当たり前のように返答した。それだけだった。
いざ彼女を前にすると、それまで自分に投げかけてきた苦悩が一瞬にして蘇ってくるようだった。だから半ばは頭を垂れてどのように話を展開していくか迷っていたが、ふと目を上げると彼女の力強い視線とぶつかった。私は彼女を恐れている! そのことが明白に理解できた。私は彼女を通して一つの暗い未来を恐れている。つまり、木村という男の人生を否定されてしまうことを。
ただ、どうも不思議なもので、彼女を恐れていると理解した瞬間に迷いが吹き飛んでしまった。血が騒ぐ、とでも言えば良いのだろうか。バスケットをやっていた頃の高みを目指してコート内を動きまわっていたあの瞬間、あの険しく崇高な高みを目指していたときの気分を思い出したのだ。どうせならとことんまでやってやろうじゃないか、と。
「中川さんはキルケゴールやニーチェを知っていますか」
「哲学ですか? まあ、名前くらいなら」
「木村が死んだ後に彼の暮らしていた部屋へ入ったことがあるんです、東京のね。清潔というよりは淡白と言う言葉がよく合う、生活感のない部屋でした。ただ一つだけ雑然としている箇所があって、それはキルケゴールだとかニーチェだとか、そんな哲学書の並んだ本棚でした。あなたに渡したい手紙は哲学書の中に挟まっていたんですよ」
そう言って私は例の手紙の入った封筒を卓に置いた。彼女が受け取るのを待ったが、彼女は私の顔から視線を外そうとさえしなかった。
「一つだけ教えて下さい。貴方を動かしているものは何ですか、誰なんですか」
「どういう意味ですか?」
「何か、善意のような気持ちで貴方が自発的にやっていることなのか、それとも……、例えば木村くんのご遺族が望んでいることなのか、それを教えてほしいんです」
「善意……と言って良いのかは分かりませんが、僕が自発的にやっていることです。彼のご両親には少しばかり協力して頂きましたが、この手紙のことを知っているのは僕とあなただけです」
「そのまま手紙を捨て去るという選択肢はなかったんですか」
私はここに至ってようやく彼女が苛立っていることに気付いた。怒りや拒絶についてはある程度は予想していたが、どうもその怒りの方向が違うらしいことに私は困惑した。
「そんなことは考えもしませんでした。木村の遺したものを、彼の意志を踏みにじってしまうような気がして」
「貴方は木村、木村と、軽々しく口に出しますが、彼とはどういう関係だったんですか。会社の同僚だって仰ってましたけど」
「彼がどう思っていたかは知りませんが、僕は彼のことを友人だと思っていました」
「そんな曖昧な関係の相手のために、貴方はわざわざここまで来たっていうんですか。それって自己満足じゃないんですか」
自己満足。それこそはまさに核心を突く言葉だった。
「木村くんが手紙を投函しなかったということは、それが彼の意志なんでしょう? 貴方の行動こそ、彼の意志を踏みにじる行為なんじゃないですか」
「そうかもしれません。でも、だからこそ僕はあなたにこの手紙を渡したかった。読むのも読まないのも、あなたの自由なんですから」
「……」
彼女は一気にまくし立てた後で黙ってしまった。私の言葉に納得したというよりも、自分の荒ぶる感情を抑えんがための沈黙のように思えた。しばらくして、彼女はゆっくりと口を開いた。
「ごめんなさい、私もずっと迷っていたんです。貴方のことを無視してしまおうかとも思いました。でもそれは良くないと主人が諭してくれて」
「ご主人に今回のことを話したんですか」
「ええ。……失礼ですけどご結婚は?」
「独身です」
「そうですか。とにかく、世の中には色々な形の夫婦がいるんです。私たちは何でも悩みをぶつけ合う、そういう夫婦なんです」
驚かされてしまったが、そういうものなのかと、私のような独り者は納得するしかなかった。彼女もまた、何かを呑み込んだように感情を落ち着かさせたようだった。
「もう一つ訊かせて下さい。貴方は木村くんのご両親のこと、そしてこの手紙のことをどこまで知っているんですか?」
「彼のご両親とは何度か会っただけで――」
「木村くんのご両親はもうここにはいないんです」
「えっ」
私は今度こそ驚きを口に出さずにはいられなかった。僕が木村の両親だと思っていたのは、誰だったのだろう。そして、木村の本当の両親は何故亡くなったのだろうと。
ただ、私が瞬時に想像した事情は、事実とは多少異なっているようだった。
「ここにいないと言ったのは、亡くなったとかそういうことじゃないんです。いえ、正確にはそれすらも分からなくて。死別したのか生き別れになったのか、それは私には分かりません。きっと貴方が会ったのは、木村くんの育ての親でしょう、私たちの親よりも上の世代に見えませんでしたか?」
「ええ、たしかに」
「でも、それで良かったんだと思います。幼い子供を残してどこかへ行ってしまう親なんて、責任を果たせない親なんて、私には許せません」
再び彼女の感情が高揚してくるのを感じたが、それは低いところで何とか抑えられたようだった。
これは私の直感による推測だが、両親という象徴的な存在によって彼らは結びついたのではないか。木村は本当の両親と別れた。彼女も同じような境遇か、あるいは両親を恨まなければならないような環境に育ったか。しかし、これは私の事情で歪められた推測だと言えた。木村と彼女の間に流れる通奏低音が存在していてほしいという考え、そしてそれを突き詰めた先にある、私自身の苦悩や苦労が報われてほしいという無意識的な思考。私は橋渡し役を自任しながら、いつの間にかそれ以上のものを期待してしまっていた。
「……多分、貴方は手紙のことも知らないんでしょうね」
「何のことですか?」
次に彼女が発した言葉は、そんな私の期待を完全に裏切るものだった。
「私と木村くんの関係が自然消滅するまでの間、一度として手紙が途切れたことはありませんでした。この意味が分かりますか。貴方が持ってきたその手紙は、本来は存在しないはずなんです」
彼女の発した言葉が難しいわけではなかったが、頭がそれを理解することを拒んだ。それでも潮が満ちてくるのと同じように、ゆっくりとその言葉の意味が浸透してくるのが分かった。
「存在しない、そんなはずはないでしょう。だって現にここには投函されなかった手紙がある、あなたの受け取っていない手紙が――」
「私がここに来た以上、貴方が嘘を吐いていると疑っているわけではありません。そんなことなら、最初から無視すればいいだけの話ですからね。でも、手紙が途切れたことはない、それも事実なんです」
「じゃあ、木村はどこかで翻意したんでしょう、本当の気持ちを呑み込んで嘘の手紙を書いたんだ」
「きっとそれが真実なのかもしれませんね。でも、そうやって決めつけることは木村くんの決断を蔑ろにすることになりませんか? そしてこの手紙を持ち出したのは、やはり木村くんの意志を踏みにじる行為なんじゃないですか?」
彼女の口調は静かでありながら、私の喉元にナイフを閃かせるような鋭さを含んでいた。
私は何のためにここに来たのだ? その疑問が、今度は鈍い痛みとなって再び私の頭に拡がった。
「……雨が上がりましたね」
不意に彼女が言った。喉元のナイフが離れていくような思いがして、心持ちが楽になるようだったけれども、あの空のように心が明るくなることはなかった。
これまた突然、彼女が卓上の封筒を手に取った。私にはもう、希望を感じるような余裕さえなかった。
彼女は私の手を取ると、部屋を出て廊下を通り、一階のロビーへ下りた。彼女は私を引っ張ったまま玄関を出て、池の方に通じる階段を下りていった。雨が孕んでいた濃厚な土の匂いがまだ漂っていた。雨の中でどこに隠れていたのか、小鳥たちが空中を駆け抜けて行った。
彼女と私はまるで導かれるかのように入鹿池の岸辺にたどり着いた。そこでようやく手を離すと、彼女はここまで持ってきたあの封筒の宛先を見つめてこう言った。
「深田、恵理。懐かしい名前だわ」
これまでの苦悩が嘘だったかのように、彼女は封筒から便箋を取り出して内容を読み始めた。私は呆然と彼女の傍に立っていることしかできなかった。手紙がぽたぽたと濡れるのが見えた。また雨が降り始めたのかと思ったが、そうではなかった。読み終わるのに時間のかかる分量ではなかったが、彼女は何度も何度も読み返しているのだろう、私たちはしばらくの間、言葉を発することもなく、ただその岸辺に立っていた。
ようやく満足したのか、彼女はハンカチで目のあたりを拭うと、私に向き直った。
「読みました、これで貴方も満足でしょう」
その言葉に棘がなかったので、私は少しばかり意外な感じがした。彼女の感じているものが、その白い肌に透けて見えた。
「でも、この手紙はここに在るべきものじゃない。私のためにも、……木村くんのためにも」
彼女はそう言うと、またしても唐突にその場に座り込んだ。地面が濡れているのに何をするのかと思えば、膝の上でその便箋を折り始めた。瞬く間に紙の船が出来上がり、彼女はそれを私に手渡してきた。
「さあ、これが貴方の最後の仕事です。誰も知らない池の向こう岸まで、これを流してあげて下さい」
私は言われるがままに紙の船を受け取った。水面にそっと浮かべると、紙の船が弱々しくも前進し始めた。紙で作られた船だからすぐに沈んでしまうだろう、そんな予測は見事に裏切られて、私がこの犬山で過ごした時間のように、ゆっくりゆっくりと漸進していった。私たちは紙の船が見えなくなるまで、岸辺から静かに見つめ続けた。私は木村が遺したもう一つの手紙、遺書のある一節を思い出していた。木村はこの世界のどこかでまだ生きている、そんな不思議な予感がした。
……それから、中川恵理は昔の木村のことを話してくれた。昔はどちらかというと太っていて、勉強のよくできる子供だった。それは、痩せ型で会社のお荷物と呼ばれる、私の知っている木村とは大きく異なっていた。昔の話を聞くばかりになったので私の知る木村のことを話してあげようとも思ったが、今の彼女にはそんなことは重要ではないというのが分かった。見識のある夫がいて可愛い盛りの息子がいる、今の中川恵理には。
「恥ずかしながら、僕は木村の友人としてあなたに語るべきものを何も持っていません。それにただの自己満足で行動したかもしれません。でも、一つだけ言えることは、あなたに出会えて良かった」
彼女はかすかな笑みを浮かべた。そして、
「本当ですね」
と言った。
それが何に対しての「本当ですね」なのかは、結局分からなかった。
私と中川恵理が旅館に戻ると、旅館の主人が彼女の息子を抱きかかえて待っていた。まるで未来の希望を手にしたかのような和やかな顔をして。
彼女が自分の息子を腕に受け取ると、ちょうど眠りかけていたのを起こされて不満そうな仕草をしてみせた。彼女は甘い声でこう囁いた。
「了、そろそろ帰ろうか」
私はその言葉を聞き逃さなかった。それこそは、十五年前と今とを繋ぐ架け橋のような言葉だった。
私は呆然として彼女の顔を見つめていたが、彼女は私の方をちらりと見て軽く会釈をして、そのまま車に乗り込んだ。
「……帰るとするか」
私はそう呟いたが、とうとう入鹿池を一周できなかったのが悔やまれた。
玄関先で二人を見送った主人は、私の顔を見るなりこう言った。
「いつの間にか雨が上がって晴れ間が見えてきましたよ。今日は絶好のサイクリング日和ですね」
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