翌朝は午前六時に目が覚めた。窓を叩く雨の音に目覚めたというよりも、愛との別れを惜しんで自然と目覚めたと言った方が正しいかもしれない。おそらく、今日は愛との別れの日になるだろう。そして大浦さんとの別れの日でもある。大浦さんは雨が別れの悲しみを洗い流してくれると言ったが、目覚めたばかりの今はまだ二人と別れるということに実感がなく、従って悲しみを感じているというわけではなかった。

 一階に下りると愛が早くも朝食をとっていた。いつもならジョギングをしている時間だが、今日は雨なのでそういうわけにもいかないのだろう。私は愛の向かい側に座った。


「おはよう」

「おはようございます」


 愛はどこかよそよそしい調子で挨拶を返してきた。それを聞いた私は、ああやっぱり今日が別れの日なのだと、ようやく実感することができた。愛もそれが分かっていて、いつもの調子ではいられないのだろう。

 この歳になると、死別に限らず色々な意味での別れを経験してきたものだが、愛はまだ別れというものに慣れていない。慣れているということは一種の鈍麻した状態で、慣れていないということはまだ感覚が瑞々しい証拠なのだが、やはり初めのうちは別れというものが耐え難く感じられる。感覚としては覚えていないのだが、記憶として私にもそういう覚えがある。

 そういうわけで愛の心中を想像すると、私もずっとこのままでいられたらと思わずにはいられないのだが、何にしても永遠というものはあり得ないもので、私はやはり後悔のないように行動するしかなかった。


「例の約束はどうなったんですか?」


 と、先に口を開いたのは愛の方だった。私はもちろん忘れていたわけではないのだが、目前の別れにばかり注意を向けていて、木村の手紙を中川恵理に渡すことが自分の目的であるという実感が薄まっていた。


「待ち人現れず、ってところかな。まだ時間がかかりそうだ」

「そう、ですか。だったらずっとここにいればいいのに」


 最後の方はほとんど呟くような形で愛は言った。私は昨日まで目的を果たした末に何をするべきか分かっていなかったが、今では明確に自分のすべきことが見えていた。それはもちろん、愛と大浦さんのおかげだった。


「それが終わったら、どうするんですか?」

「休暇の間に一度故郷に帰ろうかと思ってる。その先のことは、まだ分からないけどね」


 愛は口で返事をせず、ただ頷いた。私がここにいてほしいという気持ちと、昨夜の自分の言葉、家族の待つところへ戻ってあげてくれという言葉とが、彼女の中でせめぎ合っているのだろう。

 いつかのように、愛と十五年前の中川恵理の姿が重なった。まだ実際に会ったこともない中川恵理の姿を重ねるのは不思議なことだけれども、とにかく私の中ではそうなった。そうして、私はあることを訊きたくなった。


「今、好きな人はいるの?」

「えっ」


 肯定でも否定でもない、単純な驚きを愛は声に出した。


「もしも好きな人がいるなら、もしもその気持ちを抑えきれないのだとしたら、迷わず相手に伝えるんだよ」

「どうして急にそんなことを言うんですか」


 今度もまた、色のない言葉を愛は口にした。


「さあ、どうしてだろう。離れ離れになってしまった後だと、もうどうにもできないからね」

「……バカだって思われるかもしれないけど、離れ離れになってしまっても気持ちはきっとどこかでつながってるものだとわたしは思います」


 愛は私の目をじっと見つめながらそう言った。


「でも人はバカだから、そのことを忘れてしまう。だから、忘れないようにきちんと気持ちを……って、あれ?」

「そう、だからきちんと気持ちを伝えておかないといけない」

「そっか、そうですね。でもわたしは、きっとお兄さんのこと、忘れませんよ」

「ありがとう。僕も君のことは忘れないよ」


 そこまで話したところで旅館の主人が出てきて、学校に行く時間だと教えてくれた。愛は味噌汁を飲み干すと、かばんを持って玄関のところまで走り、そこで一度立ち止まった。振り返って私に深くお辞儀をすると、可愛らしく手を振って、扉の向こうへ消えて行った。

 それが、第一の別れだった。




 第二の別れはすぐにやって来た。

 七時前に荷物を抱えた大浦さんが一階に下りてきて、この旅館での最後の食事を共にしたいと言ってきた。私は元よりそのつもりでいたので、厨房にいる従業員の女性に二人分の食事を頼んだ。


「あの子はもう、行ってしまいましたか」

「ええ、行ってしまいました」


 きっと旅館の主人も大浦さんも私たちの会話を邪魔するまいとして、ぎりぎりまで姿を見せなかったのだろう。それはただの直感に過ぎなかったが、往々にして直感が正しいということもあるものだ。

 食事が来るまでの間、大浦さんは例のスケッチブックのことを話題に上げた。


「貴方の絵を書かせてもらいましたよね。一つの記念というか思い出に残るようなものとして貴方にその絵を贈るつもりでいたのですが、それでは私の手元に何も残らなくなる」

「まあ、そうですね」

「だからその代わりになるかどうかは分かりませんが、この絵を貴方に贈りたいと思います」


 そう言って大浦さんが私に手渡してきたのは、二階の大浦さんの部屋から見える入鹿池の風景だった。大浦さんは風景画が苦手だと言っていたので、私はちょっと驚かされた。


「若い人たちに触発されて、新しいことに挑戦してみようと思いましてね。大したものではないですが、どうぞ受け取って下さい」


 大したものではないと大浦さんは言ったが、鉛筆で描かれた入鹿池は一つの完成された風景として私の前に現前している。雲間から光の筋が伸びて水面に光の粒が踊っているのが印象的で、そこには希望的な予感を感じさせる何かがあった。それはもう何かとしか言いようがないもので、言葉を尽くしていけば説明することはできるかもしれないが、それでは総和としての希望が損なわれてしまうように思えた。


「ありがとうございます」


 ここまで率直なお礼を言ったことは記憶にはなく、ここまで温かみのある贈り物を貰ったのも久しぶりのことだった。

 やはり、大浦さんには風景画に対する苦手意識のようなものがあったらしく、私が素直に喜びを表すのを見るとどこかほっとしたような表情をした。


「気まぐれにこの愛知まで来て、偶然この旅館に泊まって、そして貴方に出会えて本当に良かった。もしも貴方がその絵に希望を見出しているのだとすれば、それは私の心の希望が表現できているのだと思います」

「ええ、これは本当に希望ですよ」


 大浦さんは出発までにまだ時間の余裕があると言ったので、二人でゆっくりと朝食をとった。食事を終えた頃に旅館の主人が戻って来て、そのまま大浦さんを駅まで送って行きましょうかと提案した。

 私たちはもう大人だから、愛のときのようにわざわざ言葉で確認しなくても相手の気持ちをある程度は理解できた。だから、第二の別れは静かに進行していった。そして最後に別れの言葉を交わした。


「ありがとう。では、またいつか」

「ええ、またどこかで会いましょう」


 それこそはまさに希望だった。いつかどこかでまた会える、そんな根拠のない予感がしていた。

 愛が日常に戻り、大浦さんが去って行った後のロビーは、相変わらず古時計の音が響くだけの静かな空間だった。私はどうしても寂しい気持ちを感じてしまって、二階の部屋に戻った。

 雨音を聞きながら畳の上に寝転がったまさにそのとき、部屋の扉を叩く音がした。従業員の女性が、中川恵理と名乗る女性から私に電話がかかってきたことを告げた。別れの後にやって来たのは、新たな出会いだった。

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