五
その日は夕方まで部屋に閉じこもって読書をした。少しばかり日差しが強すぎるように思えたし、頭の中に巡る考えを外に逃がしてしまいたくなかったのだ。このタイミングで考えを煮詰めてしまわなければ、何か重大な喪失をしてしまうかもしれない、そう思ったのだ。私を内省へと駆り立てたのは、大浦老人の言葉だ。最初は自分自身の今後について考えてみたが、それはよく考えがまとまらなかった。次に中川恵理のこと。彼女は果たして手紙を受け取ってくれるだろうか?
そして、最後に木村のこと。どうして彼は死を選ばなければならなかったのだろうか。重い病気に罹っていたわけでもないし、借金があったわけでもなく、恋愛関係でのいざこざがあったわけでもない。それはかねてからの疑問だったが、そんなことが分かるはずがないからと、考えることを放棄してきた。これまで近親者や友人に自殺をした者はなかったから、手がかりになるようなものもない。精神を病んでいたと考えればそれで片付けられるが、あまりにも短絡的なように思われた。職場の環境の劣悪さが引き金を引いたのだろうが、そこに至るまでに何かしら積み上げられていたものがあったのではないか。
そこで思い出したのは、上司の言った「哲学バカは死ななきゃ治らない」という言葉だった。上司には無意識に自分の責任を哲学というものに押し付けようとした感があって、私はそれに強い反感を覚えた。だが、今となってはその言葉ですら足がかりに動員しなければならなかった。何か深い思索の果てに絶望を悟った人間が自殺を選んだのだとすれば、その絶望が木村をして死に至らしめたのだとすれば。しかし、哲学というものに全ての責任を押し付けるのは片手落ちであるように思える。何故なら、哲学によって絶望したのか、絶望したから哲学したのか、その因果関係がはっきりしないからだ。木村がどの時点で絶望したか、それがはっきりしない。
あるいはその絶望の根源には、中川恵理への手紙があるのかもしれなかった。あまり褒められたことではないが、私はその手紙の内容を把握していた。封がされていなかったから、つい手紙を読んでしまったのだ。それに、中身を知らずに十五年前の手紙を渡そうとするような道化ではない。ここへ来る道中に何度も読み返したその手紙の内容を、私はごろりと寝転がって諳んじた。
それは、恋の手紙だった。恋慕の情を打ち明けることによる照れと若い思い切りの良さとが同居している、でこぼこした筆致。それでも中学生にしてはよく書けていると思えた。自分の気持ちを伝えるには申し分ない文章だった。この手紙はここに在るべきものではない、その確信は日増しに強くなってくる。在るべきところは、この手紙に記された感情が在るべきところは、おそらく中川恵理の胸の中だ。
トントン、と扉を叩く音がした。いつの間にか微睡んでいた私は身を起こして扉を開けた。夕食を載せた御盆を持った愛がいた。
「ご飯、ここで食べます?」
私は頷いて愛を招じ入れた。卓の上に置かれた山盛りのご飯を見て、私は正直なところ、少しばかりげんなりしてしまった。
「食べないんですか?」
「起きたばかりだから、後でゆっくり食べるよ」
私は愛にそう答えて再び寝転がった。窓の方を向いて空の深いところを見上げると、眠っていた時間が案外短かったことに気付いた。
愛が部屋を出ていく気配がないので振り向くと、愛はちょうど見下げる形になるのを避けるために畳の上に座って、覗きこむようにしてこう言った。
「わたしもここで一緒に食べてもいいですか?」
私としては断る理由もなかったし、大浦老人の誘いに応じて愛の頼みを断るのは不公平な気がした。私が頷くのを見ると、愛はぱっと華やかな表情を浮かべて一階に下りて行った。愛が運んできた夕食は、私のものよりも大分少なめだった。私も一応卓に向かったが、刺身をちまちまと食べるとそれだけで満足した。愛は刺身にはあまり手を付けなかったので、私の茶碗蒸しと交換してもらった。やはり、育ち盛りの中学生にはあの量は少なかったようだ。
刺身を食べていると必然的に酒が飲みたくなった。愛に頼んで持ってきてもらおうかとも思ったが、中学生と向い合って酒を飲むのは何となく気が引けた。酒の代わりにはならないが、冷蔵庫に冷やしてあったビンのコーラを取り出して、愛にはオレンジジュースを注いでやって、それで乾杯した。私たちはそれまで黙々と食事をしていたが、乾杯を契機に会話が弾んだ。
「スポーツの経験は?」
私は会話の中で何気なくそんなことを訊いた。そこで初めて愛が沈黙したので、私は何か一線を越えてしまったような気がした。
「小学生の頃はソフトボールをやっていました」
愛は短髪がよく似合っていて、よく日に焼けているから、ソフトボールをやっている姿は容易に想像できた。だが、彼女はそれだけのことを言うのにどうして沈黙したのだろう?
「そうか、ソフトボールか。君なら結構いいところまでいけたんじゃないかな」
「でも、もう辞めちゃいました。こんな風に言うと頑固に思われるかもしれないけど、色々と気に食わなかったんです」
「気に食わなかった?」
「はい。監督のヒイキが酷かったり、チームの中でいじめがあったり、個性を無視したチームプレーを強要されたり……」
愛の表情が強張った。快活なばかりの少女かと思っていたが、その小さな胸に色々なものを抱えている。たとえ相手が子供であれ、ある一面だけを見てその人物を判断してはいけないのだ。
そんな当たり前のことを私はこの少女に気付かされた。私は愛のことが気に入った。何より、気に食わないという言い方が。
「それで、吹奏楽を始めたきっかけは?」
「中学に入った頃、新入生を歓迎するために吹奏楽部が演奏をしたんです」
「それが胸に響いた?」
「いや、それが全然。素人のわたしからしても下手だったし、選曲も悪くて私たちが生まれる前のアニメソング。でも……」
愛は次に吐き出す言葉を整理して、こう言った。
「とても楽しそうだったんです。嘘っぱちのチームプレーじゃなくて、一人一人の個性を活かして一つの音を作り上げること。それがとても素敵に思えて」
「それが君が感じたこと?」
「……半分は顧問の先生の受け売りです。でも、わたしもその通りだと思いました」
これは単なる推測だが、彼女の学校での成績は可もなく不可もなく、といったところだろう。部活動に情熱を燃やす以上は勉学は二の次になるだろうし、彼女も勉強はあまり得意ではないというようなことを言っていた。しかし、それはあくまでも学校の成績の話で、実は一度物事を考え始めると核心を突いた発言をする、頭の良い子なのではないかと思えてきた。
そんなことを考えていると、愛が私の顔をじっと見つめてきた。
「今度はお兄さんのこと、教えて下さい」
「ん、そうだね……」
何から話すべきか、どこまで話すべきか、私はちょっと迷った。そこに生まれた間を愛はどのように受け止めたのか分からなかったけれども、茶碗蒸しを黙々と食べていた。
「友人、と言っていいのかな、とにかくそんな人がいてね。その人にあることを頼まれて、この犬山までやって来たんだ」
「あまり詳しく話せないことですか?」
「うん、まあ、ちょっと事情が複雑なんだ。手紙を渡すだけなんだけど」
ふと、愛に中川恵理の姿が重なった。あの手紙を受け取るべきだった十五年前の中川恵理に。もしもあの手紙が投函されていたなら、そして木村と中川恵理が結ばれていたなら。少なくとも木村が自殺するようなことにはならなかったのではないか。私はどうしてもそう考えずにはいられなかった。
愛がぽつりと呟く。
「手紙かあ、わたしは手紙なんて書いたことないです。電話かメールで済んじゃいますからね」
瞬間、観念上の硝子がどこかで砕け散る音を聞いた。木村という男の遺したあの手紙が、瞬く間に否定されてしまったような思いがした。
そしてあの言葉がしつこく浮上してくる。私はどうしてこんなところにいるんだ? 今更こんなことをして、何になるというのだ?
夢を見た。深く深く、暗い闇の底をさまよう夢を。海藻が身体にびっしりと巻き付いていて、思うように前に進むことができなかった。この息苦しさには覚えがあったが、それが何だかよく思い出せなかった。標識も何もない闇の中をひたすら歩く。時間の感覚が曖昧になって、映像が断片的になった。どこまでも同じ光景が広がっていたが、少しずつ前に進んでいるという実感があった。
そうかと思うと、次の瞬間には私は会社にいて、いつものように仕事をしていた。ずぼらな性格のせいで自分のデスクを散らかしていることを上司に叱責されて、頭に血が上る。こんな風に他人と罵り合ったことはないというくらい、激しく口論をした。音すらも断片的なので、私は自分自身が何を言っているのか分からなかったが、汚い言葉をぶつけていることだけは分かった。夢の中であるというのに、その言葉が自分自身に跳ね返ってきて、胸の奥に黒々としたものが沈殿していった。そのとき、誰かに肩を叩かれた。笑っているのか悲しんでいるのか、曖昧な表情で木村が佇んでいた……
「木村!」
布団を蹴飛ばして起き上がった私は、しばらくの間、ここが大友館であるということが分からなかった。真綿で首を絞められるように、じわじわと現実が脳を浸していく。木村がもうどこにもいないという苦しい現実。夢の中で罵り合った後の気持ち悪さ。私は狭いながらも清潔なトイレに入り、便座に座って小窓から見える月を呆けた顔で見上げた。じわりじわりと事実に近づいていく感覚があった。
私は何者でもない! 死者の手紙を口実に仕事から逃げ、都会から逃げ、そして自分自身から逃げようとしている。私はこの三十年の人生で何を成し遂げた? この先五十年生きるとして、何を成し遂げられる? きっと何も残すことはできないだろう。金も名誉も女も子供も、全ては私を避けるようにして流れていく。今の私は、ただ生きているというだけだ。特別な人生を生きるだけの能力は私にはない。ただ群衆の中の一人として、ようやく生きることを許されているのだ。
私は初めて木村のことを羨ましく思った。彼もまた特別な人間ではなかったが、自分だけの人生を生きようと必死にもがいていた。若い頃は恋に情熱を燃やしていた。いつかどこかで挫折を知り、自分が特別な人間ではないことに気付いた。もしかしたら、それが自殺を選んだ動機かもしれない。この苦しみは、この苦しみは……。
私は自分が何者でもないこと、特別な人間でないことを、何度も思い知らされてきた。第一志望の大学には行けなかったし、就職活動も失敗続きだった。けれども、その現実を直視せずに生きてきた。そのツケが回ってきたのだ。そう、この苦しみは、後に回せば回すだけ重みが増す。そして、決して逃れることはできない。死の間際まで逃れたとしても、最後の瞬間、天頂から降り注ぐ柔らかな光が全ての事実を詳らかにする。彼はもだえ苦しみながら死の淵に立たねばならない。
小便すら出なかったが、水を流してトイレを出た。一度、思考を流してしまわなければ、重圧に押し潰されてしまいそうだった。
時刻を見れば、午前二時だった。私は木村という男に感情移入し過ぎているのかもしれない。寝不足の頭であれこれと考えても悲観的なことしか浮かばない。さっさと寝よう、そう思って布団に潜り込んだが、容易に眠れるものではなかった。再び醜い夢を見るのが恐ろしくて、眠りに引き込まれるのを無自覚に避けようとしていたのかもしれない。無理に目を瞑って瞼の裏の光彩を眺めた。やがて透明な眠りが押し寄せる予感がして、私はようやく身を委ねることができた。
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