次の朝、私はやはり六時に目が覚めた。朝食をとるにはまだ早かったので、ロビーに行って朝刊でも読むことにした。

 一階に下りると先客がいた。例の老人だった。老人が指を舐めて朝刊をめくるのを見て、何だか急に気分が萎えるような思いがした。そこで私は外に出て朝の新鮮な空気を吸うことにした。

 玄関を出ると主人が掃除をしていた。そんなに落ち葉があるわけでもないし、特に汚れているというわけでもないのだが、几帳面なものだと感心した。主人は私の姿を認めると適切な大きさの声で挨拶をしてきた。


「おはようございます」

「おはようございます」


 私は久しぶりに朝の挨拶をしたような気がして、それだけで清々しい気持ちになった。


「昨日はよく眠れましたか」

「ぐっすりと眠れましたよ。別に疲れてるわけでもないんですけどね」

「それは良かった。ここらは暴走族が多くて、たまに苦情を言われることがあるんですよ」


 たしかに昨日も暴走族がこの辺を走ったはずだが、今度はまるで気付かなかった。ようやくこの土地に慣れたのかもしれない。


「昨日は気付きませんでしたね。たしかに最初は気になったけど」

「雨でも降ると静かなものですよ。雨が余計な雑音を遮ってくれるし、暴走族も真面目なんだか不真面目なんだか、雨の日には走らないんですよ」

「へえ、暴走族がね」

「ああ、すみません。散歩に行かれるんですよね、お邪魔しました」


 主人は芝居がかった頭の下げ方をして、旅館の中に引っ込んで行った。それが彼なりのコミュニケーションなのだろうと、私は特に気を悪くすることもなかった。ただ、ちょっと外の空気を吸うつもりが戻りにくくなってしまったので、そのまま池の方に歩いていくことにした。

 入鹿池はワカサギ釣りで有名らしく、その季節になると釣り客で賑わうらしかった。今はその時季ではないが、それでもブラックバスを目当てに訪れた釣り客の姿が見えた。個人的には釣りというものにさして関心はなかったが、いずれ余裕ができたならやってみるのも良いかもしれないと思えた。私の未来は、まだ暗雲の彼方にあった。

 後ろから人が迫ってくる気配があった。私が何となく振り返ると、あの黒ジャージの少女と目が合った。彼女は今日もランニングをしていたのだ。


「おはようございます」

「おはようございます」


 今度は私もしっかりと挨拶を返した。それで少女に追い抜かれるのかと思ったが、彼女は速度を落として私の歩みに合わせてきた。不審に思うその前に彼女が口を開いた。


「あの、大友館のお客さんですよね?」

「ん、まあ、そうだけど。君は?」

「わたし、大友館の孫娘なんです。よろしくお願いします」

「そうか、なるほど」


 早朝に旅館のところで彼女を見かけたのも、昨日私に挨拶をしてきたのも、ちゃんとした理由があったのだ。私は合点がいって反射的にそう言っていた。


「驚かせちゃいました?」

「うん、少しだけ」

「お兄さんは、……あっ、お兄さんって呼んでいいですか?」

「おじさんじゃなければ何でもいいよ」

「じゃあ、お兄さんで。お兄さんは何かスポーツをされてるんですか?」

「今はやってないけど、学生時代はバスケをやってた」


 彼女は私の頭の方を見上げると、うんうんと一人で頷いた。


「うん、予想通りです。かなり背が高いから」

「君は陸上競技でもやってるの?」

「わたしは違うんです。吹奏楽部なんです」


 一瞬、虚を衝かれたようになったが、今度は私がうんうんと頷いた。


「なるほど。吹奏楽部も運動が必要だからね」

「そうなんです! なかなか分かってもらえないけど、吹奏楽部も結構キツいんですよ」


 彼女は目をキラキラとさせながら、はきはきと答えた。

 私はふと感じた疑問をさらりと言葉にした。彼女がそれに答えたところによると、彼女の名前は吉田愛、十五歳の中学三年生だ。吹奏楽部は今度の夏で引退するが、高校に入っても吹奏楽を続けるつもりだと、質問していないことも答えてくれた。私は続けて質問した。


「君はあの旅館で暮らしてるの?」


 それは素朴な疑問だったはずだが、彼女はわずかに目を泳がせて、どう答えれば良いのか迷ったようだった。


「今はおじいちゃんのところに預けられているんです。ちょっと、事情があって」


 私は思わず口をつぐんだ。中学生の言う事情というものの重さを量りかねたからだ。私も彼女も口を閉ざして、何となく居心地の悪さを感じた。


「たいした事情じゃないんですよ、別に――」

「いや、答えたくないのなら構わないよ」

「……ごめんなさい」


 私たちは黙って歩いた。


「あっ、今何時か分かりますか?」


 私は休暇の間も変わらず着け続けている腕時計を見て答えた。


「六時半だ」

「もう戻らなきゃ。今日は学校があるから、おじいちゃんに送ってもらうんです」

「そうか。そろそろ腹が減ったから私も戻るよ」


 彼女は何となく変な表情をしたが、すぐに頷き、二人で歩いて大友館に戻ることにした。






 旅館に戻ると、愛は汗を流したいからと女湯の方に入って行った。私は部屋に戻るのが何となく寂しく思えて、ソファに座って朝刊を読むことにした。初めて聞く名前の地方新聞だった。地域の天気予報の欄を眺めていると、学生服に着替えた愛と旅館の主人とが奥の方から出てきた。


「ちょっと留守にします。孫娘を学校に送らなければならないので」

「ええ、お孫さんから聞きました」

「朝食は厨房の方で用意させているところですから、いつでもお好きなときに召し上がって下さい」


 私は何となく奥の方を眺めてから頷いた。この旅館に着いて三日目になるが、主人以外に従業員を見たことがなかった。もちろん一人で切り盛りしているとまでは思わなかったが、この静かな旅館の中には意外に人がいるのだと今更のように感じた。愛は私の方に軽く手を振ると、玄関前に停まっていた軽トラックに乗り込んだ。二人の乗った軽トラックの走行音が離れていくに従って、旅館はいよいよ静寂さを深めていった。

 朝刊を一通り読み終えたところで私は厨房の方に声をかけた。五十代くらいの小柄で平凡な女性が出て来たので、私はここで朝食をとりたいと言った。女性は笑顔を作ってそれに応えたが、さすがに主人ほどの愛想の良さはなかった。五分ほどして二人分の朝食が運ばれてきたので怪訝に思った。すると焼き魚や味噌汁の匂いに誘われてきたのか、二階から老人が下りてきた。老人の分の朝食は私の向かい側に置かれていたので、私と老人とは向かい合う形になった。


「おはようございます」

「どうも、おはようございます」


 老人はベージュを基調にした落ち着いた服装をしていたので、勝手に物静かな印象を持っていたのだが、私の挨拶にはきはきと応えてくれた。おそらくは六十代の後半に差し掛かった老人の顔を、初めてまじまじと見た。頬のたるみや深く刻まれた皺が老人としての印象を生み出している。しかし一方で視線を下げると、肩幅が広く背筋はしっかりと伸びていて、焼き魚を解体する手はこの上なく正確に動いている。

 あまりまじまじと見つめていては失礼に当たるので、私は自分の食事に集中することにした。しばらくの沈黙の後で老人が口を開いた。


「こちらへ来るのは初めてですか?」

「移動で通過したことがあるくらいで、ちゃんとした滞在は今回が初めてです。えっと……」

「大浦です、大浦清隆。貴方のお名前は?」

「岡崎耀司です」


 良い名前ですね、と過不足ない感情を込めて大浦さんは言った。


「この歳になって一人旅をしているんですが、誰かとご飯を食べる機会なんてなかなかありませんから、つい話しかけてしまいました」

「私も一人で食事をするのは寂しかったんです。ちょうどよかったですよ」


 大浦さんは生まれつき穏やかな性格をしていて、生まれつき老人の落ち着きを持っていたのではないかと思われるほど、好々爺という言葉がぴったりだった。

 魚を食べるのが苦手な私はつい汚らしい食べ方をしてしまった。それはカップ麺や弁当ばかり食べている普段の生活のせいでもあったし、そもそも他人と食事をすることなどほとんどなかったせいでもある。一人きりで生活をしていると何もかもがだらしなくなってしまうのだ。


「この辺りはもう散策し終えましたか」

「昨日は池を一周するつもりで散歩に出たんです。でも、途中で疲れてしまってすぐに帰ってきました。今度は自転車を借りようかなと」

「私は山口の片田舎から旅行で来たんですがね、田舎の方に住んでいるとつい車に頼ってしまって歩くということをしないんですよ」

「そういうものですか」

「そういうものです。見たところ、貴方は都会の人だから歩き慣れているようにも思えたけど、池を一周するのは無謀かもしれませんね」


 たしかに都会の人間はよく歩く。私も車を持っていないから、自宅から駅、駅から職場までは必ず歩く。しかも徒歩で移動できる範囲に様々な店があって寄り道をしたりするから、一日の移動距離を合計すれば、かなりの距離になるかもしれない。


「次は自転車で行ってみようかと思います。早ければ今日の午後にでも」

「週の後半は天気が崩れるらしいから、それが良いでしょうね」

「大浦さんはいつまでこちらに滞在されるんですか」

「一人旅だから気ままなものでね、まだ決めていませんが、今週中には発つつもりですよ。そちらは?」

「私も似たようなものです。待ち合わせの用事があって、それが済むまでは滞在します」

「そうですか。ううん……」


 大浦さんは急に考え込むような顔をした。私はちらりと大浦さんの顔を見てから、焼き魚の小骨を取り除く作業にとりかかった。口に一欠片を運んだとき、不意に大浦さんが咳払いをした。


「失礼だが、貴方は休暇でこちらに滞在されているんでしょう」

「まあ、そうですが」

「だったら肩の力を抜いて、堅苦しい言葉はよして、自分の思うままに過ごしなさい。そうしないと、いつまでたっても気持ちが休まらないでしょう」


 私はいつもの調子で過ごしているつもりだったから、大浦さんの言葉にあまり納得がいかなかった。だから、当然のように私はこう尋ねた。


「これが私の普段通りの生活ですよ」

「無理強いはしないが、休暇だったら腕時計なんか外してもだれも怒らないし、私、だなんてお堅い一人称は使わくてもいいんですよ」

「……」

「失礼、休暇の過ごし方は人それぞれですから、私も余計なことを言ってしまいました。許して下さい」


 大浦さんはそう言って頭を軽く下げると立ち上がった。そのまま行ってしまうのかと思われたが、すぐにこちらを振り向いてこんなことを言った。


「久しぶりに若い方と話せて今朝の食事は楽しかった。迷惑でなければ、またご一緒させて下さい。私は一人旅の哀れな老人なんです」


 二階への階段を上がっていく様子は、とても老人のそれとは思われないほど、足取りがしっかりとしていた。私はその背中を見つめながら、自分の心に没入していった。古時計の音がまるで探針音のようになって、自分自身の心を探る私の手を助けた。大浦さんの言葉を反芻する。

 ……再び食事に手を伸ばし、冷めた味噌汁を飲み干す。そして、これからの時間をどのように過ごそうかと考えた。反射的に腕時計で時間を確認した。都会の生き方を捨てるのは私にはまだ難しいことのように思われた。

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