窓を開けたままにしていたので、軽トラックが発進する音で目が覚めた。きっと旅館の主人が愛を学校まで送って行くところなのだろう。となると、時刻は七時前。どのくらい眠ったのかは分からないが、長くても三時間くらいだろうか。ここ数日はよく眠れていたので、睡眠不足がより強く感じられた。散歩をする気分にはならなかったし、ましてや朝食をとる気分にもならなかった。大浦老人は今日もロビーで食事を済ませるのだろう。行ってやらなければ、という優越的な気分にはならないが、ひょっとすると待ってくれているのではないかと申し訳なく思わないではなかった。が、やはり気分は向かなかった。

 哲学書を繙こうとして、伸ばした手を止めた。寝不足の頭で理解できるとは思えず、今は例の問題から離れていたかった。――どうして、こんなことをしているのか。

 立ち上がって網戸を開ける。空が白く濁っていた。つい二日前にはロンドンの空を想起したが、今となっては日本の空とは別物のように思われた。それは実際的な問題でもあったけれども、どこかに若かりし頃の海外旅行を美化しようという意識が働いているのが自分でも分かった。あの頃は今のような悩みもなく、ただ与えられたものを与えられた通りに消化していた。自分が特別な人間であると思い込んでいた。

 しかし、実際にそうだろうか? あの頃も若いなりに悩みがあったし、自分が特別な人間でないことに気付かなかったわけでもないだろう。結局、人というものは簡単には変わらないのだ。十年経っても同じように自分に嘘を吐き続け、同じようにびくびくと怯えている。焦りと後悔とで汗まみれになりながら。


「ああ、もうだめだ!」


 私は足かせでも厭うかのように大声で叫んだ。今になって後悔したところで、もう行動に移してしまったのだ。ここまで来てしまった以上、もう引き返すことはできない。後ろを振り向いても、背中を押してくれる者などどこにもいないのだ。

 いつの間にか三十分が経過していた。これ以上の思索は無意味だ。私は思い切り良く立ち上がって、扉を開けた。朝方にしては暗い廊下を、私は静かに歩いて行った。

 一階に降りるとちょうど古時計が鳴り、七時半であることを告げた。ロビーに大浦老人の姿はなかった。厨房の方に尋ねてみると、三十分前に食事を終えて部屋に戻って行ったと教えてくれた。あまり腹の減っていなかった私は、それでも何かを食べなければと思い、おにぎりをいくつか作ってもらうことにした。そして余ったおにぎりを持って、今度は自転車に乗って池を一周しようと思った。ロビーにはテレビがあったが、私は新聞を手にして天気予報を確認した。終日曇りではあるが降水確率は低く、気温も大して上がらないようだった。

 私は六つのおにぎりのうち半分を食べ、残った三つを弁当箱に入れてもらった。厨房の女性が弁当箱を風呂敷で包んでくれたが、それが妙に懐かしい感覚を思い出させてくれた。弁当箱を、それも風呂敷包みの弁当箱を持って、どこかへ出かけるなんてことは久しくないことだ。幼い頃には両親も色んなところへ連れて行ってくれたけれども、長じてくるにつれてその機会もなくなった。

 木村は、どうだったのだろう。愛情のある両親の元に生まれ、温かい家庭に育っただろうか。それとも、両親は冷酷で荒んだ環境だっただろうか。先日見た限りでは、木村の両親はどこまでも平凡な存在だった。優しさも冷たさも喜びも悲しみも、どこまでも平凡にしか表さなかった。高齢出産だったのだろう、私の両親よりも一回り年上に見えたが、特異な点はそのくらいのものだ。木村はその平凡な両親に連れられて、例えばこの入鹿池に遠足に来たことがあったかもしれない。覚えたばかりの自転車の乗り方で、どこか自慢気に池を一周したかもしれない。私は入鹿池に木村の記憶を問いかけたが、漫々と広がる水面は皮下の黒々とした記憶を呼び覚ますことをしなかった。




 新聞を読みながら食後の休憩を済ませると、私はいよいよ自転車に乗って小さな旅に出た。旅館の主人が私のために手入れをしてくれたのか、錆びついていたはずの赤い自転車は陽光をきらりと弾いていた。弁当箱を前方のカゴに乗せると、私は勢い良くペダルを漕いだ。大友館の前の坂を下るところでブレーキを確認したが、これも私の思い通りに素直な反応をしてくれた。思えば、自転車に乗るのも実に久しぶりのことだった。

 池の南からどちらへ向かうか迷ったが、直感的に東側から北上する道を選んだ。車道の端をのんびりと走る。最初は木々に遮られて何も見えなかったけれども、しばらく走ると視界が開けて、池とその向こう側の山の稜線までもがはっきりと見えた。私は自転車に乗りながら音楽を聞くという行為に疑問を感じていたが、いざこのように走ってみるとなるほど、自分の好きな音楽を聞きながら走るのも悪くはないかもしれないと思った。流行の音楽を頭の中で再生させながら、あるいは口ずさみながら走るので、犬山に来てからの答えの見えない苦悩から開放された気分になった。何をうじうじと考えていたのだ、俺は?

 しばらく走った後、車道の脇に自販機が見えたので少し休憩することにした。喉が渇いたので財布を取り出そうとしたが、旅館に置いてきてしまったらしく、いつからかズボンのポケットに入っていた小銭をかき集めてお茶を買った。財布だけでなく、携帯電話も忘れてきたようだった。今朝は意識して腕時計を外したのだが、財布や携帯電話のことは全く頭に浮かばなかった。ただ、風呂敷包みだけを大事に抱えてここまで来たのだ。ここまで来たと言っても、たかが十五分か二十分ほど自転車で走っただけなのだが、息は切れ切れになり、太ももが熱い悲鳴を上げている。ペットボトルのお茶を一気に半分も飲んだ。

 そのときだった、雷鳴が低い唸り声を轟かせたのは。灰色の厚い雲が急速に入鹿池の上空に流れてくるように見えた。雨具などは何も持っていないので、私は慌ててペットボトルを自転車のカゴに投げ込むと、すぐに来た道を引き返すことにした。その判断も虚しい結果に終わった。五分後にはずぶ濡れになり、大友館に戻った頃には雨雲はどこかへ流れてしまっていた。通り雨だった。






 ロビーに下りてきた大浦さんは、私の姿を認めると率直な笑みを浮かべた。

 私が厨房の方へ声をかけると、例の女性と旅館の主人が二人分の昼食を運んできた。私が大浦さんを誘って昼食を共にすることにしたのだ。昼食は丼物だった。


「誘って頂いてありがとうございます」


 過不足のない丁寧な態度で大浦さんが礼を言ったので、私も下手に恐縮せずに受けることができた。大浦さんは親子丼、私の方はカツ丼だった。

 私が今朝の顛末を話すと、大浦さんは笑みを湛えて静かにそれを聞き、最後には快活な笑い声を上げた。


「それにしても貴方はこれからも苦労しそうだ。私は苦労知らずでここまで来てしまったものだから、何も忠告できないのが残念ですよ」

「そんなことはないでしょう。僕の……三十年の人生でも色々ありましたからね」

「まあ、短くはない人生でしたが、私は妻に支えられてなんとか生きてこられた、そう思います。」


 私は大浦老人の顔に刻み込まれた皺をまじまじと見つめた。見る度に印象が違って見える、不思議な顔だった。それは、人間としての深みが尋常ではなく、多彩な一面を持っていることを示しているのかもしれない。それに比べて私は、この三十歳の若造は、なんと平坦な顔をしていることだろう。


「妻は旅行が好きでね、私が定年退職したなら日本中を飛び回ろうと約束したんです。でも、その約束を果たす前に妻は逝ってしまいました。それだけが唯一の、いや――」


 大浦さんは急に口ごもってしまった。私はその沈黙に踏み込むことはせず、次の言葉が出てくるのを待った。


「とにかくそれが、私の後悔なんです。今の私を動かしているのは、その強い感情です。私は未だに妻のおかげで生きていられるのかもしれません。いや、失礼、こんなつまらない話ばかりして」

「いえ、そんなことはないです。……聞いてばかりでは悪いですから、僕も一つ話をしていいですか」


 大浦さんは箸を止めて頷いた。


「独り言のようなものですから、どうぞ食べながら聞いて下さい。その方が僕も楽に話せます」

「ええ、分かりました」


 ぽつりぽつりと、この犬山に来た理由を大浦さんに打ち明けた。私の中に未だわだかまる迷いが話の進む先を曖昧にさせたが、大浦さんは静かに聞いてくれた。私も大浦さんに話すことで、次第に頭の中が整理されていくのを感じた。あらかた話し終えて丼を手にすると、もうすっかりご飯が冷めてしまっていた。


「おせっかいをしているのは分かっているんです。それにもう後戻りはできないことも。でも、自分の踏み出した一歩に自信が持てないんです」

「貴方のやろうとしていることは間違いではないと思いますよ。私に言えることはそれだけです。それ以上の言葉は必要ないように見えますからね」

「……ありがとうございます」


 大浦さんの言う通りだった。他人の言葉に決断を委ねるほど幼くはないつもりだし、もう後戻りはできないと自分でも分かっているから、少し背中を押してもらうだけで良かった。それにしても何という察しの良さだろう。


「貴方はまだ道半ばにいるのでしょう。この池を一周できたときには、きっと環は閉じている。貴方がここに来たのも偶然ではないかもしれませんね。……そうだ、後で私の部屋に来ませんか。ちょっとお見せしたいものがあるんです」


 早くも食事を終えた大浦さんが言った。私が箸を止めて大浦さんの顔を見つめると、


「もちろん、すぐにとは言いません。そうですね、夕方にでも来て下さい。待っていますよ」


 大浦さんはゆっくりと席を立つのだった。その動作が逸る気持ちを抑えるためにわざと緩慢に行われるように見えた。




 その日は通り雨の鬱陶しい日だった。雨が止むと蒸し暑くなって窓を開けるのだが、しばらくするとまた雨が降り込んでくるので窓を閉めなければならなかった。その繰り返しをするうちに時間が過ぎ、私は午後四時を過ぎた頃に大浦さんの部屋に向かった。数日前にここへやって来たばかりの私の部屋でさえ、まるで私の頭の中を投影したように雑然としているのだから、それよりも前から宿泊している大浦さんの部屋を訪ねるのは、まるで知人の家を訪ねるのと同じような緊張感があった。狭い部屋である分だけ、内面の反映は濃度を増すように思えたから。

 扉をノックすると、間を置かずに返事があった。私は自分の部屋と同じ造りの大浦さんの部屋に入った。畳の上に足を崩して座っている大浦さんの姿があった。


「どうぞ、楽にして下さい」


 大浦さんはそう言うと自分が向かっている卓の反対側を指し示した。卓の上にはスケッチブックや鉛筆などが置かれていた。どうやらそれが、大浦さんの見せたいものであるらしかった。

 私が座ると、大浦さんはやはり緩慢な動作でスケッチブックを手に取った。表紙をめくって鉛筆を手に取ったので、私は狼狽した。


「僕を描くんですか?」

「ええ。これが私の数少ない趣味ですよ。老人のわがままに付き合って下さい」


 写真を撮られることはあっても似顔絵を描かれるような経験はなかったから、私はどうも落ち着かなかった。

 少しの間沈黙が続き、顔の輪郭を描き終わったのだろう、大浦さんが口を開いた。


「またつまらない話をしますが、これもわがままだと思って聞いて下さい。その方が、貴方も楽だろうから」


 この状況を押し付けておいてそんなことを言うものだから、私としては理不尽だと思いもしたが、不思議と不快な気持ちにはならなかった。大浦さんの手は滑らかに動いたが、口から吐き出される言葉には苦しみの色が浮かんでいた。


「どこから話すべきかは思案のしどころですが……、まあゆっくり話しましょう。高校を卒業した私は東京の大学に入り、在学中に妻と出会いました。妻とは学外で知り合ったのですが、同じ大学の誰よりも聡明でした。もちろん学問に関しては学内の人間には及びませんが、頭の回転が速く、話していても退屈がしませんでした。今でこそ大学という場所は広く開かれていますが、その当時はまだ閉鎖的なところで学生の側にも選民思想的な考えがありましたから、大学の連中と話していてもどこかキザな感じがして、正直に言うと心地の良いものではありませんでした。私が大学を卒業する前に結婚したものだから、あちらのご両親には随分と叱られました。私が彼らの立場だったとしても、自分の娘がまだ自立できていない田舎者の大学生と結婚するとなれば、きっと反対することでしょう。だからまあ、そのことは仕方のないことです。それからある商社に勤めることになって、安定した収入が入るようになった頃に子供が生まれました。男の子でした」


 いざ話し始めると言葉は淀みない奔流を見せたが、その地点で急に大浦さんが口をつぐんだ。絵の方が難所を迎えたのかとも思ったが、そうではなく、どう話すべきかを迷っているように見えた。


「それが私たちの間に生まれた、たった一人の子供でした。さっき、私は妻との約束を果たせなかったことを悔やんでいると言いましたが、……いや、このことを悔やんではいないのです。ただ、どうしようもないことなんです」

「どうしようもないというと?」

「私の不倫が原因でした。たった一度の過ちが、たった一人の子供の心を傷つけたんです。私がそうと知ったのは息子と疎遠になってからでした。息子は思春期を経て自立し、それから次第に連絡が取れなくなっていきました。妻とは定期的に連絡を取り合っているようでしたが、私はそうと知りながら何もできなかった、いや、何もしなかった。結局、妻が急逝したために今では息子の居場所も分からず、どうしているのかさえ分からない。私は本当に、本当に独りになってしまったんです」


 大浦さんは噴出しようとする感情を必死に抑えているようだった。それは間違いなく、悲しみであるはずだった。私は口にできる言葉を持ち合わせていなかった。

 いつの間にか降り始めていた雨が窓を叩いたので、私たちの間に横たわる気まずい沈黙を無視することができた。私は置物のようになって卓の細かい傷を見つめた。


「……こんなはずじゃなかった」


 不意に漏れた大浦さんの言葉に私はぎょっとした。七十歳になんなんとする老人の悲しみを、受け止められる自信がなかったからだ。しかしその言葉は、私の予想した意味とは少し違っていたようだ。


「こんなに暗い話をするつもりではなかったんです。少し驚かせてしまいましたね、申し訳ない」

「いえ」

「私はこういうことを言いたかったんですよ。私の息子は今どこで何をしているのか分からないが、他人様に迷惑をかけずに生きていてくれさえすればそれで良い。ただそれだけで良いんです。貴方の経験した別れはもう取り返しのつかないことですが、その人がこの世界に生きたこと、そこに何かがあったこと、それを覚えておいてほしいんです。もしできることならそれを分かち合ってほしい、そう思うんです」


 さらりと撫でられた心の内面が、じんわりと温かみのある潤いを得たような感じがした。


「私は風景画が上手く描けないんです。それでも下手の横好きで若い頃はがむしゃらにやったけれど、暇つぶしの余興でやった似顔絵を妻が褒めてくれましてね。そのときの喜びを忘れられず、その喜びを再現しようとして、この歳になっても描き続けているんです。そうやって培ったものがあって、少しは人を見る目があると自負しているんですよ」


 大浦さんはそれ以上のことは口にしなかったが、その言わんとしていることは何となく分かった。私にしかできないことがあるのだ。

 そんなことを考えていると、大浦さんはいつの間にか鉛筆を置いていた。


「どうです、こんなものですが」


 大浦さんが描いた私の顔は、正面を向いているわけではなく少し角度がついていた。鼻筋に隠れた顔の右側あたりに影があって、それが陰鬱な印象を生み出しているけれども、その暗い感じが適度に抑えられているのは私に気兼ねをしたのではなく、的確に私の表情を描いてこうなったのだということが分かった。ふと英国の空が脳裏に浮かんだ。誰かが英国人は静謐な絶望を抱えていると言っていたような気がするけれども、私の場合はその絶望には程遠い。現代の日本に暮らす者としての軽さが、私の顔にはあるらしかった。

 いつの間にか通り雨が止んでいて、にわかに太陽の光線が入鹿池を貫き、水面下の黒々とした深淵を暴こうとしているように見えた。啓示を受けたような気がした。不思議な全能感が身体を満たしていくようだった。

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