◆全の章◆第11話「廻りめぐる悪夢」

 悲劇が起こったのは、昨年。

 つまりユウマが『教師』になって四年目の年の、『豊穣祭』のことだった。



 チサトは、祭の時期が近づくとユウマの表情が暗くなることを、常々不思議に思っていたらしい。


「それほど大した理由がある訳じゃないよ。ただ、僕はみんなで馬鹿騒ぎするのが苦手なだけなんだ」


 なぜ、と問われて、そう答えた。

 チサトはユウマの言葉に少し落ち込んだようだったが、すぐに顔を上げた。


「お兄ちゃん、私、今年踊り手なの。それで、お兄ちゃんに見てほしくって……」


 みるみるうちにチサトの頬は朱に染まり、言葉尻は消え入るように小さくなっていった。


 ユウマは、チサトが踊り手として舞う様子を想像しようとした。

 しかしそれは否応なしに、『彼女』の姿に重なった。


 表情を曇らせたユウマに、チサトは肩を落とし、中断していた踊りの練習に戻っていった。

 申し訳なく思ったが、どうしてやることもできなかった。



 ユウマはその年の祭で、香を焚く役目を与えられていた。

 『宵の祭』では定例集会と同じくらいの量の香を焚き、それが終わって『みつの祭』が始まる間に香の葉の量を増やすのだ。

 ユウマにしてみれば忌々しい役目だったが、その日は自分の仕事に集中することにした。お陰で『宵の祭』で舞うチサトの姿もあまり見ずに済んだ。


 甘い香の匂いが会場全体に充満した頃、『満の祭』は始まった。

 空の一番高い所には、丸々と太った満月が張り付いていた。それはユウマに臨月の女の腹を連想させた。

 世代を継ぐ子を作るための儀式。この村の誰しもがそうして生まれてきたのだ。ゆえに、自分自身も忌むべき存在のように思えた。


 最初の松明がやぐらに投げ込まれるのと同時に、『それ』は始まった。

 燃え上がる櫓、次々と服を脱ぎ捨てる人々。炎と人いきれによって作り出された熱気が頬を掠めていった。

 ユウマはむせ返る香の中でも自我を保っていられるよう、濡らした布で口と鼻を覆った。

 この会場でただ一人平静なまま、彼は少し離れた場所から狂ったようにまぐわう人々の群れを眺めた。

 異常だ。何もかも。

 理性の欠片もない、たくさんの醜い声が耳に届かぬよう、彼はひたすらに耳を塞いだ。


 そんな折、赤く揺らめく視界の片隅に、白いものが映った。

 最初は目を疑った。

 長い黒髪、華奢な手足、白い衣装――何度見返しても、しかし見間違いではない。

 チサトだった。

 ユウマのことを慕う少女は、狂気に満ちた広場の片隅に立ち尽くし、うねる人波をただ呆然と見つめていた。

 彼女の姿はこの場において異質なほど清廉で、端正で、壊れやすい硝子細工のようだった。


 やがてチサトはおずおずと歩みを進め、辺りを見回しながら人の群れへ近づいていった。

 不可解な行動に首を捻り、すぐ思い当たった。

 チサトは、自分を探しているのだと。

 だが、ユウマの足は縫い止められたように地面から動かなかった。


 悲劇は、起こるべくして起きた。

 蠢く塊から伸びた手が、チサトの細い腕を掴み、体内に引き摺り込んだのだ。

 あっという間の出来事だった。その光景に、時を止めていたユウマの思考は刹那のうちに現実へと引き戻された。


「チサト!」


 考えるよりも早く、気付けば走り出していた。

 名を呼びながら、少女の身体が消えた辺りの人波を必死に掻き分けた。

 理性を失った人間の群れは本能の赴くままに澱み、流れ、まるで腹の中に入った食物を消化するかの如くうねった。

 数え切れない人々の手がユウマの髪を、腕を、脚を掴んだ。それらをことごとく打ち払い、押し退け、自らの身を捻じ込むよう漕ぎ進むも、少女の姿を視界に捉えることはかなわなかった。


 ようやくチサトを見つけ出したのは、人の動きが少し収まった頃だった。

 覆い被さる男を引き剥がし、殴り倒して、ユウマはチサトを輪の外へと引っ張り出した。

 チサトは自失状態だった。乱れた髪、口の端に滲んだ血、ところどころ裂かれた衣装。頬には涙が伝っており、その目は虚空を見つめていた。

 ユウマは、折れそうに細い身体を抱き締めた。


「ごめん、チサト……ごめん……」


 何度も何度も、謝罪を繰り返した。

 しかしそれらの言葉は未ださざめく祭の喧騒に掻き消された。

 ただ彼女の内腿を滴る血が、音もなく地面を汚していた。




 掟を破ったチサトは、『懲罰房』に入れられることになった。

 奇しくも、ユウマは日常的に『懲罰房』の鍵を管理する役目を与えられていた。

 自分のせいで悲劇に巻き込んでしまった少女を自らの手で幽閉しなければならないということが、ユウマを苦しめた。


 なぜ、もっとチサトに気を配ってやれなかったのか。

 なぜ、チサトの気持ちを知っていながら冷たくあしらってしまったのか。

 終わることのない後悔が、引いては返す波のようにユウマを襲った。


 それと同時に、忘れかけていた憤りがふつふつと蘇ってきた。


 もう誰も、辛い思いをしないように。

 そう『約束』したはずだった。


 こんな時なのに、彼にその『約束』を与えたセイジ兄ちゃんは姿を現さなかった。

 きっと『外』の世界で『彼女』と一緒に平和な時を過ごしているのだろう。

 そう思うと、怒りよりも嫌悪感に似た形容しがたい感情が胸を支配した。


 セイジ兄ちゃんがやらないのであれば、自分がやるしかない。


 『懲罰房』に入れられたチサトは、二日ほどで解放された。

 ユウマは彼女をもう一度しっかりと抱き締め、そして固く誓った。


「チサト……僕は、この村を壊す」





 ユウマは櫓の上から、賑わしい人々の群れを眺めていた。

 漆黒の夜空には真円の月。未だ和やかなる『宵の祭』の様子を見下ろし、ユウマは人知れず薄い笑みを漏らした。


 あれから一年。この日のために着々と準備を進めてきた。

 今、ユウマの足元には簡易爆弾が仕掛けられている。



 爆弾の作り方は、村の蔵書のうち禁書となっているものの中に載っていた。ずいぶん古い冊子で、『教師』の誰かが持ち込んだらしいものだった。見るからに古い情報ではあったものの、爆弾自体はこの村にある材料で割に簡単に作ることができた。

 本当は一人で全てを行うつもりだったが、材料の調達や作業場所の確保のため、村の中でも素行のあまり良くない二人の若者を仲間に引き込んだ。


 変えることはできなくとも、壊すことはできる。それがユウマの出した結論だった。

 櫓に仕掛けた爆弾は、『満の祭』が始まれば嫌でも点火される。あの忌々しい儀式共々、全てを吹き飛ばしてくれるだろう。




「お願い、怖いことはやめて」


 何度かチサトにそう懇願されたが、ユウマは頑として聞き入れなかった。


「いいかいチサト、こうでもしないと村は歪んだままだ。これはチサトのためでもあるんだ。そのうちきっと分かるよ」


 チサトにどう思われようとも、手を止める訳にはいかなかった。



 『豊穣祭』の三日前、計画の最終準備に掛かりきりになる前に、ユウマはチサトを『外』へ逃がした。

 数日のことなので、彼女の単家の者には「チサトは自分のところで過ごしている」と言っておけばどうにか誤魔化せた。


 それは彼女が万が一にも巻き込まれるのを防ぐためでもあったし、醜いものを見せたくないという気持ちもあった。

 『外』にはセイジ兄ちゃんがいる。故に、彼によってチサトの身の安全がある程度保障される上、ユウマの意志を間接的に彼へ示すことができるはずだ。


 『鍵』はチサトに、お守り代わりに持たせた。

 もうユウマには必要のないものだった。


 予想通り、セイジ兄ちゃんは村に戻ってきた。幼き日の約束の一つすら果たせぬ男の説得は、どれもユウマの計画を断念させるには到底足りない机上の空論だった。

 何もできない自分を呪って、もっと悩み苦しめばいい。ユウマが感じたのと同じように。



 しかし、予想外のこともあった。

 昨晩、仲間の一人が、怪しい女を捕まえたと報告してきたのだ。

 『懲罰房』を覗いたところ、そこにいた人物にユウマは驚いた。


 それは紛れもなく『彼女』だった。

 『彼女』は記憶を失いながらも、何一つ変わっていなかった。

 単に姿形が、ということだけではない。何があっても真実を追い求める強い眼差し、自分より弱い者を守ろうとする姿勢、澱みなく言葉を紡ぐ澄んだ声。

 そのいずれも、目の前にいる人物が『彼女』――チィ姉ちゃんであることを示していた。


 ユウマは懐かしさを覚えながらも、言葉に表せない異質さを『彼女』から感じ取った。

 村にいる者たちとは一線を画す、前向きで健全な明るさ。

 どう考えても、この村には相応しくない。

 『彼女』の放つ光は鮮やかで眩しく、どうしようもなく惹き付けられた。

 同時に、自分のような心に影を持つ者を強烈に照らし付け、いずれその影ごと、存在ごと焼き尽くしてしまいそうに思えた。


 『彼女』は気になることを言った。チサトを村に連れてきた、と。

 セイジ兄ちゃんは、チサトは安全な場所にいると言っていたはずなのに。



 『懲罰房』からアジトにしていた小屋へと戻ると、再びセイジ兄ちゃんが訪ねてきていた。


「チサトが村に戻って来てるってね」

「なぜ、それを知ってる?」


 ユウマは目を眇め、平坦に告げた。


「チィ姉ちゃんに会ったよ」


 セイジ兄ちゃんが息を呑んだ。


「どこで」

「さぁね」


 ユウマはにたりとした笑みを浮かべた。


「しかし変わらないね、チィ姉ちゃんは。相変わらず、綺麗だった」

「まさかユウマ……彼女に何かしたんじゃないだろうな」

「さぁ? どうしたと思う?」


 セイジ兄ちゃんの動揺が、手に取るように分かった。

 こんなに楽しいことがあるだろうか。堪えきれず、吹き出してしまった。


「やだなぁ、まさかだよ。どうして僕がチィ姉ちゃんに何かすると思うの? そんなに大事なら、括り付けてでも安全な場所に置いておけば良かったのに。安心しなよ、ちょっとの間『懲罰房』に入ってもらってるだけだからさ。で、僕に何か用があるんじゃないの?」


 セイジ兄ちゃんはわずかに顔をしかめた後で一つ小さく息をつき、それから諭すように言葉を紡いだ。


「ユウマ……俺に対して腹を立てているんだろ?」


 彼はポケットから取り出したものをユウマの眼前に突き付けた。

 それは、ユウマがチサトにあげた『鍵』だった。


「俺がなかなか『約束』を果たさないから、こんな馬鹿なことを起こそうとしているんだろ。ユウマが怒るのももっともだ。俺だって、申し訳ないと思ってるよ。だけどこんなことしたって、何にもならない。お前自身が滅ぶだけだ。怒りなら全部俺にぶつけてくれよ。全部、受け止めるから」


 ユウマは微笑を頬に張り付けたまま、妄言を吐く男を睨み据えた。


「全然分かってないんだね、セイジ兄ちゃん。これは僕の戦いなんだよ。僕自身が、チサトに対して何ができるかってことだよ。あーあ、セイジ兄ちゃんは本当に無神経だよね。僕が怒ってるって? 全然違う。近いけど、全然違うよ」


 そして、顔から笑みを消し去った。


「僕はね、セイジ兄ちゃんのことが、昔から大嫌いだったんだよ」


 しばらくの間、小屋の中を沈黙が満たした。全てが凍りついたような静けさだった。

 しかし一方で、先ほど放った自分の台詞が、まるで山彦のように耳の奥でわんわんとこだましていた。


 静寂を破ったのは、セイジ兄ちゃんだった。


「ユウマが俺をどう思おうが関係ない。どうしても計画を実行に移すというのなら、お前を拘束する」


 セイジ兄ちゃんはユウマの腕を掴んだ。予想に反して、彼の瞳は宵闇のように静かだった。

 腕を振り解こうとしたが、セイジ兄ちゃんの手がそれをかたく拒んでいた。そのまま手を後ろに捻られ、身体を壁に押し付けられた。


 しかし次の瞬間、小屋の中に隠れていた仲間の男が飛び出してきた。

 セイジ兄ちゃんは咄嗟に反応できず、ユウマから引き離された。体勢を崩しかけた彼のみぞおちに、仲間の男は拳を叩き込んだ。彼は身構える間もなく昏倒し、床に崩れ落ちた。

 ユウマは淡々と、横たわる彼を見下ろして呟いた。


「ほんと甘いよね。セイジ兄ちゃんは」

「ユウマさん、この男どうします? 『懲罰房』に放り込みますか?」


 ユウマは顔を上げ、朗らかに答えた。


「いや、『彼女』と一緒のところに入れておくのは癪だな。椅子にでも縛り付けて、入り口見張っておいてよ。僕はこれから櫓に爆弾を仕掛けてくるから」



 ユウマは中央広場に向かう前に、『追放者』の家へ赴いた。チサトがいるとしたらここだろうと思ったのだ。


「セイジに、会わなかったか?」


 警戒しながらも小屋へ招き入れてくれた『追放者』に、ユウマは口の両端を上げた。


「会ったよ。ついでに、チィ姉ちゃんにもね」

「二人をどうした?」

「やだなぁ、そんな怖い顔しないでよ。大丈夫、二人とも無事だよ。僕の仕事が終わるまで、大人しくしててもらうだけだから」


 ユウマは寝台の脇に寄り、眠っているチサトの髪をそっと撫でた。


「おじさん、あなたには何もできない。例え集落に入ったとしても、二人を助け出す前に村人に見つかる。できるのは、せいぜいチサトをこの場所に留め置くことくらいだ」


 そう言い捨てて、玄関へ向かった。


「待て、ユウマ――」

「動かないで」


 追い縋る『追放者』に対し、ユウマは隠し持っていたナイフを向けた。


「チサトのこと、よろしく頼んだよ」


 ユウマは後ろ手に玄関を開け、逃げるように小屋を後にした。




 『宵の祭』はまもなく幕を引こうとしていた。月は徐々に天辺に近づきつつあった。


 もうじき終わる。何もかもが。

 あと少し。あと少しなのだ。

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