◇一の章◇第7話「パスタ、村、佐伯」
知里は一ノ瀬の部屋の片隅で膝を抱えている。眉根を寄せて何かを考え込んでいるようだ。
何にしても、夕飯時である。一ノ瀬は調理に取り掛かる。
一人暮らしのキッチンには、基本的にろくな食材は揃っていない。料理は嫌いではないが、別に得意という訳でもない。それなりに栄養が摂れてお腹が膨れれば良いというのが、一ノ瀬のスタンスだ。
フードストッカーを覗くと、運良くパスタのレトルトソースが二つ入っている。
一ノ瀬は大小の鍋を取り出し、その両方に水を張って火にかける。
水が沸騰するまでの間、冷蔵庫からレタスとミニトマトを取り出す。レタスは千切るだけ。ミニトマトはのせるだけ。ツナ缶があったことを思い出し、油を切って野菜の上に乗せる。
サラダが完成した時点で鍋が沸騰し始めたので、大きい方には塩大さじ二杯とパスタ二把、小さい方にはレトルトのパックを突っ込む。
パスタは満遍なくかき混ぜながら、七分間茹でる。
茹で上がった麺を皿に盛り付けてオリーブオイルを和え、温まったレトルトソースをその上に掛ける。
本日の夕飯の完成である。所要時間は約十五分。
できあがった料理をローテーブルまで運んでいくと、知里がはっと驚いたように顔を上げる。
一ノ瀬は口の両端に微笑みを作る。
「さ、食べて。手抜きで申し訳ないけど」
テーブルを挟んで知里の反対側のカーペットに腰を下ろし、言うなり食べ始める。
知里はしばしパスタの皿を見つめた後、例によって手を合わせ、小さな声で「天主さまの恵みのもとに」と呟く。
「ね、知里ちゃんのそれ、さ。宗教か何かなの?」
一ノ瀬に倣っておずおずとフォークとスプーンを両手に取った知里は、その言葉にふと動きを止める。
そしてきょとんとした表情で見つめてくる。恐らく、質問の意味が分からなかったのだろう。
「いや、やっぱりいいや」
一ノ瀬が促すと、知里はぎこちなくパスタを絡め始める。しばらくは部屋には食器と食器が触れ合う音だけが響く。
「あの、イチノセさん」
食事がそれほど進まぬうち、出し抜けに知里が声を上げる。
イチノセ、というイントネーションがわずかに不安定で、一ノ瀬は知里に初めて名前を呼ばれたことに気付く。
「お願いがあります」
これまでの消え入りそうな声とは違って、しっかりした口調だ。いつの間にか、知里の瞳にはひたむきでまっすぐな光が宿っている。
その眼差しはもはや怯えて戸惑う小さな子どものものではなく、明確な意志を持った一人の人間のそれだった。
「私を、村まで連れていってください」
「村? 知里ちゃんの家のある村ってこと?」
「はい」
「えぇと、それはどこにあるのかな」
「……私が最初にいた場所の近くだと思います」
「森の近く?」
知里は少し考えてから、頷く。
一ノ瀬はテーブルの脇に置いたバッグから地図を取り出す。佐伯の部屋にあった古い地図だ。
「それってひょっとして、この辺りのこと?」
例の×印の少し上辺りを指でなぞりながら尋ねると、知里は首を傾げる。
「この地図は、よく分かりません」
「そう……知里ちゃんは一昨日、この辺りにいたんだよ。実は今日、この近くまで行ってみたの。すごく暗い森が続いてて、壁があった。私はそこまでしか行かなかったんだけど、知里ちゃんの言う『村』はあの壁の向こうにあるの?」
「……はい」
一ノ瀬は腕を組む。警察局に就職して以来ずっと自治区内のパトロールをしてきたが、この辺りに『村』があるなんて話は聞いたことがない。地図に載らない村が存在するということなのだろうか。
だとすれば、佐伯はなぜこの付近を示す地図を持っていたのだろうか。知里が教えたのでないとしたら。
「ねぇ知里ちゃん、あなたにこんなことを聞くのはおかしいかもしれないんだけど……佐伯は何者なの? この地図は佐伯の部屋にあったの。知里ちゃんの鍵を持っていなくなった佐伯は、その『村』の関係者なの?」
一ノ瀬は知里をじっと見つめる。知里の瞳に映る自分は、ひどく強張った表情をしている。
知里の唇が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「サエキさんは、『キョウカイ』の人だから」
『キョウカイ』?
「えぇと……それは、どういうこと?」
知里は顎に指を添える。そして少し考えてから、再び口を開く。
「私の村は、『キョウカイ』に管理されているんです」
「ということはつまり、佐伯は知里ちゃんの村を管理する立場の人ってこと?」
「そうです」
一ノ瀬はこめかみを押さえる。
三年間一緒に働いていた佐伯が、地図にない村の役人とは。全く意味が分からない。経歴を詐称していたということなのだろうか。
「サエキさんは、村にいます。お兄ちゃんを止めるために、村に行きました」
「えぇと、知里ちゃんは、佐伯を呼びに『村』を出たってこと?」
「いいえ、そういう訳じゃないんですけど……」
長いまつ毛が静かに伏せられる。わずかに逸らされた彼女の視線が、一ノ瀬の問い掛けに対する回答を探しているようにも見える。
知里は顔を上げ、再び強い眼差しで言う。
「……私はまた、村に戻らないといけません。だからお願いです、私を村まで連れていってください」
「えぇ、それはもちろんだけど。明日はちょうど休みだし、ちょっと早めに起きて――」
「時間がないんです」
知里が一ノ瀬の言葉を遮って言う。一ノ瀬は軽く目を見開く。
「えっ、今から?」
「時間が、ないの。サエキさんには、しばらくイチノセさんのところで待っているように言われたんですけど……お願いです、イチノセさんしか頼る人がいないんです」
テーブルを挟んで一ノ瀬を見つめる少女の瞳は、懇願するように光を揺らす。
一ノ瀬は戸惑いながらも、首を縦に振るほかなかった。
「ねぇ知里ちゃん、聞きそびれてたんだけど」
一ノ瀬の運転するミニワゴンは、
アクセルに軽く置かれた足は、昼間のパンプスからスニーカーに履き替えられている。警察局員という自分の立場を明確にするために、服装は制服のままだ。
「さっき庁舎から帰るときの車の中で、『お兄ちゃんが全部壊そうとしている』って言ってたよね? 具体的に、どういうことなの?」
知里は一ノ瀬の横顔をちらりと見やり、視線を落とす。そして言葉を探しながら何度も口を開きかけた後、小さく首を横に振る。
「私が掟を破ったせいで、お兄ちゃんに迷惑を掛けたんです。私のせいなのに、お兄ちゃんは『キョウカイ』を壊そうとしているんです」
いまいち話が見えない。
「えぇっと、つまり、佐伯とお兄ちゃんは敵同士?」
「……はい、たぶん……?」
ますますよく分からない。
「まぁいいや、とにかく私が知里ちゃんのお兄ちゃんに話を聴いてみるよ」
知里は返事の代わりに、膝の上で拳をぎゅっと握る。その様子をちらりと横目で見やり、一ノ瀬は続ける。
「そう言えば、あの鍵はなんだったの?」
「あれは、お守り代わりにお兄ちゃんからもらったものだったんです」
「へぇ……それを佐伯が持ってっちゃった訳か。なんで佐伯がそんなことしたのかよく分かんないけど、大事なものなら私が取り返してあげるからね」
一ノ瀬は力強く言い切る。
しかしその反面、心の焦点をどこに結んだら良いのかを考えあぐねていた。
佐伯に対しては、今は怒りよりもいくつもの疑問が身体の中心から静かに湧き出ている。
彼は今までずっと、素性を隠していたのだ。そして何も告げないまま、一ノ瀬に知里を預けて姿を消してしまった。
この三年間すぐ隣にいたのに、結局自分は佐伯のことを何一つ知らなかった。
そう思うと、昨日まで接していた佐伯の存在がまるごと揺らいでしまう。彼に再会するのは、少しだけ怖かった。
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