楽園の子どもたち

◇一の章◇第６話「森、壁、月」

　市街地の中心部から三十分ほど車を走らせ、一ノ瀬は第三十八自治区の北部区域に来ていた。

　周辺はほとんど田畑で、時々ぽつりぽつりと思い出したように古い家があるだけである。

　自治区内の北部寄りにある一ノ瀬の自宅からはさほど遠くない場所だが、ちょっと離れるだけで随分と住居が減る。少し前に行方不明者の捜索でこの辺りに来たばかりだ。

　地図はここから更に北へ進んだ森の中を示している。車では入れない場所である。

　こんな森の中に、佐伯が？

　一ノ瀬の知る限りそこは何もない地域のはずだ。よもや不思議の国でもあるのだろうか。

　森の境界ぎりぎりのところに路上駐車し、一ノ瀬はミニワゴンを降りる。そして目の前に立ち塞がる森に、躊躇うことなく足を踏み入れる。

　木々は密集して生え、奥に行くほどに薄暗くなっていく。時おりカラスの鳴く声が聞こえる他は、何の物音もしない。真昼なのに、どことなく陰鬱な雰囲気がする。

　踵を踏み締めるたびにパンプスのヒールが土にめり込む。地図を広げてみるが、既にどの辺りを歩いているのか分からない。

　そのまま十五分ほど歩き続け、もうそろそろ引き返そうかと思い始めた頃合い、何か白いものが視界に入る。

　初めはそれが何なのか判別できなかった。

　葉の深い緑と朽ちたような幹の暗色の合間から、明らかに自然には存在しない色味が覗いている。

　恐る恐る近づけば、その正体が分かる。

　壁だ。

　それはコンクリートのような人工的な材質でできており、一ノ瀬の身長の三倍くらいの高さがある。表面は平らで、横にずっと伸びており、端も入り口も見えない。

　これはいったい何だろう？

　携帯端末でこの付近の航空写真を検索するが、ただの森が写っているだけだ。地図と照らし合わせるに、×印はもう少し手前を示している。

　どうしようか。しばらく立ち尽くして考えた後、一ノ瀬は来た道を戻る。地図をぐるぐる回し、端末の画面と照らし合わせながらどうにか×印の辺りに辿り着く。

　そこにあったのは、大きな岩だ。

　それ以外、目につくものはない。

　岩自体も検分してみたが、一ノ瀬の腰の高さほどのそれはやはり単なる滑らかな手触りの岩でしかない。

　墓標か何かかとも考えたが、特に誰かの名前が刻まれている様子もない。

「いや……意味分かんない」

　一ノ瀬は思わず独り言を漏らす。

　こんなところに何かがあるはずもない。馬鹿馬鹿しいことに時間を費やしてしまった。

　車を停めた場所にさっさと引き返す。

　分からないことを考えても仕方ないし、土にまみれたパンプスはそろそろ限界なのだ。

　それに、今自分がすべきなのは知里の身元確認であって、佐伯の足取りを追うことではない。佐伯が機密情報を握っているのであれば話は別だが、彼は知里の鍵を持ち去っただけだ。

　それにどういう意味があるのかは、あるいはどれほどの重要性があるのかは、現在のところ分かっていない。とりあえず、知里に事情を聞くことの方が先決だろう。

「ただいま戻りました」

　一ノ瀬が本部に戻るなり、太田課長が声を掛けてくる。

「遅いよ一ノ瀬さん、ただでさえ人手が足りてないのにさ。で、結局どうだったの？」

「……佐伯は自宅にはいませんでした。部屋に地図が残されていたのでその場所の近くまで行ってみたんですが、何もない森の中でした」

「ああ、そう」

　課長はかぶりを振る。

「まぁ、いいんだよ。佐伯くんが何か情報を持ち逃げしたって訳じゃないんだし。大方、仕事に嫌気が差して逃げたんでしょ。その森の中で首でも吊ってなきゃいいんだけどね。今重要なのは、やりかけの案件が大量にあるってことだよ」

　課長の吐き捨てるような言い方には一瞬むっとしたものの、佐伯に同情する理由は一ノ瀬も持っていない。

「あの、北の端の森の中って、何かありましたっけ？」

「北の森？　あんなとこ何にもないでしょ」

「そう、ですよね」

　一ノ瀬は口ごもる。壁のことを言おうか迷ったが、報告したところで課長はそれを重要視しないだろう。

　応接室を覗くと、知里はソファに横になって静かな寝息を立てている。

　テレビからは、誰がチャンネルを合わせたのかバラエティー番組のかしましい笑い声が漏れ、この世の不条理を嗤っている。

　一ノ瀬はテレビを消し、再び静かに扉を閉じる。

　午後は仕事に追われた。いくつかの通報で本部を出たり入ったりして、ようやく落ち着いたころにはすっかり日が暮れていた。

「知里ちゃん、ごめん！」

　応接室のテレビは夕方のニュースを流している。世間は今日もいつも通りだったようだ。天変地異や世界の終末などは起きていない。

　知里はソファにきちんと座っており、一ノ瀬の言葉に対して静かに首を振る。

　彼女がこの部屋にいる様子はもうすっかりお馴染みで、それだけ自分が彼女を放置しているという事実に申し訳なくなる。

「今夜は私の家に泊まって。おなか空いてるよね？　晩ごはんもうちで食べよう」

　知里はこくりと頷き、席を立つ。

「ね、知里ちゃんのきょうだいは、お兄ちゃんだけなの？」

　自宅マンションへと向かう車の中で、一ノ瀬は助手席の知里に尋ねる。

　辺りはすっかり暗い。しばらく宵闇のような沈黙が続いた後、やがて知里が静かに口を開く。

「私の味方は、お兄ちゃんだけ」

　その声はエンジン音に紛れるようにして、しんと響く。

　噛み合っているようなそうでないような返答だが、一ノ瀬はその言葉をもとに知里の複雑な家庭環境を想像してみる。

　例えば。暴力を振るう父親、自分のことで手いっぱいの母親、心身ともに傷ついた知里を守ってくれる唯一の理解者の兄……とか？

「そっか、お兄ちゃんは今どうしてるの？　助けてって、知里ちゃん昨日言ってたけど」

「……お兄ちゃんは、全部を壊そうとしているんです。絶対、恐ろしいことになる。でも私では止められないの。本当は私が悪いのに……」

　知里が消え入りそうな声で言う。その切実な様子に一ノ瀬は息を飲む。これはじっくり話を聞く必要がありそうだ。

　ミニワゴンはちょうど一ノ瀬のマンションに到着する。

　車を降りて玄関へ向かう途中、足を止めた知里が空を仰ぐ。

　一ノ瀬が彼女の視線を辿ると、深い群青の夜空によく太った月がぽかんと浮かんでいる。満月かと思うが、それにはわずかに足りない気がする。

　月を瞳に映す知里の表情は硬く強張り、両の拳はぎゅっと握られている。

「知里ちゃん、行くよ？」

　一ノ瀬が声を掛けると知里はゆっくりと視線を地上に戻し、ようやく玄関に足を向けた。