◇一の章◇第5話「サンドイッチ、アパート、地図」
しばらくの間、一ノ瀬は知里の頭を撫でていた。柔らかく張りのある、さらさらの髪。なんだか手に馴染む感触だ。
やがて知里が泣き止んで息をつくと、一ノ瀬はその細い肩をぽんと叩く。
「どう? 少しは落ち着いた? とりあえず朝ごはん食べなよ。たくさん泣いたから、喉も乾いたでしょ」
一ノ瀬はコンビニの袋から取り出したサンドイッチとお茶を勧める。
きゅう、と知里の腹の虫が鳴ったので、一ノ瀬は吹き出す。
「あはは、そりゃお腹も空くよね。さ、遠慮せず食べて食べて」
少し恥ずかしそうにしていた知里も、つられてはにかむように微笑む。
——うわぁ、可愛い。
もともと綺麗な子だが、こうして笑うと年相応の少女という感じがしてとても愛らしい。
昨日は随分と緊張していたようだが、少しずつ解れてきたみたいで良かった。
コンコン、と外から扉がノックされる。
「一ノ瀬さん? 課長が呼んでる」
同じ課のメンバーだ。一ノ瀬は「はーい」と返事をする。
「ごめん、行かなくちゃ。また後でお兄ちゃんのお話聞かせてね。暇だったらテレビでも見てて」
一ノ瀬は立ち上がり、ドアへ向かう。
その時。
「……天主さまの恵みのもとに」
ノブに手をかける瞬間、背後から聞こえた言葉に、思わず振り返る。
見れば、知里がサンドイッチを目の前に手を合わせている。確か、昨日も同じことをしていた。
再び引っ掛かりを覚えたが、その思考はしつこいノックの音に遮られる。
「あーはいはい、今行きまーす」
部屋を出ると、急に現実に引き戻される。
知里が綺麗な涙を流した応接室は、この慌ただしい警察局本部とは異なる空間のように思える。
一ノ瀬が出てきたのを見計らって、太田課長が向こうから手招きをしている。
「ちょっと、一ノ瀬さん」
「何でしょうか」
「悪いんだけどさ、今から佐伯くんの家に行って、様子を見てきてもらえない?」
「……了解しました」
佐伯の名前を聞いた途端、ふつふつと怒りが蘇ってくる。表情を保つのが大変だ。
本当は佐伯と二人で知里の身元を調べるはずだったのだ。彼が急に行方をくらませたせいで彼の家を訪ねるという仕事が増え、知里の話をなかなか聞けない。見つけ次第、一発殴ってもいい。
一ノ瀬はふと、知里の鍵のことを思い出す。
「課長、佐伯のことなんですけど。どうも、知里ちゃんの持っていた鍵を持っていってしまったようです」
太田課長は眉根を寄せる。
「鍵? 何の鍵?」
「さぁ、それは私にも分からないんですが」
「あのね、そんなことよりあの子のことだけど、あんまり長く応接室使ってもらうのもちょっと……と思ってるんだよね。お客さんが来ることもある訳だしさ」
「そんなこと」って。
「えぇ、分かってますよ。今日は私の家に泊まってもらいますから。とりあえず今のところは、あの部屋を使わせてください」
一ノ瀬がそう言うと、太田課長はあからさまにほっとしたような顔をする。
まったく、どいつもこいつもふざけんな。
「それじゃあ行って参ります」
一ノ瀬はさっさと本部を出る。
佐伯の自宅は、職場から車で二十分ほどのところにある。
ただし周辺は密集した住宅街で、道が迷路のように入り組んでおり一方通行も多いため、方向音痴の一ノ瀬では簡単には辿り着けない。
一度、行ったことがあるのに。家の前までだけど。
いろいろ思い出すと、また腹が立ってくる。あの男は、いつもはっきりしなかった。思わせぶりな態度を取っておきながら、なかなか煮え切らない。
苛々していたら道を間違えた。佐伯のせいだ。
迷わず行けば二十分のところを三十五分かかって、一ノ瀬はようやくそのアパートに到着する。駐車場に、佐伯のRV車は見当たらない。
一ノ瀬はミニワゴンを道の脇に停め、アパートの外階段を上る。
部屋の玄関前に立ち、インターフォンのボタンを押す。間延びした電子音が鳴るが、応答はない。
それを二度繰り返した後、一ノ瀬は小さく溜め息をつく。
姿を消して即座に電話を解約した人間が、自宅の呼び鈴に応じたら逆に驚く。
しかしこのまま帰るのも何なので、一ノ瀬はアパートの管理会社に電話をかけた。警察局と名乗り、鍵を開けてもらうよう依頼する。追跡中の凶悪犯に関わる重要事項だ、などと理由は適当に作った。
二十分後、管理会社の営業車がやってくる。三十代半ばほどと見えるその男性はひどく面倒くさそうに車から出てきたが、一ノ瀬の姿を見て表情を緩めた。
「すみません、お忙しいところ」
「いえいえ、ご苦労さまです! 大変ですね、事件」
「仕事ですから」
一ノ瀬は愛想良く微笑む。世を渡るキラースマイルだ。疲れる。
「こんな中途半端な時期に異動なんて、警察局も大変ですね」
「え?」
「今朝早くに、佐伯さんから連絡あったんですよ。賃貸契約を解約したいって。また追々片付けしに来られるって仰ってましたけど、お忙しいんですね」
「え、えぇ……」
曖昧な相槌で誤魔化したが、頭の中はハテナマークだらけだ。
分かるのは、佐伯が警察局を辞めただけでなく、この街からも出て行こうとしているということである。
鍵を開けてもらい、中へと入る。当然のことながら佐伯は不在だ。
何の変哲もない1DK。間取りは一ノ瀬の部屋と大差ない。当然、隠れられるような場所も見当たらない。
管理会社の男性を外で待たせたまま、一ノ瀬は部屋の中の確認を始める。
佐伯はああ見えて几帳面な男だ。職場のデスクの引き出しも整頓されていたし、事案データも驚くほど見やすく管理されていた。この部屋も、生活感はあまりない。
ローテーブルの上にはテレビとエアコンのリモコンが並行に置かれており、食器は全て棚に片付けられ、ベッドのシーツはきちんと皺が伸ばされている。
クローゼットには夏物と冬物が分けて収納されており、更にその中でも制服と普段着で棲み分けしているようだ。
冷蔵庫の中にはミネラルウォーターのペットボトルがいくつかと、様々な食材が丁寧に収められている。
一ノ瀬はもう一度部屋を見渡す。冷蔵庫内の充実度からすると、佐伯が計画的に姿を消した訳ではないことが推測できる。
なぜ、彼はいなくなってしまったのだろう。そして今どこにいるのだろう。
諦めて帰ろうとした時、ベッド脇の小机に古びた地図が置かれていることに、一ノ瀬は気付く。
それを手に取って拡げてみると、地図中のある地点に×印がある。その印は第三十八自治区の北の境あたりを示している。
確か、知里が保護されたのも自治区内の北の方だった。
佐伯が知里の鍵を持ち去ったことを思い出す。無関係とは思えない。
一ノ瀬は本部に電話を入れ、太田課長に告げる。
「一ノ瀬です。佐伯に関して気になることがあるので、ちょっと確認してきます」
先に知里の話を聞いておけば良かったと、今さらながら後悔した。
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